カレイド-02
3
古ぼけたスピーカーがかすかな雑音をきしませながら、正午を知らせるチャイムを鳴らす。その音になんとはない解放感をおぼえながら、僕は椅子の背にぐったりと身をあずけた。意味のない時間、とまではもちろん思わないが、やっぱり退屈に思えてしまう授業はある。新しいことを覚えるのは嫌いじゃないし、柿沼先生の古典みたいに面白い授業だってあるのだが、たいていは教科書の内容をそのまま読み下して40分が終わってしまうような、そんな時間が大半なのは仕方のない事実だ。
そんなことを考えながら、僕が大きく伸びをすると、くすくす、という控えめな笑い声が僕の隣で響いた。
「……なに?」
「ううん、子猫みたいで可愛いなと思ったものですから」
まだくすくすと笑いながら、彼女──天澤さんは笑みくずれそうになる口元を手でおさえながら答えた。
「子猫って、……男に対する誉め言葉じゃないと思うけど」
それ以前に、可愛いという時点で生物学的に牡の尊厳を踏みにじられている気がする。
「そうですね、ごめんなさい」
なんとなくお茶目な表情で天澤さんは言うと、
「今日はどうしますか?」
と僕に訊いた。
「鍵太郎も美早も今日は弁当だって言ってたから、久しぶりに屋上で食べようか? まだちょっと寒いかもしれないけど」
「いいですね。今日はあたたかい紅茶も淹れてきましたから、ちょっと寒いくらいがちょうどいいかもしれません」
天澤さんはそう微笑むと、胸に抱えた藍色のスポーツバッグをとん、得意げに叩いた。
天澤はるか。
他のクラスメートが彼女を知るていどにしか、僕も彼女のプロフィールには詳しくない。成績は上の中、運動神経は中の下。腰まで届く長い黒髪に、どことなくお嬢様といった雰囲気の穏やかな顔立ちと丁寧な物腰。(でも実際の彼女は意外にドジでお茶目であることを最近知った)中等部からのエスカレータ組の僕は、外部編入組の天澤さんとはまだひと月ていどの付き合いでしかないが、不思議と縁があって(席が隣同士なのもそのひとつだろう)今は古くからの友達のような感覚で一緒にいる。なんとなく波長が合うのだろうか、とにかく今の僕にとっては、天澤さんは一番近い場所にいるクラスメートだ。
スポーツバックの中身に視線を落とす天澤さんの横顔を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、
「市ノ瀬くん」
と、何か言いたげな表情で彼女も僕に視線を向けた。
「うん?」
「いえ。今日の市ノ瀬くん、ちょっと疲れているみたいだから、少し気になってしまって。昨日も色々お手伝いしてもらいましたし──」
「ああ、そういうわけじゃなくてさ。最近ちょっと寝不足というか」
おりよく眠気がぶり返してきたので、僕は天澤さんを安心させるように、ちょっと大げさに目じりをこすりながら苦笑した。
「寝不足、ですか?」
「うん。ここのとこ鍵太郎と、ほら、最近ニュースでやってるバーチャル空間の地下迷宮を冒険するオンラインゲームあるでしょ? あれのテストプレーをやっててさ」
「あ、知ってます」
ゲームの話なんか興味がないかな、と思っていたが、天澤さんは好奇心をにじませた表情で、ぽん、と胸の前で手を合わせた。
「妹が夢中なんですよ。すごくリアルで面白いって、最近は《ゲーム》の話ばかりしています」
「へえ」
僕はちょっと目を丸くした。鍵太郎以外にこんな近くに《ゲーム》の参加者(厳密には天澤さんは参加者の関係者になるのだろうけど)がいたのも意外だったし、天澤さんに妹がいるというのも初耳だった。
「天澤さん、妹がいるんだ」
「ええ。市ノ瀬くんにも妹さん、いるんですよね? 露城くんから聞いてますよ。《噂》の、言乃ちゃん」
「あいつ! ……なんか変なこと吹き込まれてない?」
「いえ。とても仲むつまじい兄妹だと思いました」
「うわ……」
僕は思わず額に手を当てた。見れば天澤さんはくすくすと悪戯っぽい笑みを向けている。まったく、鍵太郎が天澤さんに何を吹き込んだのか、手に取るように分かるよ。
ふと、天澤さんが僕の肩ごしに目線を向け、微苦笑を浮かべた。振り返ると、教室のドアのところで、当の鍵太郎がバツの悪そうな顔で頬を掻いている。傍らにはポニーテールの活発そうな少女が、苦笑いを浮かべながら鍵太郎を小突く真似をした。美早も一緒だ。
僕はもう一度溜め息をついて、無言でペンケースの中から消しゴムを取り出すと、鍵太郎の額目がけて思い切り投げつけた。
「あ、それが噂の言乃ちゃんランチですね」
「もうやめて……」
僕の弁当を覗きこみながら、悪戯っぽく笑う天澤さんを横目に、僕は額に手を当ててうつむいた。なんだろう、なにかとてつもない弱味を握られてしまった気がする。
