七月十日~day 6-①~
七月十日火曜日。放課後。明は昨夜父から聞いた話を三人へ伝えた。楓さんの噂が意外と新しいものだったことに驚いた三人だったが、特に議論になることもなく前もって分担していた役割にそれぞれ分かれる。
「しかし、二十五年前には楓さんの噂は存在しなかったのかぁ。もっと古くからあると思ってたんだけど。あっ、猛。これ部屋の外に出すからそっち」
先ほど明から聞いた話を思い出しつつ修二は壁に積まれた段ボールの中身を確認して、後ろにいた猛に渡す。
「よっと……でも、明の親父さんだろ? もしかしたら噂が在ったのに聞いてないか、それとも単に忘れてるだけって可能性も捨てきれないと思うけどね」
猛は受け取った段ボールを部屋の入り口まで持っていくと、無造作に床へと下ろした。中に詰め込まれた昔の学園祭のパンフレットやポスター、その他諸々の物が音を立てる。
「おい。そりゃどういう意味だ」
明が睨みつける。その手には使い古された冊子や恐らく舞台か何かに使用されたのだろう小道具を握っている。どうやら猛が持ってきた段ボールの中身を整理する役目らしい。
「どういうって。そのまま……」
「おっし。喧嘩だな。お前喧嘩売ってんだな! ほらこいよ。ここの片づけ終わらせる前にお前の人生終わらせてやる!!」
「……うわー。明さぁ、まずその言語センスからどうにかしなよ。なんだいその世紀末でしか使わなさそうなセリフ」
握っていたものを投げ出し、指を鳴らす明に向かって猛はまるで痛いものを見るような視線を送る。いつものことながら、その人を馬鹿にしたような態度にもう勘弁ならんと丸めたポスターを引っ掴んだところで、背中を思いっきり叩かれた。
「――っ。いてーーーー!」
反射的に振り返る。すると背後に長い髪をポニーテールに結いあげた美少女、橘鈴香が驚いた表情で立っていた。
「ちょっ、ちょっと、そんなに叫ぶことないじゃない。こっちがビックリするわ」
「こんの凶暴女! 後ろから思いっきり殴りやがって」
背中を押さえつつ喰ってかかる。本来ならこんなことを言い合える仲ではないのだが、よほど痛かっただろう。少し涙目になっている。
「誰が凶暴女よ! ここは本来なら生徒会役員しか入れない場所なんだからね。それをどうしてもって言うから資料の閲覧許可までとってあげたのよ。真面目に働きなさいよね!」
しかし、男子から強めに喰ってかかられたぐらいで怯む鈴香ではない。逆に一歩を踏み出すとすぐに反論できない理由をつけて言い返してきた。
そうなのだ。鈴香の言葉から推測される通り、今明たちが集まっているのはいつもの二年B組の教室ではなく生徒会の資料室だ。鈴香に口を利いてもらうことで過去の学校新聞を閲覧させてもらえることになったのだが、一つ交換条件が出された。それが資料室の片づけと整理だったのだ。
「資料って、これ全部ガラクタばっかりじゃねぇか……」
弱みを突かれた明は渋々引きさがる。しかし、文句はきちんと聞こえていたようで射殺すような視線が返ってきた。
「あははは。ごめんね、鈴香。無理言っちゃって」
明が冷や汗を流していると二人のやり取りが聞こえたのか、棚の影から修二が顔を出した。
「えっ、いや、いいのよ。どうせ入ってるのはガラクタばっかりなんだし、気にしないで」
すると、途端に鈴香はしおらしくなってしまった。それを愕然とした表情で見つめる明に気がついた鈴香は、「いいからもきちんと掃除しなさいよね!!」と言い残してそそくさと立ち去ってしまった。
「っていうか。橘のやつ何しに来たんだ?」
明が汗を拭う。冷や汗を拭ったのではない。狭い部屋に無理矢理段ボールと棚を詰め込んだ資料室は、窓を開けることもできずかなり蒸し暑いのだ。
「そりゃ、彼氏の顔を見に来たんでしょ。女帝とか言われてるけど、可愛いところあるじゃないか。ねぇ、修二」
明の問いに答えたのは猛だ。修二の方へ首をひねるとからかい口調で話しかける。
「ん~。どうかなぁ。ただ、鈴香は普段から可愛いよ。それをもっと素直に出してくれたら俺も助かるんだけど」
しかし、明とは違い流石に乗ってこない。しかもさらりと惚気まで聞かされて、逆に猛がムッとした表情になる。それに明は、ざまぁ見ろ! と心の中で舌を出して修二に先週の日曜日から気になっていたことを尋ねた。
