七月七日~day 3-①~
「んじゃ、行ってくるから」
「ほい、気をつけてな。暑いから、水分補給だけは忘れるなよ」
明は靴を履くと、父から真夏の決まり文句を贈られて玄関の扉を閉めた。正午を一時間半ほど過ぎた空は太陽がギラギラと輝いている。待ち合わせまであと二十分。時間的には丁度よい。
家族共用のママチャリに跨ると勢いよくペダルを漕ぎ始める。徐々にスピードを上げていく自転車が目指すのは寂れた神社だ。
「しかしあっちーな」
神社の西側階段の下に自転車を止めて、帽子をうちわにしながら周りを木で覆われた石段を登っていく。少し遠回りをしたうえに坂道を上って来たので、黒に赤いロゴが入ったTシャツも青のジーンズも汗で身体に張り付いて気持ちが悪い。
「やっぱ、学校から来た方が良かったか。でも、休みの日に学校行くのもな……」
そんなどうでもよさそうなことを呟いているうちに石段を登り切り神社の西側に着いた。目の前には、物置と釣瓶が壊れてもう使用されなさそうな井戸。近づいたら蓋がしてあったので確実にお役御免のようだ。
稀にしか来ることのない神社を見物しながら南側にある御社の正面へと向かう、楓の木のてっぺんが屋根の上から突き出ているのがここからでも確認できた。
「おっ、いたいた。もう準備できてんのか?」
帽子をかぶりなおして木の前に立っていたセーラー服姿の楓さんに手を振る。楓さんは嬉しそうな顔で手を振り返そうとするが、ハッとした表情をするとそのまま俯いてしまった。
「どうした? 何か珍しいもんでもあったか?」
目の前に来て声をかけるが反応が無い。周囲をきょろきょろと見渡すが、自分以外に何もいないし、変わったところも無い。もしかして顔に何かついているのかと思い、触れてみるが変な感じはしない。額の汗を拭うふりをして、匂いも確かめるが臭くない……ハズだ。いよいよもって分からなくなった明は首を捻る。
まっ、まさか……! 頭をよぎった最悪の事態に身体から血の気が引いていく。
楓さんが俯いていることを確認して、ゆっくりと視線を自分の下半身へと移動させる。もし予想が当たっていたとしたら、一体いつからその窓を開けていたというのか……視線が、胸から腹部そして問題の地点に達しようとしたその時、
「ぷっ! あはははは。す、すいません。あは、あははは!」
「うぉう!」
急に弾けたように楓さんが笑い始めた。
「あー、おかしかった。えっと、大丈夫ですよ。明さんに変なところはありません。私のわがままに付き合ってもらおうとして、失敗しちゃっただけです。って、なんで後ろ向いてるんですか?」
「えっ? いや。なんでもねぇ! それよりわがままってどういうことだ! 細かい説明を要求するぞ!!」
顔を真っ赤にして誤魔化そうとする。念のため確かめてみるが、チャックは閉まっていた。
「あの、ほら。よく漫画とか、ドラマであるじゃないですか。恋人が遅れてきて、『ごめん、まった?』『いや、待ってないよー』っていうやつ。あれ、ベタだけど憧れてて、明さんが来たとき今がチャンスかも! と思ったら、つい試さずにはいられなくって……」
「……それだけ?」
「はい……」
徐々に声が小さくなると同時に怒られた犬のように縮こまる。明が大きな声を出したので、怒ったのかと勘違いしたらしい。
「それは……気がつかないで悪かったっていうか、なんて言うか。とりあえず何がそんなに可笑しかったんだ?」
「あっ、それはですね。明さんの慌てる姿が可愛いなーと思って見ていたら、段々可笑しくなってきちゃって、失礼だから堪えようとしたんですけど、我慢すればするほど堪えられなくて」
「噴き出しちまったと」
