ステラシアはやらかした
この世界の名前はアストルディアと言うのだと、『各大陸及び少国家群歴史探訪』という書物に記載がある。想像の域を出ない論も確かに多いが、著者がそれぞれの大陸を巡って見聞きしたことを記述している内容で、とてもおもしろいものだ。歴史を学ぶにはうってつけの本と言えるだろう。
話を戻そう。
アストルディアには東と西、それから北の海に3つの大陸があり、また、南の海域には五十を超える島々が乱立し小国家群を形成している。
南の小国家群は、領土と資源をめぐりいまだ争いが耐えないが、東、西、北の大陸は気候も資源も安定しており国家間の交流も盛んで、ここ数百年ほどは、戦争のない平和な時代が続いている状態である。
では、宗教観はどうかといえば、各大陸や島々では、三柱の主神と多数の副神をそれぞれ国や神殿で祀っている。人々は国などによって祀られた神を信仰し、都度祈りを捧げ、恩恵を得ることで世界と国家間の秩序が保たれているという。例外となるのはただ一柱のみ。
祀られる主神は、太陽と、月と、星の化身と言われ、三つの大陸それぞれで信仰されることで、各大陸を守護し大地に恵みをもたらすのだと言われている。
たまに国の祀る神と信仰したい神が違う場合、別の大陸へ移る者もいるようだが、たいていは生まれた国の祀る神をみな信仰している。敬虔なものが多いのもこの世界の特徴だ。
畢竟、世界の神々に対する認識は共通しているものの、信仰している神は大陸や島によって違う、ということである。
なお、例外となる一柱の主神についての記載は、この国のどの書物にも見つけることはできない。
ステラシアが生まれたのは「北の大陸」と呼ばれる冬の寒さ厳しい北側の大陸で、二つの大国と、いくつかの小国で成り立っていた。
ここ、ポーラリア星王国は、北の大陸にある2つの大国のうちの一つである。王都は国の中心からやや南寄りにあり、魔の山脈をいただく北領は王家の直轄地となっている。いまは公爵家が代行で治めているが、代々王家の王太子以外の男子が大公家となり治めなければならないと、星王国暦法にて定められている。
この星王国暦法は、平易版が出版されて国内の図書館に納められており、望めば誰でも閲覧することができた。ステラシアも、暇があれば捲っていた書物の一つである。
(これはとてもわかりやすく書いてあるから、国の法を知るのにも役に立ったんだよね)
北の大陸の、もうひとつの大国は、ポーラリア星王国の西側に存在する魔の森や魔の山脈に阻まれ、現在の国交はほぼ途絶えていると言っても過言ではない。
そのぶん、国の南側や東側の港に面した領地では、東の大陸にある大国――ルナティリア月皇国との交易が盛んで、百年ほど前に平和協定も結ばれ、いまだに良い関係を築けているという。
閑話休題。
ところで、この世界の人間は、多かれ少なかれほとんどの人間が生命維持のために魔力を持っていて、魔力がない者は総じて体が弱く、短命である。そして、この北の大陸は星の女神ステシア神の守護する大地であり、魔力とは別に「星の力」と呼ばれる特別な能力を持つ人間が、わずかながら生まれることがあった。
星の力とは、人間の命の源のような魔力とは異なり、女神の力を分け与えられたものだという。
故に、星の力を持たずとも生命の維持は可能であるのだが――。一人ひとりの強弱の差はあれど、星の力を持つ者は全員が治癒や浄化の能力を宿しているため、軍や騎士団では戦いの際に重宝され、神殿は権威のためにこぞって星の力を持つ者を集めているという。
なかでも、強力な星の力を持つ女性は「星の乙女」と呼ばれ、国や神殿に大切に囲い込……保護されている。ただし、国で保護された星の乙女は国の典礼式典に高位の者として出席したり、神殿で保護された星の乙女は巡礼と称して各地へ赴いたりと、忙しい日々を送ることになる、という。
ちなみに、神殿で保護された星の乙女は王都にある神殿の奥深くに秘匿されるが、国で保護された星の乙女は衣食住と命の保証をされ、王宮でなに不自由なく生活することができる――らしい。
らしい、というのは、ステラシアが実際に国で保護された星の乙女に出会ったことがないからで、曖昧な表現にならざるを得ないことは重々ご容赦願いたいところである。
神殿の奥に秘匿された星の乙女は、各地に建てられた教会などに時期を決めて派遣されるため、祈祷のために訪ねれば会えないこともないのだが――。
(忙しいって言っても、そんな悠々自適な生活……ホントかなぁ。あ、でも、王妃様がたしか宵星さま……『宵星の乙女』じゃなかったっけ? んん? 王妃様って生活には困らなくても、『悠々自適』とは言い難いんじゃ……?)
