七月十一日~day 7-①~
登校する生徒たちでやっと活気が出始める朝八時よりも、三十分も早い校舎はまだ眠っているかのように静かだ。
明は重たい玄関の扉を開き上履きに履き替えると、階段を上がって行く。
放課後だって同じように人は少ないはずなのに、今の方が空気も澄みきり廊下もいつもよりも広く感じて、なぜだろうか、心が少し軽くなった。
明は朝早くに来た者だけが感じられる特権を全身で感じつつ教室の扉をゆっくり開く。中ではいつも早くに登校するメンバー数人が、集まって話しをしていた。明が軽く挨拶すると不思議そうな顔をしたが、こちらもまた軽く返してすぐに話しへと戻った。
明は入口から真っすぐ進み窓際の一番後ろにある自分の席に座る。
「……」
そして鞄の中から『柳の木の下で』を取り出すとページをめくり始めた。
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「それ、役に立ってるのかい?」
突然後ろから声をかけられて驚く。振り返り見上げると、いつもホームルーム寸前に登校するはずの猛が立っていた。猛は「やっと気がついた」と肩をすくませ、三席分ほど離れた位置にいる龍一と修二へも視線を送る。
二人は「仕方ない」とでも言う風に微笑んだが、きっとその表情をもたらした理由は違っている。龍一はまだ昨日の放課後に起こったことを知らないのだ。
明はそんな三人のやり取りに気がつかぬまま、黒板の上にある時計を確認する。すでに八時を回っており、あと五分もしないうちに矢野教諭が来る時間になっていた。辺りを見渡すとクラスの席もほとんどが埋まっており、先ほどの静寂が嘘のように騒がしくなっている。
その光景に明は呆然としてしまったが、頭を振って意識を正すと、
「さぁ、よくわからねぇな」
そう言って微妙そうに首を捻った。その表情は普段と変わらない。いつもと同じような仏頂面だ。
「……そっか。当てが外れちゃったか。まぁ、あんまり気にしないことだね。小説通りにいっても面白くないし、気楽にいきなよ」
猛はそれだけを伝えると、自分の席へさっさと戻ってしまった。いつもと違うその態度に怪訝そうに眉根を寄せるが、またすぐに開いていたページへ視線を移した。
たしかにこの小説、基本的な設定こそ楓さんとよく似ていた。しかし、細部が異なっていたためその違いが物語の進展につれて大きくなってきたのだ。
特にヒロイン“柳さん”と楓さんとの差は大きくなる一方だった。“柳さん”は中盤まで来ても最初のままおっとりとしたお嬢様である一方、楓さんは基本はおっとりお嬢様だが、その突拍子のない行動や時々垣間見せる頑固さなどを考えると、二人を重ねることは難しかった。
しかし、それでも明はこの本に頼るしかない。昨日、猛と修二に言われたこと、さらに紅葉からの指摘のせいで、楓さんにどのように接したらいいのか分からなくなっていたのだ。
楓さんのことを考えるだけで胸が熱くなるのに、その後すぐに気持ちが重くなる。それが一体なぜのかも分からず不安で、もうあまり参考にならないと理解していながら、藁にも縋っていたのだった。
明はもう一度時計を確認する。時刻は八時二十三分。昼休みまで残り四時間ほど。
眉間のしわがより深くなった。
そして昼休み。いつもの屋上、二人は扉の横にある日陰で壁を背に肩を並べて立っている。いつもなら自然と弾む会話も今日はそのきっかけさえも出てこない。
夏の日差しが、いつもより三倍は強く感じる。
気まずい……
チラッと隣にいる楓さんの方を向く。給食の時間まで本に目を通したにも関わらず結局何も思い浮かばなかった。楓さんとヒロインとの性格に隔たりが生まれてしまったこともあるだろうが、明と主人公の性格や嗜好が違い過ぎたことが一番の原因だろう。
