七月十七日~day 13~
七月十七日火曜日、その日は朝から最悪だった。
三連休明け、そしてあと二日で夏休みを迎えるという教室の浮き足立った雰囲気とか、何時雨が降ってもおかしくない曇天の空とか、身体に重さを持って纏わりつく湿った空気とか、小さな揺れの後に大きな揺れが来るように一気に悪くなった体調とか、心配しつつどこかよそよそしい友達とか、今の落ち込み、ささくれだった明の神経に触ることなど挙げ出せばきりがなかった。
そうなることは学校に行く前から分かり切ったことだったが、朝方、心配する正の静止を振り切って無理やり登校したことには理由がある。
一人が怖い。
明は教室の窓際、一番後ろの席で青白く突っ伏した顔を上げた。
学校にいる間は、頭に響くあの声もなりを潜めてくれていた。しかし、あと五分もすれば矢野教諭が現れ、あの冷静で威厳のこもった声で終わりのホームルームを始め、学校も終わる。
そうならば、この後どうやって時間を潰そうか。それが問題だった。人とは話したくない。だけど一人ではいたくない。場所は限られる。
光の弱まった瞳で時計を眺める。時間より二、三分早く、背筋を綺麗に伸ばした矢野教諭が扉を開けて入ってきた。
「大丈夫か? 朝からひどい顔をしているが、何かあったのか?」
そんなことを聞かれたのはホームルームも終わり、課題として出されていたプリントを渡しに行った時であった。
場所は教室ではなく職員室だ。教室ですぐに渡した方が手間は省けるのだが、さっさと教室を抜け出す理由が欲しかった。そうしないと、明を気遣った三人が声をかけてくるかもしれない。
「……少し体調が悪くて」
「そうか、まぁ、あまり無理はするなよ。後二日で終業式だからな、早めに力尽きることがないように気をつけるんだ」
矢野教諭が心配そうに顔を曇らせた。彼女が表情に出すのは珍しいことなので明は少し意外だったが、そういえば母と友人だったことを思い出す。
「ありがとうございます」
明はペコリと頭を下げ、その場を後にしようとして立ち止まった。矢野教諭の机の上、主の性格を表すように整理整頓されたその場に見覚えのあるものが鎮座していたのだ。
「先生、それ」
明が指差す。矢野教諭は何のことかと首を傾げたがすぐに気がついた。
「あぁ、この本か? これは私の友人が書いたものなんだ。感想をよこせとうるさくてな。時間のある時にちょこちょこ読んでいたんだが、今日になってやっと読み終えたところだ」
笑いつつ矢野教諭は本を手に取った。三百ページほどの分厚さの単行本。背面には『柳の木下で』とタイトルが綴られていた。
「全部読んだんですか?」
矢野教諭は苦笑して頷いた。
「もう四十に手が届きそうな独身女が読むには、少し毒気が強すぎたがね」
「最後は、最後はどうなったんですか? 二人は上手くいったんですか?」
明が尋ねる。実はこの本、役に立たぬと途中で投げ出していたため最後まで目を通してなかったのだ。
「最後か……いや、最後は幽霊のヒロインが消えて終わるよ。何でも万物は皆流転する。幽霊とはいえその大きな流れには逆らえないとかいう説明だったな」
「き……える。それは成仏したってことですか?」
その質問に矢野教諭は手を組んだ。変なことを聞くなとも思ったが、生徒からの質問にはどんなことでも真剣に答えることが己の信条だ。ゆっくりストーリーを思い返しつつ答えを探る。
「いや、違うな。成仏とは違う。個人の見解になるが、この場合の成仏とは一般的に幽霊が満足して……そうだな、言い換えれば納得してこの世の未練から開放されることだろう。しかし、この本ではそうは描かれてはいない。彼女は消えたくなかった。まだ主人公とともに居たかった。でも、大きな自然の流れ、この世の目には見えない規則みたいなものによって消えざるを得なかった。そういうラストだったな」
「そんな……そりゃ、あんまりじゃねぇか」
思わず呟く。
「そうだな。悲しいラストだったが、要するに世の中不条理なことが多いということだ。そして、世の中の不条理も別の視点では理に適っているのかもしれない。人は得てして自分の見えているもの、感じているものが全てだと思い込む。そうではなく別の視点から見てみることも大切だ。ヒロインも消えてはしまったが、それも大きな理りの一つに身を任せたのだとしたら何だか救われる気がしないか? だって、自分だってその理りの一員なんだ。根っこでは繋がっている。ならばもう一度出会うことだってできるだろう。そういうことなんだと、私は思っているよ」
矢野教諭はいつもの真一文字に結ばれている口元を緩めると、穏やかな表情でそう告げた。
