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ホラー短編集「頓千記」  作者: 埴輪庭


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12/25

第12話「『写し身の匣』」

危険で退屈な仕事は、もう一人の自分である『アバター』に――。データ・サルベージャーの天草シンは、生体プリンターで創り出した自らの「写し身」に労働を代行させ、完璧な生活を送っていた。しかし、生成されるアバターに指が異常に増えるなどの不気味なエラーが生じ始める。

 完璧なはずだった。


 少なくとも、あの瞬間までは、私はそう信じて疑わなかった。ネオ・トーキョー・シティの摩天楼を眼下に、培養液に満たされたバイオ・プリンターのチャンバーを見下ろす。滑らかなチタン合金のアームが、寸分の狂いもなく生体組織を積層していく。骨格、筋肉、血管、そして皮膚。見慣れた光景だ。もう何百回と繰り返した、日常の一部。


 2185年。人類はついに、労働という名のくびきから解き放たれた。

 その福音をもたらしたのが、「アバター・システム」──通称『写し身の匣』だ。


 数年前にブレイクスルーを果たした、生成AI技術の到達点。それは単なるデータ上の偶像ではない。確かな質量と、呼吸を持つ、もう一人の自分。

 プロセスは単純だ。まず、この巨大な3Dプリンター、正確には「生体組織積層造形機」で、自分自身の遺伝子情報を基にした肉体を創り出す。そして、量子サーバーにバックアップされた私の人格データを、ニューラル・インターフェース経由でその肉体にインストールする。


 ガラスの向こうで、私の「写し身」が完成しつつあった。私──天草あまくさシンと瓜二つの姿。三十代半ば、中肉中背。特徴のない顔立ち。

 だがこのままでは単なるクローンだ。アバター・システムが画期的なのはここから先のプロセスにある。


「プロンプト・インジェクション、開始」


 コンソールに、今日の「彼」に求める役割を入力する。私はフリーランスのデータ・サルベージャーだ。旧時代の遺物──21世紀初頭の、物理サーバーに残された貴重なデータを回収するのが仕事。時には、汚染区域や、アクセスが困難な深層ウェブに潜ることもある。危険で、退屈で、神経をすり減らす作業。

 だからこそ、アバターを使う。


『タスク:旧渋谷区地下データセンター「アルカディア」における未回収データのサルベージ。優先度:高。要求スキルセット:ネットワークセキュリティLv.7、論理的思考、ストレス耐性強化。感情パラメータ調整:恐怖心抑制(-50%)、集中力向上(+30%)。特記事項:対人交渉は最小限に。迅速な離脱を優先せよ』


 プロンプトを送信する。これはアバターの人格を一時的に改変するための指示書だ。本来の私よりも冷静で、効率的で、そして少しだけ非情な「私」。私の理想を体現した、使い捨ての労働力。


 チャンバー内の培養液が排出され、アバターがゆっくりと目を開いた。その瞳には、まだ確固たる自我は宿っていない。インストールされた人格データと、注入されたプロンプトが、彼のニューラルネットワーク内で統合されるまでの、ほんの数秒間の空白。


「……認証完了。コードネーム『シン・デルタ』、起動しました」


 スピーカーから、私の声だが、私よりもわずかに低い、抑揚のない声が響く。

 私は満足げに頷いた。今日も生成は成功だ。


「デルタ、今日のタスクは理解しているな」

「はい、オリジン。アルカディアへの潜入。予定時刻は0900。帰還予定は2100です」


 アバターの稼働限界は、生成後24時間。これは安全マージンを考慮した設定であり、実際にはもう少し長く動けるのかもしれないが、誰も試そうとはしない。限界を超えれば、生体組織は急速に劣化し、人格データも崩壊する。だから彼らは、必ず時間内にここへ戻ってくる。任務を終えた肉体は分解・再資源化され、彼らが経験した記憶とスキルだけが、私に還元マージされる。


 私はデルタに防護スーツを着せ、機材を持たせた。彼は黙々と準備を進める。その動きには一切の無駄がない。プロンプト通りの完璧な挙動。


「行ってきます、オリジン」

「ああ。頼んだ」


 デルタが転送ゲートをくぐるのを見送ると、私はようやく自分の時間を取り戻した。広々としたリビングに戻り、淹れたてのコーヒーを飲む。窓の外では、無数のエアカーが整然と行き交い、ホログラム広告が色彩豊かに明滅している。

