七月十二日~day 8-②~
神社を出発して十五分ほど、二人は本屋の児童書コーナーにいた。明もよく通っており店長が気さくな雰囲気のいいところだ。
「明くん。次、次めくって下さい」
楓さんが制服の袖を引っ張る。明は「はいはい」と答えつつページをめくっていく。楓さんの本を見つめる顔は真剣そのものだ。
本当に好きなんだな……
昨夜、本屋に一緒に行きたいと言われた時は遠慮しているのかと勘ぐった明であったが、そんな考えが馬鹿らしく思えてくるほど、楓さんは楽しんでいた。別に明と一緒でなくても読むことはできる(むしろそちらの方が簡単)のだろうが、そこを敢えて二人で行きたいと願った楓さんの気持ちを考えると、ついつい頬が緩んでしまう。
「うぅ。胸が熱くなってしまいました。やはりこの絵本は不屈の名作です」
「この絵本読んだことあんのか?」
にっこり笑う楓さんに見送られつつ絵本は棚に収納されていく。
題名は『つばさをぬらしたねこ』。足を怪我してしまい自由に動くことができなくなった猫ミーアが、他の猫から仲間はずれにされてしまう。それを憐れんだ神様に水飴で造った翼を授けてもらい、そのきらきら輝く翼で大空を飛びまわることができるようになる。翼を授かったミーアは、誰より自由になりながらもその力を仲間はずれにした猫たちのために使う。そして、ミーアを仲間はずれにしたことを反省し謝る他の猫たちの涙によって水飴の翼は溶けてしまった。その結果、また足を怪我した猫に戻ってしまうのだが今度は誰にも仲間はずれにされず楽しく幸せに暮らす。という物語だ。
「はい。特にこの絵本は大好きなんです。意識がなくなるまで何度も読んでいたので」
屈託のない笑顔に明は曖昧に頷く。楓さんがあまりに明るいので、ついつい忘れがちになってしまうが彼女はもう死んでいるのだ。
猫のミーアのようにまた人間の輪に戻ることはできないし、人間の輪に戻るためには一度成仏するしかない。そのことを考えるとどうしても表情が曇ってしまう。
「って、いけねぇ。いえけねぇ。しゃんとしろ!」
頬を打って気合を入れ直す。今はそんなことを考える時ではない。一緒に楽しむ時であり、また彼女の気持ちに自分がどう応えるのか考える時だ。そのために、龍一たちに無理を言ってまで調査を中断したのだから。
「おっし、それじゃあ、次はなんにするって……楓?」
気を取り直しして楓さんの方を振り向く。すると、彼女は二人がいる場所から本棚にして三つ分先にいる小学生くらいの男の子を凝視していた。
「どうしたんだ?」
「しっ! 静かにして下さい」
不思議に思って声をかけた明に楓さんは待ったをかける。そして急に明の腕を掴むとそのまま引きずるようにして本棚の陰へと連れて行った。
「おっ、おい。どうしたってんだ?」
「あの子、さっきから動きがおかしいんです。ずっとキョロキョロ周囲をうかがってて……」
「ん? それがどうしたんだ? トイレでも探してんじゃねぇのか」
張り込み中の刑事よろしく少年の様子をうかがっていた楓さんの肩ががくっと落ちる。
「もぅ。 そんなわけないじゃないですか。 万引きですよ。 万引き!」
「えっ、まじかよ!?」
やっと状況を理解した明が、半信半疑ながら少年に視線を向ける。ちょうど楓さんの頭上から身を乗り出した形だ。
目を細める。ここからでは、詳細な顔つきまで確認できないが背格好から考えるに小学校二年生くらいだろうか。この暑いのに大きめのパーカーを着こんでいて帽子を目深に被っている。今は普通に商品を選んでいるようにしか見えないがたしかに怪しい。
「あっ、危ない!」
「ぐぇっ」
