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決闘前、蕎麦の匂い

彼女が留守なら、俺の用事はここまでだ。

 そう判断して踵を返した、その瞬間だった。


「ノアス君!」


 背中に飛んできた、よく知る声。

 振り向くと、そこには両手を振るエリィの姿があった。


 どうやら買い物帰りらしく、少し破れた紙袋を胸に抱えている。俺の姿を見つけた途端、彼女はぱっと顔を輝かせ――次の瞬間、猪のような勢いで突っ込んできた。


「ちょ、待て――!」


「おかえりみたいなタイミングだね! 今日はどうしたの? 仕事の話?」


「まあ、そんなところだ」


 息を整えながら答えると、エリィは首を傾げた。


「前に出くわした、ジータとリンの件だけどな。そろそろ決闘をしようと思ってる」


「……えええっ!?」


 分かりやすく声が裏返った。


「いきなりすぎない? 何かあったの?」


「特にはない。ただ、白黒つけたい。それに――準備も、もうすぐ整う」


 俺の言葉に、エリィは一瞬視線を落とす。


「……あまり乗り気じゃないけど」


 ぽつりと呟いてから、彼女は小さく笑った。


「でも、ヒーローって、そういう職業なんだよね」


「ああ。理想のために戦う。それを邪魔する相手には、正面から向き合う」


 俺は続ける。


「俺たちの理想は『区別や差別のない世界』だ。敵は多いし、争いも避けられない。でも獣人は本能で上下関係を理解する。一度負ければ、陰湿な真似はしてこない」


「……勝てば、分かってもらえるってこと?」


「少なくとも、中立にはできる。ジータとリンを敵に回さないのは、大きい」


 エリィはしばらく考え込み、それから顔を上げた。


「分かった。私、頑張るよ」


 決意のこもった声だった。


「よし。日程は一週間後だ」


「え、もう約束してるの?」


「いや。してないけどな」


 肩をすくめる。


「リンはプライドが高い。少し煽れば、確実に乗ってくる」


「ノアス君、言い方ひどい~」


 氷のような視線が刺さったが、咳払いで誤魔化した。


「昼飯明けだ。強敵だ、準備を怠るなよ」


「はーい……」


 そうして俺たちは別れた。


 翌日から、俺の生活は一気に忙しくなる。


 午前はエリィと国外へ食料調達。午後は鍛錬。夕方から夜にかけては、ジータの捜索だ。


 三日もあれば、ヒーローの行動パターンは読める。

 偶然を装って遭遇した彼は、露骨に嫌な顔をした。


 それでも俺は諦めず、軽い調子で声をかけ続けた。

 結果――俺は完全にストーカー扱いされることになる。


 七日目の午前十一時。

 ついに、彼は足を止めた。


「……いい加減しつこい」


 ため息混じりに振り返る。


「毎日毎日付いてきて。憧れてた男が、こんな人だとは思わなかった」


「失望させて悪いな。でも話を聞いてほしい」


「用件は?」


「決着をつけたい。あんたたちとだ」


「最初から言えばいいだろう」


 正論だった。


「まあ、俺のやり方だ」


 苦笑しながら、俺は切り札を出す。


「それよりさ。この辺に、うまい蕎麦屋がある」


「……蕎麦?」


 ジータの足が止まった。


 分かりやすい。実に分かりやすい。


「……まあ、いい。決闘はいつだ?」


「今日だ」


「急だな。でもいい。リンも喜ぶだろう。一時間後でどうだ」


「問題ない」


 計画通りだ。


 蕎麦屋に入り、向かい合って座る。

 料理が届いた瞬間、ジータの表情が緩んだ。


「……聞かせてくれ」


 箸を持ちながら、彼は言う。


「なぜ、あんたは一度ヒーローを辞めた?」


「相棒を失った」


 それだけで、十分だった。


「飢餓化に、殺された」


「……そうか」


 ジータは一瞬だけ目を伏せる。


「それでも、戻ってきた理由は?」


「この国を変えたかった」


 蕎麦を一口すすり、続ける。


「飢餓の始祖から皆を救いたい。空腹に怯えない世界を作りたい。それと――」


 少しだけ、言葉を選んだ。


「『区別や差別のない世界』を、俺は諦めきれなかった」


「あのオオカミの獣人も、同じ思想か」


「ああ。奇跡的にな」


 ジータは鼻で笑った。


「イカれてる。不可能だ」


「それでもいい」


 俺は静かに言う。


「もし俺たちが勝ったら、協力してほしい」


「……は?」


「お前たちの『強者が上に立つ世界』と、共存できるはずだ」


 ジータは蕎麦を飲み込み、眼鏡を押し上げた。


「……面白い」


 彼は、ようやく真正面から俺を見た。

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