ヒマワリの笑顔と、病室の真実
翌朝、俺は太陽が昇る前から目を覚ましていた。
結局、一睡もできないまま今日を迎えてしまったのだ。
何もしていないと、胸の奥に溜まった緊張に押し潰されそうになる。
だから俺は、まだ街が眠っている時間から鍛錬を始めた。
やがて太陽が顔を出し、朝日が街を照らしていく。
静寂に包まれたこの時間帯は、まるで世界が平和であるかのように錯覚させる。
けれど数時間もすれば、空腹に苦しむ人々の声があちこちから聞こえてくるだろう。
小鳥の鳴き声も、どこか元気がない。
俺は家に残っていたパンをちぎり、窓辺に来た小鳥へ差し出した。
「……飢餓の始祖を倒す、か」
全ヒーローが掲げる目標。
この世界のどこかに存在するとされる、飢餓の始祖。
姿も正体も分からない。
ただ「倒せば飢餓化の呪いが消え、食料が天から降ってくる」という、あまりにも都合のいい言い伝えだけが残っている。
現実味はない。
それでも――信じるしかないのだ。希望が、それしかないから。
太陽が完全に昇りきった頃、俺はエリィと約束した待ち合わせ場所へ向かった。
「おはよう、ノアス君!」
彼女は太陽の光を浴びたヒマワリのような笑顔を向けてくる。
この過酷な世界には、どうにも似合わない笑顔だ。
それでも俺は、何度も救われてきた。
「行こうか」
「うん!」
歩きながら、俺の胸の奥には重たい不安が沈んでいた。
エリィの母親が――俺のことを覚えていたら、どうする?
考えれば考えるほど、答えは出ない。
辿り着いたのは、エリィの家ではなく、少し古びた病院だった。
最初にベルと会った場所。
ベルを失ってから、俺はこの建物に近づくことすら避けてきた。
「どうしたの、ノアス君。顔色、悪いよ?」
「……大丈夫だ」
冷や汗が背中を伝う。
体が、氷のように強張っていた。
そんな俺の心境を知るはずもなく、エリィは元気よく扉を開ける。
「入るよー!」
軋む音を立てて開いた病室。
差し込む風と光で、白いカーテンが揺れている。
ベッドに腰掛けていたのは、白髪交じりの女性だった。
穏やかな表情で、窓の外を眺めている。
「ママ!」
「あら、エリィ。驚かさないでって、いつも言ってるでしょう」
エリィの母――キスリング。
体が弱く、長く入院している。
「あら……そちらの方は?」
優しい声。
その一言が、俺の胸を鋭く突き刺した。
「この人ね、私の相棒のノアス君!
私、ヒーローになったんだよ!」
目を輝かせて話すエリィ。
「……ノアスです。初めまして」
恐る恐る名乗る。
キスリングは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに微笑んだ。
「初めまして。よろしくお願いします」
――覚えていない。
それでも、何か引っかかる。
「ベルを探すためにね、やっとスタートラインに立てたの!」
「そう。きっとベルも、どこかで頑張っているわ」
胸が締め付けられる。
真実を知っているのは、俺だけだ。
「ノアス君。君は、何を思ってヒーローをやっているの?」
視線が絡む。
ただの一般人とは思えない、深さ。
「……区別のない世界を作りたいんです」
「どうして?」
問い詰められるような声。
「俺は……何も覚えていない。
気づいた時には、誰にも必要とされなかった。
そんな俺を救ってくれたのが、ベルだった」
言葉が、止まらなかった。
「人間も獣人も関係なく、手を取り合える世界を――見てみたいんです」
「それを叶えるには?」
「飢餓の始祖を倒す。
恐怖を取り除いて、余裕を取り戻す。
それが、第一歩です」
「そうだよ、ママ!」
エリィが力強く頷く。
「……楽しみだね」
キスリングは微笑み、そして言った。
「エリィ、飲み物を買ってきてくれる?」
「うん!」
エリィが病室を出た瞬間、空気が変わった。
「ねえ、ノアス。
飢餓の始祖は――憎いかい?」
窓の外を見つめたまま、静かに問われる。
「……分からない。
でも、倒さなきゃいけない存在です」
「そう。王国の未来は、今のままでは長くない」
穏やかな声なのに、どこか底知れない。
――この人は、何者なんだ。
俺はそう思いながら、病室の空気を飲み込むしかなかった。