なお、星の力を持つ者は、少女だけとは限らない。男性でも星の力を持つ者はいる。いまこの国で、当代一強力な星の力を持つのは、ここポーラリア星王国の第一王子アルトラシオン・ディア=ポーラリアス殿下、だそうだ。
(殿下は生まれたときにいろいろあった、ということなんだけど……いろいろって、なに?)
手元の本の背を指先でなぞりながら、ステラシアはこの国の第一王子殿下の姿を思い出す。
淡い金髪に甘い顔立ち。紫水晶のような瞳には銀色が散りばめられ、まるで星のよう。わずかに顰められた太めの眉が顔立ちの甘さをことごとく払拭して男らしさを強調し、けれどもニコリとも笑わない表情にとっつきにくさを感じてしまう。
魔獣討伐騎士団の団長及び、騎士団の総司令官も務めている第一王子は、その職に値するようなスラリとした高身長だ。見た目にはわからないが、剣を握る腕には、硬そうな筋肉が付いていた。そのくせ、少しカサついた指先は硬いくせに繊細だ。
(殿下は、もっと笑えばいいのに……)
ほう、と吐き出した吐息に、ステラシアはハッとする。待て待ていまなにを考えた?
「――さん。ステラ、さん? 聞いていますか!?」
「はっ、はい!?」
かけられた声に飛び上がるように返事をして、ステラシアはうつむき加減だった顔を上げた。
視線の合った女性は、呆れたようにため息を吐くと、持参した本をステラシアから取り上げて腕に抱いた。
「ステラさんは、歴史や国の成り立ちにとても詳しいのですね。この歴史書も開くことすらせずにスラスラお読みになられて。当代の王家のこともお話しになるのですから、そちらのことも、わたくしなどよりよほどお詳しいのでしょうね?」
「えっ? あの……いえ、その」
ニッコリと口角だけを持ち上げるようにして微笑んだ眼前の女性は、目にしっかりと苛立ちを込めてステラシアを見つめている。
貴族的婉曲表現による批判を呆然と聞き流していたステラシアの背中を、ツツーと冷たい汗が伝っていく。やっちまったーと思うけれども、やってしまったものはやってしまったのだから、これはもう仕方がないのではないだろうか。
急遽、ステラシアに勉強を教えることになったというこの目の前の女性は、たしかどこそこの侯爵家のご夫人ということだったか。やらかしたステラシアの前でも、嫌味だけを暴発させ笑みが崩れないのはさすがとしか言いようがない。
(だけどもうやっちゃったし……というか、勝手に予定を組む殿下が悪いのでは!?)
そうだそうだわたしは悪くない。それならそれで、ステラシアにもやりようはある。片手で口元を押さえ、んんッと小さく咳払いをしたステラシアは、おもむろに立ち上がると師匠仕込みの礼を侯爵夫人へ取った。
片足を引き、膝を折る。背筋は曲げずに、柔らかく。スカートを摘んで誰よりも優雅に。いわゆる、カーテシーというものだそうだが、ステラシアにはよくわからない。ただ、姿勢が崩れると師匠の鉄拳制裁が下った痛い思い出がある。
その見事なカーテシーに夫人が、目を見開いていることには気が付かず、ステラシアはゆっくりと口を開いた。
「大変失礼をいたしました。仰るとおり、わたしはこの国の歴史書を片っ端から読み倒しましたので、内容がすべて頭の中に入っております。ですが、王家のことについてはほとんどなにも知りません。できればそちらを教えていただけると……」
要は、開き直ってしまえばいいのだ。だって、夫人が持ってきた歴史書は、この国の史書の中でも初歩の初歩の簡単なもの。そんなものを読み合わせるだなんて、師匠の家にあった本をすべて読み漁ったステラシアには、とてつもなく退屈に決まっているのだから。
足を戻し、姿勢を正す。背筋を伸ばし、まっすぐに前を。胸を張って、軽く顎を引いて。けれど睨みつけないように気をつけて。手は前で組んで緩やかに。意識して、口元を上げること。
十一年間ともに過ごした師匠から叩き込まれたそれを頭の中で繰り返しながら、ステラシアは微笑んだ。
「あなた……どこかのご令嬢なの?」
「はい? いえ、そんなまさか……!」
「でもその所作は……」
「こ、これは――」
叩き込んだ人がいるんです! こんな行儀作法とか絶対に縁のなさそうな、生活能力皆無の人だったけど!
