七月十二日~day 8-①~
ちょっと長くなっております。
七月十二日木曜日、天気は梅雨に戻ったかのような曇天。身体に張り付くような湿気をさらに助長させるかのように、パラパラと小雨が降っている。終日この蒸し暑さに耐えた教室は、生徒共々くたびれているように見えた。
しかし、そんな誰もがだらけてしまった雰囲気の中で、矢野教諭だけはいつもと変わらない。パリッとしたスカートスーツを着こなし、キビキビとした口調で生徒たちに連絡事項を伝えていた。
「最近、どのクラスでも空気が浮ついていると職員会議で話題になった。期末試験も終わり、あと一週間で夏休みだ。緩んでしまう気持ちは分からんでもない。しかし、そんな時だからこそ気を引き締めねばならん。皆で一緒に終業式を迎えられることを願っている。解散!」
矢野教諭の絞めの言葉とともに、日直が号令をかける。全員が揃って頭を下げるやいなや、誰の頭も上がり切らぬうちに席を立つ者が一人。短くツンツンと逆立った頭髪を揺らしながら、一目散に教室から飛び出して行った。
「し~もぉかぁも~……私の話しを聞いていたのかぁ!!」
廊下を走り去っていく明の背に叫び声がぶつかる。いつもならブレーキの役目を果たすその怒声も、今の明にとっては追い風にしかならない。
明は頬を緩ませると速度を速める。湿った空気に濡らされたコーナーを滑るように華麗に曲がると、階段を駆け降りた。
怒り心頭の矢野教諭が出ていってから数分、教室は騒がしい。
「あははは。明のやつすごい勢いだったね。見てよ。机が斜めになってる」
「まったく。なんだ、あの浮かれようは。結果としては後退しただけではないか」
笑いながら机を戻す修二とは対照的に龍一はしかめっ面だ。どうやら昨夜の出来事についてはすでに聞いているらしい。たしかに恋人同士の関係を止めたわけだから、結果としては後退したとも言える。なのに、なぜあんなに浮かれているのか、龍一は「まったく理解できん」と苛立ちを込めて吐き捨てた。
「なに思春期の子どもを持った親父みたいなこと言ってんのさ。禿げるよ」
そこに猛からの容赦ない突っ込みが入る。龍一からギロリと睨みつけられてもどこ吹く風だ。しかも、無意識に鼻歌を歌っているところを見るにかなり上機嫌らしい。
「まぁまぁ。落ち着いて」
修二がいつものように仲裁に入ろうとするが今回ばかりは彼も怒りの対象内だ。そのため、宥めるどころか逆に油を注いでしまった。龍一の声が険しくなる。
「大体、お前らが変な事を吹き込むからこうなったんだぞ! ここまできて調査を中止するだなんて……後は楓さんに関する記録を探すだけだというのに!」
そう、資料室の片づけは今日の昼休みで終わっていた。昨日の時点でゴミを分別して捨てるだけになっていたため、放課後を休みにする代わりに昼休みで済ませてしまおうということになったのだ。三人が昨夜のことを聞いたのもその時だ。
話しを聞き終えた時の龍一の狼狽のしようといったらなかった。明に「お前は楓さんのことが好きなのか? なぜそうなった!」と、事情を知らない人が聞けば勘違いされそうな言葉を吐きつつ掴みかかったのである。
それに驚いた明が「いや、好きかはわかんねぇけど。今の状況になったきっかけはあいつらだ」と猛と修二を指さしたため、結局全ての経緯を話すことになり、二人は龍一から不興を買ったというわけだ。
しかも、明が楓さんは噂と違い本気で自分のことを思ってくれている。その気持ちに正面から向き合いたい。だから自分の気持ちが整理できるまで調査はいったん中止したいなどと言い出したのだ。
これに龍一は真っ向から反論。まだ楓さんに危険がないかどうかは分からないし、調査は進めた方が後々役に立つかもしれない。とあらゆる方向で考えを改めさせようと試みたが、頑固者の明である。謝りはするものの結局自分の意思を曲げることはしなかった。
その時のことを思い出したのか、龍一は再び眼前の二人を睨みつけるが、
「ほんと、明のやつどうかしてるよね。今度は自分の気持ちが分からないなんて。好きですって顔に書いてあるんだから、さっさと付き合っちゃえばいいのさ」
「ん~。さすがに自分が楓さんに好意を持ってることぐらいは自覚してるんじゃないかなぁ。たしかにその割にはって感じだけど」