兎にも角にもどうすることもできなくて、不安な気持ちを引きずりつつ屋上へと向かい挨拶を交わしてから数分、特に変わったことは起こっていない。というより会話がない。理由は分からないが、楓さんまで話しをすることを躊躇しているようだ。
何か話さなねぇと……
積み重なっていく無言の時間が明を焦らせる。
「あっ、あー。今日はいい天気で熱いなぁ。いやぁ、昨日の膝枕はひんやりしていて気持ち良かったなぁ」
わざとらしい限りだったが、それでも無理矢理口角を吊り上げて話し始めた。
昨日の膝枕は楓さんの中でも上手くいった試みのはずだ。この話題ならば、「またしますか?」とか言ってくるかもしれない。そうなると再び背中を焼くことになるが、少なくともこのまま無言でいるよりはましだ。
そう覚悟を決めて切り出したのだったが、楓さんは明の方を振りむき
「……そう、ですか」
と浮かない顔で曖昧に微笑んだ。
「そう……なんだ」
予想外の反応に口ごもり会話が途切れる。再び始まった沈黙がより重くのしかかってきた。
明の中で焦りが加速していく。なぜ膝枕作戦がダメだったのかは分からないが、とにかく何か話題を出さないといけない。
「いやー。やっぱ熱すぎだな。うん。膝枕はダメだな。するべきじゃねぇ。っていうか、あんた熱さとかあんま感じないんだったな。それ、すげー便利じゃねぇか。うらやましいぜ。さすが幽霊……えっと?」
横を振り向いたまま半笑いの状態で固まる。何とか楓さんに関する話題で攻めようとしたが、楓さんは何かに耐えるように口をキュッと結んだまま頑なに床を睨んでいた。
明の顔がかぁっと赤くなった。別に羞恥心を感じたわけでも何でもないのに頭に血が上り正常な思考ができなくなる。
どうしてつらそうな表情をするのか? これは自分の責任なのか? そんなことがグルグルと頭の中で渦巻き始め、明は思いついたことを手当たり次第に話し始めた。
「そっ、そういやさ。修二と猛のこと知ってんだろ? ほら、この前話した糸目と背が高くてイケメンのあの二人。昨日あいつらが、あんたが俺にべた惚れだー何て言いだしやがってさ」
オーバリアクション気味に腕を動かす。口調も早口で、もはや自分が何を言っているかもよく分かっていないのだろう。
止めろ! それは言うな!! 頭の片隅で何かが警告してくるが、滑り始めた口はもう止めることはできない。
「笑っちまうだろ? あんたが本当に好きなのは先輩だけなのに……それなのに、きちんと聞いてみろなんて言うんだ。絶対、あんたに『勘違いです!』とか言われた俺をからかおうと思ってんだぜ。その手にのるかってんだ! あはははははは」
空笑いが屋上に広がっては消えていく。その笑顔は引きつっていてとても痛々しかった。
「……明さん」
楓さんが静かに名前を呼んだ。明は背中に大量の汗をかきつつも、落ちついて応えようと努力をする。
「私、今日は何だか疲れちゃいました。呼び出しておいて申し訳ないですけど、先に帰ることにします。ごめんなさい」
「えっ、おい……」
明が止めるよりも早く俯いたままぺこりと頭を下げると、そのまま消えてしまった。楓さんの足元には数滴の水が零れた痕……熱せられたコンクリートによって、ものの数秒で蒸発してしまったが、それでも明は目を離すことができなかった。
放課後の生徒会資料室。昨日と同じように明と修二と猛の三人で片づけの続きをしていた。途中、鈴香がまた顔を出したが今日はのぞいただけだった。
龍一は、『柳の木の下で』の作者に出す手紙を書くために自宅で作業している。確実に返事をもらうためには、きちんとした文面と封筒に工夫が必要だと言い張ったためだ。それに猛と修二は呆れてなにも言わず、明は気にする余力もなかったので誰も止める者がいなかった。
「ちょっと明。何してんのさ。不燃ゴミとリサイクルゴミが一緒になってるじゃないか。こういう細々したことしか取り柄がないんだから、もっときちんと働いてほしいもんだね」