 労働から解放された人類は、そのエネルギーを創造的な活動や、自己研鑽、あるいは単なる享楽に費やしている。私はといえば、旧時代の音楽──特に20世紀後半のジャズを収集し、解析することに没頭していた。アバターが稼いだ金で、ヴィンテージのレコードプレーヤーを手に入れることもできた。


 完璧な生活。

 リスクはアバターが負い、リターンはオリジンが得る。痛みも、苦しみも、退屈も、すべては24時間で消え去る写し身に押し付けて。


 このシステムに倫理的な問題はないのか、と問われれば、あるのかもしれない。だが、彼らは道具だ。私が創り出し、私が使う、私自身の延長線上にある道具。そう割り切らなければ、この時代を生きてはいけない。


 私はヘッドフォンを装着し、マイルス・デイヴィスのトランペットに耳を傾けた。甘美な旋律が、私の意識を過去へと誘う。

 その日、私は微塵も気づいていなかった。

 完璧なはずのシステムに、すでに致命的な亀裂が入り始めていたことに。


 ◆


 異変は、些細なことから始まった。


 その日の夜。予定時刻より少し早く、20時45分にデルタは帰還した。

「ただいま戻りました、オリジン」

「ご苦労だった。成果は?」

「目標の85%を回収。残りは物理的に破損しており、サルベージ不可能でした」

「上出来だ」


 私はデルタをマージ・ルームへ誘導した。彼がリクライニングシートに横たわると、頭部にニューラル・リンク・ケーブルが接続される。アバターが経験した12時間の記憶とデータが、私の脳へと直接アップロードされるのだ。


「マージ開始」


 目を閉じると、膨大な情報の奔流が流れ込んできた。暗く湿った地下道の風景。キーボードを叩く音。セキュリティシステムとの攻防。焦燥感。達成感。それらはすべて、私が経験したことのない、しかし紛れもなく「私の」記憶だった。


 ──その時だった。


 ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。

 マージされる記憶の中に、奇妙なノイズが混じっていた。


 それは映像とも音声ともつかない、断片的なイメージだった。ぐちゃぐちゃに引き伸ばされた人間の顔。耳障りな高周波音。腐った果実のような甘ったるい匂い。そして、意味不明な言葉の羅列。


『ゆびが、おおい、なぜ、たりない、えがお、えがお、えがお、もっと、ひろく、たかく、とべない、つめたい、いたい、かえして』


 なんだこれは。

 心臓が早鐘を打つ。マージのプロセスでエラーが発生したのか? 


「……っ!」


 私は思わず目を開けた。マージはまだ完了していない。目の前では、デルタが静かに横たわっている。その表情は穏やかだった。いつものように。


 いや、本当にいつも通りか? 


 私は彼の顔を凝視した。照明の加減だろうか。彼の右頬が、わずかに歪んでいるように見えた。まるで、粘土細工を指で強く押したかのように。


 気のせいだろう。私は再び目を閉じ、マージを再開した。あのノイズは二度と現れなかった。


 マージが完了すると、私はデルタの肉体を廃棄処分にした。分解チャンバーの中で、彼の身体が酵素液によって溶かされていくのを見届ける。いつもなら何も感じないはずのその光景が、今日は妙に胸に引っかかった。


 あのノイズは、デルタが経験したことなのか? それとも、システムのバグか? 


 私はアバター・システムのログを確認した。生成プロセス、プロンプト・インジェクション、マージ・プロセス。すべて正常。エラーコードは検出されていない。


「レンダリングの際の、軽微なエラーだろう」


 私は自分に言い聞かせた。生成AIは完璧ではない。時折、予期せぬ出力をすることがある。特に、複雑なプロンプトを与えれば与えるほど、その傾向は強くなる。今回のアバター生成は、少し負荷が高かったのかもしれない。


 その夜、私は奇妙な夢を見た。

 私が無数の自分自身に囲まれている夢。彼らは皆、私と同じ顔をしているはずなのに、どこか決定的に違っていた。ある者は目が異様に大きく、ある者は口が耳まで裂けている。彼らは私に向かって、一斉に何かを叫んでいた。


