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我が愛しき桜の君よ  作者: 銀ねも
我が愛しき桜の君よ
4/10

 ***


 天野あまの 雄大ゆうだいという老人は一見、明朗快活な浪速の商人あきんどに見える。陽気でひょうきんな好好爺だ。どこにも、暴力組織の首領の凄みはない。


 天野は群雄割拠ぐんゆうかっきょの関西地方において、鶏群の一鶴であるとされるがしら会を率いる男である。そして、典型的なマキャベリストだ。金になることならなんにでも手を出す。 


 手を染めた悪徳のなかで今、彼が最も旨みがあると見込んでいるのが、人身売買だった。売り物は美しい女であったり、可愛らしい子どもたちであったり、健康な臓器だったりするが、そのどれもが、本来の持ち主の了承を得て売りに出されるわけではない。


 そのような外道で卑劣な所業は、神津が最も嫌悪するものであった。


 それなのに、一人掛けのソファーに優雅に腰かけ、歯並びの綺麗な白い歯を見せて爽やかに笑う男を、神津は歓待しなければならない。天野に絶対の信頼を置かれ、人身売買の仕切りを一任されている、この残酷な商人を。


 天野の寵児、有栖ありす 真澄ますみもまた、ヤクザには見えない。線の細い優男だ。細やかな格子模様が織り込まれた高級スーツを着こなし、髪型もびしっと決めた風采は、ファッションモデルかなにかに見える。

神津と同い年らしいが、若々しい。二十代でも通用するだろう。


 端正な身のこなし、整ったルックス、チャーミングな笑顔、愛想の良さ、軽妙な話術。それらは安心と信頼を、対する相手に与える。艶を帯びた肌の内側が、ひどく捻じれて、どす黒いことなど、少しも匂わせずに。


『八ツ頭のぬえ』と渾名される有栖が神津を訪ねてきたのは、久しぶりのことだった。有栖はこの半年間、アメリカに滞在していたのだ。


「ご無沙汰していました、神津さん。三井さんも。お会い出来て嬉しい。なんだか安心しましたよ。やっとこさ、日本に戻って来れたんだな、って実感がわいてきます。で、最近どうです、お変りはありませんか」


 よどみなく愛想を口にする、歯切れの良いビジネスマン風の訪問者を、三井はあからさまに嫌っていた。本音を吐露すれば、神津とて、有栖と談笑などしたくない。追いかえして、塩をまいてしまいたい。だが、世話になっている会長の顔を潰すことは出来ない。


 土産を手渡し、帰国の挨拶を済ませた有栖の右手首には、カルティエの腕時計のかわりに、包帯が巻かれている。


「手首、どうした?」


 神津が訊ねると、有栖は手首を擦り、苦笑した。


「『白雪姫』の番犬にガブリとやられました」


 神津はひょいと片眉を持ち上げる。すると、有栖は女のように艶やかな唇に微苦笑を刻んだ。


「もちろん、本当に噛まれた訳じゃありませんが。奴さんに言わせれば、軽く捻っただけだろうって程度でしょう。いやはや、手首を引きちぎられるかと思いました」


 有栖がこのたびの遠征で訪ねたのは、東海岸一帯に君臨する『悪霊』だ。巨大な人身売買組織の元締めでもある悪霊と、有栖は時間をかけて交誼を結んだ。『白雪姫』とは、傾城の美姫と名高い、悪霊の一人娘のことだ。


 海外の情勢にとんと疎い神津が知っているのは、その程度。三井も同じようなものだっただろう。しかし、それだけでも、三井が有栖をますます軽蔑するには十分だった。


「いやらしいな」


 三井が吐き捨てた言葉を拾い上げた有栖は、朗らかに笑って頭を振った。


「嫌だな、三井さん。そんなんじゃありませんから。僕はふらついた彼女を支えようとしただけです。その気のない女性に、スケベするほど落ちぶれちゃいませんて」


 三井が眦を決する気配がある。神津は三井に掣肘を加える為に口を開いた。


「ほぉ? あんた程の色男に迫られて、その気にならねぇか。気丈なお嬢さんらしいな」


 神津はおべっかではなく本心から驚いて言った。

 血も涙もない悪党であっても、有栖は瀟洒な色男だ。女の扱いに長けている。否、女だけではない。この男は、対する相手の好みを目敏く見抜き、その型に己を嵌めこむ術に長けているのだ。そして、器用に何役も演じることを、楽しんでいる節がある。そんなところが、得体のしれない不気味さを醸し出し、彼が八ツ頭の鵺たる所以となっているのだろう。


