七
***
愛花が恋文の始末をどうつけたのか、神津は知らない。翌朝、愛花も三井も、何事もなかったように振る舞っていた。神津の前では。
神津もまた、昨晩、盗み見たこと聞いたことは、忘れたかのように振る舞った。心に残った大きなしこりには極力、触れないように気をつけていた。
しかし、その試みは完璧ではない。平静を装う神津の態度に、どことなく不自然さを感じ取ったのだろう。三井はいつも以上に気を回し、必要以上に気をもんでいるようだった。
自分勝手な屈託で振り回してしまい、申し訳なく思うのに、心の舵を切り替えることがうまく出来ない。
こんなことは、今までかつて、無かった。美桜を失った時でさえ、今よりもっと冷静だっただろう。
そんなある日。神津が邸に戻ると、三井が血相を変えてやって来た。興奮する三井の話はなかなか要領を得なかったが、根気強く話をひも解く。三井が怒りに我を忘れるのも、無理からぬ話だった。
三井の話によると、下校途中の愛花が閑静な住宅街をひとり歩いていたところ、不意に、聞き覚えのない皺枯れ声で名前を呼ばれたのだと言う。
「神津 愛花ちゃん」
反射的に愛花が振り返る。老人が一人、路地の暗闇に紛れるようにして立っていた。腰が海老のように曲がって居て、皺だらけの手に杖を携え、体を支えて立っている。顔に刻まれた深い皺は、傷跡にも見えたそうだ。
真っ白な髪は短く刈り込まれていて、ぽっかりと空いた洞穴のような、見る者の心に胸騒ぎを植え付ける目が、何に遮られることなく、愛花を凝視していた。
「……どちらさまですか?」
訝しんだ愛花が問いかけると、老人は喉で泥が煮えるような音をたてて笑った。
「わしは御堂島ってもんだ。神津 邦彦とは浅からぬ因縁がある。神津の口から、わしのことを聞いたことはないかね?」
愛花が頭をふると、御堂島は得体の知れぬ笑みを顔に張り付けた。杖の持ち手の上で皺だらけの両手を重ね、御堂島はしたり顔で言葉を紡ぐ。
「そうか。それならいいんだ。……いやはや、それにしても……噂に聞く以上の別嬪さんだねぇ。わしは、近頃じゃ滅多に表は出歩かんのだが……たまたま出た先で、神津の愛娘に会えるたぁ……運はまだ、この老いぼれを見離しちゃあいねぇようだ……。なぁ、愛花ちゃん。ちょいと付き合ってくれんか」
愛花は知らず知らずのうちに、両腕で体を抱きしめ、熱を擦り込んでいた。太陽は燦々と照っているというのに、強い寒気を感じたのだ。愛花は懸命にも、御堂島の悪意を察知していた。
「……ごめんなさい、急いでいるんです。失礼します」
素早く一礼し、踵を返そうとした愛花の腕を、御堂島が掴んだ。存外に強い力で、愛花の体が傾倒する。愛花がはっとして老者を見上げると、御堂島は昏い目を細めて笑った。
「そう冷たくするな。わしみてぇになるとよ、いつも寂しいんだよ。地位も名誉も掴み損ね、人は蜘蛛の子散らすみてぇに逃げてった。年寄りと仏壇は置き場がねぇとは、よく言ったもんさ。なぁ、良いだろう。哀れな死に損ないを慰めると思ってよ、なぁ?」
愛花の腕をむんずとつかまえて、哀れっぽく訴える御堂島の手に、愛花は手を重ねた。御堂島が唇の端を釣り上げて笑うが、愛花はおもむろに首を横に振った。
「違うと思います」
「は?」
御堂島が、胡乱気に目を眇める。愛花は切り口上で諭す様に言った。
「あなたは、悲しいんじゃなくって、怒ってるような気がします……私じゃ、お力になれそうにありませんから」
愛花は感じたところを正直に言ったのだろう。そして、それは正しかった。
愛花は御堂島の手から、そっと自らの腕を引き抜こうとしたが、御堂島は力を込めて愛花をはなさない。厚い爪が布越しに腕に食い込み、愛花は眉を潜めた。その苦悶の表情を見て、御堂島はせせら笑う。