「もしかして、自分の好きが恋愛感情かどうか判断できなくて二の足踏んでるとか……?」
「あはは! それはあり得るね。むしろすごく明らしいなぁ」
「うわっ! なにそれ。どんだけ純情なのさ。恋愛漫画かっつーの」
視線による糾弾もなんのその。二人はまったく意に介さないばかりか話しをさっさと変えてしまう。その表情はどこか嬉しそうでそれがまた龍一の癪に障る。
「お前らは人の話を聞いているのか!」
龍一が机を叩く。すると、二人は会話を止め猛が呆れたような顔で振り向いた。
「はぁ~。聞いてるって。大体、放っておいたってこうなるのは時間の問題だったさ。いい加減認めなよ」
猛は肩をすくませつつ誰かと似たようなセリフを口にする。「まったくこの堅物は……」と心の声が透けてしまっているところは、きっとわざとだろう。
龍一が押し黙る。彼とて明が楓さんに魅かれていることなど、最初から感づいていた。しかし、だからこそ本当の恋愛に発展する前に終わらせたかったのだ。そのためにも早めに解決すると、二人には伝えたのに……
「俺たちだって龍一の気持ちは分かってる。けど、楓さんの気持ちを正面から受け止めようっていうのも明が成長した証じゃない。楓さんも噂とは違って手当たりしだい男に復讐って感じでもないし、少し待ってあげようよ」
「そうそう。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやらってね。ゆっくり見守るのだって友情ってもんだろ?」
この始末だ。
なにが人の恋路だ。それでまた明がどうしようもなく傷つく結果になったらどうするつもりだ。たしかに楓さんだって不憫かもしれない。しかし、もう死んでいるし、成仏させること自体は悪いことではないはずだ。二人が余計な事さえしなければ、丸く収まっていたかもしれないのに。
龍一はメガネを外して眉間をマッサージする。冷静になる時の癖だ。
明については自分の方がよく知っている。あいつが子どもの時から、二人よりもずっと前から親友だったのだから。そう思って反論しようとしたその時、頭の中に違和感が広がった。
「……」
「どうしたのさ。明に負けないくらいアホ面になってるよ」
猛が訝しがるが、龍一は口を開いたまま唖然としている。修二もその様子に首をかしげた。いつも冷静な龍一らしくない表情だ。
「なぜ……明なんだ?」
突然、心ここにあらずといった風で口走る。
「そうだ。初めからおかしいんだ。噂と違うのならなぜ明を選んだ? 明から聞いたやつの言動……まるで初めから……」
茫然と呟くと、今度は何かに追い立てられたように急に廊下へと走りだす。残された二人は不思議を通り越し驚いた表情で顔を見合わせると慌てて後を追いかけた。
「いきなり、どうしたのさ!?」
追いついた猛が肩を掴むが、龍一はそれを振りほどこうと声を荒げる。
「どうもこうもない。資料室だ! 今から楓さんの資料を漁る!」
「資料室って。調査は止めるって明が言ってたじゃないか」
追いついてきた修二が息を切らしながら尋ねる。龍一は急く気持ちを押し殺すように歯を食いしばり、早口で説明を始めた。その焦りようは本当に普段の彼らしくない。
「お前たちは変だと思わないか? 楓さんが噂と違うのなら、なぜ出会ってすぐの明と付き合おうとした? なぜ明のためにあそこまで頑張ろうと……まるで自分のことを好きになってもらうようなことをした? あいつは何時から明のことを好きになったんだ!? 出会って一週間しか経っていないのにだ!!」
「なぜって……」
その勢いに二人が口ごもる。そう言われればたしかにおかしい。明と楓さんは一週間前に初めて出会ったはずだ。それなのになぜ、話しを聞いているだけの自分たちがべた惚れだと認識するほど明に尽くしたのか? それも途中からではない。出会って次の日にはそうだった。龍一の言う通り明に好きになってもらおうとずっと一生懸命だったように見えた。そう、まるで明のことを最初から狙っていたかのように……
『恋する幽霊』だから? 違う。それは明自身が昨夜否定したばかりのはずだ。根本的に彼女は噂とは違う……ちが……う?
