九
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御堂島の姿が見えなくなると、神津は愛花に向き直った。怯えた様子で俯く少女の頬に手を添え、顔を上げさせる。少女の腫れた頬を確かめると、神津の腸が煮える。
(殺してやる)
殺意は御堂島に向けられていたが、神津が一番腹を立てていたのは、自分自身に対してだ。愛花には盗聴器と発信器をもたせていた。競馬の中継でも聞いているんですか、と訝る三井をはぐらかし、半年もの間、ずっと。愛花の身に危険が迫れば、すぐに駆けつけられるように。それなのに、このザマだ。
「神津さん、助けに来てくれて、ありがとうございます。びっくりしちゃった。まさか、来てくれるなんて、思わなかったから」
そう言う愛花の目はどこまでも澄んでいて、神津を疑うことなど知らないようだった。それはまさに、他に縁のない子どものように、神津に寄りかかる美桜そのもので……神津は愛花に背を向けた。
愛花の戸惑いを背に感じる。神津は深呼吸をした。心臓が、狂ったように早鐘をうっている。
「御堂島が言っていただろうが……俺の口から、今一度、知らせておこう。俺には、夫婦の契りを交わそうとするまで惚れこんだ女が居た。何年も前に、死んじまったがな。庭の桜は、その女の為に植えた桜だ。未練がましく、未だに手元に置いてる。……あいつの為だとかなんとか、散々言い訳してきたが……結局のところ、あいつを忘れるのが、恐ろしいだけなんだ。俺はあいつの死を受け入れられねぇまま……お前に、あいつの面影を追ってる」
神津は自嘲した。こんなことを打ち明けて、どうしようと言うのだろう。愛花が傷つくだけだ。それなのに、止められない。
神津は愛花を見ないまま、投げやりに言った。
「わかるか、愛花。……気味が悪いだろう」
愛花は無反応だった。神津の言葉を聞いていたのか、いなかったのか、分からなくなる。
暫時を経て、神津が愛花に目をやると、愛花いつもの通り、屈託なく微笑んでいた。
神津が愛花を見るのを、待っていたようだ。
「いいのよ、それで」
神津は愛花の言葉の意味するところがわからず、怪訝な顔をする。愛花は慈母のような微笑みを浮かべていた。透き通った硝子よりなお透き通った瞳で、神津を見つめる。
「いいの。私、神津さんが好き」
神津は黙止したまま。しかし、その瞳が雄弁に物語ったのを愛花は見てとった。
寂として声無し、桜の花弁だけが舞い踊る。二人が無言で見つめ合って居るところに、三井が駆け足でやってきた。安堵して表情を緩めてから、それを気付かれまいと顔を引き締める。
「兄貴、どうしたんです! いきなりいなくならないでくださいよ! 愛花、お前もこんなところで、なにしてやがる……おいっ、その面どうしたんだ!?」
いぶかしんで首を傾げていた三井が、愛花の腫れあがった頬を見て、仰天する。三井は殆ど反射的に、愛花の頬に手を添えようとしたのだが。
パシンと、乾いた打音が森閑な神社の境内に響き渡る。唖然として、叩き落とされた手を虚空にさまよわせている三井を一瞥もせず、神津はじっとしている愛花を抱きかかえた。
「帰るぞ」
神津が一声かけると、三井はゼンマイをまかれたブリキの人形のように、ぎこちなく神津のあとを追った。
***
御堂島 栄は海に沈んだ。コンクリートを流し込まれた老人の肉体は、暗い海の底で魚に食われて朽ち果てるだろう。
御堂島は目的の為には手段を選ばない男だった。だからこそ、叩けばいくらでも埃が出る。
白羽会会長は神津をつかまえて「ようやく凄みが出てきた」と肩を叩いた。額面通りの褒め言葉ではなく、ある程度の牽制が込められていただろう。
しかし、老人たちが心配するような、野望は神津にはない。神津はもう、何よりも得難いものを手に入れたのだから。
