七月十一日~day 7-②~
明は風を切った。足を踏み出し、加速していくごとに今までの沈んでいた気持ちが嘘のように軽くなっていく。公園の先の十字路を右に曲がり、いつものスーパーを通り過ぎる。そのまま真直ぐ進み校門を突っ切って神社の南石階段を二段とばしで飛び登った。
「がはっ、はぁはぁ」
半ばほどで大きく息を吐く。足も疲れてきて速度も遅くなってきている。しかし、気持ちだけはさらに早く、もっと早く、一秒でも早くと明をはやし立てる。
石段の最終地点。鳥居の真下。しんどくて俯いていた顔を上げる。視線の先には、拝殿の前で祈るように佇む女子生徒の後ろ姿があった。
「っ、はっ。かっ、楓ーーーー!!」
叫んだ。間違いない。薄暗い外灯でよく見えないが、肩までの黒髪、女子にしては高い身長、それでいて華奢な身体。間違いない。明はもう一度確信して、そのまま重たくなった身体を引きずるようにして近づいていく。
「明さん!? どうしたんですかこんな時間に」
明の姿に驚きつつも、楓さんが近づいてくる。昼間のぎこちなさはどこにもない。いつもの彼女だった。
「止めろ!」
「はっ、はい? 何をですか? 明さん」
差し伸べた手を思わず引っ込める。
「はぁ、かっ。そ、その……“明さん”ってのを止めろ!」
あまりの唐突さに言葉を失ってしまった楓さんの細い肩を、明が両手で掴む。
ビクッ。掴まれた肩が震える。明を見つめるその瞳は困惑しきっていた。
「俺も……俺も、楓って呼ぶ。だから“さん”だけは止めてくれ。何か距離があるみてぇで、嫌なんだ」
自分は上手く笑えているだろうか。そんなことを思いながら、明は今できる精一杯の優しい笑顔をつくった。
「ふぅぅ。うぅぅぅ」
すると楓さんは困惑した表情から一変、見る見るうちに口がへの字になって、目が潤み始める。
「えっ。おい、泣くなよ。ごめん、痛かったか? それともビックリしちまったか?」
慌てて肩から手を離す。しかし、その間にも楓さんの瞳は涙をため込み遂には顔を隠すこともせずそのまま泣き始めた。
「ちがっ、違うんです。私嫌われてるって思ってたから……!」
「嫌われてるって、俺にか?」
むしろ嫌われたとしたら自分ではないか。そんなことを考えた明だったが、楓さんは泣きながら肯定する。
「だから、私の名前呼んでくれないんだって……おっ、おまえとかあんたとか呼ぶんだって。今日だってずっと名前呼んでくれなっ、いしぃ」
「っつ!」
嗚咽を我慢する彼女の姿に心が締めつけられた。自分が意識していなかったことで、こんなに傷つけていたなんて……傷つけていたのが今日だけじゃなかったなんて……
止まったはずの涙が、また溢れ出しそうになる。
「優しいから無理してくれてるだけなんだって。うっぅ。喜んでもらおうとしても、ぜっ、全部裏目に出ちゃうし。昨日のことだって謝りたかったのに……本当は熱かったんですよねぇって」
「気づいてたのか……」
「だって、ずっとしかめっ面なんですっ……もん。おかしいなって気づいた時はもう予鈴でてっ……謝れなくて。それで、今日謝ろうとしたら、明さんがひっ……ひざ。うぅぅ」
楓さんの言葉に驚きを隠しきれず明は呟いた。たしかに熱いのを我慢していたからしかめっ面になっていたかもしれない。しかし、これで楓さんが無言だった理由も、最後の涙の理由も分かった。
怖かったのだ。中々謝罪を伝えられなかったところに、本人がいきなりその話題を振ってきた。しかも、本当は熱かったはずなのに気持ち良かったなどと口にするのだから、楓さんとしては遠まわしに嫌味を言われていると勘違いして怖かったのだろう。それに加えて明の無神経な「あんたが本当に好きなのは先輩で、自分ではない」という旨の一言だ。あれでは、今まで明に好かれようとしてきた楓さんの努力をすべて否定しているのと一緒だ。