二人が愕然とした表情で龍一を見つめる。
「そうだ。途中で気がつくべきだった。元の噂が曖昧すぎたせいで多少の違和感は無視していた。俺たちも『恋する幽霊』に惑わされていたんだ。しかし、よく考えろ。今まであれが楓さんだと思い込んでいたのは、明が噂の時間帯に呼び出して、あの幽霊がそう名乗ったからだ。明が信じたからだ。逆を言えばそれぐらいしか根拠がないんだ。しかも今となってはそう信じた明自身が、楓さんは噂とは違うと断言している!」
「それって、つまり……」
修二が息をのみ、龍一が険しい表情で頷いた。
「あぁ。今明と一緒にいるあの幽霊は……別の何かかもしれない。そういうことだ……」
急いで学校を出てきた明は南石階段の中段ほどで息を整えると、鞄から身体の汗を拭きとるためのウェットティッシュを取り出す。登校前にテレビCMで見かけ近くのコンビニで買ったものだ。
普段洒落っ気は皆無というより、むしろこういったものにお金を使うことを小馬鹿していた明にとって――まさかこんなもの欲しくなるなんて……と自身の心境の変化に戸惑い、さらに小さな意地も邪魔したのだが、それでもCMに出ていた女の子たちが「COOLで爽やかな人ってステキ!」と言っていたのに負けてしまった。もっというなら、その女の子がどこかの幽霊と被ってしまい、意地がポキンッと折れてしまった。相手の方がよっぽどCOOLなのになにやってんだ。というセルフ突っ込みもその時ばかりは無視することにした。
明は制服のなかに手を突っ込んで丹念に身体を拭く。拭いた個所からメンソールの爽やかな香りとひんやりした感覚が広がっていき心地よい。レジに持っていった時は気恥かしかったが、今は買ってよかったと思っている。その効能に満足しつつ、仕上げに身体が汗臭くないかを確認して階段を上がった。
神社に着くと拝殿の屋根の下に佇む楓さんの後ろ姿が目に入った。雨に濡れた二匹の狛犬の背後、守られるようにしてじっと正面を見つめている。すぐにでも声をかけたかったが、それを憚れる雰囲気を感じ高鳴る鼓動を押さえつつ努めてゆっくり歩みを進めた。
「よっ、よう。待たせちまったか?」
微妙に裏返ってしまった声に楓さんが後ろを振り向く。風がざぁっと吹いて肩まで伸びた黒髪が彼女の白い顔を隠した。
「明くん! いつの間に来てたんですか? 予想以上に早くてびっくりしました」
しかし、それも一瞬。明に気がついた楓さんはいつものようにニッコリと微笑んだ。その言葉に明も一安心する。とりあえず昨日のわがままを守ることはできたらしい。
「しかし、昨日も拝んでたな。やっぱ、ここに住んでるだけあって神様ともなんか関係があんのか?」
傘を閉じて楓さんの隣に立つ。幽霊がいるのならば神様だっているのかもしれない。閉じられた木製の扉の隙間から御神体が見えないか覗いてみる。
「んー、なんというか、この場所が好きなんです。ここの神様はきちんと願いを叶えてくれる神様ですから、側にいると安心するんです」
楓さんは曖昧に答えるが、明は特に気にした様子もない。楓さんの表情を軽く確認しただけで、次には感心したように頷いた。
「ふーん。その割には、こんなに寂れ……」
ぽろっと本音を口にしそうになって、慌てて口をふさぐ。こんなこと神様に聞かれでもしたら罰が当たるかもしれない。そう思っての行為だったのだがすでに手遅れだったらしい、責めるような冷たい視線を感じて横を向く。
そこにはジト目で明を睨みつける一対の瞳が……
――そうだ。楓はロマンチストだった。
思い出して背筋がヒヤッとする。そんな彼女のことだ。自分が好きな神様を馬鹿にされて怒らないわけがない。
