第89章
89.
「お前は、何者なの!?」
激しい破裂音が、僅かな残響を残して部屋の石壁で跳ねた。
手練れが使う皮の鞭は、その先端が音速を超える。
魔力を込められた灯りが薄暗い光を投げ掛け、狭い部屋の其処此処に放り出された拷問の為の道具達を、仄かに浮かび上がらせている。
「答えなさい!」
皮の鞭は単に威嚇の為に鳴らす事も出来るが、脆い人間の皮膚など、瞬く間に切り刻む事も出来る。本来、その為の道具だ。
一鞭毎に、石壁に両手を吊られた女の衣服は、黒い端切れへと変わっていく。
「答えなさい、って、言ってるの、よ!」
ちぎれた服の下で、真っ赤な筋が幾重にも交差する。
一方、鞭打つ側もまた、若い女だった。
華やかな装飾が刻まれた白銀の胸当てを着け、腰には一振りのサーベルを履いている。
鞭打たれる側の女が、激しい責め苦にも元から乏しい表情を変えずにいるのに対し、鞭打つ側だけが息を荒げている。
その事が更に、鎧の女の心を深くかき乱した。
「ええぃ、忌々しい娘ね!」
石壁に吊られた女は一時程前に、街の北門に転がり込んできた。
丁度、魔族のゴーレムを退け戦況が膠着した折に、何故か一人、街を覆い立ち込める砂塵の中から現れたのだそうだ。矢を集め女を追うゴブリンを仕留めて、街の中に保護したらしい。
「何故、ゴブリンに追われていたの!?」
だがこの街は今、攻城戦の真っ最中だ。
近くの村々は既に魔族共に焼かれ、とうに焼け落ちている。村娘が幸運にも逃げ延びていたとしても、一人でこの街まで来られる訳もない。
「何処から来たの!?」
鎧の女は鞭を投げ捨てると、投げ捨てた鞭を拍車の付いた皮の靴で踏み躙り、ツカツカと壁の女に歩み寄る。本来、斥候部隊を指揮する事が仕事だが、街が包囲されている状況では、騎馬に出番はない。
代わり割り振られたのは、こんな不本意な尋問だった。
「そもそも、如何やって、ここまで来られたのよ!?」
否、割り振られた仕事に、文句は言うまい。
問題は、この黒衣の女が何者なのか。
それだけだ。
血を失って蒼白な頬と、滴る鮮血。
身体中に付けられた傷から溢れた血が、両の足首を伝い落ち、黒ずんだ石の床に鮮やかな血だまりを作っている。
片手で血塗れの女の頬を掴み引き起こし、真近で眼を合わす。
眼は開けてはいるが、既に眼からも正気は失せ、まるで深い夜の湖の底を覗き込んでいるかの様な気がした。
無表情な、深い、漆黒の瞳。
引き摺り込まれそうな、そんな気がした。
鎧の女はふと背筋に悍ましさを感じて、何か穢い物に触れたかの様に慌てて手を離して後ずさった。
「まぁまぁ、そんなに捲し立てては、答えられるコトも答えられないじゃないか」
ノックもせず部屋の扉を開けて入って来たのは、やはり白銀の鎧を纏った男だ。
女より重装で、より手の込んだ装飾が、その広い表面を覆い尽くしている。
「なによ、私はこの娘に、事情を聴いているだけよ。貴方こそ、北門の護りを放り出して、こんな所に何の用なの!?」
男の声には、聞き覚えがあった。勿論、誰なのかも、良く知っている。
手を握り締めて、男に向き直る。
何時から、居たのだろう?
ひょっとして、部屋の外で、こちらの尋問を聴いていたかもしれない。
この男に、自分が鞭打つ音を聞かれただろうか?
「この娘は、北門で保護した。我が騎士団が折角保護した善良な市民が、その後如何扱われているか、大いに気になるじゃないか?」
鎧の男は、和かにそう言うと、両手を広げながら鎧の女に近づいた。
そうだ、この男は、部屋の外で中の様子を伺うなんて、出来る男ではない。
入りたかったから、待つ事などせず、ドアを開けた。
それだけの事、そういう男だ。
「まだ、事情を聴いている最中なの。後にして」
男の和かな笑顔が、けして自分だけの物ではないと知ったのは、半年以上前の事だ。
それ以来、単なる上司と部下という関係に戻った。
だから、それ以上の感情は湧かない。
少なくとも、今は。
「いやいやいや、そうは、いかないね。執政官代行として、命ずる。即刻、その娘を引き渡せ。以後の尋問は、我が騎士団が行う」
和やかな、口調。
かつては、自分に愛を囁いたその唇は、少なくとも幾人もの相手に、似た様な口説き文句を口にした事を知っている。昔はそれも知らなかったが、今は良く、分かっている。
だが、個人的な関係は終わらせられても、公の立場は破棄は出来ない。この男は戦時下のこの街で、今や二番目に権力がある。
「精々、油断しない事ね!」
それに。
今も、この男は、私に話し掛けているのではない。
そう。
自分が助けた、その事をこの娘に知らせる為に、此処に来た。
それを分からせる為だけに、自分にこの娘を鞭打たせた。
自分は、また、利用されただけ、だった。
憎んでいてさへ、利用されただけ、だった。
鎧の女は唇を噛み締め、部屋を後にした。




