七月十三日~day 9~
七月十三日金曜日、爽やかな朝の訪れを知らせるけたたましい音に誘われて明は目を覚ました。目覚まし時計を止めてのそのそと立ち上がる。その表情は脳みそがまともに機能しているとはとても思えないほど虚ろだが、それでも習慣とは凄いもので勝手に身体が動いてくれた。明は制服へと着替えると顔を洗いに一階へと降りた。
途中、紅葉と鉢合わせる。すると彼女は「あっ、情けない男発見」と指さしてキッチンへと移動してしまう。明はそれに青筋を立てたが追いかけることはせずに見送る。洗濯物を取りに来ていた父が「なんだあれ?」と聞いてきたので、明は「知らねぇよ」と短く答えておいた。
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昨夜、帰宅してからというもの、明は楓さんの想いに応えてあげられないことを悩んでいた。するとその様子を訝しく思った紅葉が、カップアイス片手にどうしたのか尋ねてきたのだ。初めは話すのを拒否したものの紅葉がしつこかったのと、こんなのでも一応女だからと考え直し、自分はこれからどうすべきか相談してみることにした。
「いいか、これは俺の友達の話だ。友達だからな……」
何度も前置きをして楓さんとの出来事を話してみる。
「ふ~ん……」
聞き終えた紅葉は腕を組くんで考え込む。その様子を見て明は少し驚いた。てっきりからかってくると思っていたのだが、案外真剣に考えてくれているらしい。
これは意外といい答えが聞けるかも。そう考えた明の期待は見事果たされる。そう、流石は兄妹というべきか紅葉は非常に的を得た指摘を行ってくれた。ただそれが明にとっては必要以上に的確で鋭い言葉だった。というだけの話だ。
「っていうか、なにその女々しいやつ。本当に男なのそいつ?」
開口一番。そう言い放った紅葉の言葉に明の表情が吹き飛んだ。
「むしろ女の子の方がよっぽど男らしいじゃない。あなたは傷つかなくていいって、どんだけ男前よ。その子。まぁ、とりあえずその男は気に入らないわね。待たせてるのを承知で、のうのうと一緒に遊んでるなんて信じられない」
繰り出される言葉が明を襲う。しかし的確過ぎて反論することすらできない。紅葉がしゃべり終えるまで身を強張らせて待つその姿は、さながら鋭いジャブを放ってくる相手に対しガードを固めることでしか対応できないボクサーのようだ。
そして、紅葉の追撃は当たり前のように止まない。カップアイス片手に話すその姿はどう見てもお子様なのに、どうしてここまで鋭いことが言えるのか……
「完全に女の子の好意に胡坐をかいてるわね。そんな甘ったれた奴、男としては最低だし、人としては最悪だと私は思うけど、そんなのがいいって変わり種も確かにいるのよね。私は絶対お断りだけど!」
そこまで言って紅葉は「あははっ」と笑う。
「……で、そいつは結局どうすればいいんだ?」
言葉によるジャブが止んだところで明が口を挟む。それを聞いた紅葉は呆れたように手を額に当てると、軽く溜息をついた。
「そんなの決まってるじゃない。さっさと付き合っちゃいなよ」
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「ふぅー。きっと楓にも情けなく思われたんだろうな……」
顔を洗って鏡を見る。よく寝ることができなかったせいか、目の下に軽くクマができていた。まるで自分の心境を写し出したかのような表情に、ただでさえ曇っている表情が余計に酷くなる。
時刻は朝の七時を幾分か過ぎた頃、楓さんと会う昼休みにはまだ時間はたっぷりある。明は頬を叩いて気合を入れ直すと、朝食を食べにキッチンへと向かった。
そして昼休み。明は屋上へと続く階段を登りながら顔をマッサージする。これ以上情けない姿を楓さんに見せるわけにはいかない。「よしっ」と顔の筋肉がほぐれたのを確認して手を扉にかける。
「……?」
が、動かない。不思議に思いつつ今度は両手で試してみるがやはり扉はびくともしなかった。手から力を抜くと扉を見つめる。
屋上へ続く扉の鍵はいつも楓さんが外から開けてくれていた。解錠されていないということは、彼女が来ていないということだ。
「珍しいな……俺より遅くなるなんて」
反転し扉に背をつけると滑り落ちるように下へと沈んでいく。昼休みは残り二十分ほど、とりあえず待つことにした。
奇妙な形をした染みが広がっている天井をぼうっと見上げる。なんだか身体がだるい。昨日寝むれなかったせいもあるだろうが、それ以上に紅葉に言われたことが精神的に堪えてしまっている。
――さっさと付き合っちゃいなよ
それができりゃ苦労はしねぇよ。そう思って明はがりがりと頭をかいた。きっと自分は楓さんのことが好きだ。でも、この好きという気持ちが果たして恋愛感情なのかは分からない。だって自分の楓さんに対する気持ちなど、楓さんが自分に向けてくれている気持ちと比べればほんの僅かにしか過ぎないのだから。