「……薄情な娘だ。その言い方じゃあ、まるでわしは、血が通わねぇ涙もねぇ、化物みてぇじゃねぇか。傷ついたぜ、どうしてくれよう」
御堂島は、満たされない心の闇を抱えているのだと、愛花は思ったそうだ。御堂島は穿たれた穴を、目を覆いたくなるような、醜いもので埋めようとしていると。
恐らくは、その通りだ。御堂島はそうすることに、何の戸惑いも感じない人間である。自身の憤懣を、周囲を害してまでおさめようとする男だった。
御堂島は杖を持ち上げ、愛花の足首に触れた。脚線を辿り、膝丈のスカートの裾を捲る。中学三年生にもなれば、その仕草に性的な侮りが含まれていることに察しがつくのだろう。眦を吊り上げた愛花が御堂島を突き飛ばすと、御堂島はよろめいた。杖をつき体制を立て直すと、鋭く舌うちをして、恐ろしい形相で愛花を睨みつけた。
「呆れた娘だ。仲良くしようとする相手に喧嘩腰で暴力を振るいやがる。ちょいっとばかし綺麗だからって、かぐや姫気取りの鼻持ちならん女め。ちっとも変わらねぇ。神津のイロ風情が、お高くとまりやがってよ」
御堂島は杖で塀を強打し、愛花を脅かした。愛花は身を竦ませたが、御堂島はそれ以上近寄ってこようとはしなかった。住宅街で騒ぎを起こし、人が集まることを恐れたのだろう。
「あばよ、愛花ちゃん。近いうちに、また会おうや」
御堂島は見せかけだけ温和な仮面をかぶり直して、猫撫で声でそう言った。杖をつきながら、路地の角の先へ消えていった。
幸いなことに、愛花に怪我はなかった。しかし、酷く怯えていると、三井は悔しそうに言った。神津は三井の報告を深刻に受け止めた。
御堂島組は直参を外された。神津が直接、手を下したわけではないが、御堂島がそのように受け取っても、不思議ではない経緯がある。神津にとっても、御堂島にとっても、互いが目の上のたんこぶだった。両者は潰し合い、強者が弱者を平らげた。そこに怨恨が生じないわけがない。
御堂島はいまや弱小事務所のトップでしかない。しかし、だからと言って、何が出来るものかと楽観は出来ない。
そうするには、御堂島は執念深すぎた。そすして、そうできないほどに、神津は愛花を愛している。
神津が愛花と顔を合わせたのは、夕飯の席だった。三井を手伝い配膳していた愛花は、神津と顔を合わせると、花が咲くように笑った。
「お疲れさまです。晩ごはん、出来てますよ。アツアツのマカロニグラタン! 私、三井さんのグラタン、大好き! もう、匂いだけで美味しいの。あぁっ、幸せ!」
愛花はミトンに包まれた両手でグラタン皿を運んでいた。ぐつぐつと煮えたグラタンから立ち上る湯気を顔にうけて、愛花はうっとりしている。
その後ろで、三井が笑っていた。
「お疲れ様です、兄貴。……大袈裟な奴だ。素人の拵えるもんを、やたらめったら持ち上げんな」
「だって、美味しいに決まってるもん。三井さんのグラタンはねぇ、世界で一番美味しいんだから!」
「くくっ、わかった、わかった。あぶねェから跳びはねんな。ガキだなぁ、まったく……」
三井は堪え切れずに喉奥で笑って、愛花の頭を撫でる。人懐っこい子犬をかまっているような気分になっているのだろうか。
相好を崩して愛花を撫でていた三井だったが、神津の視線ではっとなって、神妙な面持ちで神津に向き直る。
「すみません、兄貴。すぐにお茶をお持ちします。……おい、お前は良い。ここに残って、兄貴のお相手をしろ」
「はーい、任せてください」
おどけて敬礼する愛花と黙りこくる神津を残して、三井はそそくさと台所に引っ込んだ。
愛花はにこにこしている。昼間、御堂島に怖い目に会わされたことなど、微塵もにおわせない。
愛花は帰宅して真っ先に、御堂島という老人に会ったことを三井に告げたのに、神津には何も言わない。神津を頼らない。
いつからだろう。どうしてだろう。愛花の父親は、三井ではなく神津の筈だ。
(……否。俺は本当に、愛花の父親か?)
