八
中学三年生に進級した愛花は、街から離れた神社へ続く石段を登っていた。滑らかな表面に苔むした石段を、滑らないように注意深く、一段一段踏みしめて登る。
登りきる頃には息を切らせていたが、目の前に広がる光景に、今度ははっと息をのんだ。
見事な桜並木だ。桜色の雲の中にいるようである。日の光は桜色の花弁を透かして、霞むような影を落とし、並木道を幻想的に彩っている。愛花はうっとりと見とれた。
愛花は桜が好きだ。ここの桜はとりわけ好きだ。花盛りの時分はもちろんのこと、重く濡れたような葉を生い茂らせた桜も、黒々と佇む裸の桜も好きだ。
御堂島と邂逅した一件以来、若い衆にぴたりとはりつかれていたせいで、なかなかここに寄ることが出来ず、歯がゆい思いをしていた。
しかし、それを補ってあまりあるくらい、良いこともあった。御堂島の影がちらついてからというもの、神津が構ってくれるようになったのだ。
それまでは、何処か余所余所しく、愛花を避けていた神津が、愛花を常に手許に置きたがるようになった。一人で嗜むことが多かった月見酒に愛花を呼んでくれるし、頻繁に髪に触れてくれる。
愛花は学生鞄の持ち手を握り直した。ふわふわの白いクマのキーホルダーの毛並みを、人差指でそっと撫でる。
このクマは神津がくれた。一緒にいられないとき、変わりに愛花を守ってくれると言って、肌身離さず持つように言いつけられた。言われるまでもなく、そうするつもりだ。神津がくれた宝物である。
愛花は神津が好きだ。好きで好きで、たまらない。本当は、学校になんか行きたくない。台所に立ちたくも無い。神津の傍を離れたくない。
でも、くっついていると、神津が困ったような顔をするから。離れていれば、愛しそうに見つめてくれるから。三井に懐けば、そわそわと気にしてくれるから。だから、他のものに関心のあるふりをしているだけだ。
調教師のアリスは、愛花を『特別』だと言っていた。特別だから、他の仔犬たちが苦痛に満ちた調教を受けている間、柔らかいベッドに横たわっていられた。他の仔犬たちが惨い主人に引き渡される中、愛花だけはお人形のように個室に飾られたままだった。
愛花ももともとは、可哀そうな仔犬のなかの一匹だった。しかし、心臓に欠陥が見つかった。ハードな調教には耐えられそうになかった。
本来ならば、殺処分される筈なのだが、愛花は手厚く保護されていた。
「お前は特別な子なんだよ」
モニターに映る、傷つき倒れる仔犬たちを眺める愛花に、アリスは繰り返し言った。
「お前は他の子とは違う。お前は贈り物だ。絨毯に包まれたクレオパトラ。可哀そうな男を、破滅するほど幸せにしてやる天使なのさ」
アリスは愛花に神津の写真を与えた。愛花に与ええられるものは、苛められる可哀そうな仔犬たちの映像と、神津の写真。そうして、神津を賛美し、彼の寂しさを訳知り顔で語り、お前だけが彼を幸せに出来るのだと、呪文を唱えるように繰り返すアリスの言葉だけ。
「彼は善人だ。かわいそうな子供は放っておけない。だが、そのせいで貧乏クジばかり引いている。ガキのころからね。お前が幸せにしてやるんだ」
愛花は神津を幸せにすることが、己の使命なのだと心得た。愛すべき少女となる為に、努力を怠らなかった。しかし、日毎に心臓は萎んでいく。
死んでしまうかもしれない。死期を悟った愛花だったが、特に何の感慨も抱かなかった。ただ、少し残念だと思っただけだ。
(私は特別な贈り物なのに。私を受け取れなくて、神津さんは可哀そう)
しかし、愛花は死ななかった。新しい心臓が届けられた。愛花は見違えるほどに元気になった。
そうして、愛花は神津の許に送りだされた。神津がアリスに暴力をふるうのを見て、アリスの嘘つき、と心の中で詰ったが、もう決まったことなのだからと諦めた。
それに、ここにはピンク色の綺麗な花がある。愛花はその花を一目で好きになった。一度も見たことなんてなかったのに、胸がしめつけられるような、懐かしい感じがした。
このピンクの花があれば、多少、痛かったり、辛かったりしても、辛抱出来る。使命のことは、もはやどうでも良くなっていた。
