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私を成仏させないで!  作者: いばらぎとちぎ
24/26

七月十八日~day 14-①~

 梅雨のようなじくじくとした心の日々を乗り切り、夏休みが始まった。蝉は今からが本番だとでもいうように高らかに鳴き、空も一面夏色だ。


 明は帽子を被り、普段よりも洒落た服装で裏庭から伸びる石階段の頂上に腰掛けていた。頭上には灰色の鳥居、背には拝殿を背負って校舎を静かに見下ろしている。


 この場所は分厚い木々のカーテンに包まれているためか、とても涼しい。街と比べ温度が二、三度低いのではないか。


 腕時計を確認する。約束の時間を少し過ぎており、そろそろだな、と足に力を入れた。


「そんなところで何をしてるんですか?」


 後ろから声をかけられる。予想どうりだ。


「いや、いい場所だなぁって、な」


 のんきに答えつつ、ズボンの土を払い落とす。


「遅かったな。花楓」


 後ろを振り返り微笑んだ。


「待ちましたか?」


「いや、今来たところだよ」


 二人してくすくすと笑う。時間を気にせず好きなだけ笑い会える。それが許されたことを本当に幸せに感じた。


「こっちへ」


 花楓がセーラー服を翻す。明はその後について行った。


 二人は拝殿の前に立ち、目の前に垂れる紅白の綱を引っ張る。カランコロンと鳴る鈴に合わせて深々と

頭を下げた。


 花楓が戻ってきたお礼参りだ。


 明の胸は喜びで躍っていた。


 最後は花楓を悲しませるようなことばかりしてしまった。それをこの夏休みで埋め合わせるのだ。


 なに、そんなに難しいことではない。花楓は本当に死んでからもこうして明の前にやってきた。よく死

が二人を分かつまで。というが、二人は死すらも乗り越えたのだ。


 二人はこれからずっと離れることはない。突然目の前から消えたりしない。それこそが自分の求めてき

たもの、理想の関係だ。


 明は頭を上げ、隣を見つめた。


「ずっと一緒にいよう」


 真剣な、しかし愛に満ちた幸せなまなざしだ。


 相手も同じ気持ちでいることを確信して、疑わない瞳……


 一方、花楓もその視線を聖母のような微笑みで受け止め、


「いつまで夢見てんのよ」


 と、断罪した。その瞬間、足元から赤く色づいた楓の枯葉が、二人を隔てるように高く舞い上がった。


 まるで魂を焼いてしまう火柱のように高く太く舞い上がった枯葉は、まだ火を残したままの灰のようにユラユラと地面へと落ちていく。


「……え?」


 そして枯葉の渦が収まった頃、目の前には花楓の変わりに、見知らぬ少女が立っていたのだ。肩甲骨ま

で伸びた長髪に切れ長の瞳。どこか神秘的な雰囲気を纏っている。


「誰だお前? 花楓はどこだ?」


「あら、“かえで”は私よ。楓さん」


 うろたえる明など意に介さず、軽い口調で答えると、先ほどまで花楓が着ていたものと同じ玄田中学校

の制服が風にたなびかせ、華麗に一回転して見せた。





「せっかくのいい夢を邪魔してごめんなさいね」


 楓さんを名乗った少女の声が聞こえた。


 辺りは全ての絵の具を混ぜ合わせたような濃い闇色。少女が華麗に回転しかと思えば、まるで幕を引く

かのように世界が暗転したのである。


 光も音も聞こえない正真正銘の闇の中で、明は一人、膝を抱えて座り込んでいた。


「なんで、なんで邪魔したんだよ」


 目の前の闇に向かって話しかけた。声が掠れていて、情けなく感じられる。


 見えはしないが少女がすぐ目の前に立っていることくらいは気配で分かった。衣擦れの音がする。少女も座ったのだろう。


「だって、見ていられないかったんだのもの。あんな滑稽な夢」


 クスクスと笑い声が響き、明はカッとなって怒鳴った。


「いいじゃねぇか、滑稽でも何でも! 夢くらいみさせろよ。あの中に居れば俺も花楓も幸せだったんだ」


「呆れた。本当に弱虫なんだから。そんなだから、自分の気持ちとも向き合えないのよ」


