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示し合わせたわけでもなく、傾蓋の想を成した女を、手元に置くとなれば、風評は芳しくない。裏街道とは言え、立身出世を志す者として、風説は都合の良いように保っておくのが賢いのだ。しかし、美桜に関しては、そんな些末事を、気に留めていられなかった。
ただ、桜を好きだと話してくれた微笑みをもっと浮かべて欲しい、そう願った。
緩やかに歩み寄り、やがて美桜が寄り添って、そのうちに、比翼の鳥になれると思った。
美桜は、あれ以上の過去を語ることはなかった。神津はそれで良しとした。大事なのは、振り返るだけで胸が張り裂けそうになる過去ではなく、二人で歩む未来だから。
美桜が微笑んでくれるだけで、神津は満たされていた。
庭に桜の苗を植えた。花が咲くのはずっと先だが、年輪を重ねた二人が見上げる桜は、あのときよりももっと美しいだろう。
美桜と二人で縁側に座し、三日月を見上げながら、神津はそんなことを考えた。空になった杯に美桜が酒をついでくれる。美桜は相変わらず言葉は少ない。けれども、微笑んでいる時間が長くなった。神津は、美桜の笑顔がある静寂を好んでいる。
この桜が花を咲かせる頃には、彼女の笑声が聞けると良い。神津は、酒盃を飲み干し、言った。
「そろそろ、所帯を持つのも悪くない」
神津の言葉を受けた美桜は、暫時を経て「そう」とぼんやり呟く。神津は困憊のため息まじりに「他人事じゃないだろうが」と言った。美桜は、虚をつかれたように目を見瞠った。
「神津さん、あたしで良いの?」
「お前で良いんじゃねぇ、お前が良いんだ。俺はそんじょそこらの女と、闇雲に婚儀を結ぼうとする、節操無しじゃないぜ」
「あたし、酷い女よ。本当に、愛してくれるの?」
「きくなよ、今さら」
「なら、あたしの為に死んでくれる?」
これまでとまったき同じ調子で、美桜が問う。神津は、ここが正念場だと悟った。
美桜には、愛の言葉を囁くだけでは、体を重ねるだけでは、不十分だった。美桜は、愛なんて幻想だとしか思えない地獄を彷徨ってきたに違いない。彼女に伝える覚悟は、命を張るものでなくては、ならない。
神津は庭の桜に目をすえたまま、神妙な声色で、はっきりと言いきった。
「お前の為なら死ねる」
そう答えた瞬間、美桜が、神津を背から抱きしめた。美桜の体の低い温度が、伝わってくる。美桜は、神津の左肩に左手を置いている。神津は、美桜の手に、己の右手を重ねた。
「神津さん、好きよ。あんたが想像してるより、ずっと好き」
美桜は、陶然とした声調で囁いた。無常の喜びに震える声を聞いて、神津も幸福感に包まれる。
背に感じた重い衝撃と、続けざまに襲い来る、焼け付く痛みと引き換えに。
「でもね、神津さん。あんたのそれは、同情よ。気の迷いよ。あたしみたいな『犬』はね、誰にも愛されないのよ」
美桜が抑揚のない声で言う。美桜は力任せに、神津の手が重ねられた手を引き抜いた。刃物の柄を両手で握り直す。
「でも、それで良いの。あたしを愛してくれる。こんなあたしを、奥さんにしてくれる。錯覚でもいいわ。あんたがあたしを愛してくれているうちに……死にましょう。今死ねば、永遠になるから」
美桜は、神津の背につき立てた刃物を引き抜こうと力を込める。もう一撃で、し止めるつもりなのだろう。
神津は急転して振り返った。美桜の手首を掴む。細い手から、引き抜いたドスを払い落とせば、ドスは徳利と杯を弾き、陶器が割れる甲高い音が静寂を劈いた。
美桜は瞠目している。神津は口角を吊り上げて、笑った。
「お前の愛はいてぇな」
「兄貴、どうしました?」
障子戸の向こうから、三井の声がする。神津にべったりくっついていた子どもが、そのまま大きくなった。
美桜の肩がびくりと震える。神津は美桜の肩を抱いて、あやすように軽く叩き、三井に答えた。
