一
女性に対する性的暴行をほのめかす描写があります。ご注意願います。
ぬばたまの夜闇の中で、仄かな燐光を帯びるように浮かび上がる桜。
根の間に座り、木の幹に寄りかかる、霞んだ女が一人きり。
女は桜吹雪にかき消され、土を引っかいてしたためた文字だけが残った。
「わたしは、忘れられない女になれましたか」
***
鯉は、登竜門を潜れば竜になれる。潜れば竜になれるのなら、それが地獄の門でも構わない。暗い水底に張り付いて、水面の揺らぎを透かして空を見上げ、焦がれるのにはもう飽き飽きだ。
昇り竜になって、あの空を泳ぎたい。綺羅星を掴み、果ては太陽にさえ手が届く。その時をひたすら夢に見ていた。それが、邯鄲の枕であっても、空で散れたら本望ではないか。
そんな野望に燃える男、神津 邦彦を、三平二慢の境地へ連れて行ったのは、ひとりの女だった。周囲に腑抜けと謗られようとも、心を通わせた彼女の笑顔は、この世の頂から見る景色にさえ勝ると、心のそこから思っていた。
思い返せば、彼女について神津が知ることは、極僅かだ。
「お前、名前は?」
「……ありません」
それが神津と彼女が交わした、最初の会話。場所は街の灯りが届かない深閑な神社の境内で、三日月が一番高いところから、二人を見下ろしていた。月明かりを跳ね返し、仄かな燐光を帯びるように浮かび上がる桜の木の下で、彼女は薄汚れた白いワンピースを身にまとい、乱れた裾を整え、皺を伸ばしていた。
この桜は神社の神木だ。春が来るたびに見事に咲き誇る。しかし物騒な界隈で、人々に捨てられた寂れた神社にある弊害が伴い、知る人ぞ知る桜の木だった。
無頼の輩が幅を利かせ、強盗やレイプまでやりたい放題。非道を尽くしている場所で、わざわざ夜桜を愛でようと言うのは、酔狂も甚だしい。けれど、神津にとっては、蚤が多くいような煩わしさを感じる程度だ。なぜなら、神津も同じ穴の狢だから。
しかし、そこいらの伝法どもとは一線を画する。関東一円を仕切る白羽会本家。その直参の御堂島組の幹部をつとめる。異例の速さで成り上がった。
当節は、暴力の世界も学が要る。インテリヤクザなる者が幅を利かせている。強面の武道派ではなく、怜悧なビジネスマンが重用される時代だ。
神津には学がない。小学校さえ卒業していない。
神津は孤児だ。臍の緒がついたままの状態で「子守唄の家」という孤児院の玄関先に遺棄されていた。そこで養育されたが、そこの院長の出羽が下劣な男だった。金と名誉に異常に執着する性質で、良心というものは持ち合わせていない。出羽は、こどもたちを売りものにしていた。孤児たちは、人には言われぬ業をもつ富裕層の欲望のはけ口にされていたのだ。身勝手な大人たちは、その人生が潰えるまで、悔い改めようとはしなかった。
出羽の鬼畜なビジネスの、一番の得意先は、『見目の良いこどもを、犬奴隷として貰い受けたい』という、怪しいシンジゲートだった。
当時、神津は十一歳。出羽にたびたび反抗し、私刑を受け、地下室に軟禁されて多くの時間を過ごしていた。
神津にとって「子守唄の家」の子どもたちは、兄弟だった。ひとり、またひとりと子どもたちが消えて行くことは、まるで体が引きちぎられるような苦痛だった。
扉の鍵が壊れたのは、これまでずっと、連れて行かれる兄弟を助けようとして、扉を殴り、蹴りつづけてきたからだ。連れて行かれた兄弟たちが、自分に力をかしてくれたのだと、神津は天啓を受けたように思った。そうして、もう唯一人として、連れて行かせはしないと心に決めた。
地下室を抜けだした神津は、自室で高鼾をかく出羽の寝首をかいたのだった。一撃では仕留めきれず、反撃を受けたものの、取っ組み合いの末に留めをさすことに成功した。
呆然自失の神津を見つけたのは、三井 昌平という、神津より三つ年下の少年だった。神津を兄貴と慕う三井は、神津を心配して地下室を訪ねたが、そこがもぬけの殻だったものだから、施設中を流しまわっていたのだ。出羽が次に売りに出そうとしていたのは、この三井だった。
人を殺した。そのことがきっかけで、神津は裏社会で生きることになった。
成り上がるには、汚穢にまみれなければならなかったが、神津は、譲れない仁と義は守ってきた。
旧態依然としたヤクザが、時代錯誤の遺物だと軽んじられるなかで、揺るぎないその頸節が、昭和の任侠精神を愛する年寄りの歓心を買った。下の者にも慕われた。
図らずも、甘ったれと嘲笑された仁義が、神津がのし上がる一助となったのだ。
こうしたいきさつで、神津はここらではちょっとした顔であり、腕っ節の強さも周知の事実。だから、神津は神社を縄張りにしているチンピラのことなど、気にも留めなかった。
神津が夜桜を愛でにやって来たとき、その桜の下で、女を取り囲む男たちを見かけた。女の細い足は、ただ男に揺さぶられるまま、揺れるだけ。男たちの下卑た嘲弄や、殴打音を聞きつけた神津は暴漢どもを熨した。