三井は心の底から、愛花の身を案じている。三井は純粋だ。神津のように、愛花という一人の少女に愛情を注いでいる。見返りも、下心も無い。三井の方が、余程父親らしい。
「三井に気に入られたな」
神津はひとりごちるように、ぽつりと呟く。愛花は目をぱちくりと瞬かせ、くすりと笑った。
「うそ。三井さん私のこと、バカにして、酷いんですよ」
「請合おう。三井には、気にいらんヤツの相手できるような、器用さはねぇ。お前ら、うまが合うんだろう」
「ええ? どうかなぁ」
口ではそう言いつつ、愛花の表情や声色は明るく柔らかい。いつの間にか、愛花は三井にしっくりとなじんでいた。三井といると、楽しそうだ。
神津はずっと、三井は生真面目で冗談の通じない男だと思い込んでいた。ところが、とんだ見当違いだった。三井はぺらぺらと軽口を叩き、冗句を交え、愛花を楽しませる。
口不調法なのは、神津の方だ。会話はすぐに途切れる。こうして二人きりになると、沈黙が重く冷たい塊となって神津を押しつぶそうとする。
沈黙を気づまりだと感じるのは、愛花といるときだけだ。
「愛花……変わりはねぇか」
沈黙を埋める為に、神津は言葉を吐きだした。愛花はきょとんとしている。それから、小首を傾げて微笑んだ。
「え? どうしたんですか? いきなり」
「いや……最近は、どうしてるのかと思ってよ」
神津の返事は歯切れが悪い。愛花は不思議そうに神津をまじまじと見つめる。
「なぁに、それ。毎日、会ってるのに。変な神津さん」
(そうだ、毎日、顔は合わせてる。実のある会話は、ろくにしてねぇがな)
滲んでしまう苦々しさを隠そうとして、神津は頬杖をつき、台所の方を見るふりをして顔を背けた。
頬に愛花の視線を痛いほどに感じる。身動きが出来ないでいると、ふいに愛花が身を乗り出した。神津の視界に入って来る。つい仰け反る神津の顔を食い入るように見つめ、愛花は囁く様に小さな声で言った。
「もしかして、神津さん……三井さんになにか聞いた?」
神津は答えなかったが、愛花は神津の表情の変化から、勝手に応えを読み取ったらしい。顔一杯に無邪気な笑みを浮かべる。
「神津さんに心配して貰っちゃった。嬉しい」
愛花の真意はわからない。ただ、愛花が神津に気を置いていることは、承知している。面倒をかけまいとして、適当な世辞で煙に巻こうとしているのか。或いは、単純に思ったことをぽんと口にしたのか。
いずれにせよ、愛花の嬉しそうな笑顔と言葉は、神津の乾いた心に深く染みいった。
程なくして、三井が茶を運んでくる。頂きます、と手を合わせ、愛花は目をきらきらさせながらスプーンを握る。掬いとったグラタンに、ふうふうと息を吹きかけて冷ます愛花を眺めながら、神津は決意を新たにした。
(愛花に悪さを働こうもんなら……図太く生き延びたこと、後悔させてやるぜ。なぁ、御堂島さんよ)
可愛い愛花。愛しい愛娘。そうだ、父が娘を大切に想い、守ろうとすることは、当然のこと。そこに理由はいらない。
(見ていてくれよ、美桜。今度こそ、守ってみせる)
神津の決意は、頭の中で大きく響いた。まるで、暗示をかけるかのように、何度も何度も誓いの言葉を反芻した。
御堂島の執念深さは脅威だ。やると決めたら、徹底的にやる。愛花にちょっと嫌がらせをして、おしまいということはない。遅かれ早かれ、行動を起こすだろう。
推測の域を出ないが、だからと言って御堂島が事を起こすまで、悠長に座視を決め込んではいられない。今度ばかりは。
先手を打って、蹴りを付けなければなるまい。そうと決めたら、あまり時間を割きたくない。その分、愛花を怯えさせることになる。
その為には、手段を選んではいられなかった。