ミョミィと王宮
歓楽街、花街の片隅にある小さく怪しげな薬屋。太陽が真上を過ぎ、少し西に傾きかけた頃。輝く陽光もその店には差し込まず、中は薄暗くてよく見えない。僕はロウソクに火を灯しながら、分厚い薬学書に目を走らせていた。
「ミョミィ、いる〜? あいたっ!」
玄関の方から呑気な声がする。あまり掃除が得意ではない僕の性格と、そもそも来客を歓迎していない店の性質状、入り口にはトラップのように本や資材が積み重なっていた。
「悪いね、散らかってて」
「相変わらずね〜。前飲んだやつって、まだある?」
「あるよ」
僕は棚から薬袋を取り出し、中の粉末を篩にかける。すでに温めておいたお湯を注ぎ、粉とお湯がしっかりと馴染むようにゆっくりとかき回す。できあがったお茶を、椅子に腰掛けていた彼女に手渡した。
「ありがとう。……これを飲み続けてから、ほんと肌がすべすべになった気がするわ〜」
「仙薬だからね」
「うそでしょ!」
「冗談」
彼女は最近よくここに顔を出す遊女だ。一度、肌に良いというお茶を処方して以来、すっかり気に入っているらしい。
「また冗談言って〜。じゃあ、これは何なの」
遊女はお茶を片手に店内を歩き回り、机の上に無造作に置かれた小瓶に手を伸ばそうとする。
「触るな」
大きくはないが、突き放すようなその一言で、遊女の動きはピタリと止まった。小瓶の中にはエタノールに浸された毒グモが不気味に浮かんでいる。
「刺されると、皮膚がひどく爛れる」
「……冗談でしょう?」
「………」
僕は何も言えず固まった遊女に背を向け、途中まで読んでいた本に視線を戻した。
ここには毒も薬も等しく置いてある。そもそもこんな場所に店を構えている僕も問題だが、不用意に触られて大怪我をされないよう、ある程度の脅しは必要だ。
……彼女が帰ったら、すぐに片付けておこう。
「……お茶、ごちそうさま。美味しかったわ! お代はそこに置いておくから、それじゃ!」
遊女は残ったお茶を飲み干すと、硬貨を机に置いて足早に立ち去っていった。
この店を訪れる人間はもともと少ない。目立たない立地ということもあるが、さっきのような出来事が起きるたびに怖がられ、人々の足は自然と遠のいていく。僕がここに住み始めて3カ月が経つが、友人と呼べる人間は一人もできていない。
だが、そんなものは必要なかった。僕は馴れ合いのためにここにいるわけではない。
僕はかつて王宮で、大切な人を失った。
死因は、毒。犯人どころかその手口さえ掴めないまま、捜査は打ち切られた。大切な人の仇を取ることもできなかった僕は、すべてを投げ出すように王宮を去った。あそこにいれば彼らとの思い出ばかりが蘇り、息が詰まりそうだったからだ。
一度は心を失いかけた僕を再び突き動かしているのは、ただ一つ、「二度とあのような悲劇を繰り返すまい」という執着だけだ。その感情だけに縋り、僕は独りで知識を蓄え続けている。
窓から外を窺うと、空一面に重苦しい暗雲が立ち込めていた。
予報通り天気はみるみる悪化し、夜の帳が下りる頃には、雨がざあざあと激しく地面を叩きつけていた。この様子では、今日の客の出入りなど望めない。いっそ早めに戸を閉めて、夜通し調合に集中しようか――そう思案していたその時だった。
コンコン、と扉を叩く音が響いた。
風で戸が軋む音かとも思ったが、間髪入れず、もう一度同じ音が繰り返される。
「どうぞ!」
雨音にかき消されないよう、少し声を張る。扉が開き、冷たい雨気とともに一人の男が入ってきた。
男の足取りはおぼつかず、血に染まった顔立ちから、深手を負っていることは一目で分かった。
「傷を診てもらえませんか。お医者様だと聞いたもので」
「僕は医者じゃない。だけど……かなり辛そうだな。入って」
男を診察用のベッドに腰掛けさせる。間近で見ると、頭部の痛々しい出血と、半袖の隙間から覗く無数の打撲痕が生々しかった。
「いったい、何があったんだ?」
「いやぁ、店先で揉め事になりましてね。しがない酔っ払いの喧嘩です」
男は苦笑交じりにそう言ったが、近づいても泥酔者特有の酒臭さは微塵も感じられない。
「……にしても、手酷くやられたな」
「酔った勢いで、周りのものを投げつけられましてね。いてて……」
一方的に絡まれた不運な男、ということだろうか。
「さっきも言ったが、僕は医者じゃない。本格的な処置は明日にでも専門のところへ行くんだな」
打撲痕には手早く湿布をあて、頭部の乾いた血を拭き取ってから丁寧に包帯を巻いていく。
処置の最中、男の体に触れて確信した。この男、尋常ではなく身体が鍛えられている。シラフの状態である彼にこれほどの怪我を負わせるとは、いったいどんな相手との衝突だったのか。