 少女があからさまにため息をついた。明はこれ以上聞きたくないとばかりに耳を押さえつける。


「うるせぇ。お前に何が分かるってんだ。大事に思った人が死んじまう、目の前からいなくなっちまった時の気持ちがお前に分かるってのか!」


 一方的に喚き散らすその様は、幼い子どもそのものだった。少女はじっと口を噤んだままだ。そして明の息が切れ肩で息をし始めるのを待って口を開いた。


「甘ったれんじゃないわよ」


 その一言に籠ったあまりの威圧感に、肌が泡立った。


「自分の弱さを他人のせいにしないでちょうだい」


 少女が立ちあがる。姿は見えないにも関わらず威圧感が増した。


 短く、的確な言葉だった。明は何も言うことができずにうな垂れる。


 そんなこと、もう分かっていたのだ、花楓が消える時に全てわかってしまった。自分は怖かったのだ

と。花楓に冷たく接したのも、粗を探すように疑ったことも、彼女を好きだという気持ちが強過ぎて、逆

に失う時のことが怖くなってしまった。だから、嫌いになる理由を必死に探したのだ。自分の気持ちを否定したのだ。母のように失いたくないのなら、初めから手に入れなければいい。


 それだけじゃない。本当に花楓に騙されていたら、そうしたら自分の気持ちはどうなる。立ち直れない。だから、本当のことを聞きたくなかった。最後の最後まで、彼女を信用することができなかった。


 ずっと、好きだと言ってくれていたのに……自分に勇気がなかったばかりに、何も出来ぬままむざむざ消えさせてしまった。死なせてしまった。彼女をきちんと受け入れていれば、もしかしたら何とかできたかもしれないのに。少なくとも、もっとマシな最期を迎えさせてあげることができたかもしれないのに……!


 明は拳を握りしめて、力の限り叫んだ。


「あぁぁぁぁぁ! そうだよ。どうせ俺は弱虫だよ。自分の気持ちからも、相手の気持ちからも目を逸らして、挙句に現実からも逃げようとしてるどうしようもないボンクラだ! だからもういいだろ。放っておいてくれぇぇ」


 闇に絶望が木霊した。少女は腰に手をあてると黙って首を横に振った。


「本当に逃げ癖が染みついちゃって……あんたはそれで良いかもしれないけど、私はそうもいかないのよ。とりあえず、面かしなさい」


 そう言うとおもむろに明の頬を掴み、顔を上に向ける。


「なっ、何するんだ」


「こら、暴れないの。あんたが目を逸らすなら無理矢理見せてやるしかないじゃない。こんなこと彼女と一番繋がっている今しか出来ないんだから、ありがたく思いなさい」


 少女の細い腕に、もがく明は押さえつけられる。少女とは思えぬ力だった。


「う、ぐぅ」


 呻いた。少女の額と自分の額が重なった途端、頭に鈍い違和感が走ったのである。まるで空間を引きのばして素早く圧縮したような、エレベーターで上がる時に感じる浮遊感のような、覚束おぼつかない感覚。


 やっと、その感覚が収まったと思い明はゆっくり目を開けた。いつの間にか病室の窓際に一人突っ立っていた。


「ここは、この間の夢……? いや、過去か」


 目の前では見覚えのあるやり取りが繰り広げられている。幼い花楓と新人看護婦とのやり取りだ。前と違うのは動かなかった身体が今回は動くということ。ただ、試しにカーテンに触れるとすり抜けた。干渉することは無理らしい。


「えっと、ここはもう見たのね。この彼女はちょうど幼稚園くらいかしら。転院する直前で、その前に一時帰宅が予定されていたみたいだけど、体調の関係で思ったよりも長引いているようね」


 明が色々調べていると少女の声が響いた。辺りを見渡してその姿はない。どうやら直接頭の中に話しか

けてきているらしい。彼女の言葉を信じるならば、この映像も直接脳へと送りこんでいるらしいのだが、こんなのことが可能だなんていったい何者なのか。


「パパもママもせんせいもうそつき!おうちにかえれるっていったのに! みんなであそびにいくってゆびきりしたのに! あたしはいっぱいがまんしたのに!!」


 ――きらい!