今まで本棚の一画をじっと見つめていた少年が、急に二人の隠れている方へ振り向いた。明は、それにいち早く気がついた楓さんの緊急回避的タックルを鳩尾に喰らい悶絶する。屈んでいたため驚くほど綺麗に決まった。
「おっ、おい……」
何とか声を絞り出して文句を言おうとするが楓さんは聞いてない。気分は完全に警察か探偵のつもりらしく、完全に少年の方へ集中している。そして、
「あっ! 服の中に隠した!」
万引きの決定的瞬間を確認するやいなや、明に止める暇すら与えず本棚の陰から颯爽と飛び出した。
「ちょっ、おい! こらっ!」
他人からは見えねぇくせにどうすんだ! そう思った明も同じように飛び出す。不自然にお腹に手を入れた少年が目に入る。そして、少年は明のかけ声が自分に向けられたものと勘違いしたのか、肩を大きく震わせるとそのまま一目散に走り始めた。
「こらー! まちなさーい!!」
「いや、お前が待ってて! 楓!」
静止を無視して楓さんも走り始める。少年は予想以上の速さで自動ドアに向かうと、その小ささを活かして僅かに開いたところをするっと通り抜けてしまった。そして、再び閉まりそうになるドア目がけて楓さんも突っ込んでいく。
「ばかっ! あぶっ……!!」
明の脳裏を粉々になるガラスと倒れる楓さんのイメージが襲う。しかし、楓さんの身体が透明のドアへと触れた瞬間砕けるどころか水面を思わせるように表面が波打ち――しゅるんとすり抜けてしまった。
ドアの向こう側。何事もなかったかのようにセーラー服をなびかせ駈けていく姿を唖然と見送って、正気に戻った明は舌を鳴らす。
「くそっ! 驚かせやがって。心臓止まるかと思ったじゃねぇか!」
「どうしたんだい明くん!?」
「おっちゃん。万引きだ! 捕まえてくるから待っててくれ!!」
騒ぎに気がつきカウンターから顔を出した店主にそう言い残すと、明も二人を追って本屋を後にする。雨はすでに止んでしまい光が差し込み始めていた。
「うぉぉぉぉぉ!!」
本屋を出て右、まっすぐ伸びた道を走っている楓さんの後ろ姿を確認した明は全力で追いかける。生前病弱だったせいかは分からないが思ったより足が遅いので助かった。これで空でも飛ばれたらお手上げだっただろうが数十秒ほどで何とか追いつく。
「楓! あのガキはどこだ!?」
「あそこです!」
明の瞳が丁度ビル一つ分間空けて走っている少年を補足する。手に絵本を握っているのも確認できた。さらに速度を上げる。
問題ねぇ。いける! あの年齢にしては早い方だろうが追いかけているのは中学生だ。明が確信したとおり逃げ切れるはずもないがそれもずっと直線だったら、の話しである。
「っ!」
明が本日二度目の舌打ちをする。背後から迫る威圧感に気がついたのか少年は通行人を避けるために大きく弧を描くと、そのまま右手にあるビルの間へ入ろうとする。ここら辺は大中様々な建物の密集地帯だ。路地裏に入られてしまっては足の速さに関係なく見失う可能性が高い。
くそ、どうする……!? 追いつくには後一歩足りない。少年の横顔を睨みつつ歯噛みをしていると、ふと先ほどの光景を思い出した。
「楓ー!」
「はっ、はい!?」
なんとかついてきていた楓さんに向かって、斜め前にあるビルを指さす。
「突っ切れ!!」
「……! はいっ!!」
楓さんは明の意図を瞬時に悟ると、そのままコンクリートの壁へ突っ込んでいく。瞬間、先ほどの自動ドアと同じように、固く無機質なビルの表面が波打ち楓さんはスピードを落とすことなく中へと吸い込まれていった。
「よしっ!」