ところが、神津は愛花に対しては、まったく暴力的ではなかった。朴訥だが、優しかった。虚ろな世界で神津だけが、ぼんやりと光って見えた。
(神津さんは、お月さまみたい。)
暗い闇夜の空に咲いた、三日月のようだ。
愛花はアリスの言葉の意味をはじめて理解した。愛花は特別なのだ。神津 邦彦にとって、愛花は特別だ。
愛花の世界は劇的に変化した。愛花は神津を愛するようになった。胸のときめきは、とても言葉では表しきれない。
愛花は神津を喜ばせる為に、アリスに学んだ手筈を大いに活用した。寄り添い、しなだれかかり、ぱっと身を引き、身を翻す。
それがうまく作用しているのか、愛花にはわからなかったけれど、最近では、その成果を確かに感じる。
三井と談笑しているところに神津がやって来て、少しばかり強引に連れ出されたときなど、こみあげる無上の喜びを押え切れなかった。
愛花はひと際見事な桜の木の根元で、仰向けに寝転んだ。ひらりひらりと桜の花びらが、まるで雪のように降って来る。
愛花は胸一杯に、春の香りを吸い込んだ。
「好きよ、神津さん」
陶然と呟いたとき、一陣の風が、花弁を舞い上げた。視界が桜色で埋め尽くされる。
愛花は弾かれたように上体を起こす。花弁がひらひらと地へ落ちて視界が開ける。そこに黒々と立っていたのは、御堂島だった。
「また会えて嬉しいぜ、愛花ちゃん。今度こそ、わしに付き合ってくれるな」
愛花は無言で立ち上がった。足早に、やにさがる御堂島の脇をすり抜けようとする。
御堂島はこの前のように、強引に愛花を引きとめようとはしなかった。そのかわりに、聞き捨てならない言葉を投げかける事で、愛花の足を止めさせた。
「矢張り、ここが懐かしいか……なぁ、美桜よ」
愛花の歩みがぴたりと止まる。御堂島は、己の言葉が愛花の心に如何のように作用するのか、万事心得ているとでも言いたげに、唇だけで微笑む。矍鑠とした足取りで、愛花に歩み寄って来た。
「どうだ? 今度こそ、神津の野郎をうまく誑し込めそうか? あの野郎、こんな体の薄いガキに手ぇ出すのかよ」
御堂島は、親しげに少女の細い肩に手をおく。愛花は視線すら地面に縫いつけて動かさない。御堂島の嘲弄は続く。
「まったく、残念だぜ。俺は、前のお前の体が気に入っていたんだ。汁気たっぷりで、旨みがある、良いからだだった。こんな、固くて青臭せぇガキになっちまって……だが、神津はこっちのが気に入りなんだろう? 変態野郎が」
神津を嘲る御堂島を、愛花は正面から睨みつけた。暗く淀んだものから成る、御堂島の笑顔は、愛花の目を通しても、得体が知れない。自身も大概だとは思うが。
愛花は、静かに疑問を呈した。
「あなたは、何がしたいの」
愛花の問い掛けで、御堂島の表情はぴくりとも動かなかった。しかし、洞のような目の奥で、激情が閃いたのを、愛花は確かに見届けた。
御堂島は、囁くように言った。
「わしの望みは唯一つ」
言うやいなや、愛花の肩に乗った老者の節くれ立った手が、愛花を側の木に押し付けた。不意をつかれた愛花は、為す術も無く背を木肌に打ち付ける。息を詰まらせる愛花にぐいと顔を寄せて、御堂島は鬼のような形相で唸った。
「神津を奈落の底に突き落としてやりてぇのさ!」
御堂島は愛花の両腕を頭上で一纏めにして拘束した。愛花が身を捩ると、鼠を甚振る鼬のような、嗜虐の鬼灯が目玉の中で燃え盛る。
御堂島は、今までの穏やかな声色から一転し、気が弱い者なら卒倒してしまいそうなほど乱暴な声調でがなり散らした。
「あの野郎のせいで、俺の人生は台無しだ! 生まれたときには溝の中。溝鼠らしく、残飯漁りも盗みも殺しも、なんだってやった! ジジイどもに取り入る為に、こびへつらって、靴裏だって舐めた! そうだ、溝鼠が伸し上がる為なら、なんだってしなきゃならねぇ! 間違ってるか? お前に、俺が間違ってると言えるか? よしんばそうだったとして、それがどうした!? 俺だって、しねぇで済むなら、したかなかった事が仰山あったわ! だが、そうしなきゃならねぇ。それなのに、それなのに、あの野郎……!」