そんなこと言えるはずもなく、ステラシアは曖昧に微笑んで首を傾げた。
「そう、なら本当に、わたくしはお役御免のようですね。わたくしからあなたに教えられることはなにもありませんので、殿下にはそのようにお伝えします。本日はこれで失礼させていただきますので。ああ、見送りは結構です。それではステラさん、ごきげんよう」
「ええ!? いえ、あの、ちょっと、待っ――!」
頬に手を当て、憂いの吐息を残し、口を挟む隙などいっさい与えず、夫人はこちらも見事なカーテシーを披露して、振り返りもせずにあっという間に扉を開けて出ていってしまう。
引き止めようと伸ばしたステラシアの手は宙を掻き、力を無くしてそのまま下へと降ろされた。
「いえ待って。そもそも殿下のせいなんだし、わたしが引き止めてどうするの」
それでも、せっかく来てくれた夫人にあの態度はなかったかもしれない。悪いことをしてしまった気がする。少しばかり反省したほうがいいのだろう。
書き物机の椅子に座り直すのもいまさらで、ステラシアはヨロヨロと、部屋の中央にあるソファへと身を沈めた。テーブルの端に置いてある鈴に指を伸ばし、躊躇いながらもチリンと鳴らす。
すると、数秒も立たずに扉の隙間から柔らかな赤毛が顔を覗かせた。
身につけた使用人のお仕着せがよく似合う、全体的にふんわりした少女である。年の頃はステラシアとそう変わらない。たしか、2つ上の18歳だったはずだ。
マリン・マーガレット=シスル・ミモザラスという名前のこの少女は、ステラシアがここに連れてこられ、怪我から目覚めた翌日に、王子殿下――アルトラシオンが連れてきた侍女だった。
夏の夕暮れのような柔らかな赤毛に、クリクリとした瞳がとてもかわいらしい。以前はどこかの騎士団に所属して後方支援をしていたと、挨拶の際に聞いた。
女性で騎士団所属なんてとても優秀な人のはずなのに、マリンはステラシアの世話を嫌がることもなく――むしろ楽しそうにこなしてくれている。
「ステラ様、お呼びですか? お勉強のほうはいかがされ……あら? 侯爵夫人はどちらに?」
「あの方は、その……ええと、あー、あの、マリンさん。申し訳ないのですが、お茶を用意してもらってもいいですか?」
ほんの数刻前に通したはずの、教師役である夫人の姿が見当たらないことで丸っこいヘーゼルの瞳をさらに大きくするマリンに、ステラシアはおずおずと願いを口にする。
どうにも、慣れない。この、鈴で人を呼びつける行為も、なにかを人にやってもらうのも。
「かしこまりました。すぐにご用意いたしますね。――けれど、ステラ様。私に敬語は不要です。謝らなくていいですし、名前も、呼び捨てにしてください」
「うぅ……がんばりま、あ、いえ。がんばる、ね」
慣れない振る舞いにしどろもどろになるステラシアにふふっと笑うと、マリンは「少々お待ちください」と一礼して、部屋を出ていった。
「あーもう、ホント……歴史なんかどうでもいいから、あの貴族的な言い回しについて教えてほしいよぉ」
回りくどい婉曲表現で他人をチクチクする方法。そしてそのチクチクの中から真意を読み取る方法。ついでにチクチクされたときのかわし方。どれも今のステラシアには足りないものだ。
ソファの背もたれに行儀悪く寄りかかって、ステラシアは天井を仰ぐ。これから殿下のそばに仕えることになったら、あのチクチクをうまくかわしてやり返して、その上で自分の身は自分で守らなければならない。そうしなければ、殿下を守ることもできないのに。
「ううー……殿下の、ばかぁ」
不敬罪で捕まりそうな呻き声を上げて、ステラシアは本日何度目かのため息を吐いた。
今日の夫人の嫌味なんかはきっと優しいものに違いない。だって嫌味を嫌味だと認識できたのだから。これからはおそらく、もっといろいろキツイことを言われるのだろう。
まっすぐな言葉を使ってきたステラシアにとって、この貴族的構文とやらはとても荷が重く、そして息苦しい。
『では、今日からおまえを俺の側仕えとして雇うことにする』
不意にベッドの上で囁かれた横暴が蘇り、ステラシアはポスリとソファへと倒れ伏した。髪がくしゃくしゃになるのも構わず、クッションに顔を埋める。本当に、声はものすごくいいのに、内容がものすごくよくない。心臓が痛い。生活の不安で目眩がしそう。
それもこれもなにもかも、あの星のような男が悪いのだ。