 そうであっても、有栖には人を惹きつける特別な魅力がある。

 神津とて、有栖の正体を知らなければ、このチャーミングな男に親しみを覚えていたかもしれない。


 有栖が目を伏せると、長い睫毛が頬骨に影をおとす。前髪を払う細く長い指には、男の目から見ても色気があった。


「ええ、美しく、凛とした女性です。すごく魅力的だ。だがね、あれは魔性ですよ。それに、うんと手強い。彼女の華奢な背中に、男たちの焦りが見えたな」

「男を弄ぶのか?」

「その真逆。白雪姫は筋金入りの男嫌いです。これでも僕は、女性を喜ばせる手筈に関しては、ちょっとしたものだと自負していたが、これがなかなか慣らせない。番犬がおっかないしね」


 冗談めかしてそう言うと、有栖は外人のように肩をすくめた。その仕草が様になっている。三井の不機嫌はいよいよ極まった。


「情けない。そんなんで『悪霊』の娘婿になれるのか?」


 三井の刺々しい言葉に、有栖は温容に返す。


「無理でしょう。『悪霊の巣』を仕切るのは、僕には荷が勝つ。それに、僕は人の上に立つ器じゃない。僕は群を率いるオオカミじゃなくて、主人に従う犬ですから」


 神津は三井を厳しく一瞥し、もう喋るなと釘をさす。それから、神津と有栖が当たり障りのない世間話と社交辞令を交わしていると、低いバイブ音が響いた。


 有栖が胸を押える。はっとした様子で胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、すまなそうに眉を八の字にした。


「すみません、娘からです。あいつ、昼間はかけて来るなって、言ってあるのに」


 神津は目を丸くした。有栖に娘がいるなんて、初耳である。思わず知らず、三井と顔を見合わせる。三井も驚いていた。


 バイブレーションは止まない。有栖がスマートフォンの電源を切ろうとしたので、神津はそれを制した。


「急用かもしれん。遠慮は無用だ、出てやれ」


 なぁ、と三井に水を向けると、三井はこっくりと頷いた。三井もまた、あの八ツ頭の鵺の娘とやらに、興味をそそられたらしい。


 有栖は「すみません」と繰り返すと席を立ち、ドアの近くに立って通話に応じた。開口一番に、聞いた事もないような、つっけんどんな口調で言った。


「仕事の真っ最中やぞ」


 それに応えるのは、少女特有の高い声。澄んだ鈴の音のようによく通る声で、少女がのんびりと語る内容が、神津の耳にまで届いた。


『えへへ、お疲れ様、真澄さん。お仕事中に、ごめんね。本当は昨日、お電話しようと思ってたんだけど、気が付いたら、寝ちゃってた。昨日は六時過ぎまで残ってたんだよ。頑張った甲斐あって、文化祭にはなんとか間に合いそう。ねぇ、真澄さん。私の画、見に来てくれるって約束、覚えてる? 酔ってたからなんて言い訳、聞かないからね。ちゃんと来てね? 友達に、真澄さんのこと自慢しちゃうんだから。皆、信じてくれないの。みんなのお父さんは、お腹が出て足り、頭がはげあがってたり、加齢臭がしたりするんだって。真愛が言うみたいな、カッコいいおじさん、いるわけないんだって。ふふふ、おかしいね?』


