七月十八日~day 14-②~
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これは何の意味があるんだろう。退屈だなぁ。周りを見ても楽しそうに笑っている人ばかり、お母さんも、お父さんも楽しそう。でも、それは弟の元気な姿を見られるから。私じゃない。私には関係ない。
ドッと、笑い声が起きる。
あぁ、あの男の子がまたこけたんだ。何であんなに頑張ってるんだろう。周りは大人ばかりで勝てるわけないのに、点数が入る競技でもない、無駄なことなのに。
お母さんが話しかけてきた。腫れものに触るような態度。私は少しだけ耳を傾ける。決してその表情を見ないように。
どうやら、彼は昔仲良かったおばさん……奏恵おばさんの子どもらしい。今はもう奏恵おばさんの名前を聞いても何も感じない。
「奏恵が死んでから、ああして頑張ってるんだからえらいね」
と母が言った。私にはそれが何だかあて付けのように聞こえて、彼を睨んだ。
身体が健康なだけ私よりどんなに恵まれているか。
唇を噛みしめる。久しぶりに抑えようの無い苛立ちを覚えた。
《おい、これ嫌われてんじゃねぇか》
《うるさいわね。黙って見ときなさい》
運動会から五日が過ぎた。あの男の子のことが頭から離れない。色んな事を諦めた自分には珍しく相当気に入らないらしい。いつもなら嫌な出来事はさっさと流してしまうのに。
おかげで読書が進まない。大好きな絵本を読んでも集中できない。とても迷惑だ。
「花楓。来たよ」
ドアが開いた。鈴ちゃんがやってきたのだ。鈴ちゃんは中学校入ってからすごく大人びてきた。もともと綺麗だったけど、それに磨きがかかった感じ。青白くてガリガリの私とは大違い。
「ありがとう。鈴ちゃん」
持ってきてくれた授業のプリントを受け取る。
「いいのよ、気にしないで。それより体調はどう?」
鈴ちゃんと私は同じクラスだ。もう五月も終わり、クラス内でグループが固まってくる頃だ。入学して
から片手で数えるほどしか学校に行っていない私を心配しているのだろう。
私は曖昧に誤魔化す。最近は体調もそんなに悪くない。本当は家に戻って学校に通った方がいいのだろ
う。でも、家は気まずいし、学校は辛い。学校に行くと否応なしに未来を感じさせるから。
鈴ちゃんが困ったような表情になる。そして私は空しくなる。
ベッドの脇、すぐ手の届く位置にある机から厚く膨らみ始めたプリントを入れるバインダーを取り出す。挟んであるプリントには何も書いていない。持ってきてもらうだけ。中身はなくただ積み重なるだけのプリントは私みたいだ。役に立つこともなく、最後は燃えるだけ。
「そうだ、この間小学校の運動会見に行ったんでしょう? どうだった?」
鈴ちゃんが尋ねた。今は昔みたいに一方的に学校のことを話したりしない。私が嫌がってるって気がついたから。私はそれが申し訳なくて、一生懸命五日前のことを思い出そうと頭を捻った。何か話せるようなことはあったかな。
「……下鴨明くんって知ってる?」
ぽろりと零れた。自分でも驚いた。
「下鴨、あぁ、C組のチビね。でも、なんで花楓が知ってるの?」
鈴ちゃんが不思議そうに聞いてくる。私は焦りつつもこの間のことを話した。私の話しを聞いていた鈴ちゃんは段々頬が緩んできた。
「ふ~ん。そう、なるほどね」
弓なりになった目で見つめてくる。私は何だかバカにされている気がして目を逸らした。
「ふふん。わかったわ、今度、学年の学級委員長会議があるんだけどC組の山下って細目が下鴨と仲いいらしいから色々聞き出しといてあげる」
そう言って鈴ちゃんは立ち上がった。私はその言葉に驚いて鈴ちゃんを見上げる。
「花楓がそんな表情するの本当に久しぶりに見たわ。下鴨のことは私に任せておいて」
嬉しそうな顔でそう告げた鈴ちゃんは、そのまま足早に病室を後にする。残された私は、どんな顔をしていたのか気になって思わず両手で顔を押さえてしまった。
……本当に私らしくない。一体どうしたんだろう。
「おはようー」
「おう」
色んな声が飛び交う中、私はなるべく目立たないようにそっと自分の席に腰掛けた。中身が空っぽの机、入学してもう三カ月は経つにも関わらず使用感が全くない。でもそのおかげで、おぼろげな記憶から自分の席だと判断することができた、「私の席どこですか?」などと聞かなくて済んだのだから複雑な気分だけど助かったと言えるのかもしれない。
鈴ちゃんに明くんの話しをしてから、一か月ほど経った。鈴ちゃんは約束通り、明くんについて色々と教えてくれた。
身長は私より低いだとか、部活には入ってないけど足は速いとか、本が好き! とか、あとそれと、料理が上手だとか色々。確か、運動会の時に隣のテントで妹さんと二人でご飯食べてたけど、あのお弁当は明くんが作ったのかな。私も食べてみたいなぁなんて思うのは意地汚いのかな……きっと奏恵おばさんが亡くなって、否が応でも覚えないといけなかったんだ。守られてばかりで何も出来ない私とは大違い。偉いなぁ。
そんなことを考えているうちに、私はどんどん明くんと会ってみたくなった。季節はもう初夏を過ぎ夏本番になろうとしていて、体力が無いのに大丈夫かと心配されたけど、鈴ちゃんが自分もいるからと説得してくれたおかげで登校することができた。