「……根っこでは繋がっている」
矢野教諭は深く頷くと、持っていた本を机に戻した。
「あぁ、矢野先生!」
すると、ちょうど職員室に入って来たF組みの担任の宝田教諭が話しかけてきた。一八〇を超える長身と出っ張ったお腹を持つ巨漢だ。
「すいません、 山梨のことでちょっと話が」
その体躯に見合った大きな声で叫ぶ。
「先生、それは」
矢野教諭は焦り気味に、立ち上がろうとしてふと振り向いた。
「そう言えば、この作者が私の知り合いだと青葉から聞いてなかったのか? 青葉が手紙を出したことも?」
「手紙を出したことは知っています。でも、知り合いとはまだ……」
「そうなのか。実はその手紙の返答を頼まれてな。昨日の昼に松田から電話がかかってきたんだが、側に青葉もいたからついでに伝えておいたんだ。変なことを聞くので、てっきり下鴨も一枚噛んでいるのかと……」
矢野教諭は意外そうな顔して言葉を続けようとしたが、大きな声でまた呼ばれ、「すまん。話しはここまでだ」と言い残すと慌ただしく奥の部屋へと入って行った。
「猛が、電話? 昨日の昼に?」
明が職員室で矢野教諭と話しをしている頃、龍一、猛、修二の三人は校門で人を待っていた。明の調子が悪そうだったのでそちらの方を気にかけるべきかと思ったが、幸か不幸か明はホームルームが終わると早々、逃げるように教室から出て行ってしまった。
「まだ来ないのかい? 約束の時間を過ぎてるんだけど」
猛が苛立った声を出す。時刻は三時四十分。十分の遅刻だ。
「仕事が残ってるって言ってたからなぁ」
修二があははと頬を引きつらせる。いつもの彼ならこの程度で表情を変えることなどないのだが、今回は話しが別だ。なにせ今回の件に関する謎を一気に解決してしまえるくらいの重要人物を、彼は今まで放置し続けていたのだから。
不可抗力とはいえ、やはり後ろめたくはあるのだろう。
「おい、来たぞ」
校門に寄りかかっていた龍一が身体を起こした。中庭から歩いてくる影を見て、三人の顔つきが変わる。これで楓さんの謎に王手がかかった。
曇天の空の下。冴えない頭と重たい足を回転させつつ明は家へと向かっていた。手に持っていたビニール傘をアスファルトへコツコツとぶつけて歩く。家の近くまでくると、道路も細くなり人もあまり通らないので、音が良く響いた。
手紙の返答。それに猛の電話……内容は何だったんだ。明はそのことばかり気になってたまらなかった。
もう一度、猛の携帯電話の番号を押してみるが、数秒で留守番電話サービスへとつながった。他の二人にかけても同様だ。
怒りのあまり地面に携帯電話を叩きつけようとして、ゆっくり腕を下ろした。そんなことをしても意味がない。
冷静になれ。先生に別の視点で見ることが大切だって言われたばかりじゃねぇか。
明は頬を一発叩く。
手紙の内容は無理だが、猛の質問なら状況を整理していけば何とか推測できるのではないか。
明は手を顎にあて眉間をきつく寄せた。
昨日、楓さんの話をしたすぐ後に電話をかけたということは、恐らく楓さんに関係することだと考えて間違いないだろう。昨日猛は一人だけ不自然なほど口を開かなかった。それに楓さんを庇うような言動が目立った、もしかすると他の二人と違う考えを持っていたのではないか。
あの三人は同じ資料を探っていたはずだ。つまり材料は同じ。その材料の中に猛が一人だけ違う考えに至った原因があるはずなのだ。
昨日の記憶を可能な限り掘り起こす。頭に痛みが走ったが、そんなことに構っていられない。
映像を掘り起こし、再生し、また掘り起こし、再生していく。そして、ある個所で止まった。
それは、楓さんの元ネタだという記事に対する明の反論を、龍一が否定した場面だった。
『もし明の言う通りだとしたら、一九八八年以降に玄田中の女子が神社で死んでいなければならない。だが、そんな子はいなかった。ここ三日、市立図書館や警察署に行って確かめたがそんな事件は一つもなかった』
―― 一九八八年以降に玄田中の女子が神社で死んでいなければならない。だが、そんな子はいなかった。
「死んだ子が……いない」
今日の天気のように分厚い雲がかかっていた頭に日光が指し込んだ。
「そうだ、何でこんな簡単な矛盾に気が付かなかったんだ。それにあの夢。あの中での楓は幼稚園くらい。母さんの見た目の年齢を考えれば俺とそう年だって変わらねぇ。むしろ、今の姿を考えれば……」
言葉が次々と溢れてくる。気づきと共に猛の質問内容が頭に浮かんだ。
――先生が玄田中で勤めていた間に自分達と同じくらいの年齢で亡くなった生徒はいますか?
