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マリンという侍女

 ふわりと立ち昇った湯気が、紅茶の優しい香りをステラシアに伝えくれる。静かな室内には、マリンが用意した茶器のカチャカチャという音だけが響いている。

 教師役である夫人の姿が見当たらないことも、ステラシアが挙動不審なことも気づいているだろうに口には出さない。マリンのその姿勢がステラシアにはありがたかった。とても良くできた侍女であろう。

 コトリとステラシアの目の前に…湯気の立ったカップが置かれた。


「どうぞ、ステラ様」

「あ、はい。ありがとうございます、マリンさ……あっ!」


 またうっかり敬称をつけて呼んでしまい、ステラシアは慌てて口元を手で押さえた。

 これもうどうにもならないから見逃してくれないかなーと思うけれども、たぶんこの侍女は、是とは言わないのだろう。なんでそういうところだけ頑ななんだろうか。

 悶々と葛藤しながら、ステラシアは倒れたままの姿勢で、マリンを見上げた。喉の奥から小さな唸り声が漏れ出てしまう。

 ステラシアのその様子をニコニコと見守るマリンにいたたまれなさを感じ、ステラシアはモゾモゾとソファから身を起こした。テーブルに置かれたカップへと手を伸ばす。

 ひと口めから、鼻へ抜ける柑橘の香りがステラシアを包み込んだ。少しざわついていた胸のあたりが、清涼な香りで落ち着きを取り戻す。


「おいしいです。ありがとうございます、マリンさん……あ、いえ、えと、ありがとう、マリン」

「ふふふ。お口にあってよかったです。さ、ステラ様、髪を直しましょうね。ステラ様はなにも気にせず、そちらを召し上がっていてください」


 マリンが用意してくれたのは、紅茶だけではなかった。お茶請けにと添えられていたのはフルーツの入った焼き菓子だ。蜜柑(オランジュール)の皮や檸檬(レモーネ)の皮、青苺(ブルーベリヌ)の実などが練り込まれているマフィンは、目にも鮮やかでおいしそう。

 流れるような手付きで、ゆっくり髪を梳かれるのを感じながら、ステラシアは言われるままにマフィンを口にする。舌の上で、青苺の実の甘酸っぱさが弾けて、ステラシアは思わず、ほぅ……と息を吐いた。


「おいしい……」

「ふふっ。よかったです。料理長がステラ様のために試行錯誤してましたから。お伝えしておきますね」


 たぶんものすごく喜びますよー。というマリンの言葉に、ステラシアは笑う。きっと、それは誇張ではない。王宮の料理長だというのに、ぽっと出のステラシアに本当に気を配ってくれる、とても優しい人なのだ。

 ソファに寝転がったせいで乱れた髪になんどもていねいに櫛を通し、マリンはステラシアの髪を手早くハーフアップに編み上げる。彼女の手付きは騎士団にいたとは思えないほど慣れていると、ステラシアは頭部にマリンの優しい手を感じながら思う。 

 出会ったとき、初めはあまり乗り気ではなさそうな表情をしていた彼女だが、ステラシアと目があった瞬間、嬉しそうな顔になったのを覚えている。なにが彼女の琴線に触れたのかは今でもぜんぜんわからないけれど。


「はじめまして! ステラ様、ですね? 私は、マリン・マーガレット=シスル・ミモザラスと申します。マリンと呼んでください。昨日まで騎士団の方にいたので、慣れないこともあるかと思いますが、精いっぱい、お仕えいたしますね!」


 あの日、ペコリと優雅にお辞儀をするマリンを呆然と見つめ、ステラシアは彼女を連れてきた男へと視線を向けた。


「今日から、侍女として、あなたの身の回りの世話は彼女がする。だから、遠慮せずになんでも言うといい」

「……はい?」


 いや、そうじゃない。ただの怪我人に侍女を付ける意味がわからない。ステラシアはいままで自分の身は自分でなんとかしてきたのだ。なんなら師匠の意味わからないドレスの着付けだってしてきたのだから、いまさら身の回りの世話とか言われても困る。