一番努力を伝えたかった相手に、それがまったく伝わっていなかったのだ。涙を流すには十分すぎるほど、辛くて、悲しかったに違いない。
「なのに名前で呼ぶって。嬉しいよぅ」
楓さんは、鼻をすすると子どものように上を向いたまま思いっきり泣きだした。頬を伝った涙が顎先から流れて、神社の石畳に吸い込まれていく。
「……はは。楓のこと嫌いなわけねぇだろ。俺のために一生懸命頑張ってくれたんだから。ほら、いいかげんにしないと鼻水と涙が混じって酷いことになってんぞ」
俺が泣いてどうすんだ……楓さんの気持ちをやっと理解した明は、一度だけ鼻を啜るとハンカチを取り出し楓さんの顔に当てる。
「ふあっ。女の子に顔が酷いとか言わないでください。ひどいです」
楓さんはされるままに顔を拭かれている。普段は雑に見える明だったが、楓さんの肌に触れるその手は優しく、気持ちがこもっていることがよく分かる。
それはもちろん楓さんにも伝わっている。顔から明の手が離れると、少し赤くなった鼻を恥ずかしそうにさすりながら、はにかんだ。
「明くん! ありがとうございます」
「おう。気にすんな楓!」
互いに微笑み合う二人。
明もこれでめでたしと終わりたいところだったが、しかし本題はこれではない。もちろん名前の件も重要な事だったのだが、もう一つだけきちんと確認を取っておくべきことがあった。
明は口元を整え、真剣な表情で問いかける。それは――
「なぁ……楓。楓は俺のことが好きなのか? その、個人として……」
楓さんが自分のことをどう思っているか。そこであった。もう半分以上答えは出たようなものだったが、それでもきちんと確認しないと自分は先に進めない。だから聞かなくてはいけない。そう思ったのだ。
明は唾を飲み込む。汗をかいたからではなく、今、この瞬間に喉がカラカラになった。
その問いを聞いた途端、楓さんはとてもショックを受けたような表情なり固まってしまったのだ。
やはり昼のことをまだ引きずっているのだろうか? それとも質問の仕方? いや、それともやはり自分の勘違いだったか?
頭の中で色んな不安が渦巻く。いっそ「今の質問はなし!」とでも言えれば楽なのだろうが、そんなことは口が裂けても言うことはできない。
二人の間に夏の闇が横たわる。
こんなに静かだったのかと明は今さら気がついた。
楓さんは唇を強く噛みしめている。その手はスカートを握りしめ、何かを一生懸命考えていることがひしひしと伝わってきた。
「おっ、おい。別に無理しなくても……」
「まって! 言わせて下さい。私に、自分の気持ちを伝えさせて……」
忍耐が限界に達した明が声をかけると、楓さんはまるで縋るような声を上げた。その瞳は明が思わず口を噤んでしまうほどに必死で、今から伝える言葉が本当は口にしてはいけないもののような……そんな表情だった。
楓さんは瞳を閉じると静かに息を整える。明もなぜか同じように息を合わせようとする。そのまま二人で、ゆっくりと呼吸をくり返す。楓さんのゆっくりとしたテンポに、明のテンポが馴染んでいき――
二人の呼吸が重なった。
「私、明くん、のことが好きです」
楓さんが告げる。何かを決心したように力強くそう告げ、ぎこちなくだが精一杯に微笑んだ。
その言葉に、微笑みに明の胸が騒がしくなる。“明くん”を強調したその答え方は、明の浅はかな考えを実は見抜いてからだろうか。それとも自然とそうなったのか、それは分からない。
しかし、この言葉だけで明には充分だった。このぎこちない微笑みだけで気持ちは固まったのだ。
「楓、今まで悪かった」
許してくれとは続けない。だから、ただ深々と頭を下げた。
明が突然謝ったのを見て、なぜそうなったのか理解が追いつかない楓さんは慌てて口を開こうとするが、今度は明に止められる。