小さくガッツポーズをして明も路地裏に入る。すると抵抗することを諦めたのか、それとも単に走りつかれたのか、両手を広げた楓さんを正面に件の少年が呆然とした表情で立ち尽くしていた。
「観念しやがったかこの悪ガキが!」
息を弾ませながら、少年へと近付くと首根っこを掴んで自分の方へと引きずる。
「うわっ、なんだよ、 離せ! てゆーか、お前はなんだ!!」
掴まれて意識が戻ったのか突然叫び暴れるが、流石に力が違い過ぎる。身をよじるばかりで一向に抜け出せる様子はない。
「あん? 俺は下鴨明だ。年上に向かってお前呼ばわりとはいい度胸じゃねぇか」
「あっ、明くん。まだ、子どもですから優しくしてあげないと」
楓さんがフォローをいれるが、それを無視して明は掴んでいる手を頭に置き換えると押さえつけたまま上から睨みつける。
しかし少年も負けていない。帽子の下から生意気そうな瞳でジロリと明を、じゃなく楓さんの方を見つめ二人にとって予想外のことを言い放った。
「お前の名前なんて聞いてねぇーよ! このくり頭! おれが聞きたいのはそっちの姉ちゃんの方だ!!」
「へっ、私ですか?」
素っ頓狂な声を上げて楓さんが自分を指さす。
「そうだ! いきなり壁から出てきやがって、マジシャンかなにかか!?」
たしかに水面が波打ったような登場の仕方は綺麗だしマジックに見えなくもない。自分が神社で初めて見たときにはまったく疑うことはしなかったが、そういわれてみればまず一番先に疑うべきことのような気がして、明は妙に感心してしまう。
「なるほどなぁって、えっ!? お前楓が見えてんのか?」
しかしそれも束の間、驚いた声で少年に問いかける。
「当たり前だろ。いい加減手を離せよな。このくり!」
「なっ! 誰がくりだ! このクソガキがぁぁ! 今から本屋のおっちゃんに詫び入れさして絞ってやるから覚悟しろ!!」
「おう! やれるもんならやってみやがれこのくり野郎!!」
少年は頭を押さえつけられたまま一矢報いようと四肢を出鱈目に動かす。二人がギャーギャーと言い合っていると、
「止めなさーーーい!!!」
ビリビリと二人の鼓膜を衝撃が襲った。その威力といったら路地裏に設置してあったポリバケツが吹き飛んでしまいそうなほどだった。というか、実際に少し動いた。明はそれを横目でそろりと見つつ楓さんの方へ視線を向けた。
そこには腰に手をあてて仁王立ちした楓さんの姿が……顔は笑顔だがこめかみが小刻みに震えている。
「やっと、人の話を聞いてくれそうですね。明くん。まずはその子を離してください」
「いや、また逃げられたら……」
「明くん!!」
「はっ、はい!」
迫力に負けた明が少年を解放すると楓さんはそのまま少年へと近づいていく。静まりかえった路地裏には通りから聞こえる雑音のみが響いている。
近づいてくる楓さんに少年が短く呻いた。その背後では明が合唱をしている。楓さんは心外だと言わんばかりにムッとした表情をしたが、咳払いをして表情を戻すと少年の前に腰を下ろした。
「驚かせてごめんね。もう怒ったりしないから、あなたのお名前教えてくれるかなぁ?」
普段のようにおっとりした口調で語りかける。すると少年なにかを判断するように楓さんをまじまじと見つめた後、小さな瞳を伏せつつ「……翔太。近藤翔太」と呟いた。
「そう。翔太くん。私は“かえで”。よろしくね」
そう言って微笑む。
「翔太くん。今から少しだけお姉ちゃんとお話してくれるかな? お姉ちゃん翔太くんの話したくさん聞きたくなっちゃった。お願いできる?」
伏せられていた翔太の瞳が一瞬戸惑いに揺れる。おずおずと視線を上げると、小さく頷いた。
「そしたら妹さんにあげるつもりだったの?」
