五
***
白羽会本家若頭、神津 邦彦は、久々の静謐の中に居た。自室の濡れ縁に坐し、鋭い三日月を肴に杯を傾けていた。
空になった杯を、手酌で満たす。本来ならば、当意即妙な会話の出来る、賢く気のきく女にでも酌をさせるのだが、当節はとんと御無沙汰である。今宵も、その飲み方を愉しむ気分にはなれず仕舞いだった。
杯を満たす酒に、うつりこんだ三日月。そこへひらりと舞い落ちる、一ひらの桜の花弁。それを見て、記憶の奥から愛しい声がした。
『見て、神津さん。お月さまをつかまえた』
月の女神もかくやという艶やかな美貌と、相反する無邪気な笑顔。終ぞ失われたものへの哀惜を、杯と共に煽った。
有栖 真澄が事務所ではなく神津邸を、神妙な面持ちで訪ねてきたのは、桜の蕾が綻んだ頃だった。
有栖は一人では無かった。十代半ばほどの少女を一人、連れていた。少女の眼差しに射ぬかれ、海千山千の神津 邦彦のずっしりと重い心臓が、跳ねあがった。
少女は人形めいていた。市松人形の古風な長い黒髪、ビスクドールの端正な白い顔と、虚ろな瞳は、まるで眼窩に嵌め込まれたグラス・アイ。彼女の眼差しは、神津に強烈な既視感をもたらした。
有栖は少女の薄い肩を掴んで、貢物のように差し出した。
「神津さん。この娘を、養女にとってくれませんか」
突然の申し出に、神津は当惑した。わけがわからない。答えを求めるように、少女を見つめる。時折、思い出したように瞬きをする。長く、けぶるようにたっぷりとした睫毛が、ぼんやりした瞳に暗い影を落とす。
少女の目は神津をうつしているが、神津を見ていない。どこまでも無関心な少女の目には、かたちにもならない諦念が浮かぶ。
それはかつて、美桜が見せたものと酷似している。神津の胸を深く抉るのは、そのせいだ。
有栖は神津の心を読み取ったような言葉を吐いた。
「この少女の胸で鼓動しているのは、美桜さんの心臓です」
驚愕して然るべきだったが神津は少しも驚かなかった。不可解な符合がすとんとふに落ちた。驚きはしなかったが、何も感じなかったわけではない。
「この娘は『犬奴隷』にする為に調達された孤児です。この意味はおわかりですね」
有栖の言葉は疑問ではない。神津が己の言葉で少女の境遇を正確に把握したことを確信している。その自信が何処からくるのかは、わからない。
茫洋とした彼方を眺めるように、内庭に目をむけている少女を見下ろして、有栖川は表情を曇らせた。
「この娘をオーダーされたご主人様は、完璧な人形をご所望でした。心を殺すことが、調教の目的だった。僕はうまく仕事を成し遂げました。庇護が必要な、小さな女の子だ。心は脆くて、柔らかくて、綺麗だった。この娘は粉々になった。完成した人形を、ご主人様は大変お気に召したご様子でした。……問題が発生したのは、納品して三年経った後です。人形の心臓は、鼓動を打つのをやめようとしていた」
有栖は傾けた額を押えた。そんな仕草も、いちいち様になる。あまりに恰好がついているので、芝居じみて見える程だ。
痺れたように身動きのとれない神津の目をそろりと見やり、有栖は掻い摘んで説明した。
「俺は方々を訪ね、この子に適合するドナーを探しました。しかし、見つからなかった。ご主人様は、しばしば発作を起こして苦しむ人形に興ざめしていらっしゃる。このままでは、廃棄処分だ。途方に暮れていたとき……かつて『犬小屋』から逃げ出して、生き延びていた仔犬が……美桜さんが、俺を訪ねてきました。美桜さんは、御堂島さんから、俺がこの娘の心臓の提供者を探していることを知ったらしい。そして、どういうわけか、自分の心臓がこの娘に適合することを知っていた。美桜さんは自ら望んで、この娘に心臓を与えたんです。俺は彼女が希望した場所に、彼女の亡骸を横たえた」
有栖が視線を逸らす庭の隅っこにうずくまるようにしている桜の木を見て、痛ましそうに顔を歪めた。
「彼女は桜が好きだった」
気がつくと、神津は背後から三井に羽交い締めにされてもがいていた。三井が耳元で何か喚いている。目の前では、有栖が床に這いつくばっていた。
有栖はがくがくと震えながら、体制を立て直そうとしている。有栖が血と吐瀉物で汚れた綺麗な顔を上げる。冷ややかな目で射ぬかれ、神津の腹の底が煮えたぎる。