猛が注意をする。朝とは違い完全にいつもの調子だ。
「……あぁ。すまねぇ。そうだな」
そして、いつもとまったく正反対の明。嫌味を言われたせいではないだろうが、肩を落としのろのろとゴミ袋の中身を分別し始めた。
「……」
猛が無言で後ろを振り向く。修二が困ったように笑いながら頭を横に振った。
「明。俺、早く帰らないといけないんだ。もう五時半だし今日はもうこれくらいにしておきたいんだけど、いいかなぁ」
修二が鍵を指先でクルクル回しながら尋ねる。ここの鍵は修二が責任を持って預かることになっていた。なので、修二が早くここを閉めたいと言えばそれに従わないわけにはいかないだろう。
「そうか。そしたら鞄取って来るわ」
力なくそう答えると、明は覇気のない顔で資料室を出て行った。
「鞄こっちに持ってきてるのに。なにやってんのさ、あいつ。見てらんないね」
猛が毒づく。苛立ちを隠しきれずに、口調が険しくなっている。
「まぁまぁ、猛がそんなに責任を感じる必要ないって。俺の責任でもあるし、それにこうなるのは時間の問題だって昨日話したじゃない」
「……わかってるさ」
心の内を見透かされて猛は悔しそうな顔をしたが、そう応えると自分と明の鞄を持って外に出る。修二はそれをため息混じりに見送って施錠するために扉を閉めた。
「……龍一からメール」
辺りはすっかり暗くなり外灯と民家の明りだけが歩道を照らしている。そんな夜道を私服姿でぶらぶらと歩いていた明は、学校を出てすぐ――二時間ほど前――届いていたメールに今さら気がついた。
猛と修二にも送られていることを考えるに楓さん関係だろう。昼の件もあり気が進まなかったが、龍一がわざわざ送ってくれたのだから無視もできない。
深呼吸すると、憂鬱な気持ちを押さえてメールを開く。
~ 作者への手紙は無事に送れた。いつ返事が返ってくるかは分からんが後は待つだけだ。明日の片づけはきちんと手伝うことにする。迷惑をかけた。 龍一~
明は全員に一斉返信する。
~龍一。ありがとう。了解だ。俺も、もう少し迷惑をかけることになるかもしれないがよろしく頼む! 明~
こういう時にメールは便利だと明は心底思う。自分の本当の気持を簡単に偽ることができるのだから。
「……何してんだ俺」
携帯を二つ折にたたむとポケットにしまう。そして十分ほど歩いた先にある、公園のベンチにゆっくりと腰掛けた。入口と滑り台の側にしかない明りによって、遊具から黒い影が伸びている。聞こえてくるのは近くの道路を走っている車のエンジン音だけだ。
――だから何のさ?
影から目を離すように身体を後ろへ傾ける。体重をかけられた背もたれがギシギシと歪んだ。
昨日の夕方、猛から不意に投げかけられた言葉がずっと胸に刺さって抜けない。何故かはわからないが、まるで心臓にハンマーで打ちこまれたがごとく深く深く、その言葉は突き刺さったのだった。
拳を振り上げる。
「何なのさって、何だよ……」
苛立ちにまかせてベンチを殴りつけた。態度とは裏腹にその言葉の意味はもう理解している。ただ、自分が情けなさ過ぎてどうしても物に当たってしまった。その行為が余計に自分の気持ちを落とすだけだと理解していながら自制することはできなかった。
楓さんを傷つけてやっと分かるなんて……。殴りつけた拳にさらに力を入れる。
猛や修二が楓さんは自分に惚れている。しかもべた惚れだと言った。しかし、自分はそれを信じなかった。楓さんは『恋する幽霊』で、告白して気に入ったなら誰とでも付き合う。けど本当に好きなのは先輩だけ。そう信じていた。昼休みに楓さんの涙を見るまでは……
「違げぇだろ。お前逃げてただけじゃねぇか」
もう一度ベンチを殴りつける。今度はさっきよりも、ずっと強い力で。