「うん。俺の妹さ、身体弱くてずっと入院してんだ。絵本も欲しがってたけど、俺んちビンボーだし、真菜華の病気なおす分だけで精一杯なんだ。だから、俺が約束したんだ。絵本は兄ちゃんが持ってきてやるって」
「そう。妹さんは真菜華ちゃんっていうんだね。翔太くんは真菜華ちゃんに喜んでもらいたかったんだ?」
翔太はジュースを啜りながら頷く。ここは近くのファーストフード店だ。さすがに路地裏で話すのも微妙だと思った明が、場所移動を提案したのだ。もちろん代金も明もちだ。
「翔太くんは真菜華ちゃんのこと大好きなんだね?」
「まっ、まぁ、時々生意気だけど妹だからな。俺がきちんとしてやらないとダメなんだ」
翔太は頬を染めて目を逸らす。口調が焦っているのは照れているのだろう。楓さんはその姿にクスクス笑う。そうして笑い終えると今度は真面目な表情で語りかけた。
「……そしたら、大事なものがある翔太くんには、自分がしたことは悪いことだって分かってるよね? それに、お兄ちゃんが悪いことして手に入れたものを真菜華ちゃんは喜んでくれるかなぁ? もし秘密にしたとして翔太くんは胸を張って真菜華ちゃんのありがとうに応えてあげられる?」
諭すような言葉に翔太はストローを加えたまま微動だにしなかった。顔の真ん中にパーツを寄せたその表情は悔しそうにも見えるがきっと違うのだろう。机をじっと見つめていたがしばらくして頭を左右に振った。
「……謝る」
それを聞いて満足そうに頷いた楓さんは小さなその頭をやさしく撫でる。「偉いね。頑張ったね」そう言っている楓さんの表情は本当に嬉しそうで、その声は本当に優しくて、翔太はそのまま震えて俯いてしまった。
二人を静かに見つめていた明は、ふいに視線を外へと移す。今の明にできる、精一杯の気遣いだった。
「ごめんなさい!」
「すいませんでした!」
本屋に戻った三人は一緒に頭を下げる。といっても、楓さんは見えていないので実際は明と翔太の二人で謝っている状態だ。本屋の店主は難しい顔をして二人を見つめていたが、軽くため息をつくと口を開き始めた。
「ふぅ。理由も分かったし、明くんがそこまで一緒になって頭を下げるんだ。よし、坊主。本も戻ってきたから今日はこれくらいで許してやるっ!」
――ごちんっと店主が拳骨をお見舞いして「もうするんじゃないぞ」と笑う。二人(三人)は店主にもう一度謝り、御礼も伝えてから本屋を後にした。
帰り道。三人は川沿いにつくられた土手をブラブラと歩いていた。もう夕方の六時も近くなってしまったので翔太を家まで送ることにしたのだ。話を聞いたところによると、同じ地区らしい。
翔太は途中で引っこ抜いた丈の長い雑草を片手に先頭を歩いている。明も話していて分かったが、元々万引きをするような子ではなかったのだろう。謝ってすっきりしたのか、色を失い始めた太陽に照らされたその顔はどこか晴れやかだ。
「……」
明は考える。万引きという行為を選んでしまったのは妹の願いを叶えてあげたい一心からだったのだろう。自分もあんなアホみたいに生意気でも妹のことはそれなりに大事だと思っている。だから翔太の気持ちも分からないでもない。
あの本……買ってあげればよかったか。いくら万引きのことは解決したとしても、妹との約束は守れなかったわけだし兄貴としては悔しいよなぁ……そんなことを思いついて首を横に振るう。それが間違った行為だとは思わないが、なにか違う気がしたのだ。
「ここまででいいよ。俺の家、この土手真っ直ぐ行ったらすぐだから」
翔太が立ち止まる。それに明は頷くと、「じゃぁな」と口にする。続いて楓さんも別れを告げるだろうと待っていたのだが、なぜか微笑んだまま一向に口を開く気配がない。