御堂島が激昂すると、その手にはますます力が篭もり、愛花は痛みに顔を顰める。御堂島もまた、顔を歪めて愛花を……愛花を通して見た神津を、睥睨していた。
「あの野郎は、媚びもしねぇ、てめぇの信念を曲げもしねぇ。その癖、俺が死に物狂いで取り入ったジジイどもの信頼を、あっと言う間に横からかすめとっていきやがる! なにも持ってねぇ俺と同じ溝鼠の筈なのに、クソに塗れねぇ。あの野郎は全て浚って行きやがった! あいつさえ居なけりゃ、あの場所は俺のもんだった。そうだ、あいつのもんは、すべて俺のもんになってた筈なんだ!」
とりつかれた様に、唾きを飛ばし猛っていた御堂島が、ふとしも、静まった。しかし愛花を戒める手の力はますます強まり、少女の細い手首をぎりぎりと締め上げる。
御堂島は杖を投げ捨てた。焦点の合わない眼をして、にたりと粘着質な笑みを浮かべる。
「あいつのものは、俺のものだ。お前だって、元はと言えば、俺のものじゃねぇか。それをかすめとって行きやがったあのコソ泥を、奈落の底に叩き落としてやるのに、俺がお前を使うのは、真っ当なやり方だ」
御堂島は愛花の制服のリボンを、ぞんざいな手つきで毟り取った。襟許に手をかけられる。野蛮な獣の鉤爪が少女の体を引き裂こうとする。まだ、神津に触れられていない清らかな体を。愛花は激昂して叫んだ。
「汚ない手で触らないで!」
「しゃらくせぇ、黙りやがれ! あいつが惚れた女を、俺が如何しようと俺の勝手だ!」
御堂島は愛花の頬を平手で力一杯打つ。愛花の頭ががくんと逸れた。晒された首筋を、男がべろりと舐める。ぶわっと鳥肌がたった。御堂島は、嗤っている。
「みすぼらしいジジイだと、甘く見てたな、美桜? 俺はあの頃から、衰えちゃいねぇよ。痛めつけて恥かかせて、厚顔無恥なてめぇでも、神津に合わせる顔がなくなるようにしてやる。また、逃げて来い。俺のイロにしてやるから。それで、また神津の野郎に見せつけてやろうぜ……!」
復讐の愉悦に酔う御堂島は、愛花の目の色が変ったことに、気がつかない。自己陶酔の世界で、男は恍惚とする。
「くたばる最期の瞬間まで、呵責してやる。あの野郎の良いようになんざ、断じてさせねぇぞ。俺が生きてる限り、俺は神津を……」
御堂島が壊れたようにけたたましく哄笑したとき、御堂島の枯れ木のような体が、愛花から引っぺがされた。御堂島の鳩尾に固い膝がめり込む。喉が詰まったような呻き声を出し、よろめきつつ後ずさった御堂島の襟許を捕まえて、木に押し付けたのは、神津だった。「ぐわっ……っ!」
神津の岩のような拳が、御堂島の気管を圧迫する。御堂島は神津の手の甲を爪を立てて引っ掻いたが、神津が眉ひとつうごかさず、ますます力を込めたので、だらりと力なく腕を下げた。
御堂島の顔が青茶け、玉のような脂汗が額の上で無数に浮かぶんでやっと、神津は手をはなした。
御堂島の体は力を失い、木に背をすりつけながら、ずるずると崩れ落ちる。
神津は立ちつくす愛花を背に庇い、ぎらつき血走った目で神津を睨む男を見下ろした。
「御無沙汰しとりました、御堂島さん。御健勝で何よりです。極道を歩いて来られて、その歳まで矍鑠としておられるんだから、あんた、流石ですわ。それを……」
口角を釣り上げて、神津は目を冷ややかに眇めた。
「台無しにしたぁ、ないでしょう」
神津と御堂島の、視線の鍔競り合いはしばらく続いた。先に視線を逸らしたのは、御堂島だった。
御堂島は木に手を付き、よろめきながら立ち上がる。その顔には、人の心をざわつかせるような笑みを貼り付けていた。
「なぁ、神津よ。置き土産をひとつ、くれてやろう」
神津が眉を寄せる。けれど御堂島とて、落ちぶれても極道の世界で、独立独歩で歩んできた猛者である。怯まずに、御堂島は愛花を見据えた。
「てめぇを刺したのも、俺の許に身ぃ寄せたのも、美桜がてめぇで決めて、勝手にやったことだ。その女は、俺を利用したんだ。恐ろしい女だぜ、本当に。……精々、褌締めなおしとけ。とり殺されねぇようによ」
放り出した杖を拾い上げると、御堂島は二人に背を向けた。振り返る事なく、桜吹雪の向こうに去って行った。
その背に向けて、愛花は声に出さずに呟く。
(醜い男。死んじゃえばいいのに)