 鈴振るように笑う少女のお喋りは止まりそうにない。有栖は少女の声を掻き消すように、言葉を被せた。


真愛(まな)よ。そりゃ、今せなアカン話か? なんのこっちゃあれへんで。後で掛け直す」

『あっ、待って! あのね、ちょっと聞きたいんだけど、このガスレンジ、壊れてない? 昨日ね、夜中に目が覚めてね、カップ麺、食べたいと思ったのね。それで、ヤカンでお湯わかそうとしたら、ツマミを捻っても、火が点かないの。今朝起きてもまだ、火が点いてないんだぁ。おかしいよね? 故障かなぁ。変な臭いがするし』

「……ハァ!? お前、なに晒してケツ噛んどんねん。それ、ガス漏れしとるぞ!」


 有栖が大声を出すと、驚いたのだろう。三井の体がびくっと跳ねた。三井は耳を真っ赤にして、俯いている。有栖は三井の恨みがましい視線に気づかずに、綺麗に整えたヘアスタイルを掻き乱している。


「膿んだもんが潰れたとも言わんで、あほらしもない! ああ、クソ……お前、とにかく今すぐ家を出ろ! 台所には近づくな、部屋の窓から表に出ろ! スイッチとか、触んな。爆発する!」

『ええ? 爆発? なんで? こわーい』

「怖いのはお前や! もう家出たか? まだ? 出た? ハァ!? 戻るな、アホ! 人形なんぞ、新しいのいくらでも買うたる!」


 不満そうな声を上げる少女は、有栖にきつく叱られても、少しも堪えていないようだ。能天気な少女をなんとか屋外に誘導したらしい有栖は、神津に断りを入れるのも忘れて、いくつか電話をかけた。


「奥さん? 真澄です。すみません、うちの真愛が、また阿呆なことやらかしよって……はい、ガスを出しっぱなしにしたらしく……はい、真愛は無事です。もうすぐお宅にお邪魔するかと……あっ、来ました? すみません。お世話かけます、ほんまにすみません」

「ボス、俺です。お忙しいところ、すみません。俺、一度家に戻ってもよろしいですか? 真愛がガスを出しっぱなしにして、家中ガスが充満してるらしいんですよ。……はい、あの阿呆娘は、奥さんに見て貰ってます……いや、笑いごとじゃありませんって。離れがぶっ飛ぶかもしれません。……すみません、仰る通りです」


 見える筈がないのに、通話相手にぺこぺこと頭を下げ続けた有栖は、携帯電話を握ったまま、神津と三井にも深深と頭を下げた。


「お騒がして、申し訳ない。この埋め合わせは必ずさせて頂きます。では、これにて失敬」


 有栖が出て行ったあと、神津と三井はぽかんとしていた。暫時を経て、三井はけたたましく哄笑した。


「なんだぁ、ありゃあ!? あの八ツ頭の鵺が、小娘一人のために慌てふためいて、なんてザマだ! 傑作だぜ!」


 三井は神津を誘うように手を叩き、大笑いをしていたが、神津は唇の端を曲げるにとどめた。


(あの八ツ頭の鵺に……てめぇの娘を、恥も外聞もなく心配するような情があったとは……)


 少なくとも、有栖は出羽のような外道とは、一線を画するらしい。やりにくいことこの上ないと、神津は思った。


  有栖 真愛は、十四歳。天使あまつか女子中学校の二年生。七歳にして両親を交通事故で亡くし天涯孤独の身の上となり、有栖 真澄の養女となった。


天女(あまじょ)と言えば、大学までエスカレーター式の、超がつくお嬢様学校じゃありませんか」


 三井は男前を歪めて吐き捨てるように言った。


「人を切り売りした金で、てめぇのいい子は贅沢させるってか。ヘドが出る」


 三井は義憤にかられながらも、どこかやりきれなさそうに唇を噛んでいた。それもそうだろう。真愛という天真爛漫な少女には、なんの咎もない。有栖が真愛を大切に愛育しているのなら、文句のつけどころなどないのだ。


(美桜……お前が生きていれば……俺達にも、子どもがいたかもしれねぇな……)


 神津は縁側に坐して、黒々とした裸の桜を眺めながら、切なさをもてあましていた。


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