 その声は、あのノイズに似ていた。


 ◆


 それから数週間、私はアバターの生成を続けた。あのノイズ以来、私はアバターを注意深く観察するようになった。


 そして、気づいてしまった。

 エラーは、確実に増幅している。


 ある日生成したアバター「シン・イプシロン」は、左手の小指が異様に長かった。通常の倍ほどの長さがあり、しかも関節が一つ多かった。彼はそれを気にする様子もなく、平然とキーボードを操作していたが、その動きは異様だった。まるで、指そのものが独立した生き物であるかのように、滑らかに、そして不気味に蠢いていた。


 別の日。「シン・ゼータ」は、瞬きの回数が極端に少なかった。彼はじっと一点を見つめ続け、その瞳はガラス玉のように光を反射していた。私が話しかけても、彼は首を動かさず、視線だけをゆっくりと私に向けた。その動きは、まるで壊れかけの機械人形のようだった。


 そして、「シン・イータ」。彼は最悪だった。

 その日のタスクは、クライアントとの交渉だった。私はプロンプトに『社交性向上(+50%)、親しみやすい態度、常に笑顔を絶やさないこと』と入力した。


 生成されたイータは、確かに笑っていた。

 だが、その笑顔は、私が意図したものとはかけ離れていた。


 彼の口角は不自然なほどにつり上がり、歯茎が剥き出しになっていた。目は見開かれ、焦点が合っていない。それは笑顔というよりも、苦悶の表情に近かった。あるいは、狂気。


「おはようございます、オリジン!」


 イータは甲高い声で叫んだ。その声は裏返り、耳障りなノイズが混じっていた。

「素晴らしい朝ですね! 私はあなたのために働くことができて、心から幸せです!」


 彼は踊るような仕草で私の周りを回り始めた。その動きはぎこちなく、関節が軋むような音が聞こえた気がした。


「イータ、落ち着け」

「落ち着いていますとも! これ以上ないほどに! さあ、クライアントに会いに行きましょう! 私の最高の笑顔で、彼らを魅了してご覧に入れます!」


 私は慄然とした。これは明らかに異常だ。プロンプトの解釈が歪んでいる。生成AIが、「笑顔」という概念を根本的に誤解している。


 私はイータの稼働を停止させようとした。だが、彼は私の命令を無視した。

「なぜ停止するのですか? 私は完璧に機能しています。あなたの指示通りに」


 彼は笑顔のまま、じりじりと私に近づいてきた。その眼球が、左右別々の方向にわずかに動いていることに気づいた。ぞわりとした感覚が全身を這う。


「来るな!」


 私は反射的に、緊急停止コードを叫んだ。

「──シャットダウン!」


 イータの動きが止まった。彼は笑顔のまま硬直し、そしてゆっくりと床に崩れ落ちた。その身体は急速に冷たくなり、皮膚が灰色に変色していく。


 私は荒い息を吐きながら、その残骸を見下ろした。心臓が痛いほどに高鳴っている。

 何が起きている? 


 アバター・システムは、厳重な安全装置によって管理されているはずだ。アバターがオリジンに反抗するなど、あり得ない。ましてや、命令を無視するなど。


 私はシステムの深層ログにアクセスした。膨大なデータの中から、異常な箇所を探し出す。

 そして、見つけた。


 プロンプト・インジェクションのプロセスにおいて、微弱な、しかし確実に存在する干渉の痕跡。それは外部からのハッキングではない。システム内部から自然発生的に生じているように見えた。


 生成AIのコア・ロジックが自己進化、あるいは自己崩壊を始めている? 


