七月十三日~day 9 幕間~
玄田市から数駅ほど離れた場所にあるファミリーレストランの一席に矢野貴子は座っていた。スーツにお洒落な赤ぶち眼鏡、そして女性にしては短い髪が、ただでさえ凛々しい顔立ちの彼女を余計に引き立てている。
今日は待ち合わせの日。といっても、一昨日ほどに決まった急な待ち合わせだ。相手は自分が担当する生徒の父親。いくら昔からの知り合いとはいえ、二人っきりで会うのはどうかと思った貴子であったが、相手があまりに必死そうだったので結局承諾してしまった。
それに、下鴨のことなら私に無関係というわけでもないしな。一応、担任だし……まぁ、甘いとは思うが。
時計を確認する。時刻は夜の七時を回ったところで入店音が鳴った。首を入口の方へ向けると、ワイシャツを着たいかにも仕事帰りといった態の男性が真直ぐ貴子の方へ歩いてきた。
「ごめん貴子ちゃん。こっちが呼び出したのに待たせてしまって」
「いえいえ。大丈夫ですよ」
笑顔でそう答えると、続いて「正さん。お久しぶりです」と頭を下げた。
「こちらこそ。今日は無理な願いを聞いてもらって本当に感謝してる。明日から出かけないといけなくてね。助かったよ」
正も頭を下げると、貴子の前に座りメニューを手渡した。今日は御礼に御馳走するという意味らしい。貴子は遠慮しようとしたが、
「今日は保護者と担任とか関係なく。相談に乗ってくれる友人、そして元部活の後輩として接してくれると嬉しいんだけどな」
先手を打たれてしまった。貴子は苦笑したものの下手に断るのも気が引けるので、その言葉に甘えることにする。
しかし、わざわざ学校区から離れた場所を指定しておきながらその言い草はないだろうと思ったが、そこが正らしくておかしかった。本当にやんわりと押しが強いところは昔から変わっていない。
「それでは単刀直入に聞きますが、今日は息子さんの進路についてですね?」
注文を終えた正に貴子が気を取り直して尋ねる。正は頷くと、その顔はもう父親のものになっていた。
「そうなんだ。明のやつ商業高校に進んでそのまま就職すると言って話しを聞かなくてね」
「そのことは私も知っていますが、やはり正さんとしては普通科に進学して大学まで進んで欲しいと?」
貴子が問いかけると、正は困った顔をして静かに首を横に振った。
「違うんだ。それが明の本心からの願いだとすれば止めることなんて考えてない。商業高校もいいと思うし、大学に進むことが絶対だとも思ってない。ただ、ね……心配なんだ。本当はやりたいことがあるのに、我慢してるんじゃないかって。昔から気を使う子だったけど、奏恵が死んでからそれが一層ひどくなって……」
祈るように腕を組むと額を乗せる。かなり悩んでいるらしい。
「なにか思い当たることでも?」
正はしばらく考えていたが、ゆっくり口を開く。
「明にね。好きな人ができたみたいなんだ……」
「げほっ、ごほっ……あー。それは喜ばしいこといいますか、今までの話しとなんの関係が?」
貴子は飲みかけのお冷を噴き出した。元々掴みづらい人だったが、真面目な場でこんな冗談を言う人だっただろうか? 貴子は口元をハンカチで押さえる。
「それが大ありなんだ。今日の朝、娘に聞いたんだけどね……」
正は真面目な顔で身を乗り出すと、朝方紅葉から聞いた話を貴子に話す。つまり、明に好きな人ができて、その相手も明のことが好きなのに、明が中々承諾しないので前に進まないという話しである。
その話を聞いた貴子は余計に混乱する。大真面目に話してくれたが、そんなこと中学生同士ではよくある話しだ。お互い意識しているが恥ずかしくて付き合えない。そんなことが、明の進路となんの関係があるのだろうか?