神津は吼えていた。言葉にならない、怒りと悲しみを、血を吐く思いで迸らせる。三井も押えきれない。
三井を振り払い、神津は有栖に飛びかかった。有栖を仰向きにひっくり返して、馬乗りになる。拳を岩のように固く握りしめる。
この時の神津には理性がなかった。理屈は要らない。ただ、純然たる殺意だけが体を漲らせていた。
神津は拳を振りあげる。ギロチンの刃のように、振り下ろされようとした拳を止めたのは、不意に立ち上がった少女だった。
少女は乱痴気騒ぎに目もくれない。狂乱する神津の脇をすりぬけて、ふらふらと部屋を横切り、濡れ縁から、庭へ下りる。びっしりと苔が生えた柔らかい土の上を滑るように、少女は真っ直ぐに、桜の木のもとへ歩いて行った。桜の花は、少女に語りかけるように、咲いていた。
三井によって、神津は有栖から引き剥がされた。出て行けと叫ぶ三井に逆らい、有栖はその場に留まる。挑むように神津を見上げる。血を吐き捨て、皺枯れ声を絞り出した。
「俺は人の命を、体を、心を、売り物にしている。俺は鬼や。悪魔や。畜生や。自分でわかってます。だからどうしたって、開き直らねぇと、こんなことはやってられねぇ……だが、こんな下種野郎でも、後ろめたくなることはある」
有栖は桜の木の下で、翼のように両手を広げる少女をちらりと見やり、苦々しく言った。
「俺は、ずっと考えてました。なんで美桜さんは、見ず知らずの、心が死んだ女の子の為に、心臓を捧げたのか。俺にはわからなかった。だが、ひとつだけ確かなことは……心臓を移植されて、この娘の心が息を吹き返したってことだ」
世迷言をほざくなと一蹴するには、有栖の誰何は切実過ぎた。有栖はゆっくりと身を起こすと、額を床になすりつけた。
「お願いします、神津さん。この娘を引き取ってください。ご主人様は、この娘を手放しはった。このままじゃ、廃棄処分されます。後生、後生ですから……お願いします」
なぜ、有栖がそこまでするのか。猜疑心を研ぎ澄まして然るべきだったけれど、神津は有栖の誠意を信じた。有栖は人の親になって、人間らしい苦悩を知ったのだ。それでも、思うようにならない。一度、足を踏み外すと、元いた道に戻るのは酷く困難だ。
少女は桜の木の下でくるくると回っている。桜の花は、人形のような少女に生気を与えていた。うっとりとした微笑みを浮かべて、ぎこちなく舞い踊る少女は桜の精のよう。幻想的な光景は、あまりにも美しくて、いっそ奇跡的だった。
神津は三井の反対を押し切って、少女を引き取った。
少女の年齢は十四歳。澄んだ瞳が美しく、唇は小さい。瞳は深く黒く、唇は鮮やかに赤い。
一応の名前はあるらしいが、犬奴隷は主人の所有物であり、命名するのは所有者だ。人間を人形などに貶める下種が考えた名前など、知りたくも無い。
神津は桜の花を愛でる少女を、愛花と名付けた。
三井は、神津が有栖に唆されてしまったと、深刻に悩んでいた様子だったが、神津にはそんなつもりはなかった。
愛花は、美桜の心臓をもっている。愛花には、美桜の面影がある。
しかし言わずもがな、美桜ではない。心臓には記憶が宿り、移植された人間が記憶や嗜好を受け継ぐことがあると何処かで聞きかじったことはあるが、だからと言って、心臓が体を乗っ取るわけではないだろう。
重要な事実はたったひとつ。愛花は、美桜に生かされたということ。美桜の心臓が愛花の体のみならず、心までも生かしたのだ。
(美桜の娘だ。ならば、俺の娘でもある。俺はあの娘を、立派に育てあげよう)
それが、神津の出した答えだった。
法的な手続きは、有栖の手配によって滞りなく済んだ。妙に手慣れていることに、今更、言及しようとは思わない。愛花は神津 愛花となり、正式に神津の養女となった。
愛花の心はまだ生まれたてだ。赤ん坊のようなものだった。十四歳にして、まっさらな白紙だった。
愛花の境遇を慮れば、願わくもない幸運であろう。これも美桜の贈り物だろうと、神津は思った。
そして神津は途方に暮れた。泣く子も黙る神津 邦彦である。子育てどころか子守りさえ、してみたことがない。子どもどころか男のあしらいになれた夜の女ですら、神津の強面に怯むくらいだ。甘い言葉で安心させてやれるような、器用さも持ち合わせていない。