 明が考え込んでいるうちに、前回と同じように花楓が絵本を壁に叩きつけた。


「うっ、ぐっ、なんだこれ」


 それと同時に思わず胸を押さえた。単純に感情移入しただけとは思えない程の疼き。自分の中にまで言語化できぬ怒り、悲しみ、苛立ちが押し寄せてきて途端、苦しくなった。


「言い忘れてたけど、彼女の感情ともつながっているからね。まぁ、自分の殻に閉じこもってるあんたにはちょうどいい刺激じゃないの」


「なっ」


 その言い草にカチンときた明が反論しようとするが、またもや頭の中に違和感が発生してよろめく。


「さぁ、時間もないし、どんどん行くわよ。彼女がどんな人生を生き、あんたと出会い、何を思ったのか、脳みそが足りないなら心で受け止めなさい」


 そんな、めちゃくちゃだ。


 反論を言葉にすることもできずに、景色が揺らぎ、少しずつ形がハッキリしてくる。


 場所はまた同じ病室だ。変わっているところといえば、ベッドの両脇に本が積まれていることと、花楓が大きくなっていることぐらいだろう。


 見たところ小学校低学年くらいだろうか。相変わらず本を読んでいるようで、開け放された窓から吹き込む暖かい風が俯いた顔にかかる髪をサラサラと揺らしていた。


 廊下からパタパタと走る音が聞こえてくる。


「花楓~。来たよ~」


 扉を開けて出てきたのは、ショートカットの短い髪に、黄色い帽子と赤いランドセルを身につけた元気のいい女の子だ。


「鈴ちゃん……」


 花楓が顔を上げる。


 ――ドクン。


 明の心臓が高鳴り、胃がもやもやと焼けついた。


「この子は知っているわね。橘鈴香、あなたと同じ中学校に通っているはずよ。二人は親戚同士で小学校も一緒。ほとんど学校に通えない彼女にとって唯一の友達と言ってもいい存在だったようね」


 少女の説明を聞きながら明は今の感情が何なのか分析していた。どうも感情が分かるからと言って考えていることを理解できるわけではないらしい。


 鈴香は学校での出来事を花楓に楽しそうに聞かせている。きっと学校に行けない花楓のために色々教えてあげたいのだろう。その表情は、自分は立派なことをしているんだと輝いていた。


 一方、花楓の表情は優れない。青白い顔に、曖昧な笑顔を浮かべ時折頷いているのみだ。そして鈴香が調子づくほどに胃が焼けつき、縮んでいった。


「これは、嫉妬……?」


「そうね。それが根底にあるけどもう少し複雑よ」


 明の呟きに少女が答えた。


「彼女はね、鈴香のことが好きなのよ。大事な友達だと思って感謝もしている。でも、同時に嫉妬している。自分がでは手の届かないことをいとも簡単に為してしまう友人に腹を立てているの。そして、その腹を立てている自分を嫌悪している。板挟みってやつね」


「そんな、こんな小さな子がそこまで」


「……そこが、彼女の悲しいところ。賢くて不器用だったのよ。彼女は周囲の人の心配を愛情と受け取れずに、自分は迷惑をかける存在だ、だから良い子にしないといけない、感謝しないといけないと思い込んだの。自分の気持ちは素直に出していいんだって思えなかった。引き出して上げられる大人が居なかったのよ」


 憂いと悔しさを滲ませた口調は、明がいなければ涙を流してしまうのではないかと思われた。


「花楓の病気って何だ?」


 明が尋ねる。


「あら、少しは今の状況を受け入れる気になってきたのかしら。ちなみに彼女の病気は先天性の心疾患

よ。幸いそこまで重い症状では無かったし手術はもう終えているわ」


 少女は先ほどまでのどこか人を食ったような口調に戻った。


 明はその言葉に眉根を寄せた。先天性の心疾患は自分の母と同じ病気なので多少なりとも知識を持っている。その知識が間違っていなければ、今やその病気は手の施しようのない病というわけではない。重症でない限り、手術や措置を施せば人並みに生きていけるはずだ。


 事実、明の母も出産後に体調を崩すまでは普通に生活できていた。


「そこまで重い症状ではなかったんだろ。手術だって成功したんだろうし、何でこんなに入院ばっかりしてるんだ?」


「多くの人は……ね。ただ何事にも例外はある。まぁ、そうは言っても彼女が消えることになった直接的な理由ではないことだけは確かだけど」


「……どういう意味だ」


「それを知るのはまだ後よ。我慢しなさい。それじゃぁ、次に行くわよ」


 少女がきっぱりと言い放つ。何故だかその声には逆らう気も起きず、明はしぶしぶ頷いた。


 また頭にノイズが走る。明は不快感を我慢して、映像が出てくるのを待った。


「つっ、ぅぅ」


 風景が引き延ばされて、きちんとした比率に調整される。目の前には、


「葬式? 一体誰の?」


 平べったい建物に、入口には御霊燈と書かれた提灯と白黒の横断幕があった。明は自分も中へと入って行く。受付のところに見知った顔が数人。誰もが明の親類だった。


「なっ、まさか」


 明は短い廊下を足早に進んでいく。会場の扉を開けると、念仏を唱えているお坊さんの隣に幼い紅葉を抱きかかえる父とその隣に座って目の前を睨みつけている幼い自分の姿があった。