「いいんだ! これは俺なりのけじめだ……だから、そのまま最後まで聞いて欲しい」
顔を上げたその表情は先ほどの楓さんと遜色ないくらい真剣だ。
「俺を好きだって言ってくれるのは嬉しい。でも……俺は楓のことを好きかどうか分からない。自分の気持ちが一番はっきりしねぇ」
楓さんは口を横に結んだまま、じっと明の顔を見つめる。
「でも、それでも、楓といると楽しい。もっと、喜ばして上げたいって思うんだ。だから……こんな中途半端な俺でも、楓の思いにまったく届いてねぇ俺でも、まだ一緒に居てもいいか? もう、恋人じゃなくなるけど……」
明の表情が揺らぐ。
「それでも、楓の側に俺はいてもいいか?」
両手は固く握られ、声も震えていて上手く出ていない。その様子は、この言葉がどれだけ彼にとって大きい意味を持っていたのか如実に物語っていた。
すると――
「ふふっ。あはははは! 何言ってるんですかもぉー」
「えっ? あっ、いてーー!」
先ほどまでの雰囲気はどこにやったのか、楓さんは身体を曲げて笑い出すと、明の肩をバシバシ叩いてきた。その細い身体のどこにそんな力があったのかと疑うほどの威力に、思わず声に出して叫んだが、楓さんは構わず笑い続けている。
「あー。おかしかった。こんな楽しいふられ方もありません。いいです。今の態度に免じて許しちゃいます」
コロコロと喉を鳴らす。心の底から楽しんでいるようだ。
「明くんは私に告白させたんですよ。最後には絶対、『お前のこと好きだ』って言わせてみせますから!!」
そう言って人差し指を明の鼻先に向けた。
あぁ、最初からこういう奴だったな。と明の肩から力が抜ける。
この幽霊は初めて会った時から、おっとりしていて、丁寧で、絵に書いたような箱入り娘なのに、どこか強かったのだ。
「おっし! じゃぁ、これでけじめは終わりだ。次は御礼だな。俺の言うこと聞いてくれたんだ。俺も楓の言うことを聞こうと思う。何でも言ってくれ!」
楓さんに負けてられないと、いつもの歯切れの良さを取り戻す。
「えっ、えっ。でも、そんなの悪いですよ。むしろ、今ので充分嬉しかったですし……」
「なんだ、急に逃げ腰になりやがって! 俺がしたいって言ってんだ。それとも何か、俺じゃ役不足か?」
いつまでも主導権を握られているのは柄じゃない。明は楓さんが断れないと分かっていて、ニヤッと笑った。
「うー。その言い方はずるいですよぉ。それじゃぁ……」
やり込められたことが不満だったのか、頬を膨らませてそっと耳打ちをする。なぜか頬が薄らと染まっていた。
「なんだ。そんなんでいいのか?」
楓さんがコクコクと頷く。ロマンチストな彼女のことだから、森と湖に囲まれた王子様とお姫様が住んでいそうなお城に行きたいとか言い出すのではないかと予想していた明は、思わず拍子抜けしてしまう。
もちろんそんなことを頼まれたら、近くの県にある堀と石垣で囲まれた殿と武将たちが住んでいそうなお城にしか連れていけないのでむしろ助かったのだが……
しかし、本当にそんなところでいいのだろうか。遠慮しているのかと思ったが、その期待に顔を輝かせているところを見ると本心のようだ。
「そうか。了解だ。そしたら、明日の放課後でいいな?」
「はい! ここで待ってます。急いで来て下さいね」
これで明日の放課後は、調査を休みにしてもらう必要が出てきたが構わないだろう。だって、楓さんがこんなに嬉しそうに笑っているのだから。
明も歯を見せて笑う。最後につけられた自分のためだけの小さなわがままが、なんだかとてもくすぐったかった。
前回が中途半端なとこで終わったなぁ~と思ったので早めに次話投稿です。これでストックが尽きました。ホントはもっと溜まっていたのですが、展開を変えたので無くなりました。
そこら辺の裏話は活報に書くことにしてと。感想とかお待ちしてまーす。何でもいいです^^ではでは~。