「そういや橘との仲はもう大丈夫なのか? 今見る限り元気そうだったけど」
「うん。少し調子戻ってきたみたい。まぁ、相変わらずどこかに通ってるけど、それについてももうすぐ教えてくれるんじゃないかなぁ」
修二が笑顔になる。相も変わらず分かりにくくはあるが喜んでいるのだろう。いつもよりも目が細くなっていた。
その様子を見て明も笑顔になる。修二にはいつも楓さんの話を聞いてもらっているが、もし鈴香のことで悩んでいるのなら、実はしんどいのではないかと密かに心配していたのだ。
でも、これなら大丈夫そうだな。明もほっと一安心したのだが、それも束の間突然不穏なことを猛がのたまった。
「えっ、なに橘と何かあったの? チャンスじゃんか。口説いてみよっかな~」
「止めねぇか。この色魔。お前には十分過ぎるほど可愛い彼女がいるだろうが」
それに腹立たしさを覚えた明は強い口調で注意をする。しかし――
「え~。確かに可愛いけどさ。なんか違うんだよねぇ。僕ってモデル並みに格好いいだろ。今の彼女も表面しか見てないっていうか。男もとっかえひっかえだし。向こうから告白しといて薄いんだよね、愛情が」
猛は口角を歪めると臆面もなくそんなことを言ってのけた。
その態度に、それはお前とどこが違う。と口走りそうになって明はぐっと堪える。
恵まれ過ぎた容姿により利益以上に様々な不利益を受けている猛にとって、それは武器であると同時にコンプレックスの原因でもある。だからこの態度にも簡単に触れてはならない理由がある。明は何となくだがそう理解していたのだ。
「はいはい。猛も本気じゃないのにそんなこと言ったらダメだよ~。鈴香に聞かれたらそのモデルみたいな顔をボコボコにされちゃう」
微妙な空気になりかけた時にいつもの調子で修二が口を開いた。むしろ矛先を向けられたのは自分だろうに、その表情はいつものようにニコニコしている。
相変わらず何があっても動じないやつだ。と明は密かに舌を巻いた。
「……うへぇ。それは勘弁願いたいね。あーあ。顔はすごいタイプなんだけどねぇ。ざ~んねん!」
猛は修二の顔を僅かに一瞥するとそう言っておどける。軽くウェーブがかかった前髪を片手でかき上げるその姿は、男でも感心するほど様になっていた。
「ところで明。 今日は楓さんとの話を聞いてないんだけど、どうだったんだい?」
猛が聞いてきた。無理矢理だな。と思った明であったがわざわざここで流れを切ってしまうほど、空気が読めないわけではない。それに今日のことはたしかにまだ話しをしていなかった。
「……驚いたな」
どこか遠くを見るような目で腕を組むと回想を始めた。
****
昼休み。いつものように屋上の扉を開くと、目の前に広がる熱せられたコンクリートの上に楓さんはいなかった。それでは昨日のようにドアの隣にいるのかと思って横を向き、予想外の事態に息をのんだ。
「……おい」
とりあえず声をかけてみる。少し下を向いた目線の先には日陰になった場所に仰向けに横たわる楓さんの姿。その瞳は閉じられており手も胸の上で祈るように組んである。
「っ! おい!」
今度は強めに声をかけるが全く反応がない。さすがに焦った明は近づくと横から上半身を起こすようにして支える。その拍子にダランと垂れ下がる細い腕。楓さんの身体の冷たさと病的にまで白い肌が心配を加速させる。
こうなったら幽霊でも良いから保健室へ連れて行こうと決心したその時、
「ん~。明さ~ん……ふぐっ」
と寝言らしきことを呟いて楓さんはだらしなく笑った。おまけによく耳を澄ますと、スピー、スピーという気持ちよさそうな寝息まで聞こえてくる。
「て……めぇ。起きろこらーーーーーー!!!!!」
「はっ、はい!」
上から降り注ぐ大音量に、楓さんはまるでバネでも仕込んでいたかのように飛び上がって起床すると、ペタンとコンクリートにお尻をついたまま辺りを見渡した。
「あっ、明さん。こんにちは」
そして明に気がつくとその大きな瞳を最大限に細くさせてニッコリと微笑んだ。
「……ふぅ。こんにちは。それで、お前は何してんだ?」
その笑顔に怒りのボルテージが急降下していく。軽くため息をつきつつ眉間をマッサージする。俺は龍一か! などと心の中で一人突っ込みなども入れてみて、少し空しくなった。