 これは九つの時の自分だ。落ち着いて辺りを見渡してみると、確かに見覚えがあった。


「そうか、花楓は母さんと仲良かったんだもんな……」


 幼い花楓と母が神社で話しをしていた夢を思い出して、息を吐く。


「来て、くれてたんだな」


 明は過去の自分と同じ年くらいに成長した花楓を見つけた。俯いているが間違いない。隣にいるメガネ

をかけた女性は母親だろうか。ハンカチで何度も目じりを押さえており、その隣には矢野教諭の姿もあった。


「ありがとな」


 何だか嬉しくなった明は幼い花楓に近づいて行く。


「危ない!」


「えっ?」


 緊迫した少女の声とともに心臓が強く脈打った。不整脈を何倍もの威力にしたような不規則なうねりに、幼い花楓の前に思わず膝をついてしまう。悶えながら見上げた先にあった幼い双眼は、今度こそ心臓が止められるかと思うくらい絶望に染まっていた。


「ひっ」


 思わず悲鳴を上げた。すると、一気に風景が後ろに下がるようにして次第にズームアウトしていく。


「あてられたわね。一旦離脱したからもう大丈夫なはずよ。落ち着いて息を整えて」


 言われた通り息を整える。目の前は再び闇色に戻っており、顔のすぐ前には少女が膝をついていることが分かった。


「いっ、今のは何だ?」


「……あの子の嘆きよ。ある意味、あなたの母親は彼女にとって希望だったのよ。自分と同じ病気で、大人になって、家族を持って生活している。それが突然消えてしまった。幼いながらに現実を突きつけられたような気持になったのでしょうね」


 明は肩で乱れた息を整えつつ唖然と話しを聞いていた。まさか、あの思わず息も出来なくなるほどの感情――ただ激しいだけでなく、恨み、嫉み、悲しみ、苦しみ、自棄など複雑な感情が連なってできたようなうねりを、あんな小さい子が有しているなんて……いくら賢いとはいえこれは。


「私の落ち度よ。あそこは記憶の世界、恐らく彼女は何度もこの場面を思い出し、何度も苦しみを味わったのでしょうね。それによって、異常に感情が強化されてしまった。長年積りつ続けた負の感情があなたにぶつかったってとこね」


 少女はごめんなさいと呟いた。姿は見えないがよっぽど反省はしているのだろう。言葉から自分の迂闊さを後悔しているのが伝わって来る。


「どうする。時間は無いけど、辛いのなら間をおいてもいいわ」


 少女が尋ねる。時間がないと言うのが引っかかったが、今は置いておくことにした。


「いや、大丈夫だ。時間がないってんなら、なおさら早く進もう」


 ここまできた明には迷いがなかった。過去をみることに何の意味があるのかまだ分からなかったが、純粋にもっと花楓のことが知りたかった。


「わかったわ。でも、これからが本番よ。気合入れなさい」


 少女が告げると再び景色が移ろう。次に現れた景色は学校の運動会であった。


「ここは、玄田小か」


 間違いない。自分が六年間を過ごした小学校だ。運動会用の簡素なアーチに、トラックを囲むテントの

外側には、昔よく遊んだ遊具が並んでいた。


 花楓を探そうと意識を集中する。すると保護者用のテントに座っているのが見えた。てっきり生徒として参加しているのかと思ったら、どうやら違うらしい。青いビニールシートの上に黒いワンピースに薄いジャケットを羽織って座っていた。見た目も今とほとんど変わらない。


「なに見とれてんのよ」


 少女の突っ込みが聞こえる。始めてみる花楓の私服に思わず見入っていた。


 明は気を取り直して、もう一度花楓の顔を見つめる。鈴香ほどではないが、綺麗に整った顔。しかし、驚くほど生気がない。


 焦点の定まっていない虚ろな瞳。まるで笑うことを忘れてしまったかのような固まった表情。今まで見てきたどの彼女よりも青白い肌。


「これ、本当に花楓かよ」


 思わず目を疑った。今まで見てきた過去は、怒りや悲しみと言えども確かな感情が伝わって来たのに、今、目の前にいる花楓は良くできた人形のように何の感情も伝わってこない。