両肩から盛大に力が抜ける。男に対して可愛いと言うのもどうかと思うか、それに突っ込む気力もない。薄々感づいてはいたがこの幽霊は変な奴かもしれない。いや、きっとそうに違いない。と確信する。
明の視線に楓さんは「うぅ」と呻きながら首をすくめ、「また、空気を読み間違えた」などと呟く。どうやら、反省はしているらしい。その姿が可笑しくて、明も笑いそうになってしまうが、ここは我慢しておく。可愛いと言われたばかりだし、少しは男らしくビシッと決めようということらしい。
「まぁ、なんだ。そんなに気にすんなよ。俺はお前の、こっ、こっ、恋人になるって言ったんだ。我儘くらい聞いてやる。ただし、今度からは先に教えろよな!」
少し裏返ってしまった。想像とは違いビシッとは決められなかったものの楓さんは驚いたように目を数回パチパチさせると、「はっ、はい!」と元気よく答えてくれた。その返事に少しホッとしつつ、早速今日の予定を決めることにした。
「ところで今日はどこに行きてぇんだ? 金はねぇけど、まぁ、多少の遠出ならできるぞ」
「あっ、私! 公園に行きたいです! 玄田北公園!!」
「北公園? それなら自転車で行ける距離だけど、そんなんでいいのか?」
腕を天高く伸ばしてコクコクとその卵型の顔を上下させる。明はしばらく空中を見つめた後、了解して楓さんを自転車まで案内することにした。
玄田北公園とは、神社から北に三十分ほど自転車を走らせたところにある巨大な公園だ。池を囲むようにして、ランニングコースと散歩コース用の道が舗装されており、一周が約二キロある。その途中には喫茶店や売店もあり、休日にはカップルもいないこともないが、どちらかというと運動している人や、犬の散歩しているおばちゃんたちの方が多い。
そんなところに行って楽しいのか疑問だったが、石段を降りて行く楓さんはとても上機嫌だ。何か思い入れがあんのかもしれないなと、密かに思った。
「ほい。二人乗りは大丈夫か?」
「大丈夫です。見たことがあります!」
自転車を押さえながら楓さんに尋ねる。返事に甚だ不安なところはあるが、気合が入りまくっているところを見るとこれにも憧れていたのか。
楓さんは、両足を片側に揃えたお嬢様座りでチョコンと荷台に腰掛けると、サドルに跨った明の肩をそっと掴んだ。
「おっし、じゃあ出発するからしっかり掴まっとけよ」
「はい! お願いします!」
その合図でやや腰を浮かせ体重を乗せながら勢いよくペダルに力を込める。二人分の重さを想定してのことだったのだが、
「おわ!」
「きゃっ!」
予想以上のペダルの軽さに、坂道ということも手伝って急発進してしまった。その拍子に明はペダルから片足を滑らせて上半身のバランスが崩れる。倒れはしなかったものの肩から手が離れた楓さんは、慌てて明の胴体にがっしりとしがみついた。
「わっ、悪りぃ。そういやお前幽霊だったな。普通に触れるからその事忘れちまってた」
「あっ、いえいえ。私も注意しておけばよかったです。すいません」
予期せぬ出来事にあたふたする二人だったが、自転車は何食わぬ顔で坂道滑って行く。
「あ、あの……」
「おっ、おう!」
遠慮がちな声に、動揺した声。
「このまま、抱きついていてもいいですか?」
ギュッと前に回っていた腕に力が入ったかと思うと、楓さんの身体がより密着してくる。背中全体で感じるその柔らかさに、あわや言語中枢がショートしかけるが、「大丈夫だ」とだけギリギリ答えることができた。
勢いよく坂を転がり始めた自転車に吹き付ける風が、熱くなった明の顔を冷やしていく。気になって少しだけ後ろを窺うと、自分以上に顔を赤くして喜んでいる楓さんと目があった。
こっ、こいつは予想以上に危険だ……!