神津は美桜を愛していた。今になって思えば、博愛を貫いてきた神津が、はじめて特別に想った女だった。
なんでも許す、受け入れる。その人の幸せを心から願う。その為なら、自らは身を引くことも辞さない。
神津はそれこそが、愛するという事だと思っていた。海のように広い心で愛した結果、美桜を失った。
満開の桜並木は、桃色の彩雲のように空を覆っている。枚散る桜の花びらにとりまかれ、くるくると踊る少女の、スカートの裾が花のようにふうわりと翻った。
神津は桜の林幹を見上げる。そこから透けて見えるのは三日月だ。神津は思わずぽつりと漏らした。
「見事な桜よ。お前はいつも三日月の下の、一等見事な櫻の木の下に居るんだな」
少女が振り返る。強面の神津に怯えることなく、桜の花の蕾が綻ぶような笑顔を咲かせる。矢も盾もたまらぬといった具合で、駆け寄って来た。
後頭部の高い位置で一つに束ねた巻き毛と、束ねる薄桃色のリボンが、左右に揺れた。
少女の足取りは軽やかだが、どこが、ふわふわとしている。それは、少女の浮足立った気持ちを代弁しているのかもしれない。神津は、まっ平らな地面のわずかな凹凸に、少女が足をとられるのではないかと危惧した。
懸念した通り、愛花の爪先が地面の僅かな凹凸に引っかかり、細い体が前傾する。
予め予測していた神津は、危なげなく抱きとめた。神津の胸に顔を埋めた少女が、ぱっと神津を仰ぎ見る。口は、あっ、の形で開いたままになっている。
神津は噴飯した。少女もつられたように、眉尻を下げて微笑む。
「なんにも無いとこで転ぶなよ」
「ごめんなさい、神津さん」
「そんなんだから、三井に『スローモーション再生』なんて言われるんだぜ」
神津の口をついて出た呼称が指す人物に想い当った少女の頬がふくれる。餅の様にふくれたふくれっ面で、不服さを口に出した。
「三井さんなんて、知らない。もう、神津さんったら。私と二人でいるときに、他の人の名前なんか出しちゃいや」
失礼しちゃう。と唇を尖らせる少女を見下ろし、神津は目許を和ませる。少女はいつも正しく、神津の独占欲を満足させてくれる。
にやついていると、少女がまた頬に空気をためたので、再びつついて抜く。少女は、ふふ、と笑み崩れた。
「やだ、神津さん。変な笑い方して、いやらしい」
神津は「そうだな」と同調した。少女はふふふ、と笑って駆けだす。スカートを翻し、くるりと振り返る。
「変なの! でも、そんな神津さんが私、好きよ」
悪戯っぽく笑う少女。くるりと一回転して、向き直った少女が湛えていたのは、聖母のような微笑。
「神津さんのこと、大好き。世界で一番、神津さんが好き。神津さんさえいてくれれば、他には何もいらないわ」
少女の満面の笑みが輝く。神津は眩んだ。桜の花弁の一枚一枚が光を含み、少女を取り巻き、覆い隠してしまう。
「美桜」
神津は思わずその名を呼んだ。すると舞い踊っていた少女が、足をとめる。黒く澄んだ瞳で、神津を真っ直ぐに見詰めて、小首を傾げた。
「なぁに、神津さん?」
神津は大股で少女との距離を詰めた。きょとんとしている少女の華奢な体を腕におさめる。
「神津さん? どうしたの?」
不思議そうに声を上げる少女の温もりを感じて、神津は胸を撫で下ろす。
「美桜。どこにも行くな」
「あたりまえだよ」
打てば響くようにそう返し、神津の背に優しく手を回す少女。母のように背を叩き、宥める少女。彼女は確かにここにいる。神津の腕の中で微笑んでいる。
神津は幸福の結晶を抱きしめたまま、自嘲した。
(いつのまに、俺はこんなに弱くなったんだ)
神津は温まり、ふやけてしまった。二度と戻って来ない筈だった最愛の女を、また失うようなことがあれば、もう立ち上がれない。
戻って来た美桜は、今や神津 邦彦のすべてだった。
≪了≫