きっと、猛はそう聞いたのではないか。猛たちには夢の話もしてある。今の明よりは情報は少ないが同じ考えに至った可能性は高い。
そして、矢野教諭は玄田中でもベテランに入る教師だ。彼女なら性格的にも自分が勤務している間に亡くなった生徒がいれば必ず覚えているだろう。それを見越して電話をかけたのではないか。
そしてその結果は――
答えは出た。むしろそう考えれば多くの辻褄が合う。彼女が『恋する幽霊』楓さんではない理由も、ずっと感じていた幽霊っぽくない理由も、自分の母親と知り合いだった理由も。
明は居ても立ってもいられずに来た道を戻り始める。気持ちは高揚しているのに、身体上手く動いてくれないのが、とてももどかしかった。
明は足を引きずるようにして学校の裏庭、南石階段に辿りつき足を止めた。つい数日前までは、石階段の頂上まで走りきれたというのに今回はその手前まで走るのが精一杯だった。やはり、体力が急激に落ちているのだけは錯覚では無いらしい。
が、足を止めたのは別に辛くなったのでちょっと休憩といった悠長な理由では決してない。阻まれたのだ。石階段の一段目に陣取り、こちらを鋭い眼差しで睨みつける少年に。
「翔太」
弾む息を押さえつけて掠れ声を出す。
「やっときたのかよ。後十分で来なけりゃ家まで行ってやろうと思ってたところだ」
翔太は立ち上がるとその小さな身体で施一杯に胸を張り、段々と近づいてきた。
「でっ、お前何しに来たんだよ」
翔太が下から睨みつける。
「それは、楓に会いにっっ……て」
殴られた。顔が左に傾く。スピードは無かったが見事な右フックだった。
明はやり返すこともせずに視線を翔太に戻した。初めてまともに人殴ったのだろう。涙目になって肩も震えていた。普段から強がって生意気ばかり言っていても、それでも伝わってしまうくらい優しい子なのだ。
「うぅ、うぅ……」
翔太は唸りながら明の腹や胸を殴った。その威力は先ほどの右フックと比べれば半分もないが、涙を流しながら振るわれた拳は、明にとって何倍も痛く感じた。
楓さんの謎について答えが出たことで茹で上がっていた頭も一気に冷めてしまった。なんて都合のいいことを考えていたのか……
「悪かった。俺がバカだった」
静かに謝る。それからしばらく、腕を止めた翔太は、おもむろにポケットから白い四つ折りにされた用紙を取り出した。
「それは?」
尋ねる。翔太は鼻水を垂らしたまま短く手紙だと答えた。
「かっ、楓姉ちゃんからの手紙。もしお前に最後まで会えなかったら渡してくれって」
その言葉に胃の辺りがヒュっと冷え込んだ。
「最後までってどういう意味だ」
震える手で手紙を受け取ろうとして、空を切った。
「なっ!?」
明は目を見開いた。明の手を交わした翔太は、なんと楓さんの手紙を引き裂いて宙に放り投げたのだ。
はらはらと舞う紙片を唖然と見つめる。翔太は涙をぬぐい、
「まだ、まだ間に合う」
と階段の頂上を指さした。
「あぁ、わかった」
明は頷き、もう動かなくなっていた足を無理矢理動かして石階段を駆け上る。
後ろから「バカヤロー」と叫ぶ翔太の声が聞こえた。
「ここか」
龍一が呟いた。電車を降りてしばらく歩いた四人は目的の場所へとたどり着いた。目の前には白く、どこか学校を思わせる様な大きな建物。玄田市立総合病院の新しい入院棟だった。
「じゃぁ、今から案内するけど騒がないでよね」
先頭に立って歩いていた鈴香が注意をする。三人は頷くと逸る気持ちを押さえて鈴香の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。