どうしたんだ? 明が訝しがっていると、ニコニコしながら翔太に近づいて行った。
「じゃぁ、翔太くん。明日は何時に会えるかな?」
翔太が――きょとんとした表情で見上げる。
「だって、絵本。真菜華ちゃんにあげたいんでしょう? それなら作っちゃえばいいんだよ。翔太くんが心を込めて作った世界に一つだけの絵本。真菜華ちゃん喜ぶと思うな~」
楓さんは屈むと「ね?」と言いながら首を傾ける。翔太は目をまん丸にしていたが、急に破顔すると楓さんの手を握った。
「そっ、そうか! そうだよな姉ちゃん!!」
「そうだよ! そうだよ!」
二人は楽しそうに取り合った手を、何度も上下させる。
「俺、明日は六時間目まであるから三時に学校終わる!」
「げっ、今の小学校は低学年でも六時間目あんのか?」
顔を輝かせた翔太に、明が思わず突っ込む。自分が小学生だった時は六時間目など四年生に上がるまでなかったはずだが。たった二年で変わるもんだ。と心底驚いた。が
「俺は四年生だ! 間違えんじゃねぇよ。このくり頭!!」
どうやら勘違いだったらしい。怒った翔太は近づいてきて、今度は別の驚きで口を開けていた明の脛目がけて強烈な一撃を叩きこんだ。
「がっ! いってー。このガキがぁ」
脛を押さえて睨みつけるがもう目の前にはおらず、すでに後ろを向いて走り出していた。その背中に追いつくように楓さんが明日の三時過ぎに中学校裏の神社に来るように叫ぶ。すると、礼のつもりだろうか、クルッと反転して大きく頭を下げると手を振ってそのまま緩やかな傾斜を下って行ってしまった。
「たく。どうしようもねぇ悪ガキだぜ」
明の悪態に楓さんが後ろを振り向く。向かい合わせになる二人。楓さんは楽しそうに笑っている。
「ほんとですね。明くんにそっくり」
「……どこがだよ。俺は素直だぞ」
「だからそっくりです」
そう答えてころころと喉を鳴らした。明は下唇を突き出し顎に梅干しをつくる。なんだか複雑な気持ちになってしまった。
「なぁ……」
「なんですか?」
「翔太のやつが本当は悔しがってること見抜いてたのか?」
「んー。そういうわけではないです。なんとなくもったいないなぁって」
「もったいない?」
「はい。だって翔太くんの真菜華ちゃんを思う気持ちは本物でしょう? 今回はそれがいき過ぎちゃって悪いことをしてしまいましたが、それでもその気持ちは叶えてあげたいじゃないですか」
明はそれになにかを気づかされたかのように目を見開いた。楓さんは微笑んだまま土手の縁までゆっくり歩いていく。目の前にはゆるやかに流れる川がキラキラと輝いていた。
「それに私、絵本作家になるのが夢だったんですよ。自分と同じように病気で悲しい思いや寂しい思いをしている子どもたちの心が元気になるような、そんな絵本をつくりたい。ずっとそう思ってたんです」
穏やかな声でかつての自分の夢を語り始めた楓さんの表情は明からはよく見えない。
「私の本好きは絵本がルーツなんです。小さい時から満足に外で遊べなかった私に、母がいつも読んでくれて……ほら、絵本の中って不思議なことだらけじゃないですか。空を飛んだり、海の底に潜ったり、神様がいたり、魔法を使えたり、王子様がいたり……」
楓さんの肩が揺れる。きっと笑ったのだろう。