まだ肌寒い陽気ということもあってか、屋上には僕らの他にまばらに人がいるだけだ。美早が持ってきた青いビニールシートの上でくつろいでいると、なんとなくピクニックに来たような懐かしい気分になってくる。(といっても、休みには言乃と二人で公園で食事をしたりすることもあるので、外で食事をすること自体が懐かしいわけじゃないけれど)五月も半ばだというのに今年はいつになく気温が低い日が続いているが、その分、なんとなく空が澄んでいるような感じがして、僕はこんな日も嫌いじゃない。
「でも毎度のことながら、美味しそうよね、言乃ちゃんランチ」
「お前は弁当という古式ゆかしい日本語を知らないのか……」
からかうように乗ってきた美早の頭をポカリと軽く叩きながら、僕はぼやいた。
鍵太郎は鍵太郎で、拳大ほどもある巨大なおにぎり(美早謹製)を頬張りながらけたけた笑っている。
「なに他人事みたいに笑ってるんだよ。元はと言えばお前が天澤さんにあることないこと吹きこんだことから始まった話だろ」
「ん? あることはともかく、俺はないことを吹き込んだ覚えはないけどな?」
「……もう絶対にノート貸さないからな」
「あー、その、なんだ、……俺が悪かった」
「仲がいいんですね」
軽口を叩きあう僕らを、どこか眩しそうな目で見やりながら、ぽつりと天澤さんが呟いた。
「ちょっと、羨ましいです」
「まあ、腐れ縁であることは認めるけどね」
鍵太郎と美早の二人に視線を向けながら、ぼやき混じりに僕は答えた。
4
まだ十六年に満たない僕の人生において、家族以外で一番付き合いの長い人間は誰か、と訊かれたら、僕は迷わずに露城鍵太郎と桂美早の名前を挙げるだろうし、この二人も同じように答えるだろう。三人とも幼稚園の頃からの付き合いだし、そもそも家の並びだって、鍵太郎の家ははす向かい、美早の家は鍵太郎の家の真裏、というご近所ぶりだ。僕らの小学校の頃には地区登校というのがあって、近所の子供たちがまとまった班になって通学するという決まりがあったから、僕はいつも、楽しげに一番前を歩く美早と、僕の隣でかったるそうに欠伸をする鍵太郎と一緒に学校へ通っていた。(そしてその後ろを、言乃がいつも不機嫌そうな表情で歩いていた)気心が知れている、という意味ではこの二人に優る相手はいない。気心が知れすぎている、というのも問題じゃないかという気もするけど。
露城鍵太郎は、本当に僕と同い年なのかと造物主を殴るつけてやりたいくらいの発育優良児で、身長だって僕の頭ひとつ分は高いし、ガタイのとおりスポーツも万能、成績だって理系を中心に高得点をキープしている(その代わり文系科目は超低空飛行だけど)、僕にしてみればもう一度造物主を後ろから殴ってやりたいような奴だ。でも鍵太郎は、その実やんちゃ坊主でだらしないところもあって、なによりカラッとした気のいい奴なので、結局のところ振り上げた拳は嘆息とともに下ろさざるをえないのだけど。(ちなみに短く刈り込んだ髪の下にある顔立ちは、他校の女の子から騒がれるくらいには整っていて、美早には内緒だが、僕がラブレターの配達人になった回数は両手を使わないと数え切れない。……ええと神様、やっぱり一度くらいは殴っても構わないでしょうか?)
そんな鍵太郎の彼女であるところの桂美早は、活発な少女、という表現がなによりしっくり来る女の子で、事実中等部時代は陸上部のエースとして県大会でも上位の成績をおさめていた。トレードマークのポニーテールを左右に揺らしながらトラックを走り抜ける姿は凛としていて、悔しいけど惚れ惚れする時がある。(屈辱的で受け入れがたい事実だが、実は僕は身長で1センチほど彼女に負けている)さらに思い出したくないことだが、僕はほんの一時期、美早のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた時期があって──未だにそのときのことを盾にとって、美早は僕に対しては妙に年上ぶる(たしかに誕生日は一ヶ月くらい彼女が先だけれど)癖が抜けていない。
「ずっと、一緒なんですね。市ノ瀬くんたちは」
サンドイッチを口から離し、なにか貴いものを見つめるように瞳を細めて、天澤さんが呟いた。彼女が時々見せる、不思議な表情だ。
「泉城はさ」
そんな天澤さんを一瞥して、鍵太郎が答えた。
「ひよりさん──ああ、つぐみのお袋さんな──の母校なんだよ。俺の家も美早の家も両親は共働きだから、子供の頃は俺たちもひよりさんに面倒を見てもらったようなもんでさ。それでひよりさんが勧めてくれたんだ、素敵な学校だから、って」
「私立中学なんて、ってうちの親なんかは渋い顔してたんだけど、ひよりさんが根気よく説得してくれてね」
美早が続ける。実際のところ、母さんがいた頃とは学園長も代わり、教師陣も大幅に変わってしまったこともあり、手ばなしで《素敵な学校》と言いがたい部分もあるのだが、それでも自由自律を旨とする校風には好感が持てるし、各種施設も私立だけあって充実している。それに母さんの時代から教鞭を取っている先生たち──古典の柿沼先生なんかはそうだ──は、母さんが言っていたように魅力的な人が多く、母さんが通っていた頃は、たしかに素敵な学校だったんだろうな、と信じることができる。