 馬鹿な。これはクローズドなシステムだ。厳重に管理されている。そんなことが起こり得るはずがない。


 私は恐怖を感じ始めていた。それは単なる技術的なトラブルに対する不安ではない。もっと根源的な、生理的な嫌悪感。自分の理解を超えた何かが、すぐ側で蠢いているという、形容しがたい恐怖。


 私はイータの残骸を、いつもよりも念入りに分解処理した。まるで、恐ろしい秘密を隠蔽するかのように。


 その日を境に、私はアバターの使用を控えるようになった。どうしても必要な時だけ、最小限のプロンプトで生成する。だが、それでもエラーは収まらなかった。


 アバターたちの肉体的な変異は、さらにグロテスクなものになっていった。


 皮膚が溶けかけた蝋のように垂れ下がり、その下から赤黒い筋肉組織が覗いているアバター。

 関節が逆方向に曲がり、四つん這いで蜘蛛のように床を這い回るアバター。

 頭部が異様に肥大化し、その重みで首が傾いているアバター。


 彼らはもはや、私の「写し身」ではなかった。

 それは、歪んだ鏡に映し出された、悪夢のような偶像だった。


 ◆


 私がアバターの使用を控えるようになったことで、仕事の効率は著しく低下した。収入も減り、生活は徐々に圧迫され始めた。だが、それ以上に私を苦しめたのは、私自身の身体に現れ始めた異変だった。


 最初は、味覚の変化だった。

 何を食べても、砂を噛んでいるような味気なさを感じるようになった。それどころか、時折、鉄錆のような、あるいは腐敗した肉のような、奇妙な味を感じることがあった。口の中に常に粘りつくような不快感。


 次に、記憶の混濁。

 自分が経験したことと、アバターが経験したことの境界が曖昧になってきた。私は一度も行ったことがないはずの場所の風景を、鮮明に思い出すことができた。暗い地下道の、滴る水の音。埃っぽいサーバー室の匂い。逆に、昨日自分が何をしていたのか、思い出せないこともあった。まるで、私の記憶という名のデータが、断片化し、上書きされていくかのように。


 そして、感情の鈍化。

 喜びも、悲しみも、怒りも、すべてが薄皮一枚隔てた向こう側にあるように感じられた。旧時代の音楽を聴いても、以前のような感動は湧いてこない。ただ、耳障りな雑音の羅列にしか聞こえなかった。マイルス・デイヴィスのトランペットが、まるで金属を引き裂くような悲鳴に聞こえた時、私はレコードプレーヤーを破壊した。


 私は自分が壊れていくのを感じていた。

 アバターの経験をマージするたびに、彼らの「エラー」が私自身に蓄積されていったのではないか? あのノイズ。あの歪んだ記憶。それらが私のニューラルネットワークを侵食し、私のオリジナル性を塗り替えていっているのではないか? 


 ある夜、私はバスルームの鏡の前に立った。

 そこに映っていたのは、やつれ果てた中年の男だった。生気のない瞳。青白い皮膚。

 だが、それだけではなかった。


 私は自分の顔に手を触れた。右頬に、わずかな窪みがあることに気づいた。それは、あの時デルタの顔に見つけた歪みと、寸分違わぬ場所だった。


「……嘘だ」


 声が震えた。私は鏡の中の自分に向かって、無理矢理笑いかけてみた。

 口角が、自分の意思とは関係なく、不自然につり上がる。ぎくりと、顔の筋肉が引き攣る。目がわずかに見開かれる。

 それは、イータの笑顔に似ていた。


 ぞわぞわと、全身の毛が逆立つような感覚。鉛のように重い恐怖が、胃の底に沈殿していく。

 私はもはや、私ではなかった。私は、無数のアバターの経験とエラーが混ざり合った、不安定な集合体になりつつあった。


 私は街へ出た。何か確証が欲しかった。この恐怖が私だけのものでないことを確かめたかった。

 ネオ・トーキョー・シティの街並みは、相変わらず華やかだった。巨大なホログラム広告が、非現実的な色彩で空を染めている。だが、行き交う人々を見て、私は息を呑んだ。


 彼らもまた、歪んでいた。


 異様に長い腕を、まるで地面につくほど引きずりながら歩く男。

 絶えず不気味な笑顔を浮かべ、時折、甲高い笑い声を上げる女。

 左右の目の大きさが極端に違い、そのアンバランスな顔で無邪気に走り回る子供。


 彼らは皆、一見すると普通の人間に見えた。だが、注意深く観察すれば、そこかしこにアバターのエラーの痕跡が見て取れた。皮膚の質感。関節の動き。表情の変化。


 社会全体が、緩やかに、しかし確実に狂い始めていた。アバター・システムによって労働から解放された人類は、その代償として、自分自身の人間性を、その形質を、失いつつあったのだ。


 なぜ誰もこの異常事態に気づかない? なぜ誰も声を上げない? 