「そんな夢いっぱいの世界が私にとっては唯一の癒し……いえ逃避だったんです。現実の私は病気でちっとも自由にできなくて、なんの力もない。そこから私を開放してくれる唯一の道具だった……でも、あるきっかけで気がついたんです。現実から逃げてちゃダメだって、向き合わないとダメだって。それに気がついてから絵本を見直すと内容が全然違って見えたんです。今まで読んでいた絵本はすべて希望や、優しさや、命の大切さや、本当の強さや、そんなことを私に伝えていました。私に生きる希望をなんとか伝えたい。そんな両親の想いや、創った人の想いが詰まっていたんです。それに気づいた私は泣きました。そして、なんてすてきなんだろう。なんてやさしいんだろう。こんな私にも力を与えてくれるなんて……こんなすてきなものを人が創ることができるなんて。私も創りたい! てそう思ったんです」
穏やかに話をしていた楓さんだったが、最後、語尾が微かに震えた。
「…………。でも結局私には無理でした。ただ今回は間接的にですけどそれが叶いそうだから……実は少し嬉しいんです。私が主役ではないって分かってるんですけどね」
少しだけ沈黙して話し始めた楓さんは、また穏やかな口調に戻っている。それがどうしようもなく明には悲しかった。
なんだよそれ。お前の気持ちだって大事じゃねぇのかよ……
明の中で熱い気持ちが込み上がってくる。そしていつの間にか噛みしめていた唇が少しだけ動いて、やはり止まった。
――諦めんなよ! 今からでも夢を見たらいいじゃねぇか! なんなら俺が一緒に叶えてやるよ!!
そう言いたかった。口走りそうになった。でも無理だった。
楓さんを好きかどうか分からない自分がそんなこと言っていいのか迷ってしまった。真剣に向き合おうとすればするほど二の足を踏んでしまう。自分の気持ちは彼女とつりあう程のものなのか……そんなことを思ってしまうのだ。
こんな時に言葉一つかけてやれねぇなんて、情けねぇ。
明は悔しくて俯いてしまう。すると、明の様子に気がついたのだろう楓さんが近づいてくる気配がする。明はその足音が近づくたびになぜか責められているような気持がして、余計に顔を上げることができなくなってしまう。
「私を泣かせないでください」
「えっ?」
その言葉に明が反射的に顔を上げた。目の前には申し訳なさそうに微笑む楓さんの姿。
「明くんにそんなに悲しそうにされると、私が泣いてしまいます。だから、あなたは笑っていて」
ひんやりした感覚が明の頬を覆う。楓さんの右手が明の頬をやさしく包んだのだ。
「……っ。でもよ」力なく呟いた明に、楓さんは黙って首を横に振った。
「明くんは私の気持ちにきちんと応えてくれてます。だから今日も楽しかったし、明日も楽しみが増えました。これって幽霊にしてはでき過ぎなぐらい……それこそ絵本みたいにすてきな話じゃないですか?」
明は瞳を固く閉じると頬に添えられた楓さんの手を掴み、そして小さく「ごめん」と呟いた。
「いいんです。昨日言ったでしょう? 明くんに好きだって言わせてみせるって。それは私だけの楽しみなんです。だから……ね?」
明の瞳から涙が流れそうになる。自分はいつの間にこんなに涙もろくなったのだろうか? 母が死んでから一度として涙を流したことなどなかったのに……彼女の一言でこんなにも簡単に心を揺さぶられてしまう。
「帰りましょうか」
楓さんがゆっくりと明の手を引いていく。明は無言で頷くと、彼女が自分を思ってくれている数百分の一くらいの……まだ口にすることさえ憚れる、ちっぽけな気持ちかもしれないけど、それでも伝わりますように。そう願って楓さんの冷たくて暖かい手を強く握り返した。
あれ?明がヒロインみたいになってる。どうしてこうなった。いやー、というか恋愛って難しいんですね。むずーかーしーいー。というか読んでくれている人が展開についていけているのかだけが心配であります。
なんでもいいので感想でもくれたら喜びます。