「ふふん。よく聞いてくれました。実はコンクリートを冷やしていたのです。それでは、さぁどうぞ!!」
楓さんは頭の寝癖も気にせず自信たっぷりに胸を張ると、座りなおした自分の膝を二度、三度、軽快に叩いた。
****
「……それで、どうなったのさ」
完全に弛緩した空気の中で、何とも言えない表情の猛が続きを促す。修二はその結果に見当がついたのか、すでに笑うのを堪えていた。
「……膝枕をした」
「ぐっ。あっははははは! 楓さんって面白いことするね。そしたらさっきのは痛かっただろう。鈴香に代わって謝るよ」
修二が噴き出しながら謝罪する。猛もそれで合点がいったようで、見る見るうちに口元が緩んでいく。そして明の後ろに回ると制服の裾をシャツごとまくり上げた。
「ふ~ん。それで、これってわけか。何分頑張ったんだい?」
「……予鈴まで我慢したわ!」
とうとう猛も噴き出して、修二は腹を抱え始めた。明は二人を半眼で睨みつけているが全く効果は無い。
「いやいや。明。今回ばかりは僕も負けを認めるよ。よくもまぁ、背中がこんなになるまで我慢したもんだ。真っ赤じゃないか」
猛は赤くなった背中を見つめて感心したように頷くが、その表情は笑ったままだ。明は無言のまま顔を顰める。
そう。明を喜ばせよう作戦を諦めていなかった楓さんは、今回はシンプルに膝枕を考えついた。そのアイデア自体、明は悪くなかったと思っている。何だかんだ言っても女の子からの膝枕は男の夢なのだから。
問題はその場所が火傷を負い始めるとされる四十五度を超えるであろう、真夏のコンクリートの上だったこと、そしてそのことに気がついた楓さんは自分の身体を使って冷やしていてくれたらしい(その結果寝てしまった)が、その涙ぐましい努力が焼け石に水だったということぐらいだ。
しかも楓さんが寝ていた場所以外は変わらず熱い。楓さんの膝に横になる時、明は燃え盛る炎の間を細い板一本で渡り切る修行僧を思い出したほどだ。
「くくっ。それでも、言うこと聞いてあげるんだから優しいなぁ」
「しかたねぇだろ。あんな嬉しそうな顔されたらちょっとくらいの熱さは我慢したくなる」
修二のからかっているのか褒めているのか判断しにくい言葉に、仏頂面のまま返事をする。
「恥ずかしがっちゃって。もっと嬉しそうな顔しなよ。そこまでべた惚れしてもらえるなんて、男冥利に尽きるってもんじゃないか。まぁ、情熱的過ぎてちょっと焦がしちゃったみたいだけどね」
そして、猛はからかう気が満々だ。いつもならここで反射的に喰ってかかる明だが、「へっ?」と不思議そうな顔をした。
「べた惚れって、誰に誰が?」
時間が止まる。修二と猛は今の言葉を理解できなかったのか、明以上に不思議そうな表情で首をひねった。薄暗い資料室で首をひねりあったまま、三人は互いに固まる。外で大騒ぎしている蝉の声だけが、本当に時間が止まっているのではないと教えてくれた。
「……誰がって。楓さんが明に。どう考えてもべた惚れじゃない」
もしかしてきちんと聞こえなかったのかもしれない。と修二がもう一度同じ内容をくり返す。すると――
「へっ? ええーーー!?」
素っ頓狂な声を上げて、思いっきり上半身をのけ反らした。よかった今度は聞こえたらしい。と安心したかった修二だが、明の反応が予想斜め上過ぎて、上手くリアクションが取ずに唖然としている。
「もしかして。楓さんの気持ちに気がついてなかった?」
「あぁ、何だか僕は楓さんが可哀想になってきたよ。どうやったら、気づかないでいられるのさ」
無言で固まっている明を無視して、猛は涙を堪えるように天井を仰ぐ。二人の態度は、話しを聞いているだけの自分たちでも分かるのになぜお前が気づいていないんだ? と言外に告げていた。
「えっ、えっ。だってよ。楓さんは幽霊だろ? 『恋する幽霊』だろ?」
「だから何なのさ?」
焦り始めた明に猛が冷静に突っ込む。
「だって……それなら、別に俺じゃなくてもいいんじゃないか? なんで俺なんだ?」
「そんなの僕が知るわけないじゃないか。楓さんに聞きなよ」
猛が呆れ顔でそう答えると明は、「そう……だよな」と呟いてフラフラと作業に戻っていく。それを見た猛と修二は不思議そうに顔を見合わせた。