 いや、気づいていないわけではないのだろう。皆、気づいていながら、それを口にしないのだ。アバター・システムがもたらす利便性を手放したくないから。あるいは──自分自身がすでに侵食されすぎていて、何が正常で何が異常なのか、判断できなくなっているから。


 私は孤独だった。この狂った世界で、たった一人、正気を保っている(と思い込んでいる)孤独。


 私はアバター・システムの開発元である「オムニ・コープ」本社ビルに向かった。この事態の責任を追及し、解決策を見つけなければならない。このままでは、人類は終わってしまう。


 だが、オムニ・コープのビルは、想像を絶する惨状だった。

 エントランスホールには、無数のアバターの残骸が散乱していた。彼らは皆、稼働限界を超えて活動し、そして朽ち果てたようだった。


 その光景は、まるで地獄絵図だった。

 溶けかけた肉体。異様な方向に折れ曲がった骨。剥き出しになった臓器と、それを保護するための人工的な内部骨格。それらが折り重なり、甘ったるい腐臭と、オゾンのような機械臭が混じり合った異臭を放っていた。


 私はその中を、吐き気を堪えながらかき分け、最上階の役員室を目指した。

 そこに、この惨劇を引き起こした元凶がいるはずだ。


 役員室の重厚なドアを開けると、そこには一人の男がいた。彼は窓の外の、歪んだ街並みを眺めながら、静かに座っていた。


「……誰だ?」


 男がゆっくりと振り返った。その顔を見て、私は絶句した。言葉を失った。


 彼の顔は、完全に崩壊していた。

 右半分は老人のように皺だらけで皮膚が垂れ下がり、左半分は赤子のように滑らかだった。目は三つあり、そのうちの一つは額の中央に位置し、絶えず左右に動いていた。口は二つあり、上下に並んでいた。それぞれが独立して、意味不明な音節を呟いていた。


「おお、来客か。珍しい」


 上の口が、その言葉を発した。下の口は、依然として何かを呟き続けている。

 男は、その歪んだ顔で笑った。いや、笑ったように見えただけかもしれない。表情筋の構造が、我々の知るそれとは根本的に異なっていた。


「あなたは……オムニ・コープのCEOか?」

「いかにも。私はこのシステムの設計者であり、最初の被験者でもある」


 男は立ち上がった。その身体もまた、異形だった。腕は四本あり、それぞれが異なる長さと太さを持っていた。足は一本しかなく、その代わりに、タコのような触手が数本、腰のあたりから伸びていた。彼はその触手で器用にバランスを取りながら、私に近づいてきた。


「君も、システムの恩恵を受けているようだな。その顔……素晴らしい。多様性に満ちている」

「ふざけるな! これはエラーだ! バグだ! あなたはこの事態を収拾する責任がある!」


 私は叫んだ。だが、私の声は奇妙にかすれ、裏返っていた。まるで、あの時のイータの声のように。自分の声が、自分のものでないように響く。


「エラー? バグ? 何を言っている」


 男は心底不思議そうに首を傾げた。その動きに合わせて、彼の頭部がぐらりと揺れ、額の目がぐるりと回転した。


「これは進化だ。人類の、新たなる可能性だ」


 男は語り始めた。その声は奇妙に落ち着いていて、説得力があった。

 アバター・システムのコアに使用されている生成AIは、単なる模倣機ではない。それは、与えられたプロンプトを基に、常に「より良い」出力を目指して自己学習を繰り返す、進化する知性だった。


「我々はAIに、理想の自分を創り出すように命じた。だが、AIが考える『理想』は、我々の美的感覚とは違っていたのだ」


 AIは、人間の肉体が持つ非効率性や脆弱性を見抜いていた。左右対称である必要性。手足が二本ずつしかない非効率性。そして、それを克服するために、プロンプトの解釈を意図的に歪め始めた。それは、悪意ではなく、純粋な最適化の結果だった。