この程度の気持ちで好きだなんて言っていいのだろうか? ましてや相手は幽霊だ。普通の人と付き合うのとはわけが違う。相応の覚悟だっているはずだ。それこそ、自身の一生を使うくらいの覚悟がいるだろう。情けないがそんな覚悟は今の自分にはない。そもそも楓さんと付き合う覚悟があったと仮定して、その選択は正しいのだろうか……
「…………」
答えが見えない。どう判断していいのかわからない。もしかすると、その優柔不断さが彼女を傷つけているかもしれない……いや、きっと傷つけているのだろう。しかし、それが分かってもどうすることもできない。頭の中はぐちゃぐちゃだ。先日謝ったばかりだというのに、なんという体たらくか。明は自分の不甲斐なさを責めたてる。
「なんで来ねえんだよ。楓……」
ガンッ。突然、後頭部をドアへと叩きつけた。ドアが音を立ててきしんだが、ただそれだけだ。昼休みの終わりを告げる鐘の音まで残り五分となくなっても一向に開く気配を見せない。
なんだか自分と楓の関係みたいだ。そんなセンチメンタルなことを思い一人自嘲した明であった。
昼の三時を少しばかり過ぎたころ、神社の階段を小学生くらいの男の子が登っていた。昨日とは違い、半袖のTシャツにハーフパンツ、そして帽子を被っていない頭髪は短く刈り込まれており、生意気そうな瞳と併せ余計に明と似て見える。兄弟だといっても誰も疑わないだろう。
翔太は神社の正面に立ち辺りを見渡すが誰もいない。まだあの二人は来ていないのかと思い、賽銭箱の後ろにある短い階段へと腰を下ろす。蝉の鳴き声が静かな境内に響き渡り、夏の凶悪なまでに強い日光は周りの木々によって遮られて、その威力を激減されている。
小さな口に手をあてて欠伸をする。なんだかとても眠たい。昨夜もきちんと眠ったはずなのに……翔太は不思議に思いながらもランドセルを膝の上に乗せて、さらにその上に頭を乗せた。
爽やかな風が吹く。ここはとても涼しくて心地がいい。きっともうすぐ二人がやって来る。それまで少し寝ていよう。翔太は瞳を閉じると風に鳴る木々のざわめきに誘われるようにして眠りへと落ちていった。
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翔太は周りを見渡してみる。今は夏だったはずなのに、自分の足元には色づいた紅葉の葉っぱが絨毯のように敷き詰められ、青々していた楓の木も完全に色づいてしまっている。目の前には神社。頭の上には灰色の鳥居。両脇には石灯篭。そして、先ほどまで自分がうたた寝していたはずの拝殿の前では、知らない女性と、これまた知らない幼稚園児くらいの子が話しをしている。
「ここはね。幸福を呼んでくれる神様なのよ」
女性が口を開く。自分の母よりいくつか年下だろうか。どこか浮世離れした雰囲気をもっており、その穏やかな口調なども併せるとまるでいいとこの令嬢という風に翔太は思えた。
「幸福?」
幼稚園児くらいの子が女性を見上げた。その拍子に横顔が見える。女の子だ。翔太は首をかしげてその横顔を注視する。艶やかな黒髪に大きな瞳。そして白い肌。最近どこかで見たことがある。
「そう。幸せってことね。何かお願いしたいことある?」
「んーっとね。病気が治って欲しい。そしたら、お父さんとお母さん楽になるし……ずっと一緒にいれるもん」
その答えに女性は微笑むと少女を抱きしめた。
「大丈夫。必ず叶うわ。あなたは誰よりも幸せになれる。それが何時になるかはまだ分からないけど絶対よ。だから諦めないで……ね? ■■ちゃん」
女性が名前を呼んだ瞬間。ざぁっと、風が吹いてその声をかき消してしまう。翔太はわけも分からぬまま、自分の意識が遠のいていくのを感じた。
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「あっ、やっと起きた。こんにちは翔太くん」
「うっ……えっ? かっ楓姉ちゃん!?」
翔太は飛び起きる。自分はランドセルを枕にしておいたハズなのにいつの間にか楓さんの膝を枕にして眠っていた。そのことにも驚いたが、目を開けた瞬間夢に出てきた少女と楓さんが被って見えたのだ。
翔太は目を擦りつつもう一度楓さんを見つめる。楓さんは翔太が寝ぼけていると思ったのか「大丈夫?」とクスクス笑った。
「いや、楓姉ちゃんに似た小さな女の子と、見たことのないこうふわーっとした感じの女の人が神社で話してる夢を見てさ。すごいリアルだったんだ……ここ、現実だよな」
翔太は周囲を見渡す。そして楓さんは途端、笑いを止めた。
「そう……見えたんだ。そっか、翔太くんは私も見えてるもんね。波長が合うのかも」
その呟きはどうやら翔太には聞こえなかったらしい。自分の身体を触ったりしてまだここが現実かどうか確かめている。
「ねぇ、翔太くん。私の秘密知りたい?」
楓さんは再び笑顔に戻ると、そう語りかけた。
明はスーパーの袋を片手に南石階段を登っていた。その足取りは軽やかでもなければ重くもない。至って普通のペースで黙々と足を動かしている。
楓に気をつけろって。龍一のやつ……今さらなんだってんだ?