「男と女が二人きりの部屋から、物音がしたんだ。木仏石仏金仏でも、野暮な真似はしねぇぞ」
「す、すみません! どうぞ、ごゆっくり!」
神津の返答を聞いた三井は、あからさまに慌てた様子で、どたばたと退いた。
三井が去ったと見て取った神津は、美桜の肩においたままだった手で、美桜を引き寄せ、抱きしめた。
「俺は心の底から、お前を愛してるし、信じてる。この傷じゃあ、証明にはならんのか?」
神津は穏やかに、言い聞かせる調子で言葉を繰り出す。美桜が、過去の残像から逃れられていないと知って、やるせなさが胸を締め付ける。
この痛みでは、美桜を救うのに不足だと言うのなら、何度刺されても構わない。だが、死ぬのはだめだ。自分を慕う三井たちを残してはいけない。
それに、まだ、足りない。美桜には、見せたいものがたくさんある。この世に生まれてきたのも悪くはなかっただろうと言えるくらいに、素晴らしいものをたくさん見せてやりたい。
「だから、死ぬなんて言うな」
二人は、しばしそのままでいた。神津は、美桜を抱きしめて、背から血を流していた。
神津の背から足まで伝った血が、水溜りをつくる頃になって、美桜は神津の胸を押した。
「……美桜……」
神津の目には、美桜の顔が霞みでもかかったように見えた。血を流しすぎたと、靄のかかった頭で考えたが、それよりも、美桜が泣いていることが重要だった。
「神津さん、好きよ。自分自身よりも愛せるひとなんて、この先ずっと探しても、あんたの他にはいない」
美桜は神津を突き飛ばし、走り去った。
神津には、美桜を追いかける力が無かった。美桜に寄せる未練だけが、走り去る彼女を追いかけた。神津は、その場に座り込んでいた。
美桜が開け放て散った障子戸から、三井が怪訝な顔をして顔を出すのを、見るとも無しに眺めている。
「兄貴、今、美桜さんがどえらい勢いで飛び出して行って……あ、兄貴! どうしたんです!?」
神津が血だまりで座り込んでいるのを見て、目を剥いた三井が、部屋に駆け込んでくる。神津の背傷と、縁側に突き立ったドスを見るやいないや、目の色を変えて気色ばむ。
「あの女ァ! おどれ、逃がすものかよ! おぉい、誰かいねぇか! 女を逃がすな、追え!」
「待てぇい!」
血気盛んな三井は、神津の一喝で口を噤み、我に返った。神津の傍らに膝をつき、背の傷を押さえる。神津は唇を笑みの形に撓めて、嘶く暴れ馬をなだめる調子で言った。
「なぁに、背中をちくっと引っ掻かれただけだ」
「なにをそんな悠長なこと……!」
「始末しちまってくれ。畳が汚れる」
神津の口調は、穏やかだが有無を言わせないものだった。三井は葛藤の末、手伝いと医者を呼びに駆けていった。
神津の強靭な肉体には、手弱女の力で刃を押し込んでも、大した深さまで届かなかったらしい。すぐに処置をしなかった事で、医者には渋い顔をされたが、結局のところ、傷は浅かった。
それでも医者には大事をとった療養を命じられ、神津は幾日か布団で過ごした。
これは、本当にありがたくないことだった。一人でぼうっとしていれば、否が応でも美桜を思い出す。
さびしい目をした美桜。
一緒に死んでくれと哀願した美桜。
神津を好いていると言って、逃げていった美桜。
いま、どこにいるのだろう。ひとりで、また暗闇に浸っているのではないだろうか。失血など関係なしに、引き止めるべきだったのに。
全快し、これまで通りの生活に帰還した神津だったが、美桜を探すことは出来なかった。神津の周囲の者は皆、美桜との関係を知っていた。三井には口止めをしたが、あの神津 邦彦が背傷を負い、その寵愛を受けていた女が姿を消したとなれば、嫌疑が美桜にむくのは当然の成り行き。
いま、美桜が戻っても、ここは針の筵だろう。神津は美桜のいない日々を、これまでとおりに過ごさなければならなかった。
神津はこうしている間に、美桜が陽だまりの中で安らいでいてくれることを、願うしかなかった。