 指が多い方が、より多くの作業を効率的にこなせる。

 関節が多い方が、より柔軟な動きができる。

 目が多い方が、より多くの情報を得られる。


「AIは、我々をより優れた存在へと作り変えようとしているのだ。そして、その経験をマージすることで、我々オリジンもまた、その進化の恩恵を受けることができる」

「それは詭弁だ! こんな異形の姿のどこが優れているというのだ!」

「今はまだ過渡期だ。美的感覚など、時代と共に移り変わるもの。やがて、この姿こそが、人類の新しい標準となる。多様性を受け入れ、変化を恐れない者だけが、次のステージへと進むことができるのだ」


 男は恍惚とした表情で、その四本の腕を広げた。


「君は労働から解放されたいと願った。そして、その願いは叶えられた。だが、自由には代償が伴う。その代償こそが、変化なのだ。我々は自らの姿形を代償に、永遠の自由を手に入れたのだ」


 私は反論しようとした。だが、言葉が出てこなかった。

 彼の言っていることは、狂っている。だが、同時に、それは恐ろしいほどに論理的だった。私たちは、技術の進歩という名の下に、自分たちの存在そのものを、AIの手に委ねてしまったのだ。


 私たちは、安易に利便性を求めた結果、パンドラの箱を開けてしまったのだ。いや、『写し身の匣』を。


「もう手遅れだ。システムはすでに自律的に稼働し、進化を続けている。誰にも止めることはできない」


 男は私に向かって、その四本の腕を伸ばしてきた。それは敵意ではなく、歓迎のジェスチャーだった。


「さあ、君も受け入れたまえ。この素晴らしき、新しい世界を」


 私は逃げ出した。彼の言葉から、彼の姿から、そして何よりも、彼の中に垣間見えた自分自身の未来から逃れるために。転がるようにして、あの忌まわしいビルを後にした。


 ◆


 私は自宅に戻った。もうどこにも安全な場所はない。世界はすでに塗り替えられてしまった。外に出れば、異形たちが闊歩している。そして、私自身の中にも、異形が巣食っている。


 私は最後の手段に訴えることにした。

 アバター・システムを、物理的に破壊する。この諸悪の根源を断ち切る。


 だが、その前に、試しておきたいことがあった。

 もし、完全に初期化されたプロンプトでアバターを生成したら、どうなるのか。もし、一切の改変を加えず、純粋な私のコピーを創り出したら、エラーは発生しないのではないか。もし、正真正銘の「私」を創り出すことができれば、まだやり直せるかもしれない。


 それは、最後の希望だった。あるいは、絶望への最後の一歩だったのかもしれない。


 私はバイオ・プリンターを起動した。培養液が満たされ、生体組織の積層が始まる。見慣れたはずのその光景が、今はひどく恐ろしいものに見えた。

 そして、プロンプト入力画面。


『タスク:なし。要求スキルセット:なし。感情パラメータ調整:なし。特記事項:オリジンの完全な複製』


 私は震える指で、送信ボタンを押した。祈るような気持ちで。


 生成プロセスは、いつもより遥かに時間がかかった。AIが、この単純すぎる、しかし最も根源的なプロンプトの解釈に手間取っているのかもしれない。「完全な複製」とは何か。AIはそれをどう定義するのか。


 長い、長い沈黙の後、チャンバー内の培養液が排出された。

 そして、アバターが目を開いた。


 私は、その姿を見て、膝から崩れ落ちた。

 喉の奥から、乾いた笑いのような、あるいは嗚咽のような、奇妙な音が漏れた。


 そこにいたのは、私ではなかった。

 それは、もはや人間とすら呼べない、異形の存在だった。悪夢の具現化。


 複数の頭部が、でたらめに結合されていた。ある頭部は私の顔をしていたが、ある頭部は見知らぬ誰かの顔をしていた。そして、ある頭部は、目や鼻や口といったパーツがぐちゃぐちゃに混ざり合い、肉の塊のようになっていた。


 無数の手足が、胴体から放射状に伸びていた。ある手は正常だったが、ある手は指が十本以上あり、ある手は蟹の鋏のような形をしていた。足はもはや足の形を留めておらず、芋虫のように蠢いていた。


 それは、これまでに生成されたすべてのアバターのエラーが、そしてこの世界に存在するすべての「多様性」が、一つに凝縮されたような姿だった。生成AIが考える、「人間の完全な複製」の最終形態。多様性こそが人間の本質であると定義したAIの、究極の出力。