しばらくの間、こう着状態が続いた。端麗な人形そのものといった愛花の様子に、心が芽生えたというのは、有栖が厄介払いする為についた嘘なのではないかと、疑いたくもなった。
しかし、桜を愛でる心が愛花にはある。神津は可能な限り時間を捻出し、愛花の隣にいた。返答を期待せずに話しかけ、愛花が桜の花びらと戯れる美観を肴に酒を呑んだ。
時間をかけて、傷ついた野良猫を手懐けているようだ。それは、神津にとって初めての試みではない。
愛花は徐々に、神津の存在を認め始めた。神津が話しかけると、顔を向けるようになった。神津が笑いかけると、おざなりではあるけれど、唇が弧を描くようになった。ちょっとした変化が、神津の心をじんわりとあたためる。酷く懐かしい感覚だった。
神津は愛花に言葉を教えようとした。あいうえお表を愛花の部屋の壁に貼り、学習帳を買い与えた。しかし、愛花は既に言葉を知っていた。
その日も、愛花は桜に夢中になっている。しかし、散りゆく寂しい桜に、いささか不満気だった。降り積もった花弁を踏みしだく愛花を眺めながら、神津は苦笑する。
「咲けば散るのが桜の花よ。それだから、良いんだ」
桜の花びらが一片、ひらりと風にのってやって来て、杯に落ちて、水面にうつった三日月を揺らめかせる。
と、その時。桜にしか興味を示さなかった愛花が、一直線に神津の許へやって来た。きちんと外履きを揃えて脱ぐと、神津の背に回る。不意に神津の背に凭れてきた。
軽く暖かい体が神津の背に貼りついている。古傷が鋭く痛み、神津は小さく息を呑んだ。
愛花は神津の耳元で、熱い吐息とともに囁いた。
「お月さま、つかまえたみたい」
愛花は言葉を知っていた。それは、美桜の心臓が教えたものではないかと、神津には思えてならなかった。
神津は愛花の顔を見ることも出来ない。見てしまえば、そのあどけない横顔が、愛する美桜のそれと重なってしまうだろう。
(愛花は、美桜じゃねぇ)
当たり前の事実を、必死になって自らに言い聞かせる己の滑稽さに、神津は危機感を覚え始めていた。
愛花は強面の神津を始めとした男たちを、まったく怖がらなかった。それどころか、よく懐いた。その中でも、神津は別格らしかった。
毬のように神津の周りを跳ねまわり、子猫の様に擦り寄ってくる。愛しいと思うな、と言う方が酷だと言うものだ。
神津は、杯を満たした酒を飲み干した。存外に苦みがきつい。
愛花は娘だ。美桜との間に授かった愛娘。しかし、時折、その姿は完璧に、美桜に重なった。
神津はかつて、深い水の底に張り付いて生きていた。だからこそ、昇り龍になろうと決意した。いくつもの修羅場に自ら身を躍らせ、潜り抜けてきた。
順風満帆だとは言い難い人生だった。上に昇れば昇るほど、汚穢を貯め込んだ連中との、水面下でのつぶし合いにも、臨まざるを得ない。眉を寄せたくなる、醜悪な局面を目の当たりにした。それら全てが、高みを目指す滝の激流だと思い、踏ん張り乗り越える度に、龍に成る日に近づくと思っていた。天辺から見る風景を見てみたかった。
そんな神津に、龍にならずとも、もっと素晴らしいものが見えると、教えた女がいた。
神津は女に惚れぬいて、この女が、自分の唯一の女になると思った。暗い影を背負う女だったから、一筋縄ではいくまいとわかっていた。それでも、歩み寄る歩調を緩めずに、神津は女と心を通わせた……つもりだった。
しかし、女が内包していた暗闇を、神津は照らしきれなかった。信じさせてやれなかった。女は死をもって、神津の心を永遠に繋ぎとめようとした。
神津が死を拒むと、女は自ら死を選んだ。そうする事で、自分を神津の心に焼きつけたのだ。
『わたしは、忘れられない女になれましたか』
思い出すのではなく、忘れられない。
神津の視線が、我知らず、庭の片隅にひっそり佇む、桜の木に括られている。蕾は綻び、いくらか開き、満開は近いと知れた。
桜は春になると、きまって、花を咲かせる。美桜の命日には、満開に咲き誇る。
忘れられない女だ。命日が近くなると、心が美桜で満たされる。痛む心を抱えながら、美桜がそれを望むのなら、構わないと思っていた。
美桜は死んだのだ。どれほど神津が辛くとも、それが現実。それなのに、愛花に美桜の面影を探してしまう。きっと、心のどこかで期待している。