「た、ただの平民に侍女はやりすぎでは!?」


 なんとかお断りしようと発した言葉を遮るように、男――アルトラシオンは指でステラシアの頬をなぞった。


「不満か? 不満なら、別の者に変えるが――」

「い、いえ、マリンさんが不満、とかではなく……!」

「そうか。ならば、問題はないな? マリン。彼女のことを頼んだ」

「はい、殿下。お任せください」


 こうしてステラシアの必死な訴えは、誰に顧みられることもなく、綺麗さっぱりと棄却されたのである。


「はぁ……ほんと、ステラ様の髪は綺麗ですねぇ。金にも銀にも見えるこのサラサラのお髪。肌の白さと、神秘的な星空の瞳と相まって――もう、王宮中……いえ、王都中……いやいや、王国中の男性が振り向きますよ!」

「い、いや……そんなことは、ない、かと」


 物思いに耽っていたステラシアを呼び戻したのは、マリンのうっとりしたような声音だった。


「なに言ってるんですか! ステラ様はこんなに美人でかわいいのに!」


 筆頭は第一王子殿下だと思いますよ〜などと鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌につぶやいて、マリンはステラシアのよれたドレスもパパッと直していく。ありがとう、と戸惑いながらも告げるステラシアに、マリンはニッコリと笑みを浮かべてみせた。

 と、コココココンと独特なノックの音が響き、応えの前に扉が開いた。マリンが素早く扉へと歩いていく。

 ここでこのような振る舞いをするのは、ただ一人しかいない。

 「入るぞ」というそのひと言で、すべての人が「お望みのままに」と道を譲ってしまう。

 「どうぞ」とも伝えていないのに、室内へと姿を見せた男を目にして、ステラシアはこっそりと息を吐いた。静かにソファから立って、礼を取る。いくら森で暮らしていたといっても、そうしなければいけない相手だということくらいは、ステラシアでももうわかっている。

 長い足が躊躇うことなく絨毯を踏みしめて、ステラシアの目の前で立ち止まった。

 

「……そんなことしなくていい」


 少しだけムッとしたような、不機嫌そうな声音とともに、ステラシアの頬にするりと手が添えられ、柔らかく上を向かされる。

 心の準備もないまま目に飛び込んできた男の美貌に、ステラシアは軽く息を呑んだ。

 淡い金糸の髪に、銀を散りばめたような紫の瞳。最近はステラシアの前では眉をしかめることはなくなったが、表情が変わらないせいで少々近寄り難い甘い顔立ち。


「でん、か……近い、です」


 切れ切れとそれだけしか言えない自分に歯噛みしつつ、ステラシアは必死に目を逸らす。耐え難くなってまぶたを閉じれば、フッと微かな吐息が唇をかすめた気がして、体が震えた。

 しばらくしてから、ようやく身を引く気配がし、安堵のままに詰めていた息を吐き出す。正面のソファに彼が座るのを見てから、ステラシアもソファへと腰を落ち着けた。


(この人なんなのもう……ほんとやめてほしい。心臓がいくつあっても足りない! 側仕えとして満足させる前に、わたしの心臓が止まっちゃうかも……っていやいや、わたし、師匠を探し出すまで死ねないし! でも、顔と声は本当にいいんだよね……って、あー! もー!)


 二ヶ月ほど前のあの夜、魔獣に襲われたステラシアを殺すことなく助け、自身の住居に連れて帰ったのは、この国ポーラリア星王国の第一王子である、アルトラシオン・ディア=ポーラリアス――この目の前の星のような男だった。

 ステラシアは、あれからの日々を思い出す。ついでに、側仕えなんてものになることになった経緯も蘇って、うっかり遠くの壁を見つめることとなった。

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