第76章
76.
先ほどまでは煙突掃除夫だったはずの少年は、さっさと商売道具を放り出すと上階に続く階段を登り始めた。各階の中間には踊り場があり、装飾の施された花台の上、花瓶には薄紫のアネモネに似た花が活けられている。二階、三階と軽快にスルーして、最上階である四階へと駆け上がる。古びた木の階段だが、少年の体重位ではさしたる音も立てない様だった。目的地は四階、他の場所に用はない。
そして、港町であるリングハートが漁師や卸業者たちの喧騒に包まれ、それ以外の早起きとは言えない者たちがやっと起き出す頃。今の時間帯なら、夜の間この商館を覆う結界は解かれ、少年の目的はまだ一人きりで自室で寝ているはずだ。
一直線に長い廊下には、それ程毛足が長い訳でもないが、真紅の絨毯が引かれている。四階にたどり着いた少年は少しスピードを落とし、ゆっくりと奥へと向かう。並ぶ扉を素通りして廊下の一番奥、行き止まりの壁に設えられた花台の前、木の扉の鍵穴に真鍮の鍵を挿し入れた。
歩み寄る少年の僅かな動きで風が生じたのか、アネモネの薄紫色の花が僅かに揺れた。
「おはようございます、お嬢様。いえ、アイリーン皇女とお呼びした方が良いでしょうか?」
聞き知らぬ声で呼ばれ、目が覚めた。
ベッドの中で温もりを捜すが、伸ばした手は横にいたはずのアルティフィナの身体に触れる事もかなわず、アイリーンは仕方なくもぞもぞと、厚みのある上掛け布団から眠た気な顔を覗かせた。
ベレー帽、いや、ハンチング帽だろうか? 目深に被った少年がベッドの横に立っている。両手を少しぶかぶかの上着のポケットに突っ込み、アイリーンが起きないと、自分の手持ち無沙汰をアピールしているかの様だった。
アイリーンは、人に急かされるのは好きではない。
多分、王族や貴族はみな同等に我儘で、従者や下僕は自分の仕える者に『如何に急かされていると意識させずに』急がせるかが、腕の見せどころとも言える。
その体で言うと、この少年は従者としては失格だ。
あれ、こんな少年、うちにいたかしら?
「レディの部屋に勝手に入って来るなんて、失礼ね。貴方、どなたかしら?」
アイリーンは喉元に込み上げる恐怖を飲み下し、帽子に隠れた少年の顔を見つめる。枕の下には、鞘に宝飾を施された短剣が隠してある。身を護るには不足だが、自分一人が自害するには十分だ。柄に王家の紋章が刻まれた逸品で、刃の切れ味も日頃の手入れも申し分ない。
その時、部屋の木の扉がノックされ、中からの返事も待たずに開かれた。銀のトレーに一人分の朝食と、三人分のティーセットを載せたアルティフィナだった。
「動くのは『禁止』、ついでに、この部屋で姿を偽る事も『禁止』よ?」
トレーを部屋のサイドテーブルの上に置くのと、トレーの下に隠した短剣を少年の首元に当てるのを、アルティフィナは流れる様な一連の動作でやってのける。切先が僅かに少年の華奢な首の白い肌に触れ、細く紅い直線を描いた。
ポンッ、と軽い音と共に少年の帽子が跳ね飛び、中からの薄い黄金色の耳が飛び出した。ぶかぶかの上着で隠されていた、ふかふかの尻尾が緊張からか、更にブファ、っと膨らみ逆立っている。
ふーん、妖狐って、サキュバスとキャラが被るわよね?
アルティフィナは思わず、たわいもない事を考える。
狐耳と一緒に帽子の中に隠されていたらしい、小麦色の長い髪がはらりと舞い落ちて背中に掛かった。
「さぁ、貴方は誰の命令で此処に来たか、教えて? シャーロットを誘拐して、この商館の部屋の配置を聞き出した。ステラを誘惑して、勝手口から入り込んだ。貴方の目的は何かしら?」
勿論、シャーロットを排除するのは、アイリーンの守りを薄くする意味もある。だけれど、やるならまずは、強敵から順番に闇討ちすべきだ。
つまり、わたしとか。
わたしも、舐められた物よね?
・・・いいえ、多分この子は、わたしを知らないのね?
だったら、この子は『群青の魔王』からの使者じゃない。
ちょっと、がっかり、かも?
「そんな事、敵に教える訳はないわ」
動くことを封じられアルティフィナを睨む瞳もまた、アルティフィナと同じく深紅に染まっている。
妖狐(あるいは、フーシェン)もまたサキュバス同様に魔族の端くれで、最低限人間より大きな魔力を持つ。自分より魔力の劣る者(つまりは人間)を化かすのは得意だった。ただ、サキュバスがただ生きているだけでは魔力は増えたりしないのとは違い、百年千年と生きる事で、その尻尾の数と共に魔力も増えると言われている。最大で九つの尻尾を持つとされ、つまり、サキュバスが永久に魔族の最底辺を彷徨っているのと違い、妖狐は何もしなくても生きているだけで偉くなれる。
・・・理不尽だ。
「あらぁ、それは無理よ。だって、その可愛い耳は食べられちゃうし、このフサフサ尻尾も、根元から撫でられちゃうのよ? 心も身体もわたしに『服従』を誓えば、もっともっと素敵な快楽を与えてあげるわ」
アルティフィナは自分の努力不足は、さっさと棚に上げると、今日は一日、目の前の妖狐で遊ぶ事に決定した。どんなに、ゆくゆくは出世しようと、今はその尻尾も一本だけ。つまり百年も生きてない、お子ちゃまという事だ。
「ちょ、ちょっと待った!サキュバスのお姉さん、ボクはなりはこんなだけれど、本当は女の子なの!」
身動きを封じられてもアルティフィナを睨みつけていた少年、否、妖狐の少女に始めて動揺が走った。
同じ魔族の身、必要に応じて一人の人間を護る事も、逆に殺そうとする事もあるだろう。そこ位らはビジネス、(少なくとも、とし若い妖狐を含む)魔族と呼ばれるには力に乏しい底辺に生きる者には、特に人間の世界に身を隠す魔族には必要な処世術だった。
だいたい、要人の護衛より、人間の金持ちをたぶらかす方が余程、お金になるでしょ!? そもそも、サキュバスの癖に何で同族(魔族として)の、それも女に手を出そうなんて言ってるの!?
「大丈夫だって。女の子の弱い所は、女の子の方が良くわかってるんだから。それにボクちゃんが、もし男の子だったら、・・・今頃、ナニが切り取られていたわよ? 」
アイリーンはにこやかにアイリーンに手を振り、妖狐の少女を自室にお持ち帰りするアルティフィナを送り出しながら、サイドテーブルを見る。
銀のトレーには、アイリーンの分らしい朝食と、ティーセットは三人分載っているのだが。如何やらアルティフィナには、ゆっくりお茶をする気も無くなったらしい。せっかちな事だ。
と言うか、あの狐娘が来る事を知っていた?
昨夜私を抱いたのは、夜間の襲撃から私を護る為だったのかもしれない。
昨夜は泣きたいだけ泣いて、それから身を任せた。
一瞬、胸のうちに湧き上がった嫉妬を大きく息を吸って抑えると、アイリーンはベッドの下に素足を下ろした。




