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我が愛しき桜の君よ  作者: 銀ねも
我が愛しき桜の君よ
3/10

 ***


 白羽会御堂島組組長、御堂島 さかえ。狡猾で用心深い男だ。四十がらみで白羽会会長より杯を受けた、叩き上げの実力者だった。


 同じ叩き上げとは言え神津とは、ものの見方も考え方も、何から何まで正反対。水面下で角突き合いを繰り広げてきた。ただでも、上に目をかけられた、若輩者の神津が気に入らないらしく、なにかにつけて食って掛かってくる。権力を傘にきて、神津に幾度も煮え湯を飲ませてきた男だ。


 御堂島から宴の席への誘いをかけられ、気乗りするはずもなかったが、謦咳けいがいに接する体面を保つべく、向かった料亭。

 仲居に通された部屋には、御堂島と若頭の尾崎、そしてその舎弟たちが、すでに宴を始めているところだった。


「遅かったじゃねぇか、神津。まあ、座れ」


 やけに上機嫌な御堂島に促され、神津と三井は席に着いた。三井は、ぴりぴりと神経を尖らせている。以前から本物の犬も真っ青の忠犬ぶりだったが、美桜のことがあってから、過敏になっている節がある。


 御堂島は、毛を逆立てる三井を面白い見世物のように眺め、それに飽きると、二三度手を打った。


「神津。お前に紹介したい奴がいるんだよ。……おい! こっち来て、酌をしろ!」


 御堂島に召喚され、引き戸を開いた人物の、床に額がつくほど下げられた頭顱を見るなり、隣で三井が息を呑んだ。


 得たり賢しと、会心の微笑を浮かべる御堂島を見るに、神津の方も、あけっぴろげな驚愕を顔に出してしまったらしい。

 御堂島は、脂下がりつつ、女を呼びつけて脇に侍らせる。神津の表情をなめるように見て、もったいぶって言った。


「今、俺の身の周りの世話をさせてる……美桜だ。なかなかの別嬪だろうが?」


 神津は荒事を、快刀乱麻を断つ如くこなし、生き馬の目を抜く早さで身を立てている。同じ成り上がり同士だ、神津がいずれ脅威になると、御堂島は察していたらしい。神津の媚びない態度も、御堂島のような男には鼻につくのだろう。


 芽は早々に摘み取るに限るという考えなのだ。頸節を圧し折ってやろうと、御堂島には目の仇にされてきた。


 御堂島は、神津を蹴落とすためなら、なんでもしそうだった。だからと言って、姑息な真似をするものだと、神津は失笑してしまう。


 御堂島は知っていたのだ、美桜が神津の女であったことを。


 月夜に釜を抜かれるとはこのことだろう、と御堂島の悪意に満ちた嘲笑が囁いていた。


 御堂島は美桜に、神津に酌をするよう命じたが、神津は断った。


「せっかくだけどあんた、俺は、手酌でちびちびやんのが好きなもんで」

「なんだ、つまらん。色気の無ぇ男は出世出来ねぇぞ」

「英雄色を好むとは言いますけど、あんたの場合、色に溺れる言うた方が、正しいと俺は思いますね」


 神津は、泰然自若とした態度を取り戻していた。御堂島をキュウリの皮とも思わないあしらいに、御堂島の米神に青筋が浮く。尾崎はにわかに色めきたったが、御堂島はそれを制した。


