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器と魂の境界線

「ママ! 飢餓の始祖……もしかして、ママを……ママを殺したの!」


 エリィの声は震え、奥歯を噛みしめる音が聞こえた。

 状況を理解しきれていない。それでも、母親の“何かがおかしい”ことだけは、本能的に察してしまったのだろう。涙をこぼしながら爪を立て、今にも飛びかかろうとする。


「待て、エリィ!」


 俺は即座に肩を掴み、制止した。


「相手に戦う意思はない」


 一触即発の空気を、無理やり押し留める。

 目の前にいる存在が、飢餓の始祖なのか、エリィの母親なのか、それとも全く別の何かなのか――判断はつかない。

 だが一つだけ分かる。もし敵意があれば、もう戦闘は始まっている。


 ここで必要なのは剣じゃない。

 冷静さだ。


「飢餓の始祖ってどういう意味だ。あんたの姿は……エリィの母親だろ」


 顔にはひびが走り、内側が透けて見えている。

 それでも、その輪郭も声も、確かに“母親”だった。


「私は概念的な存在です」


 彼女――いや、それは淡々と答えた。


「私は、様々な生物を器として過ごしてきました。この国を守るため、飢餓の呪いを絶やさぬために。国民に宿り、何百年も」


 胸に手を当てる仕草は、宝物を撫でるようだった。


「この器も、その一つです」


「この体の主――キスリングは、私に寛容でした。病弱で、先が長くないことを理解していた。だから私が宿ることを許したのです」


「私が宿れば、肉体が朽ちても、意識だけは延命できる。娘の成長を、少しでも見届けたい――その願いと引き換えに、私は彼女を媒体としました」


「嘘……」


 エリィの声がかすれる。


「ママ、元気だったもん……!」


「感情は理解できます。しかし事実です」


 冷たい声が続く。


「先ほど、キスリングの意識は完全に消失しました。この体も、いずれは崩壊します」


 エリィは言葉を失い、俯いたまま動かなくなった。


「……飢餓の始祖」


 俺は一歩前に出る。


「もし本当にそう名乗るなら、証明してくれ。俺たちはずっとあんたを探していた。何百年も姿を隠してきた存在が、なぜ今になって現れた」


「なぜ、エリィの母親の姿で」


「それは――」


 飢餓の始祖は、ほんの一瞬だけ、懐かしむように声を和らげた。


「あなたたちの姿勢に、心を打たれたからです」


「俺たち……?」


「病室で、あなたは言いました。人間と獣人に、区別も差別もない世界を創ると。それは、かつて彼女の妹――ベルが願っていた理想でもありました」


「言葉だけではなかった。飢餓化の制圧に尽力し、自らの業をエリィに伝え、国王の信頼を勝ち取り、獣人の歴史を知ろうとした」


「私はこの王国を維持するため、一つの呪いを掛けました。それを守るのが私の使命。だから誰にも見つかってはならなかった」


「けれど、現国王は違った」


 紫の雲が、ゆっくりと渦を巻く。


「呪いを解く危険を承知で、変化を選んだ。――そして、その代表に、あなたを選んだ」


「その瞬間、私は理解したのです。私がいなくなった後も、この国を保つ存在が生まれたのだと」


「……つまり」


 喉が渇く。


「俺たちに、倒される覚悟があるってことか」


「はい」


 迷いのない肯定。


「私は多くの者を苦しめました。心苦しく思いながらも、約束を守り続けた。ですが……ようやく、役目を終えられる」


「一つ聞かせろ」


 俺は踏み込む。


「最近、飢餓化が増えている理由だ。あんたと関係があるんだろ」


「あります」


「私の呪いは、一定周期で不安定になります。器の死、あるいは私自身の精神の揺らぎ。その際、飢餓化は増加する」


「人間で言う、生理現象のようなものです」


 あまりにも淡々とした説明が、逆に恐ろしい。


「……エリィ」


 俺は隣を見る。


「どうする」


 飢餓の始祖を倒すということは、母親の姿を斬るということだ。

 それを、今の彼女に決断させることなど出来ない。


「……一つ、伝え忘れていました」


 飢餓の始祖が、静かに続ける。


「あなたたちヒーロー――能力を持つ者の魂が、私の死後も残るかは分かりません」


「……どういう意味だ」


「王国創設当初、この国には無能力の人間と獣人しかいなかった。力の均衡を保つため、私は獣人を抑制した。だが、それだけでは足りなかった」


「だから私は、能力を持つ人間を創ったのです」


 背筋が凍る。


「死者を、飢餓化させました」


「……何だって?」


「飢餓化とは、自我の暴走。では、自我のない死体を飢餓化させたらどうなるか。私は実験しました」


「結果、存在しないはずの自我が発生し、魂が宿った」


「それが、あなたたちヒーローです」


「俺たちが……作られた存在だっていうのか」


 言葉が、喉で詰まる。


「二割の確率で、新たな魂が宿る。その者たちには共通点がありました」


「一つ。私への敵意、あるいは国を守ろうとする強い正義感」


「一つ。媒体となった死体の死因を能力として扱えること」


「そして――」


 彼女が手を広げる。


 そこに、大きな鏡が出現した。


 映っているのは、俯くエリィだけ。


「本来、鏡や水面は生者を映します。しかし、私が創った能力者は、生者として認識されない」


「存在しない魂を、無理やり形にした存在だからです」


 記憶が、逆流する。


 鏡に映らなかった過去。

 疑問に思わなかった日常。


「俺は……幼い頃の記憶がない」


 喉が震えた。


「それって――」

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