「さ、さぁ。それじゃ、出かけようか。なっ? 楓?」
額に汗を浮かべつつ、なんとか話を逸らそうと努力してみるがもう駄目だった。楓さんはまるで力をためるかのようにぷくーと頬を膨らませ、
「なんでそんなこと言うんですかー!!」
と、今にも噛みついてきそうな勢いで吠えた。その迫力たるや、後ろに控えている狛犬に勝るとも劣らぬといった感じである。
「たしかに見てくれはボロッちくて雨漏りはするし、風が強い日は屋根ごと吹き飛びそうだし、人が来ないからお賽銭だって微々たるものかもしれないですけど、それでも素敵な神様なんですよ! それを……なんてこと言うですか明くんは!!」
「あぁ、そうか。俺はそこまで言ってねぇけど……とんだ天罰だな」
身を縮ませ小声で弁解するが、スイッチが入ってしまった楓さんは止まらない。むしろ明の態度に余計腹を立てたのか、今度は頭から角がにょきにょき生えてきそうだ。
仕方ねぇな……
話しを逸らすタイミングを完全に失った明は実力行使に出ることにした。右手が楓さんの口元目がけて伸びていく。
「いいですか! こ!? ふがっ……」
いきなり唇を押さえられた楓さんは皆まで言うことをできずに口ごもった。
「悪かった。謝るから機嫌直してくれ。今から二人で出かけんだろ。な?」
明は顔を近づけて微笑む。
「@*;:/.;ーー!!」
楓さんは耳まで赤くして声にならない声で叫ぶと、そのまま何度も頷いた。
「おっし、良い子だ」
「うぅ。明くんって時々凄くずるいですよね」
「ずるいって何が?」
開放された楓さんは先ほどとは違った意味で頬を膨らませるが、明は自分が恥ずかしいことをしたという自覚がない。
「……もういいです」
それに肩を落としつつ楓さんは自分の唇をそっと撫でた。
途端、はてなマークが浮かんでいた明の脳内にびびびっと電気が走る。幽霊にしては、いや幽霊で驚くほど肌が白いからこそ余計映えてしまう色鮮やかなピンクの唇……それを白くて細い指が愛おしそうに撫でる。それに加えて恥ずかしそうに染めた頬と少し湿り気を帯びた伏し目がちの瞳が……なんというか色っぽい。
やべぇ。こいつ……
明は自分の顔が火照っていくことが分かっても、まるで引力が働いているかのように目を逸らすことができない。
「明くん」
「……なんだよ?」
吐息を漏らすように語りかけてきた楓さんに辛うじて返事をする。一度唾を飲み込んだために生じたタイムラグを楓さんがどうか変だと思っていませんようにと祈る。
恥ずかしそうにゆっくりと唇を開く。その数秒さえ明にとってはスローモーションのように感じた。
「……他の女の子にもこんなことするんですか?」
「ぶっ! んなわけあるか!? だいたいそんな機会に出会ったこともねぇよ!」
楓さんの斜め上の質問に噴き出す。そして、呪縛からやっと放たれた明は後ろを振り向きこの話はこれで終わりだとでもいうように傘を開いた。
「えー、でも……明くん意外ともてるんですよぉ」
「ん? なんか言ったか?」
「……なんでもないですぅ」
明は恥ずかしさを誤魔化すために半眼で楓さんを見つめると、一人が入れるくらいの空間を開けて、ちょいちょいと手招きする。それを見た楓さんは嬉しそうに顔を輝かせると、「えいっ!」とぶつかるくらいの勢いで傘に入ってきた。そこには、先ほどまでの艶めかしさはどこにもない無邪気で年相応の少女の姿があった。
「うわ、ひっつきすぎだろ!」
「えへへー。私は昨日宣戦布告したんですから、このくらい積極的な方がいいんですよぉ」
「……さいですか」
「さいです!」
ただでさえ火照った頬がさらに熱くなる。お前だってずるいじゃねぇか。そう呟いた明に楓さんは満面の笑顔で返したのだった。