「市ノ瀬くんのお母さま、ですか」
形のよい下あごにひとさし指で軽く触れながら、天澤さんが考え込むような仕草をした。
「……ちょっと想像できません。優しそうな人、というイメージはあるんですけど」
「ああ、簡単簡単」
にへ、という感じに美早は笑うと、さっと僕の後ろに回りこんで、
「わ」
がしっと後ろから僕の頭を固定すると、無理やり天澤さんの方を向かせた。
「ちょ、美早」
「動かない。ほら、天澤さん、つぐみの顔をじっと見て」
「? ……は、はい」
きょとん、とした表情で、それでも素直に天澤さんが僕に顔を近づける。あまりに不意のことだったので、頬が熱くなってくるのが分かった。
じ、と僕の顔を見つめながら、
「市ノ瀬くんの肌、本当にすべすべなんですね」
いっそう顔を近づけて、天澤さんが言う。そういや彼女、授業中や本を読むときは、眼鏡をかけることもあったっけ。
「……なんだか、女の子、みたいです」
「それ正解」
得たり、とばかりに美早が言った。
「じゃ、そのままつぐみの髪がどんどん伸びていくの想像して。そうね──、だいたい、肩にちょっと触れるくらいの、お下げの髪」
「……想像しました」
目を閉じながら、天澤さんが答える。
「それがひよりさん。イメージできた?」
「はい」
「どう?」
「……可愛い、です」
「ああもう!」
さすがに耐えきれなくなって、僕は美早を振りほどいた。あはは、と悪びれずに美早は飛びのく。
「一度さ、つぐみの家に遊びに行ってみるといいよ。双子、とまで言っちゃうと大げさかもしれないけど、ホント可愛いお母さんだから」
「そうですね、噂の言乃ちゃんにも、会ってみたいですし」
くすり、と笑いながら天澤さんは言い、そして少しさびしそうな表情になって、そうですね、ともう一度呟いた。
「……天澤さん?」
「──やっぱり、まだ少し肌寒いですね。市ノ瀬くん、紅茶のおかわり、いかがですか?」
「あ、うん。もらう、けど」
今度は妙に明るい声と仕草で、いそいそと魔法瓶から紅茶を注ぐ。時々、彼女はこんな不思議な表情を見せることがある。僕らがふざけあっているときや、軽口を叩きあっているとき、天澤さんは時々、小さく笑いながらどこか、遠くを見ているような表情をすることがある。あきらめのような、後悔のような、羨望のような、不思議な表情。そんな天澤さんを見るたびに、なんとなくむずむずする。
「そういや、つぐみと天澤さん、晴れて同室になったんだってな」
落ち込みかけた空気を察したのだろう、ふと聞き役に徹していた鍵太郎が話題を変えるように言った。
「晴れて、ってのも変な話だけど」
「正式に合併になりました。名称は第二読書部、ということになって、部員三名で無事存続決定です」
僕のあとを次いで、天澤さんが続けた。
泉城学園の生徒は例外なく部活に参加せねばならないという決まりがあって(意に沿う部活がなければ、同志を募って立ち上げても構わない)、野放図に増えても困るので部活の存続自体にも条件がある。そのひとつが最低限三名以上の部員の確保であり、もうひとつが顧問(掛け持ちも可)がいることだ。
僕が一ヶ月前に入部した読書部(文芸部のように創作活動はせず、ただ黙々と本を読むだけの部活)は昨年は四名の人員を数えていたが、その内の三人が卒業してしまったため、時森先輩という二年生がひとり、新規入部は僕ひとりの合計二名と見事に定員割れを起こしてしまった。天澤さんが所属していた俳句部はもっとひどく、同じように先輩ひとり、天澤さんひとりという状況になってしまったどころか、その先輩は家庭の事情で転校してしまい、顧問だった先生も定年退職してしまうという事態に見舞われた。
さすがにこれではあんまりだ、と見かねた読書部の顧問であるところの柿沼先生が合併を申し出、天澤さんも了承し、昨日付で読書部と俳句部は合併し、計三名となってなんとか廃部をまぬがれた、というのが今回の顛末。(というわけで昨日は俳句部の部室──といっても書架室だけど──を引きはらい、読書部──こっちは図書準備室──に引っ越すというひと仕事だった)
「これまでは三人だったけどさ」
僕と天澤さんに視線を向けて、美早が言った。
「これからは、四人で仲良くしようよ。色んなとこ行ったり、色んなものを食べたりさ」
横目で鍵太郎を見る。鍵太郎はうなずいて、そうだな、と笑った。
「だから、改めて。友達になろうよ。あたしはもう、勝手に友達だって思ってるけど」
美早の言葉に、天澤さんはとまどうような、困ったような、そんな表情をした。深呼吸をするように、息を吸い、吐き、そして空を見上げる。
「……そうですね」
天澤さんは呟くように言った。
「もしそうなれたら、すごく、すごく素敵です」