――お前を騙すための演技かも知れんぞ。
昨日の龍一の言葉が頭を過る。これを狙ってされ続けたら、近いうちに心臓が過労死してしまうかもしれない。高鳴る心臓を押さえながら、明は真剣にそう思った。
神社を出発して二十分。玄田北公園の入り口に到着した。
「あの……大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。問題ねぇ」
息も絶え絶えに答える。ここまで来る途中、二人乗りどころか自転車に乗ること自体が初めてだってらしい楓さんは、まるでジェットコースターにでも乗ったかのような、はしゃぎようだった。それに気を良くした明も、どんどんスピードを上げたため予想以上に早く公園に着くことができたのだが、代償は大きかった。
とりあえず一時休憩ということで木陰のベンチに二人は腰掛けた。正面には大きな池が光を反射しながら静かに揺らめいている。それを乱すものといえば、カルガモの行水くらいのものだ。ランニングしている人も、散歩している人もこの時間帯ではまばらである。
静かに時間が過ぎていく。二人とも水面からそよそよと漂ってくる風に黙って身を預けていた。
「あっ、見て下さい。ユリカモメですよ。夏羽になって頭が黒くなってます」
遠くを見ていた楓さんが突然身を乗り出す。指さされた方に明が目を向けると、水の上に浮かんでいる水鳥が数匹。カルガモとは違い、全体的に白いのだが顔の周りが墨を塗ったように黒くなっている。
「マスク被ってるみたいで可愛いです」
ころころと喉を鳴らす。
「鳥に詳しいのか?」
「いえ、あの鳥だけです。まだ小さい頃に家族とここに来たことがあるんです。父と母と弟と四人で。お弁当と双眼鏡持ってバードウォッチングをしようって。その時父が教えてくれて……ユリカモメって、冬になると顔が真っ白に変わるらしいんですよ」
「らしい?」楓さんの横顔を見つめる。
「えぇ。また冬も来ようねって約束したんですけど、その冬は体調崩しちゃってずっと病院だったんです。で、その後も結局確かめられなかったんですよね」
きっと残念だったに違いない思い出を語るその表情はとても穏やかだ。
「なぁ、お前のやりたいことって何だよ?」
思わず口にしてしまった。もう届くはずのない思い出を語るその姿が、あまりに穏やか過ぎて、実は思い残すことなんて何もないのではないかと。いつ消えてもいい、そんな風に思っている気がして、少し胸が痛んだ。成仏させると言ったのは自分自身のはずなのに……
「へっ?」間の抜けた顔をして楓さんは明の方を振り向く。二人の瞳がお互いの顔を写し出す。
「あっ、いやな。お前って何の間違いかしんねぇけど、こうしてこの世に残ってるわけじゃん。せっかくだから、楽しんだらいいんじゃねぇかなって思ってな!」
視線を外して一気にまくし立てると、楓さんが「むー」と眉をひそめて頬を膨らませた。まずい! 直球過ぎたか!? 冷や汗を吹き出した明に楓さんは顔を近づけて言い放つ。
「間違って何ですか! 私がこうして居られるのは、きっと何か素敵な理由があるんです。それを何かの間違いだなんて……夢がなさすぎます!」
あっ、そっちですか……。ある意味で予想を超えた反応に苦笑するが、気合を入れて立ちあがるとそっぽを向いてしまった楓さんに手を差し出す。
「悪かったよ。身体も休まったし、少し散歩しねぇか?」
楓さんは差し出された手をまだ不機嫌そうに横目で見つめていたが、渋々ながら手をとった。待ち合わせの件といい、どうも彼女はロマンチストであるらしい。それを心に刻んだ明は、掴んだその細い手を一気に引き上げる。
「そぉりゃ!」
「えっ! うきゃ!!」
「あはは! お前軽いなー。今十センチくらい浮いたぞ!」
「いっ、いきなり何するんですか! 幽霊なんだから当たり前です!」
目を白黒させている楓さんの手を引いて、明は笑いながらゆっくりと歩きだす。握ったままの手は、ひんやりとして気持ちが良かったので、しばらくこのままにしておくことにした。