そして今日、久しぶりに学校へやって来た。教室は知らない人だらけで怖いけど、何とか頑張らなくちゃ。
それから、秋が来て、冬が来て、気が付けば私は学校に通うようになっていた。普通の人と比べれば、まだまだ休ことは多かったけど、それでも話せる子も増えてきて少しだけ学校が楽しくなった(それには鈴ちゃんの力が大きかったのだけど)。
これも全ては、明くんのおかげだと思う。外の世界に出るきっかけをくれたのは彼。とても感謝してる。その気持ちを伝えたいと願いつつも、結局遠くから眺めるだけに終わってる。
「話ししたいなら、いつでもセッティングはしてあげるわよ」
鈴ちゃんはそう言ってくれたけど、中々決心はつかない。でも、中学を卒業するまでには、絶対に声をかけれるようになる。私はそう自分に言い聞かせて、奮起することにした。
お正月は家で過ごした。最近は私も家で過ごすことが多くなって、家族で一緒にゆっくりできるようになった。小説家をしているお母さんは相変わらず締め切りに追われてたけど、それでもご飯食べるときは家族みんなで話しながら食べてる。
それは自分には叶えることができないと思っていた。当たり前の幸せだった。私は気がついた。あんなに絶望して、全てを拒否して、自分何か一生幸せになれなれないんだって思い込んでいたけど、幸せってすぐ側に在ったんだって。
自分なんて、お母さんとお父さんの望みで生かされているだけの人形だと思い込んでたけど、そうじゃなかったんだって。やっと分かった。なんで気がつけたのかはよく分からない。
ある日、少し体調を崩して休んでいたらそう思った。心配して、隣に居てくれたお母さんと、私が好きな桃の缶詰を買ってきてくれたお父さんの顔を見た時に、あぁって、すとんって、私は自分の望みを言っていいんだ。二人はそれを受け入れてくれるんだ。私を大切に思ってくれてるんだって。
私は泣いた。突然、ごめんなさいって謝る私をやさしく抱きしめて、二人もないた。「元気に生んであげられなくてごめん」「色々我慢させてごめん」って。三人でごめん、ごめんって言いあって、バカ見たいだったけどとっても暖かかった。
「なに赤い顔してるの」
炬燵に足を入れてうつ伏せになっていた私に、お母さんが話しかけた。三人で泣いた日のことを思い出してたなんて言えないので、私はそのまま、腕の中にもぞもぞと顔を隠した。
良いことは余り続かないらしい。お正月も三が日を過ぎて、また体調が悪くなった私は病院で検査を受けた。症状が悪化している。主治医のお医者さんが複雑な顔で告げた。
お母さんとお父さんは手術で治らないかと聞いたけど、難しいと言われた。手術するならドナーが見つかった時くらいだろうと。
私はお医者さんの言葉を人事のように聞いた。明くんに会いたいな。それだけを考えた。
短い冬休みが終わり、私は学校に行っていた。お母さんとお父さんからは気候が暖かくなるまで休むように言われたけど、でも、学校に行くのだけは譲れない。別に動けなくなるほどの悪化じゃないし、そもそも二十歳までもたないと言われていたし今さら焦っても仕方ないと、半ば達観したような気持ちになっていた。
それに、今さら過ぎる病気のことよりも、私にとっては明くんの笑っている姿を見ることの方がよっぽど重要だったのだ。
三学期も半ばを過ぎて、私は廊下で明くんとすれ違った。放課後の廊下で、私たち以外には誰もいない。多分、家事をするために他の三人より早めに帰ってるんだなって、棒立ちになってそんなことを考えた。
明くんは寒そうに背を丸めて、ポケットに手を入れ外を眺めながらこっちに向かって歩いてくる。
何か言った方がいいかな、自己紹介? まさか、こんなところで、いきなり!? そんなことを考えてると段々焦ってきて、どうしようか、どうしようかとパニック状態。
「あっ……」
そして、そんな私を明くんは気にも留めずに通り過ぎて行った。
「そうか、私のことなんて向こうは知らないもんね」
何だかみじめな気持がした。
「明くん、大きくなってたなぁ。半年前は私よりも小さかったのに、今は背中を曲げててもあんまり変わ
らなかった」
何だか悔しかった。
「私は、私の時間はもうすぐ止まるのに、明くんの時間はずっと進んでいくんだ。私なんか知らないで、置いていくんだ」
そんなこと今さらなのに、色んな人がいつか自分をおいて行くんだ、未来はないんだ、今さらのことなのに、理解して達観してたのに、その事実が寒い廊下の空気と一緒に骨の内にまで響いてきて、私は震え始めた。
「寒い、寒いよ」
誰もいない廊下で私はへたりこんだ。目の前には冷たく薄汚れた廊下と、コンクリート。せっかく、色づいた世界がまた白と黒で塗りつぶされていく。
「いや、それはいや。誰か、誰か、助けて……」
強く願う。
――ここはね。幸福を呼んでくれる神様なのよ。
その時、私の瞼の裏に燃える様な赤色が色鮮やかに蘇った。
そうだ。なんで忘れていたんだろう。
――大丈夫。必ず叶うわ。あなたは誰よりも幸せになれる。それが何時になるかはまだ分からないけど
絶対よ。だから諦めないで……ね?
