表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我が愛しき桜の君よ  作者: 銀ねも
我が愛しき桜の君よ
6/10

***


愛花の心は、目まぐるしいほどの早さで成長していった。同年代の少女に比べると、口は重たい方だろうか。しかし、愛想がないわけではない。愛花は好奇心で目をきらきらと輝かせる、笑窪が可愛らしい、愛すべき少女になった。くるくるとよく動く。桃色のリボンで束ねた髪が、馬の尾のように揺れるのがなんとも愛らしい。


愛花は近所の中学校に通うことになった。うまくやっていけるだろうかと、三井ははらはらしていた。奴隷になるべく育てられた愛花は、ろくな教育を受けていない。愛花に勉強を教えたのは、義務教育課程すら修了していない神津と三井である。勉強についていけるだろうか。同世代の子どもたちとうまくやっていけるだろうか。


「最近のガキは、えげつないイジメ、するらしいです。愛花のやつ、大人しいから……悪ガキどもの恰好の餌食になっちまったら、どうしよう」


悶々と苦悩する三井を見ていると、神津まで不安になってくる。


しかし、案ずるより産むがやすしとはよく言ったもので、愛花は拍子抜けするほどあっさりと、学校生活に順応した。愛花は知識欲が旺盛で、焦土が水を吸い込むように学んだ。七十点以下の答案をもって帰ってきたことがない。


三井は無関心を装っていたが、愛花が意気揚々と答案を引っ提げて神津のもとへやって来て、誇らしげに薄い胸を張り、勉強の成果を披露するのを、影から見ていた。その日は決まって上機嫌で、食卓には愛花の好物ばかりが並んだ。


 愛花を引き取ることに猛反対していた三井だったが、愛花が普通の少女のような情緒を取り戻してからと言うもの、すっかり愛花に骨抜きにされた。

素直ではないが、三井の親愛の情は傍から見てとてもわかりやすかった。あまり闊達な性質ではない愛花が、三井には軽口を叩き、じゃれつく。今日も、友人宅から帰宅して早々に、料理の手習いをするのだと、三井の領地である台所に押し掛けて行った。


 楽しそうな愛花を、神津は微笑ましく見守っていたのだが、ふと、愛花と過ごす時間がぐっと減ったことに気がつく。胸がもやもやして、落ちつかない。


神津は、杯に目を落とした。うっすらと残った酒は月ではなく、神津の目を写している。覇気の無い濁った眼玉。神津は自嘲する。


これが普通のことだ。愛花の世界は広がった。友人がいて、兄のように慕う三井がいて、あちこち元気に飛び回るようになった。これで良かった。


それなのに、一人縁側に坐して、寂しい桜を眺めていると、懐かしんでしまう。桜があった、神津がいて、愛花がいる。たったそれしかない、閉ざされた世界で過ごした日々を。たったそれだけで、これ以上なく、完成されていた日々を。


あれはまるで、神津だけを一心に慕ってくれた、美桜との日々のようだった。


そのとき、神津の耳に、びたん、と物音が届いた。何かが、畳に倒れた音だ。紙のように軽くは無いが、箪笥まで重くない。


神津は苦笑をひとつ零し、杯を畳に置く。


「眠れねぇのか」


身じろいだのだろう、衣擦れの音が答える。神津は、唇を下限の月に撓めた。肩越しに振りかえる


愛花は座っていた。半ば倒れたように横座りしている。神津と目が合うと、舌をぺろりと出して、笑う。


「転んじゃった」


引き起こしてやると、愛花は胸の前で両手を合わせて、頬を紅潮させて神津を見上げる。目を蕩けさせて、うっとりと。まるで、神津だけを一途に慕う、恋する乙女のように。


神津はこっそりと嘆息した。


(どうかしてるぜ。なんでもかんでも、てめぇの都合の良いように見えちまうし、聞こえちまうんだ)


愛花は神津のよこしまな内心など知る由も無く、無邪気に神津にじゃれつく。


「明日は日曜日だから、今晩は夜更かししても大丈夫なの。三井さんがね、ぼうっとしていないで、ひとりで寂しく手酌してる神津さんのお相手をして来い、って」


三井の名前を聞いて、神経が微妙に逆立つ己に閉口する。神津は愛花に顔を見せないように姿勢を変えた。

愛花はにこにこと微笑んで、徳利を持つ手付きには、ぎこちなさはなくなり、すっかり様になっている。


愛花の酌を受けながら、神津は中庭の一角をぼんやりと眺めた。黒々とした桜の木は、青白い月光を浴びて、幽やかに佇んでいる。


この木を買ったとき、美桜との将来に思いを馳せて居た。今よりも、ずっと良い方向に向かうと信じて、信じる事に一抹の不安も感じなかった。


それが、若さ故の無知が見せる幸福の泡だと、今さらになって思い知る。


(これが泡沫の夢で……また、ぱちんと弾けて消えちまわん保証は、どこにもない)