「抑えろ、抑えろ。楽しい宴で、無粋な真似はよしとけ。……だがなぁ、お前。あんま粋がっとると……後で泣き見る羽目になるかもしれんぞ。気を付けろよ」

「精々褌締め直しときますよ」


 神津は涼しい顔で嘯いて、酒盃を空けた。


 それにしても、まさか、ここで美桜に邂逅するとは。人間万事塞翁が馬、と言ったところか。……或いは、仕組まれたことなのか。


 神津は出し抜けに、ぐいと杯を美桜に向けて差し出す。それは、酌を求めるにはおかしい動作だった。まるで、手を差し伸べるような動作。


 初めて二人が会ったときを準えた事は、神津と美桜のほかは誰もしらない。


 美桜は神津の意図に気がついたようだ。美桜はうっすらと微笑んで……御堂島に擦り寄った。




 宴を終えた帰り道。酔いも満足感も無い。ただ御堂島の勝ち誇った顔と、美櫻の微笑だけが印象的だった。まるで敗走兵だ。


「許せねぇ、あの女ァ! とうとう馬脚を露わしやがった!」


 隣で夜道を歩く三井ががなりたてる。臥薪嘗胆しそうな剣幕だ。神津は静かに三井を諫めた。


「しつこい奴だ、お前はよぉ。いい加減にしねぇか」

「だけど兄貴、悔しいです! 御堂島の野郎、兄貴への当て擦りで、あんな真似をしやがったんだ! もしかしたらあの女、端から御堂島の息がかかってやがったのかもしれねぇ!」


 怒りに棹をさして捲くし立ててから、三井ははっとなって言葉を打ち切った。

 急におとなしくなった三井は、少しすると、悄然として神津に頭を下げる。


「すみません、余計な事を……」


 神津は三井の謝罪を耳に入れて、夜空を仰いだ。


 今宵の月も三日月だ。美桜と初めて会ったのも、美桜の痛みを受け止めたのも、美桜に別れを告げられたのも、三日月の下。


 はじめ、神津のところを飛び出した美櫻が、御堂島に捕まり、神津を動揺させる道具として利用されているのではないかと懸念した。否、期待、だったのかもしれない。


 だから、二人にだけわかる合図で、美桜に尋ねた。


 美桜の答えは、「いいえ」だ。御堂島に囚われているのか。俺の下に帰って来るか。それらの問いへの答えが、「いいえ」だった。


 ここまで来て振り返ってみると、美桜に惚れた神津が、美桜の心のうちを、好き勝手に妄想して、手前勝手に盛り上がっていただけではないかと思えてくる。勝手に美桜なんて名前をつけて。ひょっとすると神津は、彼女が嫌った窮屈な檻に、彼女を閉じ込めようとしていたのかもしれない。


 彼女に拒絶された手を、空に伸ばす。三日月が隠れた。三井が、胡乱気に神津をちらちら見ている。神津は、今一度、笑った。


「あいつは「美桜」だった。それで良いさ」


 これで終わったのだ。神津が愛でた桜は、神津の手元を離れた。桜は美しい。たとえ違う名で呼ばれようとも、その匂い立つ美しさは変わらない筈だ。


 肥溜めに儚く咲いた、美しい桜。掃き溜めに鶴、神津を虜にした花。


「達者で暮らせ」そう言えなかった事だけが悔やまれると、夜空を見上げた神津は、明鏡止水の心境であった。


 針山を歩き、血の池を泳いできた美桜が、陽だまりで憩える日が来るように。それが、神津が彼女の為に願った、最後の願いだった。




 ***




 美桜との別離を超えて、幾星霜。神津は東京に居た。神津は白羽会本家の幹部に取り立てられたのだ。御堂島の支配下より解き放たれた神津は、悠々手足を伸ばし、毎日を送っていた。


 朝一番の日課として、庭に設えた池を泳ぐ、鯉に餌をやる。神津は随分高くまで上ってきた。しかし、まだ滝の途中だ。水底を張っていたあの頃を忘れないようにと、鯉を飼ったのだが、今は単なる趣味のようになっている。


 鯉が、ぱくぱくと口を開いて、餌を飲み込むのを眺めてから、神津はぐるりと庭を見転べかした。


 殺風景な庭の片隅に、小さな桜の木が植えてある。


 美桜と共に暮らした家を離れる際に持ち出した、手間のかかる荷物だった。向こうで買いなおせばいいと三井は不服そうにしたが、神津は譲らなかった。


 買いなおして済むものではない。この桜は、美桜の思い出なのだ。だからこそ、三井は不服を申し立てたのだろうが。


 いつまでも、未練がましい己に辟易するものの、残してきて後悔するくらいなら、連れ出してしまえと思った。花はまだまだ先だろう。桃色の花を見て、その頃になっても、神津は彼女に苦い恋情を抱き続けているのだろうか。