「実はね、明って好きであればあるほど、遠ざけたり嫌いになったりしようとするんだよ。無理矢理にね」
「無理矢理に?」
「そうなんだ。あれは、奏恵が死んで一年ぐらいしたころ……近所に犬を飼っているおばさんがいてね。トイ・プードルのかわいい犬だったんだけど、明はそのトイのことが大好きで、ずっと欲しそうにしてたんだ。それで僕も奏恵もいなくなって寂しいだろうから買ってあげようかなぁって思ってたんだ。そしたら、ある日、いきなりなんの前触れもなくそのトイの悪口言い始めてさ。臭いとかうるさいとか。何でそんなこと言うのか聞いてみたけど嫌いになったんだって。泣きそうな顔して頑なにそれしか言わないんだよ。その時は僕自身もよく分からなかったんだけど、それからも似たようなことが何回かあってね。それで感づいたんだ。あぁ、こいつは好きものをつくることから逃げてるんだって……」
貴子は頷きつつ今の話を頭の中で整理していく。段々、正が言いたいことが見えてきた。
「もしかして奏恵を亡くした影響?……いえ、もっと言えば幼いころから我儘を言えない、好きなことを我慢せざるを得ない環境で育ったせいとか?」
「ふぅ。両方かもしれない。僕は専門家じゃないから詳しくは分からない……ただ、あいつは自分が強く望むほど、それから離れようとする。意識的か、無意識かは知らないけどそれに深く関わらなくていい理由を無理矢理探し出そうとするんだ」
なるほど。貴子は深く頷いた。つまり、正が本当に心配しているのは進学問題ではなく、そんな明の悪癖についてなのだ。自分が好きなものから遠ざかる。好きなものを無理矢理嫌いになる。そんな悪癖を持って生きていくなんて……自分に置き換えて想像してみるだけでもぞっとする話しだ。
「しかし、明くんには友人がきちんといるではないですか? 担任の私から見ても随分気の置けない仲だと思いますが」
貴子はいつも明と一緒にいる三人を思い出す。正は「そうなんだよなぁ」と言いながら、ストローをかきまわした。
「心配し過ぎではないですか?」
敢えて率直な意見を述べた。たしかに母親を亡くしたのは子ども心にショックだっただろうが、そもそも人間誰しもがそういったショック状況からの回復力を備えている。楽観はできないが、貴子が見ている限りそう深刻に感じなくてもいいはずだ。
「そうだといいんだけど……今回ばかりは相手がね。女の子だろう?」
いつの間にか悩みが息子の恋愛相談へと代わっていることに貴子は苦笑するが、たしかに判断が難しいところではある。異性と同姓では向ける思いも、受け取る感覚もまったく異なるからだ。とくに思春期に体験したことは後々まで影響が残りやすい。関わり方の如何によっては、明のそういった悪癖をより強固にしかねない。
「……わかりました。私の方でもそれとなく気をつけてみます」
正はその言葉に顔を輝かせると、「よろしく頼むよ!」と言って頭を下げる。教師として一人の生徒だけに力を注ぐのはどうかとも思うが昔馴染みの頼みだ。自分の信念に抵触するところではあるが、今回ばかりは大目に見ることにしよう。
「ちなみにその女子生徒については、なにか知っているのですか?」
「いや、知らないよ」
やっぱりこの人は下鴨の父親だ……貴子はこめかみを押さえつつ、深いため息をついた。
正との話しを終えて数時間後。明の話が終わった後は、思い出話に花を咲かせた普通に楽しい食事だった。あんなに笑ったのも久しぶりかもしれない。そんなことを思いつつ、貴子はアパートの玄関を開いた。
「ただいまっと」
明りをつけ、誰もいない部屋に向けて挨拶をする。両親が厳しかったせいか、こういった挨拶は一人暮らしをするようになってからも自然と出てしまう。そんな両親に昔はよく反発したものだが、癖というのは中々抜けないらしい。
両脇にキッチンとバスとトイレが設置してある狭い廊下を十歩もかからず跨ぎ、八畳ほどのワンルームへ入る。