過去も今も、神津は岩肌にしがみつき、ただ水の中でゆらめく水草だ。ここが仄暗い水の底であることを、神津は思い出していた。


愛花が流されていく先で、愛花が幸せならば、神津は満足して見送るべきだ。達者で暮らせと、今度こそ、笑顔で伝えなければいけない。


***


神津の食事は、三井が用意している。美桜のことがあってから、三井は神津の身の回りの世話を、一人で背負いこむようになった。


炊事場は三井の領地だ。下っ端が気をきかせて手伝いを申し出ても、けんもほろろに追い払われる。三井は仲間すら信用できなくなっていた。


ぴりぴりと神経を尖らせる三井が、愛花にだけは、炊事場の出入りを許している。


「花嫁修業ですよ。俺が教えてやらねぇと、あいつは誰にも習えねぇ。米の研ぎ方も知らねぇような娘を送り出すのは、忍びないでしょうが」


 それを聞いた神津は「愛花の嫁入りのことまで考えてやってんのか。俺よりよっぽど父親らしいじゃねぇか」とからかって、三井を真っ赤にさせた。


今朝も、神津は食欲をそそるたきたての飯の匂いにつられて、ふらふらと炊事場に顔を出す。厚焼き卵を焼いて居る愛花の手元を覗き込んで、感心して言った。


「ほぉ。手慣れたもんだな」


愛花は項を逸らして神津を見上げると、はにかんで言った。


「そうですか? 照れちゃうな」


 すかさず、隣で火をさばく三井の檄が飛ぶ。


「コラ。火ぃつかってる時に、余所見すんな」

「あっ、ごめんなさい」


 愛花はぴしっと背筋を伸ばすと、厚焼き卵に集中した。三井と愛花は二人して、神津に背を向けている。神津は目を眇めた。

 三井は精悍な美男だ。厳めしい表情をして周囲を威嚇していても、女たちが振り返る。この前、傘を届けに学校まで走った三井を見た学友に、紹介してとせがまれた大変だったと、愛花が話していたのを思い出す。


 美男と美少女が並んでいる様は、画になる。特別な額縁にその他が入り込む余地などない。


神津は台所を去らなかった。まきすで厚焼き卵の形を整える愛花の頭をよしよしと撫でる。きょとんとした顔を上げる愛花に、神津は笑いかけた。


「たいしたもんだ。昌平の仕込みが良いんだな」


 下の名前で呼ばれると、三井は此方を見ずに「そんなことは」ともごもご言った。その耳が真っ赤になっていて、神津と愛花は顔を見合わせて忍び笑った。


三井は小皿を手に取り、味噌汁の味を見ている。味噌汁から漂う、温かな湯気が頬を掠め、

心もほんわかと温まるようだ。


三井は、とっつきにくいところがあるが、根は優しく、面倒見の良い。「子守唄の家」にいた頃も、神津の後にくっついて歩いていたが、事実上、年下たちを取りまとめ、面倒を見ていたのは三井だった。ここでも、あまり口を出さない神津にかわって、若い衆を教育しているのは三井である。


三井は神津の下につくことが当たり前だと考えている。だから、自身の価値に気がついていないのだ。


(昌平、お前は……いつまでも、俺の下で燻っている男じゃねぇ。いつかは俺を超えて行く)


 三井のことは、実の弟のように思っている。いつか三井が巣立つときは、快く送り出してやろうと決めている。


 近い将来、美しく成長した愛花の隣に並ぶにふさわしいのは、神津ではなく三井なのかもしれない。


 そんな考えが頭をかすめる。神津は結局、朝食の支度が終わるまで、台所を立ち去ることが出来なかった。



***


 ちょっとした事件が起こったのは、それから三カ月後。蝉の声がいくつも重なる真夏日だった。学校から帰宅した愛花の様子がおかしいことに、神津は気がついた。しょんぼりと肩を落としている。好物のハンバーグが食卓に出ているのに、箸が進まない。深刻な顔で思い悩んでいる様子だった。三井が水を向けても、愛花はちらりと神津を見て、はぐらかしてしまう。


 夕飯の席で、愛花が悩みを打ち上げることは無かった。頭痛がすると言って、自室に引き取っていった愛花を、無理に引きとめて問いただすのも憚られる。


思春期の少女だ。独特の悩みがつきないだろう。


(時には、一人眠れずに、夜通し悩みぬく経験も必要だ)


 そう結論づけ、神津は自室で横になっていた。絶えず襖を気にしている。もしかしたら、愛花が来るかもしれないと思ったからだ。夕食の席には、三井が出入りしていた。三井に聞かれるのを憚って、言いだせなかったのかもしれない。

愛花の悩みごととはなんだろうか? 何と言ってやればいいのか? 励ましてやればいいのか。慰めてやればいいのか。それとも、発破をかけてやるべきなのか?