 虫の声に耳を傾けながら沈思していると、なにやら騒がしくなってきた。神津は、身支度を整え、騒ぎの源泉を確かめに行く。


 出舟のかたちできちんと揃えられている履物を蹴散らして、三井が客と騒ぎを起こしていた。


「だぁら! 兄貴はそんな女に関わりはねぇ! 何遍同じことを言わせるつもりだ! 耳孔に錐つっこんで、耳くそほじくってやろうか、ああん!?」


 三井の怒り肩の向こう、小指で耳孔を穿っている、眠たげな目をした小男が、神津を見ると、ひょいと手をあげた。


「おう、邪魔してるぜ、神津さん。あんた、この図体ばかしでかい坊やに、ちぃとばかし客人に対する礼儀ってもんを教えてやった方が良い」

「あっ、兄貴……って、おいこら青田ァ! てめぇ、勝手こくんじゃねぇ!!」


 額に青筋をたてた三井に凄まれても、どこふく風でその脇をすり抜けたのは、組織犯罪対策部、通称マル暴の刑事、青田である。お行儀のいい公僕の筈が、灰汁の強さではそこらのヤクザに右に出るものは居ない曲者だ。そして、なかなかの切れ者である。

 マル暴に茶々を入れられる由は無い、少なくとも、今のところは。だが、後々難癖をつけられるのもつまらない。神津は、腕組をして青田と向き合った。


「どうどう、落ちつけ、三井。東京で鳴らす悪徳刑事が、わざわざしがない地方出の田舎者を訪ねて来るなんざ、一体どんなご用件か。気になるぜ、訊いてみようや?」


 神津が取り合う姿勢を見せると、三井は反論の為に口を開いた。だが、相手は三井が崇拝する神津だ。どうしても言葉を選んでしまう。その隙に、青田は己の懐に手を突っ込んだ。ごそごそと探り、取り出したのは、一葉の写真。

 青田は常の人を食った顔つきではない、妙に深刻ぶった顔つきで、写真を神津に差し出した。


「本当は、一課の奴が来るのが筋ってモンだが、俺はあんたと仲が良いからね。かりだされたってわけよ。これ、あんたと懇意にしてた女じゃないか。確かめてくれ」


 虫の知らせにしては遅すぎる。だが、写真を確かめる前に、神津にはわかった。



(美桜……死んだのか……)



 美桜が死んだ。


 桜が満開のこの季節に、桜並木の中でもひときわ見事な桜の下で死んでいた。死体が見つかったのは早朝で、恐らく夜更けに出向いて、死んだのだろうと言う話だ。仰向けに倒れた美桜の上に、櫻の花びらが雪のように積もっていた。


 警察は、その奇妙な死に様に首を捻った。美桜の胸には真新しい手術痕があり、司法解剖の結果、心臓がなくなっていることが判明した。


 美桜の死はセンセーショナルなニュースとして、電波にのって日本中を駆け巡る。猟奇殺人? 臓器売買? 様々な憶測が飛び交った。


 身元不明の女性の不審死は広く浅く、世間に知れ渡った。しかしその亡骸の傍らに、謎めいた言葉が残されていたことを知るものは少ない。


 眠るように事切れた美桜の手には、一本の小枝が握られていた。そして、傍らには、土を引っかいて文言が綴られていた。


『わたしは、忘れられない女になれましたか』


 神津はそれを聞いて、全てを飲み下した。


 青天白日の下、満開のけぶるような桜の花の下。美桜は神津を愛していて、自らを手折ったのだ。三日月の空を背景に、満開の桜を眺めながら。



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