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次郎は見ている

作者:

 部屋のドアを開けると、冷えた空気が靴の中まで入り込む。

 真っ暗な部屋の奥に、外の街灯の光がぼんやりとカーテンを透かしている。


 青年は無言のまま靴を脱ぎ、部屋の中へと入った。

 ジャケットを壁のフックにかけ、カバンをソファの上に放り投げる。

 何気なく視線を移した先に、黒い猫がじっと座っていた。


「……また、()()かよ」


 猫の名前は次郎。拾ってから半年ほど経つが、感情の起伏がほとんど見えない。

 その次郎が、今日もまた同じ場所――部屋の隅の一点をじっと見つめている。

 誰もいない空間。ただの壁と、わずかな影。そこに何かがあるようには見えない。


 青年はため息をつきながら台所へ向かい、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出す。

 プシュッという音とともに、微かな白い息が立ち上る。まだ少し肌寒い夜だ。


 缶を口に運びながら、ちらりと次郎を見やる。

 黒い体はまるで置き物のように動かず、耳も尻尾も一切揺れない。


「なあ、次郎。おまえ、()()に何か見えているのか?」


 もちろん返事はない。


 青年は缶をテーブルに置き、立ち上がってその視線の先に立ってみた。

 壁、コンセント、床。特に変わったものは何もない。

 首を傾げてしゃがんでみても、ただの薄暗い隅だ。


「……バカらしい」


 呟いて、青年はまたソファに戻った。

 テレビをつけて音量を上げる。バラエティ番組の笑い声が、夜の静けさを押し出していく。

 次郎は音など気にせず、ずっと同じ場所を見続けていた。







 いつの間にか寝ていたのか、意識が浮上する。

 ソファに沈み込んだまま、目を開ける。

 テレビはとうに消え、部屋の中は静まり返っていた。


 空き缶が転がったままのテーブル。消し忘れた常夜灯(じょうやとう)だけが、部屋の隅をぼんやりと照らしている。

 うっすらと頭が重い。おそらく酒のせいだ。

 軽く身を起こし、首を回す。


 そこで、視界の端に、動かない黒い影があるのに気づいた。


 ――次郎。


 あいつは、まだあの場所を見ていた。

 数時間前と同じ姿勢、同じ角度。微動だにせず、ただ黙って“そこ”を見つめている。

 まるで、一度も目を逸らしていなかったかのように。


「……お前、マジで何が見えてんだよ」


 青年は小さく呟くが、声は自分の耳にすら届いた気がしなかった。

 部屋の空気が、さっきよりも冷たくなっている気がする。

 次郎の目だけが、わずかに光を反射している。


 ぞくり、と背筋が粟立つ。


 それでも、青年はそのままソファに体を預けた。

 眠気が勝ったのか、現実から逃げたかったのか――。

 目を閉じる前、再びちらりと視線をやる。


 次郎は、まだ()()を見ていた。







 次郎は動かない。


 黒い体を床に沈めるように座り、細い瞳で、ただひとところを見続けていた。

 目の前の壁。床との境目。そのわずかな暗がり。

 人間には何も見えない場所。


 でも、次郎には見えている。


 ()()に、何かがいる。


 輪郭は曖昧で、色もなく、光も持たない。

 それはただ「いる」。

 ずっと前からそこにいて、これからもずっと、そこにいる。


 動かない。喋らない。

 けれど、存在だけが、確かに()()にある。


 その“何か”と、次郎は向き合っている。

 逃げもしないし、怯えもしない。ただ、見ている。


 背後では、青年の寝息が、静かに部屋の中を満たしていた。


 次郎は瞬きひとつせず、目の奥で、じっと――


 “それ”を見ていた。

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