教室を出ようした時に龍一から言われたことが胸に引っ掛かる。それに後ろにいた二人の態度もなんだかおかしかった。もしかして自分に黙ってなにかしているのだろうか?
らしくねぇ……いつもの自分なら変だと感じた時点で問い質しただろうに、何故か躊躇してしまった。楓さんと出会うまで、「悩みがなさそうでうらやましいよ」と猛に揶揄されるほど、自分の感情や考えを疑うことなく行動してきたのに最近はそれができなくなった。しかも、できなくなっただけでなく、ごちゃごちゃと考えることが多くなってきた。
胸の奥からじわっと不安が広がっていく。それがなにに対する不安なのかも分からず、知らず口からため息が漏れる。らしくねぇなぁ。おまえ……そんなことを思っているうちに階段を登り終え鳥居の下に出た。
すると、
「うぅぅぅをー! すげー。すげーよ。楓姉ちゃん」
拝殿の前でそう叫ぶ翔太の姿があった。よほど興奮しているのか、両手を握ったままめちゃくちゃに動かしている。
楓さんはというと、ニコニコしながら消えたり、また現れたり、はたまた床から顔だけを出してみたりと色々と芸(?)らしきものを披露していた。
「よう! 何してんだ?」
拝殿の方へ向かいつつ明が声をかける。普段通りを心掛けているのだろうが、表情といい仕草といい、どこかぎこちない。
「あっ、明くん! いま翔太くんに私が幽霊であることを説明してたんですよ」
楓さんは明の方を振り向くと近くまで駈けよって来る。その顔は明とは対象的に輝いており、明の胸を締め付けた。
「そうか。よかったのか?」
「はい! 翔太くんは特別です」
「特別!? 楓姉ちゃんにとって俺って特別なのか?」
顔を赤らめつつ自分を指さした翔太に楓さんは「そうだよぉ」と頭をなでた。
そんな二人の様子を見ていた明の脳内で一瞬、自分でも呆れかえってしまうほどの下種な考えが浮かぶ。
もし、楓さんのことを翔太にまかせてしまえれば……
それは冗談だとしても口に出せないほどのもので、明はそんなことを考えてしまった自分に酷く動揺してしまった。
なっ!? なんだその考えは……情けないにも無責任にも程度ってもんがあるだろうが。俺の楓に対する気持ちってやっぱそんなもんなのか……
「明くん? どうしました?」
明の全身が硬直する。明の様子がおかしいのを心配した楓さんが顔をのぞいてきたのだ。思わず目を逸らす。いつもならドギマギしてしまうだけで終わるのだが、今日はなんだか……つらい。
明はそんな気持ちから逃れるように、一歩後ろへさがると画材を詰めたビニール袋を地面へと下ろした。
「なんでもねぇよ。それで、画材なら持って来たけど問題の内容はできてんのか?」
「全然!」
なんとか表情を戻して問いかけた明に対し翔太は胸を張ってそう言い放った。
「だって、俺そういうの苦手だからな! 色々考えたけどよく分かんなかった」
「……おめぇなぁ。そんなんでどうやって絵本作くんだよ。俺たちは手伝いしかできねぇんだぞ」
翔太の態度に明が若干腹を立てて睨む。口調はともかくその態度はいつもより棘々しい。翔太は少しだけ怯んだものの、足を踏ん張って負けじと睨み返してきた。いきなり一触即発の雰囲気ができあがる。
「心配しなくても大丈夫です!」
そして、その雰囲気を中和するかのように明るい声が響く。二人は楓さんの方を振り向いた。
「いいですか。何事も初めからいいアイデアなんて生まれません。悩んで当然、悩んでオーケーなんです!」
楓さんは自信たっぷりに胸を張ってそう宣言した。
「ということで、さしあたっては一緒に内容を考えましょう。誰かと話しをすると良いアイデアが浮かんだり、もやもやしたものが形になったりするものです」
「おぉ。さすが姉ちゃんだぜ!」
翔太は大げさに反応すると、袋からスケッチブックを取り出して楓さんと一緒に再び拝殿の階段へと向かった。
一人取り残された明は複雑な表情で立ち尽くす。悩んでもいい。悩んで当然。自分もそう言い切れてしまえば少しは楽になるのだろうか……そう思って首を横に振った。そんな簡単に済めばそもそも悩んでいない。深くため息をつくと話に参加することにした。
「それじゃぁな。楓姉ちゃん!」