寂れた神社、大きな楓の木、赤く色づいた紅葉の絨毯、笑いかけてくれる優しい顔。
昔、自分と同じ病気を持ったとある少女に奇跡を与えてくれた神様。
「奏恵おばさん」
――花楓ちゃん
私は震える身体で立ち上がり歩き始めた。
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明は必死の形相で石階段を登る花楓の姿を見つめていた。その目からは大量の涙が零れ落ちている。
「もう、時間なのか?」
隣に立つ少女に尋ねた。
「ええ、ごめんなさい。これ以上の同調は難しいみたい。こちらから引っ張り上げる前に、向こうから叩き出されちゃった」
「そうか……でも、いいんだ。俺、分かったから」
少女が頷いた。目の前では、神社にたどり着いた花楓が何かを叫んでいる。もう、声もあまり聞こえないが、感情だけは伝わって来る。痛いくらい必死な、切実な、しかし美しい願い。
「これが、奇跡が動き始めるきっかけ。この日から彼女は学校に通えた時は、毎回神社を訪れるようになる。あなたが『恋する幽霊』の噂を試すちょうど半年前の出来事ね」
少女が微かに笑った気がした。
「さて……それじゃ、なにが分かったのか教えてもらおうかしら」
花楓の過去が消え去った。目の前に少女が立っていることだけが明には感じ取れる。いや、いまは少女の気配だけでは無い。闇の中の淡い、光。
「それは……」
明は涙を拭うとゆっくりと瞼を開いた。
「あいつの勇気だ」
瞳に映った少女がにっこりとほほ笑んだ。それは、明が作り出した幻想の中で見た、あの神秘的な雰囲気とは違う、包み込むような優しい笑顔。
「その通りよ。彼女が神社で叫んだ願い。それはたった一言、『生きていたい』。自分の望みのために現実から逃げることを止めて、立ち向かうことを決意したの。それに彼女はただ神様に祈っていただけではなかったわ。この後、積極的に医者と話し、今の自分にできる手立てを考え、そして絵本作家という自分の夢を見つけた。あなたとの出会いによって、彼女は自分を見つめ直し、人生の主人公は自分だっていうことに気がついたの……そう、白黒の世界に色を付けるのは自分だってことにね」
少女が発する言葉は、今までのような人を食ったようなものではなく、穏やかな大人の口調。明の良く知っている口調に変わっていた。
「花楓ちゃんは気がついたのよ。自分の弱さや、現実と向き合い、それを変えていく大切さに。勇気を持って行動することの大切さにね」
「それで、あの突拍子もない行動か……」
「ふふっ、可愛かったでしょう?」
わざと呆れるように言った明だったが、その返しに頬を染めてそっぽを向いた。少女は楽しそうに笑い、そして穏やかに、しかし、真剣に問いかけた。
「それで、明。あなたはどうするの?」
「俺は……」
明はぐっと少女の顔を見つめ、穏やかに笑って見せた。
「花楓のことが好きなんだ。ずっと逃げてたけど、もう、逃げないよ。何よりも大切なんだ」
少女は満足したように頷き、
「それなら帰りなさい。その気持ち忘れないで」
そっと明を抱きしめた。明は胸がつまったような思いで、涙を流しそうなったが我慢する。泣かないというのが二人の約束だ。
だから、最高の笑顔で、
「ありがとう、母さん」