 ここからどうやって明と一緒にいた時のように感情豊かな女の子に変わるというのか。完全に心を閉ざしてしまっていて、とてもじゃないが無理なように思われた。


「そうよ。この子は間違いなくあなたの知っている彼女。ただ、もう擦り切れてしまっているけどね……」


「擦り切れ……?」


「そう、この時の彼女はもう自分が長く生きられない……二十歳になるまで生が続かないことを知っているのよ」


 少女が躊躇いがちに口を開いた。


彼女は、一体何度死について考え、怯えたのかしら。それだけじゃない。治療のために生活を制限され、なのに治癒する見込みもない。できることは悪化しないようにすることだけ。自分には人並みの幸せは手に入らないんだって分かっていても、彼女は自分の人生を呪えない。呪詛を吐けない。だって、彼女は発狂しそうなほどに今の自分は周りの人のおかげで生きていることを理解しているんだもの。生きていて欲しいと願われていることを理解しているんだもの。死ぬその時まで誰かの望みのために生き続ける。それは絶望なんて生易しいものではないわ」


 顔をゆがめた明の正面では両親らしき人物が花楓に話しかけている、が何の反応もない。まるで糸の切れた人形のように佇む花楓の姿は、運動会の場から余りに浮いていた。


「でも」


「でも?」


 少女の呟きに明が横に視線を向ける。少女が現れ、軽やかに着地した。その横顔は微笑んでいた。


「でも、彼女は救われたわ。見てみなさい」


 そう言ってある場所を指す。そこには、ツンテールに髪を縛った女の子とツンツン頭に玄田中学のジャージを着た少年が入場門に並んでいた。


「あれは……おれ!?」


 思わず三回くらい確認してしまった。間違いない。あれは確かに一年前の自分。運動会に来られなかった父の代わりに父兄の合同競技に出た時の映像だった。


 信じられぬと目をパチパチと瞬いている間に、入場を終えて競技が始まる。明以外の周りは大人ばかりだ。しかも、その時は今よりも小さく余計に目立っている。


 競技が始まる。種目は障害物競走だ。明は当時のことを思い出して目を閉じた。確か、明と紅葉はその機敏さを活かして始めはトップだったのだが、最後のおんぶ競争で見事最下位に転落したのだ。というのも、この頃の明は身長が低く紅葉と身長や体重が変わらなかった。そのため、おんぶしてから走るのも一苦労で、しかも焦りのあまり途中に何度も転倒するという醜態もさらしていたのだ。


 ワッと周りが盛り上がる。明が薄眼で確認すると案の定、足をからませ倒れ、どんどん抜かれていく姿だった。


 多分二回目くらいだ。


「なぁ、これの何がすく……」


 恥ずかしい過去を見せられて赤面していた明の表情が驚きに変った。花楓を見つめる。


「……」


 まるで長年凍りついていた花が一気に咲いたかのようだった。明の心に暖かい感情が押し寄せてきて、自然と頬が緩んでくる。


 さっき感じた負の念が全て押し流される、いや、浄化されてしまいそうなほどの想い。それは、喜びや、感動や、感謝やあらゆる正の感情が合わさったようなものだった。


「これは彼女が感情を取り戻す、小さな、小さなきっかけ」


 少女が花楓の後ろに立ち、そっと慈しむようにその細い肩に手を置いた。


「今あなたが感じている感情も記憶の堆積効果で強化されているけど、それだけに伝わるでしょう。この出会いが彼女にとってどれだけ意味があったことなのか。どれだけ彼女がこの記憶を大切にしていたのか」


 そう言った少女の表情は、今までのどこか険のあるものと違い、とても穏やかだった。


「なんで、花楓はたったこれだけのことで変われたんだ。別に病気が治ったわけじゃないんだろう」


 微笑んだまま、明はじっと花楓の表情に見入っていた。彼女にはまだ、表情がない。


「さぁ、それは本人に聞いた方がいいわね」


「本人に?」


「そう、こっちへ来て」


 少女が伸ばした手を明が掴む強く引っ張る。すると、明は花楓自身に吸い込まれるようにして重なり合った。


 《えっ、これって視点が花楓になってる?》


 《そうよ。今、あんたと彼女はほとんど同調しているわ。初めからそうしたかったのだけど、あんたが

あぁだこうだ言うから難しかったのよ。それと完全に同調したら、こちらからコントロールはできないからね。彼女のペースで適当に流れると思うから、頃合いを見てこっちから強制的にあんたを引っ張りだすわ》


 少女の声が頭に響く。明は悪かったなと唇だけを動かし、花楓の気持ちに溶け込むようにそっと心を落ち着けた。


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