そんなことを考えていると、まんじりとも出来ない。時計の針は夜中の一時をさしている。


やきもきしていたら、喉が渇いた。神津はやおら起きあがって、台所に向かった。暗く静まり返った廊下を進むと、台所から、ほんのりと灯りが漏れ出している。耳を澄ますと、ひとの声が聞こえてきた。三井の、素っ頓狂な声だった。


「ラブレター? ミジンコおチビの癖に生意気だぜ」


 ふざけた三井に噛みついたのは、愛花だった。


「ミジンコじゃありません! もう、三井さん、ふざけないで! 私、本当に困ってるの。真面目に聞いてよ。相談にのってくれるって言ったじゃない」


 神津は、暗い廊下で立ち竦む。


(相談? 愛花が、三井に?)


漏れだす光が、ゆらめいている。足元が揺れている。神津の大きな体が、なにかとんでもないものに揺さぶられていた。


神津が盗み聞きしているとは夢にも思わず、三井は気やすい調子で、軽口を叩いている。


「困ってる? もててもてて、もて過ぎて、困っちまうって? 嫌な女だな、女友達なくすぞ」

「三井さん!」


 愛花が仔犬のように吠える。三井はさも愉快そうに笑った。神津の前では常に気を張り、四角張っている三井の笑声など、滅多に聞くことはない。たまに聞くそれは、いつもなら、神津を良い気分にさせる筈なのに、今は何故なのだろう、どうしようもなく癪に障る。


神津は足を踏ん張っていた。倒れない為ではなくて、その場から動かない為だ。腹の底で渦を巻く激情が、震わせる拳が、向けられる先を、今の神津には選べない。


これ以上、聞くまいと思うのに、神津は耳をそばだてて、三井の呆れ声を拾ってしまう。


「なんだ、何が困るってんだ? その気がねぇなら、断りゃいいだけの話じゃねぇか」


愛花はすぐには答えなかった。俯いて、もじもじと、手遊びをしているのだろう。いや、そうではないかもしれない。神津が見たこともない表情を、神津の知らない仕草を、三井に見せているのかもしれない。


「だからね、どうやって断ったら……その……相手のひとを、傷つけないで済むのかなって……」

「そんな気ぃつかってやらなくたって良いんだよ。向こうが仕掛けてきたんだ、失恋して、気まずくなるのは、覚悟の上だろうが。断られて傷つくのが嫌なら、告白なんかすんなって話だ、マセガキが」


 吐き捨てるように、三井が言った。愛花に悪い虫がついて堪るかと、過保護な父親のような心境でいるらしい。

 

 その後も、二人の会話は続いたが、神津は聞いていられなかった。これ以上、自分を律していられる自信は、情けないことに、ない。


 愛花は助言を欲していた。愛花は相談したかった。しかし、夕食の席では出来なかった。何故か。そこに神津がいたからだ。神津という邪魔者がいるせいで、愛花は真夜中に三井を呼び出した。二人だけの空間で、親密な空気のなかで、最も信頼出来る男に、愛花は繊細な悩みを打ち明けた。


(俺は、お呼びじゃねぇ)


 神津は踵を返して自室に引き返した。惨めな敗走兵のように、わき目もふらずに。


(美桜ならば)


神津の沸騰した頭のなかで、制御できない理不尽な怒りが唸りを上げる。


(美桜ならば、俺にこんなみじめ思いはさせなかった。美桜ならば、俺だけを想ってくれていた。美桜ならば、他の男につけいる隙を見せたりしなかった。美桜ならば、他の男が寄越した恋文なんぞ、受け取らなかった。三井に頼ったりしなかった。美桜ならば、美桜ならば……)


 そこで、神津ははっとした。己の思考が、俄かには信じられない。


 この怒りの理由が、父親の役割を三井にとられたことに対するものなら、百歩譲って、まだ、納得できる。

 しかし、今の思考はおかしい。なぜ、そこに美桜が出て来るのだ。


 愛花は神津の娘だ。娘は、親の手を離れるものである。いずれ、他の男の許へ送り出す日が来る。


 それなのに、神津は何を考えていた? あれはまるで、独占欲に燃える男のそれだった。

神津は布団の上に、崩れ落ちるように胡坐をかいた。がっくりと肩を落とし、額を押える。


「なんだってんだ、俺は……どうかしてるぜ」


 あり得ない。あっていいはずがない。娘を独占したいと思うなんて。弟のような三井に、嫉妬するなんて。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