「う、……やはり痛みますね。……くそ、次会ったらただじゃおかねぇ……」
男は低く唸りながら、どこか底知れぬ怨念を零す。
――あまり深く関わらない方がいい。危険な匂いを漂わせる男の背中に冷や汗をかきながら、僕は淡々と処置を終えた。
*
「いや〜、ありがとうございました! おかげですっかり良くなりましたよ」
「良くなってはいない、手当てをしただけだ」
男は満面の笑みでそう礼を言う。真っ直ぐに向けられる感謝に悪い気はしないが、今の僕としては一刻も早く店から立ち去ってほしいというのが本音だった。
「今日はもう安静にしていろ。雨も酷いから気をつけろよ」
「………」
「……おい、まだ何か用か?」
ゴトッ、と重い音がした。
男が机の上に、何かを置いた音だった。
目を向けると、そこには小さなガラス瓶があった。中に浮かぶのは、半透明で周囲の景色に溶け込みそうなほど透明な生き物――しかしその体長とは不釣り合いなほど長く伸びた触手が、ただ事ではない危険性を静かに主張していた。
それは、まぎれもなく“クラゲ”だった。
いや、ただのクラゲではない。その姿を見た瞬間、僕の背筋に凍りつくような悪寒が走る。
「これは、いったい……」
「いやぁ、せっかくなんでね。あんたにも見てもらおうと思いまして。こいつの名前は『サウスウィートオークラゲ』」
ある程度、嫌な予感はしていた。だが、その名前を耳にしたくなかった。
それはかつて王宮で、僕の大切な人の命を奪った忌まわしい毒クラゲだった。本来ならこんな小瓶に収まるような大きさではない。おそらく、これはまだ幼体なのだろう。
「どうしてこれを持っている? これは猛毒だぞ」
「よくご存知で。まあ、偶然手に入ったんですよ」
「どこで手に入った? あんなもの、一般に出回るような代物じゃない!」
男は不敵に笑い、一言だけ告げた。
「――王宮で」
「っ……!」
最悪だった。10ヶ月前の忌まわしい記憶が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を駆け巡る。呼吸が乱れ、自然と息が詰まった。
……落ち着け。まずはこの男を問い詰めなければならない。
「お前は誰だ。なぜこれを見せにきた」
「この毒についてだったら、王宮の誰よりも詳しいんだろ、ミョミィ」
それまでまとっていた気さくさが消え失せ、男の眼光が鋭く光る。僕を値踏みするような冷たい視線が全身に浴びせられた。
「誰から僕の名前を……。いや、それより、どうして王宮にそんな危険なものが持ち込まれた」
男はふっと鼻で笑い、淡々と語り始めた。
「これは、王宮に在籍していた侍衛の私室から発見された。犯人はその場で確保され、厳重な尋問が行われたが、やつは一切口を割らなかった。……だが、その次の日の朝、牢の中で顔から血を流して死んでいたよ。死体の状況からして、自害ではないことだけは確実だがね」
「所持者は死んだのか……? まて、牢屋の中で、だと!?」
「ああ。侍衛は、何者かによって完璧に“口封じ”されたのさ。今回の事件の犯人は、どうやら一人じゃないらしい」
男は不気味に笑みを深める。
「王はこの事態を重く受け止め、王宮内で『高貴な人物を狙った毒殺未遂事件』が起きたことを極秘裏に確認した。まだ一般には漏れていないが、王宮の裏ではこの話題で持ちきりだぜ」
「……そんな重大な機密を、どうして僕なんかに話す……っ!」
「戻ってくるんだろ?」
「……は?」
「お前は、この毒の話をすれば、きっとノコノコ戻ってくるって言われてたんでね。こうして証拠の持ち出しも、やんごとなきお方から特別に許可が下りているのさ」
男が小瓶を指先で軽く揺らす。これが本物の証拠であり、それを持ち出せているという事実が、王宮をも巻き込んだ一大事であることを物語っていた。
あとは、僕自身がどうしたいかだ。
今でも鮮明に思い出せる、あの子の笑顔。
あの時と同じ、あの忌まわしい毒。
もし今回の事件も、かつて僕が取り逃がした「あの日の犯人」に繋がっているとしたら――。
「……もし、またあの毒が使われたのなら」
僕は震える拳を握りしめ、顔を上げた。
「今度こそ、僕は犯人を突き止める」
「決まりだな」
男は満足そうに笑った。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
「俺の名前はジャシだ。よろしくな、ミョミィ」
「……ジャシ。よろしく頼む」
こうして僕は、過去のトラウマが眠る王宮へと、再び足を踏み入れることを決意したのだった。