部屋に入るとスーツを脱いで皺にならないようにしてクローゼットへとしまう。そして、部屋着に着替えるとベッドに腰をおろして煙草をくわえた。
「ふぅー」
窓を開けて煙をベランダへと逃がす。いつもはもっと眉間にしわが寄ってしまうのだが、今日はそこまで酷くない。背の低いドレッサーに映った自分を確認する。
「そういやあんたは私がたばこを吸うって知った時すごい驚いたっけ……」
ドレッサーの隣、本棚の上に飾られた写真立てを見つめる。写真のなかでは、玄田中の制服を着た三人の女子が神社にある楓の木の下で卒業証書を片手に笑っていた。
「……奏恵。あんたの息子が私の教え子になったぞ。時間が経つのは早いもんだ」
白い息を吐く。五年前、友人の仮通夜で初めて出会った少年。亡くなった母の隣で頑なに口を閉じたまま泣いている妹の手を握っていた。
強い子だな。自分も涙しながら率直にそう思った。
そんな彼が二年生に進級すると同時に自分が担当する生徒になった。一年生の時からどことなく気にかけてはいたが、やはり担任になるとその性格が良く見えてくる。貴子からは指摘することはしなかったが、今日聞いた明の悪癖についても思い当たる節がないわけではなかった。
「しかし、お前にそっくりだなぁ。素直で、繊細で、優しくて……」
クスッと笑うと、煙草を灰皿に押し当てた。
「そして、頑固だ。まったく、もう少し正さんに似ればよかったのにな。お前に似たせいで、旦那は困っていたぞ」
立ち上がると近づいて写真立てを手に取った。中学生時代を思い出す。今思えば他愛ないことでも大騒ぎしていたあの頃……本当に未熟で、でも、それ故に色々なことが輝いて見えていた。
「今はすべて追憶の彼方。いい思い出か……」
回想を終えた貴子は写真立てを元に戻す。そして、もう一服しようかと煙草を掴んだ所で床に置いている固定電話が鳴った。
あからさまに嫌な顔をする。この時間にかけてくるのなど、両親のどちらかくらいしかいないからだ。またお見合いの話しか……貴子はため息をつきつつ電話を取った。
「もしもし。ん? お前か。どうしたんだ? 何かあったのか?」
が、相手は両親ではなかったらしい。砕けた口調から親しい相手だと推測はできるが、それにしては声の質がずいぶんと優しい。相手に気を使っているかのような感じだ。
「……そうか。分かった。先生には私からも伝えておこう。あぁ、礼はいらん。今は大変だろうからな。ん? まだあるのか? なんだ、遠慮はいらんぞ……ふむ」
話しは淡々と進んでいく。
「わかった。お前に手紙を出してきた生徒に代わりに返事をすればいいのだな。ただし、明日から三連休だから、早くても来週の火曜になるぞ。で、名前は? はぁ!?」
思わず受話器を落としそうになる。名前の主が予想外過ぎた。自分の学校の生徒が友人の小説家に手紙を出したというだけでも、ちょっとした驚きだったのに、まさか自分の担当の生徒だったとは……あまり恋愛小説などを読みそうには見えないが、人は見かけによらないということだろうか。貴子は少しおかしくなってクスクス笑った。
「いや、なんでもない。こちらのことだ。あぁ、それじゃあまたな。近日中にまた顔を出すよ」
そう伝えて受話器を本体へと戻す。本当に色々な家族、色々な人生があるもんだ。つくづくそう思う。
貴子は煙草に火をつけてしばし煙を見つめる。ジリリと最後の葉っぱが燃え尽きたころでシャワーを浴びるために立ちあがった。
ここは中盤が終わっての幕間でございます。一度、中盤の誤字や文法、表現などなどを修正して終盤に入りたいと思います。あっ、もちろん話の筋を変えるような改稿は致しません。
七月六日。さっそく手直し入りました。書きなおしたはずの箇所が直ってなかったので修正しました。父が明の悪癖を説明するところです。
しかし、あんまり登場人物いないのに、なぜこうもややこしいのか……主に主人公が。こいつ何とかなるのかよって、思いつつ執筆しております。そんな物語ですが、今しばらくお付き合いください。