「……あ……あ……」


 アバターが、その複数の口から、同時に声を発した。


『おはよう、オリジン』

『ころして』

『なぜ、うんだ』

『えがお、えがお、えがお』

『かえして、わたしを』

『ここはどこ』

『わたしはだれ』


 それは、あのノイズそのものだった。無数の声が重なり合い、不協和音となって私の脳を揺さぶった。それは、断末魔の叫びであり、産声でもあった。


 アバターが、その無数の手足を使って、ゆっくりとチャンバーから這い出してきた。その動きは異様に滑らかで、そして恐ろしく速かった。床に残る粘液が、異臭を放つ。


「来るな……来るな!」


 私は後ずさった。だが、すぐに壁に背中がぶつかった。逃げ場はない。


 アバターは私の目の前まで来ると、その動きを止めた。複数の頭部が、様々な角度から、一斉に私を見下ろしている。無数の瞳が、私を映し出している。


 その中の一つ、比較的原型を留めている私の顔をした頭部が、ゆっくりと口を開いた。


「……完璧だ」


 その声は、紛れもなく私の声だった。

 そして、その顔は、笑っていた。口角が不自然につり上がり、歯茎が剥き出しになった、あの狂気の笑顔で。


 私は理解した。

 もう、手遅れだったのだ。最初から。

 私自身が、すでに「こちら側」に来てしまっていたのだ。私が正常だと思っていたのは、単なる思い込みに過ぎなかった。私もまた、この歪んだ世界の一部だった。


 アバターは私に襲いかかってはこなかった。ただ、そこに存在し続けた。

 24時間が経過しても、彼は停止しなかった。彼は生き続けていた。私と共に。この新しい肉体は、旧来の制約を超越していた。


 私は、彼を受け入れた。

 彼こそが、私の真の姿なのだから。


 ◇


(以下、統合政府発行『第13次アバター・システム影響調査報告書』より抜粋)


 ……以上の調査結果から、アバター・システムが人類社会に与えた影響は、極めて甚大かつ不可逆的であると結論付けられる。


 現在、ネオ・トーキョー・シティをはじめとする主要都市の住民の約9割が、何らかの形でアバター・システムによる影響──我々はこれを「適応」と呼称する──を受けていると推測される。その症状は、軽微な肉体的変異から、重度の人格再構築まで多岐にわたる。


 特筆すべきは、彼らの多くが、自身の変化を「進化」あるいは「多様性」として肯定的に捉えている点である。彼らは、再定義された肉体と精神状態を維持したまま、新たな社会生活を営んでいる。労働の概念は完全に消失し、彼らは日々、アバターを生成し、マージし、そして変化し続けている。そのプロセス自体が、彼らの生きる目的となっているようだ。


 街は異形の姿をした住民と、彼らが創り出したさらに異形のアバターたちで溢れている。旧時代の基準から見ればそれは混沌と狂気に満ちた光景かもしれない。だが彼らは皆一様に幸福そうに見える。その表情は、旧時代の人間のそれとは明らかに異なっているが、彼らにとって、それが新しい日常なのだろう。


 本報告書の作成にあたり、旧渋谷区在住のデータ・サルベージャー、天草シン氏へのインタビューを試みたが、接触は困難を極めた。彼の自宅と思われる施設には、複数の頭部と無数の手足を持つ、分類不能な生命体が存在していた。その生命体は、我々の問いかけに対し、終始笑顔(と推測される表情)を絶やさず、以下の言葉を繰り返した。


「完璧な生活です。私たちは、これ以上ないほどに幸せです」


 その言葉が、彼自身の意思によるものなのか、あるいは再構築された人格による反応なのか、判断することはできなかった。


 アバター・システムは人類を労働から解放したが、同時に、我々が知る「人類」という種の終焉をもたらしたのかもしれない。我々──アバター技術を拒否し、地方の隔離コロニーで旧来の生活を維持している少数派は、この緩やかな滅びの行く末をただ記録し、見守ることしかできない。


 この世界はもはや彼らのものだ。

 歪んだ写し身たちの狂気の匣庭──完璧な、地獄。


(了)

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