初動
少女は手を引かれる。
慣れ親しんだ体温に。
少女は走る。
その先に何があるのか、考えることもせずに。
―――朝の鳥が鳴く頃
これは一体、どういう事態なのでしょう…
今現在、私は付き人であるところのアステルという少年に手を引かれて、城の中を走っています。
ええ、今まで出したことのないような速さで、全力疾走というやつです。
城というのは私が住んでいる王都の中心、女神様を祀るお城です。
住んでいるとは言っても私は自室と祭場くらいしか知らないので、今何処に向かって走っているのかすら判りません。
気心の知れた彼のこと、きっと何か大切な理由があって私を連れ出したのでしょうが、如何せん何も語ってくれないのです。
朝、いつものように着替えて食事をして、何か鈴のような音がしたと思ったらこんな状況に。
何がどうなっているのかさっぱりです。
「あ、アステル…まっ……まって…」
「すみませんディア様、もう少し頑張ってください…!」
少しだけ振り返って、空色の瞳を見せます。
けれどね、私も慣れないことをして大変なのです。
先程から足がもつれて何度も転びそうになっています。
アステルも気遣ってはくれていますが、止まってはくれません。
段差に躓き、絨毯に滑り、どうして足が動いているのか不思議なくらいです。
そうして息を切らせるうちに、いつの間にか外に出ていました。
屋内以上に走り慣れない石畳へと変わっています。
それに伴ってか、城内ではうるさく響いていた近衛さん達の怒鳴り声が、どんどんと遠くへ消えていきました。
その後も暫く、町外れのような閑散とした場所まで走って、人気のない廃墟の隙間でやっとアステルは止まってくれました。
そうです、ようやくです。
息なんて出来ません、足ももう動きません。
私は連れ出した理由を聞く前にその場に膝をついてしまいました、当たり前でした。
アステルも息を切らせていますが、私よりは余裕があるみたいで、なんだか理不尽さを感じます。
それもそうです、彼は私よりほんの少し背が低いし、小柄だし、自己申告の年齢は14歳。
私の2つも下なのです。
「ごめんなさい、大丈夫でしたか?」
「ええ…」
心配してくれるのは結構なのだけど、ここまで走らせておいて、と思ってしまうのは罪でしょうか。
普段は言葉だけでからかってばかりの台詞も、今日ばかりは本心のようです。
改めて周囲に人がいないことを確認して、彼はまた私の手を引いて立ち上がらせてくれました。
小休止、でいいのでしょうか。
ならば聞かないといけません。
「あの、アステル…?どうしてこんな…」
「えっと…今は何も言えないんです、ごめんなさい。目的地に着いたらお話します」
何かおかしい。
いえ、この行動自体おかしいことは明白なのですが、アステルもまたおかしいのです。
いつもならもっとにこにこと笑っていて、こんな真面目な話し方はせず軽口の一つでも叩いているはずでした。
悪戯がばれて司教様に叱られた時でも微笑みながら立て板に水の喋りで躱したものです、こんな状況でも笑みの一つでも見せそうなものですが。
…そしてやはり、目的地はまだなのですね。
ふと、入ってきた方向とは反対側から靴音が聞こえました。
「ルチェルさん!」
待ってました、というのでしょうか。
アステルは安心した表情に変わり、靴音の主らしい緑色の髪をした男性に声をかけました。
「や、ちょーっと遅かったね?」
「すみません、思ったより追っ手がしつこくて…」
「まあいいさ。そっちが件の巫女様?」
ルチェルさん、というらしい糸目の彼が私の方を見ます。
私は確かに女神様の巫女をしておりますが、民衆に姿を見せたことはありません。
どうして知っているのでしょう。
アステルが何かお話したのでしょうか。
「そう、えぇっと…」
「ディア'レイと申します」
まだ疲労はありますが、出来るだけ丁寧にご挨拶をします、初対面ですから。
ルチェルさんは糸目を更に細めて、ちょっとだけ子供のように笑いました。
「俺はメルガ'ルチェルトラ。よろしくね、ディア様。…じゃあもう行こうか、巫女様をいつまでもこんなとこに立たせておけないし」
そう言って踵を返し、アステルと私もその後に続きます。
冷たい風が吹き抜けていく石造りの道を、複雑に曲がって進んでいきます。
勿論、何処に行くかなど知りません、知りませんとも。
けれどアステルとは長い付き合いです、きっと悪いようにはならない…そう信じましょう。
ただ一つ文句を言えるのであれば…もう少し動きやすい服装で走らせて欲しかったです。