自動ドアを抜け、受付を済ませてからエレベーターで四階に上る。降りると目の前の廊下を真っ直ぐ進んだ。開放的なつくりを意識しているのか、廊下の両脇は丈夫そうな等身大のガラス窓によって外の景色が見渡せるようになっていた。
「思ったよりも綺麗なんだね」
修二が驚いたように口走った。新しいとは聞いていたが、ここまでとは思わなかったのだろう。基本的に病院のイメージとは暗く陰気なものだ。
「きゃっ」
前方から短い悲鳴が聞こえる。キョロキョロと辺りを見渡していた三人の視線が集中する。そこには三十半ばほどの看護師が驚いた顔で立ち尽くしていた。
「山本さん? どうしたんですか?」
鈴香が胸を押さえながら尋ねる。どうやら曲がり角でぶつかりそうになってしまったらしい。名前を呼ぶということは馴染みの看護師なのだろうか。
「す、鈴香ちゃん」
山本看護師は顔を青くしてパクパクと口を動かすと、何かを口走った。よほど焦っているのか早口な上、内容も途切れ途切れで、男三人にはよく聞こえなかった。
しかし鈴香にはそれで伝わったのか見る見るうちに血の気が引いていき、「そんな」や「安定してたのに」などと呟き唖然としていたが、突然鞄を床へ放り投げると
「私おばさんとおじさんに電話してきます」
そう言って走り去ってしまった。
「いったいどうしたのさ……」
予想外の事態に猛が呻く。状況に理解が追いつかないが、良くないことが起こっていることだけは確かだろう。
三人が立ち尽くしていると後ろから医師と何か機材を持った看護師が駆け足で横をすり抜け、曲がり角を曲がって消えていく。
「なぁ、今のって」
猛が尋ね、
「あぁ、心肺蘇生のための機具、恐らく電気ショックだな」
困惑した顔で龍一が答えた。
明は階段を駆け上がっていた。階段の真中にある赤茶色に錆び付いた手すりを掴み、一段、一段、踏みしめるようにして、駈け上がっていた。
「どういう、ことだ、消えるって」
一言、一言、言葉を区切る度に大きく息をつく。こんなに辛いのは生まれて初めてかもしれなかった。
「おれ、の、考えが、間違って、たのか」
それでも気持ちだけは前へ前へと進み続ける。
そして、いつもの倍以上に長く感じた石段を登り切った。膝に両手を据えて、前のめりの格好で辺りを見渡す。
拝殿の前、両脇、いない。震える足を引きずる。石灯篭の影、いない。狛犬の後ろ、いない。
楓の木、いない……
もしかして遅かった? 明は胃に手をあてて軽くさする。
「楓、いるか? いるなら返事してくれ」
いくばくかの望みを持って、明は楓の木の幹にそっと話しかけた。すると、
「明くん?」
声が聞こえた。
「楓、楓か!? よかった」
明から安堵の息が漏れる。そして「今出るので、少し下がって下さい」と声が聞こえたので、二歩ほど後ろへ下がった。
硬い木の幹が緑の波紋に揺れる。すると、淡い緑の光に包まれた楓さんの上半身が現れた。
――綺麗だ
その幻想的な光景に一瞬で目も心も奪われる。まるで初めて出会った時の焼き直しみたいだった。
「明くん、もう会えないかと思ってました」
艶やかな黒髪を揺らし、形のよい唇から自分の名前が出た瞬間、心臓が高鳴り、その鼓動が全身を熱く、たぎらせるのを感じた。
――あぁ
唇が震えた。
――そうか、俺は
今まで悩んでいたことが全て吹き飛んでしまうほど衝撃的で唐突な理解だった。
――初めて会った時からこいつに惚れてたんだ。
明は呆けたように楓さんを見つめた。思いが胸につかえて、ここまで来たのに、何を話すべきかも出てこない。
