獣人の始まり、飢餓の影
蛇の飢餓化を倒し、確かな達成感はあった。
だが、それで溢れ返る飢餓化が止まったわけではない。
今日もヒーロー協会には異例の数の報告が舞い込み、建物は朝から騒然としていた。
俺たちは大きな休息も取れないまま、再び現場へ向かい、夜までヒーロー活動に追われていた。
一日の終わり。
茜色に染まる空を見上げながら、エリィがふと呟く。
「……また、長老に会ってみようか」
「そうだな。今度は前とは違う。俺たちは飢餓の始祖の正体を知った。もしかしたら、何か進展があるかもしれない」
以前は何も持たずに訪れた。
今は違う。手札を揃えたうえで、向き合える。
時刻は夕方。まだ遅すぎる時間ではない。
俺たちは長老の住む地へと足を向けた。
相変わらず、そこは不気味なほど静かだった。
誰も住んでいないのではないかと錯覚するほど、音がない。
時間そのものがここだけ止まってしまったかのような、不思議な場所だ。
「すみません。ノアスです。いますか?」
コン、コン。
何度ノックしても返事はない。
俺とエリィは顔を見合わせ、首を傾げた。
「でも、気配はするよ。もう開けちゃおう!」
「ちょ、エリィ——」
止める間もなく手が伸びた、その瞬間。
「うっさいんじゃ、ボケェ!」
勢いよく扉が開き、子供……ではなく、杖を構えた老人が突撃してきた。
見事な杖さばきだった。
俺とエリィは揃って頭を叩かれ、思わずうめき声を上げる。
「ほらね、ノアス君。やっぱりいた」
「“やっぱり”ではない。勝手に気配を感じ取って扉を開けようとするな、馬鹿者。……まったく、またお前たちか」
長老は深いため息をつき、俺たちを睨んだあと、ふっと目を細める。
「しかし、前とは少し違う顔じゃな。国王から聞いたぞ。飢餓の始祖について知ったようじゃな」
「え、なんでそれを?」
エリィは耳と尻尾をぴんと立て、分かりやすすぎるほど驚いてみせる。
「儂はこの国の始まりを知っておる。飢餓の始祖も、歴代の国王もな。獣人側の長老に話が行くのは、別に不思議ではあるまい」
確かに、関係者が人間だけとは限らない。
特に、この長老は中立的な立場を長く保ってきた存在だ。
「獣人である儂に話すのは、国王にとってもリスクがあったじゃろう。だが儂は昔から中立を貫いてきた。だからこそ、当時の国王から相談されたのだ。
“もしこの事が漏れたら、獣人側を抑えてほしい”とな」
「……だから、今まで黙っていたんですね」
「そういうことじゃ」
長老は杖を鳴らし、こちらを見る。
「で、正体を知ったうえで、それでもお前たちは飢餓の始祖を倒すつもりなのだろう」
「はい」
迷いはなかった。
「だから、二つ聞きたい事があります。一つは飢餓の始祖の居場所。もう一つは……獣人の歴史です」
国王から聞いたのは、人間側の歴史だ。
だが、獣人がなぜ人間を見下すようになったのか。
その答えは、獣人の側の過去にあるはずだった。
「欲張りじゃのう」
長老は苦笑し、杖で床を叩く。
「だが、口だけのヒーローではなさそうだ。国王が口を割るほどの人物なら、多少は信用してもよいじゃろう」
そう言って、長老は室内へ歩き出した。
俺たちは後に続く。
家の中には、壁一面に本が並んでいた。
埃の匂い。その奥に、確かな時間の重みを感じる。
「まず言っておく。飢餓の始祖の居場所は、誰も知らない」
あまりにもはっきりした言葉だった。
「……やっぱり、そうか」
淡い期待は、静かに砕け散る。
「だがな」
長老は続ける。
「近くにいる可能性はある」
「本当ですか!」
「推測にすぎん。ただ、数百年の歴史の中で、今のように異例の速度で飢餓化が増える時期が周期的にある。その原因は分からんが……その周期に、飢餓の始祖が関わっている可能性は高い」
確かに、今の状況は異常だ。
食料は不足していない。それでも飢餓化は増え続けている。
「場所が分からない以上、難しいですね」
「概念に近い存在だと国王も言っておったな」
エリィが首を傾げる。
「透明人間みたいな感じなのかな」
「さてな」
長老は肩をすくめ、話題を変えた。
「では、もう一つじゃ。獣人の歴史を話そう」
空気が、わずかに張り詰める。
「まず問う。お前たちヒーローの主な仕事は何だ?」
「食料調達です」
「その食料は?」
「……動物」
エリィの声が少し小さくなる。
「では、動物と獣人の違いは何だ?」
言葉に詰まる。
文明、言語、知性——考えは浮かぶが、決定的な答えは出ない。
「この国には牛や豚、羊の獣人もおる。狩る動物と、共に生きる獣人。その違いは——進化じゃ」
「進化?」
「仮説に過ぎんがな。儂ら獣人は、元々そこらにいる動物と変わらなかった」
「えっ……」
「だが、一部の個体が突然変異を起こした。環境に適応し、人の形を取った。それが獣人じゃ」
言葉が、胸に落ちる。
「皮肉な話じゃ。人間に狩られ、家畜にされる世界で、最も適応した姿が“人に似ること”だった」
エリィは目を見開いたまま、固まっていた。
獣人の始まり。
そして、飢餓の影。
世界の輪郭が、静かに、しかし確実に変わり始めていた。