楓さんが噂とは全く違うことなどとっくの昔に分かっていたはずだ。楓さんの気持ちとちゃんと向き合ってさえいれば、そんな思い違いなどすぐにでも気がついたはずだ。あんな酷い涙を流させずに済んだはずだ。
「最低だ!」
自分は『恋する幽霊』という噂の都合のいい部分しか見てこなかった。そうすることで楓さんの気持ちを都合のいいように解釈して、真面目に応えようとしてこなかった。どうせ成仏させるのだから真剣になっても意味がない。
むしろ真剣になられては困る……心の底では、そう思っていたのではないか。
だから、二人に楓さんが本気だと言われた時に信じなかった、紅葉に好きな人ができたのではないかと指摘された時に困った。だから、もう参考にならないと理解しておきながら『柳の木の下で』に頼った。何か無難な解決策がないかと、まだ逃げる方法を探していたのだ。
――それは自己満足だぞ。同情よりなお性質が悪い。
数日前。この場で言われた言葉が頭をよぎる。「分かっているのか?」あの時そう問うた龍一に、自分は何と答えたのだったか。
「そうだ……間違ってねぇ。結果は間違っちゃいねぇんだ。でも……」
楓さんの気持ちはどうなるのだ? たしかに成仏させるという結果は、長い目で見ても正しいだろう。しかし、今、ここに、例え幽霊という異常な状態であったとしても、それでも存在している彼女の気持ちは、無視されていいものなのか。
明は頭を抱え込んだ。
楓さんの涙の痕を思い出す。あの時一体彼女はどんな顔をして涙したのだろうか。自分が取った幼稚な行動のせいで、あの優しい幽霊の心は一体どれほど傷ついたのか。
「あいつは一生懸命だったのに。俺を喜ばせようって……下手くそだったけど頑張ってくれたのに! 俺は、俺は……」
彼女の笑顔に、心が暖かくなったことがたしかにあったのに……!!
鼻の奥が痛くなり、目から涙が零れそうになるのを堪えるために右腕に噛みついた。この涙は流せない。そう思った。
「うっ、ぐっ」
歯が肉に沈んでいく。あんな酷いことをして、自分はこれからどの面下げて彼女に会えばいいのか……
顎に一層力を込めようとしたその時、携帯電話の着信音が夜の公園に響いた。
自然と力が抜ける。開放された右腕は、そのままポケットへと向かい携帯電話を取り出す。確認するとメールが一件届いていた。
~バカの考え休むに似たりってね。余計な事考えてないで、さっさと突っ走りなよ。猛~
「……」
うるせーな。バカって何だよ。口には出さないでそう答える。すると、しばらくして今度は修二と龍一からメールが届いた。猛が先ほど明が送ったメールに一斉返信したからだろう。
~それを言うなら下手の考え休むに似たりではないか? まぁ、バカとした方が明っぽいとは思うがな。それより明。やはり何かあったのか? 悩んでいる暇があればさっさと相談しろ。それが無理でも、せめて考え込み過ぎるな。 龍一~
~猛ー。あんまりバカ、バカ言うのはダメだと思うなぁ。何とかと鋏は使いようって昔から言うだろ。もちろん明は使う方だけど。早く余計な悩みなんてスパッと切っちゃいなよ。 修二~
三つのメールを、何回も、何回も読み直す。あの三人らしい内容。どれもが口にしている姿をありありと想像できた。
携帯電話を持つ手が震える。目に溜まった涙はいつの間にか乾いていた。それに気がついた明は、心の底からなにか熱いものが込み上げてきて笑った。
「あいつら……人のことをとことんバカにしてやがんな」
噴き出してベンチから立ち上がる。
今までの弱々しさが嘘のように、強い眼差しで虚空を見つめた。その瞳にはここからでは見えるはずのない少女の後ろ姿が映っている。
乱暴に携帯電話をしまうと、公園の入り口をスタートラインに夜の街へと駆け出す。スタートの合図に大げさなピストル音なんていらない。三人からの言葉で充分だ。ゴールは寂れた神社、楓の木の下。
――今なら風よりも早く走れる気がした。