本当はお互いの疑問や誤解を解こうと思って来たはずなのに、今はそれすらも無粋なことのように思えたのだ。
二人はじっと見つめ合う。互いの瞳に終わりの輝きを認めながら。
「……消えるのか?」
「はい、消えます」
やっと出てきた言葉に、楓さんは微笑んだ。
「そうか、もう全身は出て来れないのか?」
「もう半分以上、引っ張られてるんです」
明は頷いた。
「ここまでどうやって来たんですか?」
「家の近くから走って来たんだよ」
楓さんが何でもないことを聞いたので、明も何でもないことのように返した。楓さんがくすくすと笑う。
「きつかったんじゃないですか? 身体、調子悪いんでしょう?」
「何だ。気づいてたのかよ」
明の頬が緩んだ。やっといつもの二人に戻れた気がした。
「えぇ、だって、それ私のせいですから……すいません」
困ったような、申し訳なさそうな顔になる。明は「気にすんなよ」と声をかけた。
「あはは、優しいんですね。普通怒りますよ。この悪霊が! とか」
「楓は幽霊じゃないだろ?」
「あれ、気づいたんですか」
苦笑する。始めてみた表情だった。
「なぁ、楓」
明が楓さんを見つめる。その瞳からは涙が零れそうになっていた。
「何か、俺に出来ることはあるか?」
その言葉に、楓さんの瞳も揺らいだ。
「本当に優しいんですね。私、困っちゃいます」
そう言ってポロポロと涙を流す。
「前に我儘くらい聞いてやるって言っただろ?」
「もう恋人にじゃなくなったのに、まだ有効なんですか?」
楓さんは茶化すような口調でそう言うと、腕を一杯に広げた。
「バカやろ。今からまた有効にするんだよ」
明は答えるとそのまましっかりと楓さんを抱きしめた。甘い、心を引き裂かれそうな香りがする。
「これで私の勝ちですね」
「俺は好きだって言葉に出してねぇぞ」
声が震える。
「心臓が代わりに答えてますよ」
楓さんが笑った。明の肩が涙で濡れていく。
「あったかい……これでもう、思い残すことがなくなっちゃいました」
「バカやろう。諦めんなよ。本物の幽霊になって化けて出てやるくらいの根性見せろよ。なんなら神様に頼んでみたっていいじゃねぇのか」
「私を成仏させないで! ってですか? 無理ですよ。これ以上我がまま言ったら呆れられちゃいます」
明は唇を噛みしめると抱きしめる腕に力を込めた。
「知ってるか、楓? この世の中には大きな理りってもんがあって、それでみんな繋がってんだとよ。だから、だから、俺、とお前も、きっとまた会えるんだ」
涙があふれ、言葉が途切れる。明の涙もまた、楓さんの肩を濡らしていった。
「素敵です。それなら、最後のお願い聞いてくれますか?」
「なんだ?」
「私の本当の名前。明くんとまた出会えた時のために私の本当の名前を覚えていて下さい」
楓さんの身体から急速に厚みが消えていく。
「あたしの名前は、山梨花楓。植物の“花”に楓の木の“楓”で、“かえで”って読みます」
「結局、“かえで”なんじゃねぇか。お前嘘ついてなかったんだな」
明は笑った。花楓も笑った。
風が吹いて、まるで楓の木も笑っているかのようにさわさわと音を鳴らした。
「また、出会えるといいですね。明くん」
耳元でそう言い残して、花楓は空気に解けるように、何の余韻もなく、あっけなく消えていった。
残ったのは、肩に残った彼女の涙の後だけ。
時刻は夕方の五時を過ぎたころ、曇天の空から、形見の涙すらも押し流そうと大粒の雫が落ちてきた。
そして力も心もすり減らした明はそのまま地面に膝を付く、小さく、誰かの名を呼んだが、もう答える声もない。
境内に倒れこんだ明を、寂れた御社が静かに見下ろしていた。




