第81章
81.
少なくとも、人間の一生分よりは長い、遠い昔。
あるいは、永遠とも言われる魔族の生よりは短い、古びた過去。
一冊の魔導書が魔族より、人間へと、もたらされた。
『禁呪の魔導書』と呼ばれるそれは、別名『緋文字写本』とも呼ばれ、その名の通り、誰かの鮮血をインク代りに記されているという。悠久の歳月を経てなお鮮やかなその文字を見た者は、その者も最後の一滴まで血を抜かれ絞り尽くされて死ぬと、そうも言われていた。
「ランス王国の宝物庫で眠っていた『禁呪の魔導書』が、密かにこのリングハートに持ち込まれたという事なのでしょうか?」
先刻報告を受けたアイリーンの、凛とした声が執務室に響いた。
日一日、リングハートの街は暖かさを増している。今日は湿度も高めで、少し汗ばむ位だった。ここのところ寒さがぶりかえして首が寒いからと下ろしていた、そのピンクがかった金髪も、今日は再びツインテールで纏められている。もはや冬のままの厚みのある生地では、季節にそぐわない。
アイリーンは無表情に自分を見詰める、アルティフィナの漆黒の瞳に一瞬見入ったが、如何にか意識を引き剥がした。
そう、アルティフィナの透き通る様な白い肌なら、何時の季節でもその漆黒の袖の長いメイド服が似合っている。
別にアルティフィナなら、構わない。
と言うより、アルティフィナなら何をしても構わない。
と言うか、アルティフィナに無茶苦茶にされたい。
・・・それはそれで良いが、今は魔導書だ。
「出港を留めて全ての積荷を調べろなんて、どれだけ手間だと思っているのかしら・・・」
面倒にも程がある。
だが、帝国の衛星国家に過ぎないルトビアの、その王族が営む商会だ。無理難題でも、従わない訳にはいかない。それに、ここはランス王国領で、流石に帝国も直接兵を送るわけにも行かないのだろう。
それは、そうなのだが。
私は多分、アルティフィナがこの商会の居室からルトビア王家所有の別宅に移ってしまい、逢える時間が減って多少イラついているのだろう。
我ながら、王族ともあろう者が精神修養が足りないのかしら。
だけれど暑いと言えば、自分とシャーロットが設えたメイド服は、夏服だった。あの夏の暑い日々、あの喫茶店の店内だけが、冷んやりと涼しかった。
明日はせめて私も、あの懐かしいメイド服にしよう。
そうだ、シャーロットにも、お揃いで着させなくては。
アイリーンは差して興味の持てない帝国の要請から、部下を巻き込んでの現実逃避へと、その興味を移していた。
「少なくとも、帝国はそう信じるに足る、確かな情報を持っているのでしょうね」
ステラが腕を組むと、行き場を失った圧力が更にその胸を押し上げた。
アイリーンの私設秘書の身としては、今回の帝国の要請を商会に課す具体的な指示へと翻訳する必要があった。商会はやっと、立て直しから発展へと大きく踏み出しつつある。帝国の要請は、この時期に余計な足枷になりかねない。正直、頭が痛い。
それにしても。
アイリーン様の前任であったデヴラ男爵は徹底的な拝金主義で、結果としてそれで自身の命を落とす事となった。
・・・そう、なの、だけれど。
「・・・一体、どれ位の価値があるのでしょう?」
価値、そう、金銭的価値。
ステラは人知れず、うっとりと思いを馳せた。
自身が爵位を持つステラは、その地位とは裏腹に、幼き頃には既に家が破産状態にあった貧乏貴族の出であった。おかげで質素な生活は板に付いているが、家名を守る為に女である自身の存在を消し去り、架空の放蕩息子を演じる事に全てを費やしていた頃とは、時間の使い方も考え方も違っている。
一言でいうと、たまにはお洒落もしてみたい。
ステラは、ちらと無表情なアルティフィナの横顔を盗み見ると、密かに頬を染めた。
昔は思いも付かなかった事ではあるが、何時も男物の衣服というのも、味気ない気がする。
そう、私も黒のタキシードは普段でも着ているのだから、黒のドレス、否、いっそのこと、お揃いのメイド服が良いのではないかしら?
ステラの妄想は、既に魔導書とは掛け離れたところにあった。
緋文字写本。
その名を耳にしたアルティフィナの心は、装われた一片の表情もない美しさの奥底で、ふつふつと波打ち、どす黒く歪んでいた。
制御仕切れなくなったサキュバスの属性が、まだ少しだけではあったが、知らず知らずに周囲にまで及んでしまっている。
そう、刻が近づいている。
やがて月が満ち、魔が溢れ出す、その刻が。




