誇りを踏みにじる拳
一瞬の判断の遅さが、死を招く世界だ。
そして俺は――ゴリラの獣人の強さを、見誤った。
正確に言えば、彼女の鍛え上げられた筋肉量を予測しきれなかった。
拳が振るわれる。
その軌道を視界に捉えた瞬間、理解した。
――直撃すれば終わる。
顔面は陥没し、運が悪ければ即死。
迫り来る拳は、やけに巨大に見えた。まるで巨人と対峙しているかのような錯覚。
最後まで諦めない意志だけは持っていたが、身体が追いつかない。
――間に合わない。
そう思った、その時だった。
「ノアス君ッ!!」
悲鳴に近い声。
エリィが、泣き出しそうな顔のまま飛び込んできた。
両腕を前に突き出し、俺とゴリラの獣人――リンの間に割って入る。
彼女の肉球は、衝撃を吸収する特性を持つ。
拳の芯を完全には捉えられなかったが、それでも威力の大半を削いだ。
――それでも。
衝撃は凄まじく、俺たちはまとめて吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「チッ……次は何だ」
頭を掻きむしりながら吐き捨てる少女。
苛立ちを隠そうともせず、肩を回し、欠伸混じりにこちらを睨む。
「大丈夫か、エリィ!」
「う、うん……何とか。ノアス君は……?」
「おかげさまでな。助かった」
壁に激突したが、致命的な外傷はない。
エリィの肉球がなければ、今ここに立っていなかっただろう。
――だが。
こいつは何なんだ。
飢餓化しているわけでもない。それなのに、どうしてここまで純粋な殺意を向けてくる。
獣人らしい、と言えばそれまでだ。
だが彼女は、その中でも異質だった。
獣人の中の獣人。
人間を見下し、命を玩具のように扱う狂気。
何とか立ち上がるが、状況は最悪だ。
飢餓化との戦闘で消耗している上、相手は完全に万全な“普通の獣人”。
どう動くべきか――
そう思った瞬間、リンの足が止まった。
「もういいだろう。リン」
背後から、男の声。
「ああん? 指図してんじゃない、人間ッ!」
現れたのは、丸眼鏡にキノコ頭の男。
獣人ではない。だが、その眼光は獣のように鋭かった。
リン――ゴリラの獣人の言葉に、男は露骨に舌打ちをする。
「僕たちは、ここに出現した飢餓化を倒しに来ただけだ。
他のヒーローと揉める話じゃないだろう」
「仕方なくパートナーにしてやっただけのくせに、偉くなったもんじゃのう。ジータ」
リンの声は怒りに濁っていた。
「それに――」
リンの視線が、俺を越えてエリィに突き刺さる。
「オイ、そこのオオカミの獣人」
「え……わ、私?」
「その瞳だ。何だ、その色は」
突然の指摘に、エリィは言葉を詰まらせる。
「……その碧眼、偽物だろう。
見えていない。違うか?」
「……はい」
消え入りそうな声。
耳はぺたりと倒れ、背中は小さく丸まっている。
「義眼か。獣人の恥じゃな」
リンは嗤った。
「誇り高き獣人の象徴である瞳を失って、何故ヒーローになどなる?
教えてくれよ、弱者。にゃははは!」
殺意に満ちた笑い声。
エリィは袖を握り締めるだけで、答えられない。
――もう、十分だ。
俺は立ち上がり、エリィの横に立つ。
「大丈夫だ」
低く、しかしはっきりと言う。
「お前は恥じゃない。
――俺が、それを証明する」
怒りが、久しぶりに腹の底から湧き上がってきた。
さっきの失態は関係ない。
俺が負ける=エリィが否定される。
そんな未来、許せるわけがない。
「ほう……やる気か」
リンは楽しそうに歯を剥いた。
「いいだろう。誇り高き獣人として、正々堂々殺してやろう」
「あんたは――待て、リン!」
ジータが割って入るが、リンは聞く耳を持たない。
「相方か。……なるほどな」
この二人もヒーロー。
だが、その関係は歪んでいる。
「あんた、もしかしてノアスじゃないか」
「……そうだが」
「初対面だ。でも有名人だからな。
飢餓化討伐の実績、対ヒーロー戦無敗の男」
ジータの視線には、敵意とは違う警戒があった。
「引退したと聞いていたが……復帰したのか」
「まあ、最近な」
「誰じゃ、こいつは」
不機嫌そうにリンが問う。
「リン。彼とは戦うな。
ここでやるのは愚策だ」
「笑わせるな」
リンは俺を睨みつけ、嗤う。
「こいつはさっき、私に殺されかけておったぞ?
無敗? カッカ、冗談も大概にせい」
そして、拳を鳴らした。
「まあいい。
ここでその記録とやらを――叩き折ってやろう」
――世界は、まだ終わらせてくれないらしい。