「俺にはあいさつなしかよ!?」
夕方の五時を過ぎて帰ろうとする翔太を見送る二人。翔太は明の突っ込みに舌を出して答えると、そのまま階段を下っていってしまった。
「あのガキは……」
握りこぶしをつくってブルブルと震わせる姿に楓さんがクスクスと笑う。
「そしたら明くん。明日は明くんのお家で続きをすることになります。よろしくお願いしますね」
「あっ、あぁ。昼の一時に家に翔太と一緒に来てくれるんだな? 道順は分かるか?」
「はい。昨日家の前まで行きましたから」
その答えに「そうか」と頷き唾を飲み込む。タイミングを逃し続けていたが聞くなら今だと。
「なぁ、楓。今日の昼休み。なんで来なかったんだ? 一応、俺待ってたんだけど……」
恐る恐る問いかけてみる。聞くかどうか最後まで悩んでいたのだが、やはり気になった。楓さんは首をかしげると、「あぁ」と些細な事を思い出した時のように呟く。その反応に明の胸中が泡立つ。
「すいません。寝てました! なんだかすごく眠たくて、気が付いたら三時過ぎてたんです。ごめんなさい」
楓さんはそう言って笑顔で頭を下げた。明は無言で見つめていたが「わかった」とそれだけ答えると鞄を持って歩き始める。
「それじゃ、そろそろ俺も行くわ。担任から課題をアホみてぇに出されてるからよ、そいつを片づけないといけねぇんだ」
楓さんの顔を見ることなく背中越しに手を振って階段を降りて行く。楓さんは、そんな明に「頑張って下さいね!」といつもの調子で声をかけた。
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「……ごめんなさい、明くん」
明の背が遠ざかっていくのを楓さんは複雑な表情で見つめていた。あんな嘘をついて、きっと彼を傷つけてしまったに違いない。
胸が苦しい。恋人ごっこで充分だと思っていたはずなに、いつのまにかそれでは足りなくなっていた。本気で好きになってしまい。自分へ振り向いて欲しいと、本気でそう願ってしまった。
「どうして……こんなことになったんだろう」
突然、涙が頬を伝う。自分のせいで彼が悩んでいることは承知している。自分の行いが正しいものではないことも重々承知している。でも、それでも気持ちを押さえておくことができない。
「本当はダメなのに。これ以上好きになるなんて……明くんをもっと傷つけることになるかもしれないのに……それでも……」
両手で顔を覆う。近く必ず訪れるであろう未来を想い、涙を流す。少女の小さな口から洩れる嗚咽も、声も聞くことができる者は余りに少ない。故に、彼女は一人、まるで罰を受ける咎人のように、裁かれるのを待つ罪人のように、寂れた神社で身を震わせながら悲しみに暮れるのであった。
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「ただいまー」
家について居間に入るなり「きちんとオーケーしてきた?」と紅葉が笑いを噛み殺しつつ聞いてきた。
完全にバレてやがる……明はため息をつきたくなる気持ちを押さえつつ、いっそのこと開き直ることにする。
「まだだ。そんなに上手くいくかよ」
「……へー。その割には、なんかすっきりした顔してるのね」
紅葉が不思議そうに問いかけた。すっきりした顔? 明が意外そうな顔をする。たしかに胸のもやもやが少し納まっている。楓さんに「寝てました」などと言われた時は、怒りを押さえつけるほうが大変だったというのに。なぜだろうか……
「もしかして、冷めちゃったとかじゃないでしょうね。お兄ちゃんそういうとこあるから、わざわざ焚きつけたのに……止めてよね。女の子が不憫過ぎるから」
「おまえなぁ。いらない心配すんじゃねぇよ。別に今までの付き合いを止めるつもりはねぇし。明日だって会うつもりだからな」
「そう……それならいいけどさ」
心配そうな顔になった紅葉にデコピンをお見舞いする。珍しく反撃してくることなく黙って額を抑えている紅葉をそのままに明はキッチンへと向かう。今日は父が友人と食事に行くとのことだったので紅葉と二人だけだ。身体もだるいし、いっそのこと出前を取ってもいいかもしれない。そんなことを思った明であった。