彼女は蹴られ殴られ犯された、惨たらしい有様だった。それでも、神津が男どもを追っ払い抱き起こそうとしたときには、木に凭れかかり、着衣の乱れを直していた。長い黒髪が乱れ、簾のようになっている。その隙間から見える顔は、何の痛痒も感じないというかの如き、澄まし顔だった。
「名前が無いのは困るだろう」
「言いたくありません」
神津は、彼女の手前でしゃがみ込む。彼女は目を伏せて、髪を手櫛で梳かし始めた。長い前髪が分け目に沿って分かたれ、左右の耳にかけられる。
露出した顔は、男どもが目の色を変えるのも納得の、美貌だった。
涙を流さなくても、濡れたように見える黒瞳。血に塗れずとも赤い唇。ほっそりとした輪郭。なんとなく、不安定な印象を受ける、病んだ美貌。
右目の下の黒子が、幸の薄い女だと暗喩しているようだ。
長い睫が目に影を落としている。ほの白い月光を受けた彼女の肌は蒼白で、幽鬼じみている。手を伸ばしたとて、触れられるものかどうか、神津には判じられない。
彼女は、血に塗れた赤い唇を、僅かに開いて話す。
「嫌いなんです、名前って。首輪みたいに窮屈で」
「ほぉ、その発想は無かった。面白れぇものの見方をするもんだ」
彼女は、神津に目もくれない。けれども、神津の中に、彼女を置いて去ってしまおうという考えは、ちらりとも浮かばなかった。
「なら、俺がつけよう」
「要らない、そんなの」
「まあ、そう言うな。名乗るのが遅れたな。俺の名は神津 邦彦。で、お前の名は……」
「もう、放っておいてくれませんか。あんたみたいな立派なひとが、こんなに汚れた女、買いたい訳じゃあ、ないでしょう」
淡々と語る女の語気が、わずかに荒くなった。
「あたしは、あんたに感謝なんかしてない」
冷え切った瞳が、神津を睥睨する。馴れ馴れしい男に対する苛立ちと称するには淡白だ。ただ、鬱陶しい羽虫に付きまとわれる苛立ち。その蝿さえ、顎で蝿を払う様呈である。
「あたしのこと、頭のおかしい女だと思ってるでしょ。御明察。あたしは何をされても、なんとも思わない。死体みたいな女です。関わり合いにならない方が、身の為だわ」
神津は身につまされる不幸話を、延々吐き散らされても、最期まで聞こうと決めていた。傷が癒えるまで面倒をみようと決めていた。
けれど、それでは、とても足りそうになかった。彼女は、彼女自身に嫌気がさしている。痛みすら感じないと言い切るほどに。
自ら死を選ばないから、生きる気力がある訳ではない。痛み病む自分自身に、何の愛着も感じないから、惰性的に生きているだけなのだ。
生に無気力であれば、心に緩慢な死が訪れる。極まれば、蝿にたかられ肉を啜られ、朽ちるのかもしれない。
でも、彼女は見せた。蠅を疎む程度には、生きる意思を。
「ミオはどうだ」
神津は、藪から棒に言った。彼女は、自分の言い分を取り合おうとしない神津から、ついと目を逸らし、立ち去ろうとする。神津はその行く手をさえぎるように、突き出した手で落ちていた小枝を拾った。彼女が踏み出そうとした土を枝で引っかき、進路を遮る。
「字はこう書く」
彼女にもう少し覇気が残っていても、満身創痍の体では逃げられなかっただろう。彼女は、遁走を諦めて、木の幹に凭れ、桜を見上げている。
神津は、土の上に二文字書くと、とんとんと文字の隣を叩いて、彼女に見るように促した。
彼女は億劫そうに首を巡らす。
『美桜』
彼女の目は、二つの文字を写し、ゆるゆると首を横に振った。
「わかりません。意味があるんでしょうけれど」
「美しい桜、って意味がある」
神津の応えに、彼女は目だけでなく、初めて関心を向けた。
「桜は好きです。ここでよく、桜を見ます」
そう言った彼女の顔が、ほんの少しだけでも、和らいだ気がした。月の光が見せたまやかしでも、微笑んだように見えた。
神津はやおら立ち上がる。彼女の目がまだ自分に向いている間に、神津が彼女に手を差し伸べた。
「俺は、お前の事を美桜と呼ぼう。そう名乗れと強要するわけじゃねぇ。気に入らねぇんなら、返事をしなきゃ良い。ただ、俺が美桜って言ったら、お前を呼んでるんだと、覚えといてくれや」
神津は、美桜を背に負って歩いた。抱えた美桜の右足が、だらりと萎えて垂れ下がったことで、彼女の右足が不自由らしいと悟った。
先天性ではなく、後天性のあしなえ、なのだそうだ。後に、こどもの頃、加減を誤った『調教師』にそうされたのだと、美桜は訥々と語った。
普段、そうとは思えないほど滑らかに脚を運ぶのは、他人に弱みを見せたがらない美桜の意地だろう。
「あたしを担当した調教師、あいつは無能よ。『仔犬』を何匹もダメにしていた。あいつが間抜けだから、あたしはあそこから逃げられたんだけど」
美桜の口から語られた彼女の過去に、神津は因縁を感じた。
美桜の心を取り囲むのは、凍露だろう。美桜は、露に身をぬらし、それが凍る寒い道を歩いてきたのだ。
露凍を融かし、雫を乾かし、暖をとる手伝いくらいしてやれればと、神津は考えた。その時はまだ、同じ脛に傷をもつものに対する、同情が心に優先していた。