だれも助けてはくれませんでした
その日は、いまにも雪が降り始めそうな、小夜星の月の最後日のことだった。
いつものように孤児院に立ち寄り、子どもたちに読み聞かせをしたり、ヘリオたちと話をした帰り道。
今日は、アステールが珍しく研究をしていない日だった。だから、ステラシアは少しだけ家路を急いでいた。
早く帰って、師匠のために夕飯をちょっと豪華に作ろうと考えたのだ。
たぶん、師匠の研究が一段落したのだろうと思ったから。
路地裏の、いつもと違う道を折れて、普段は通らない大通りを小走りで門まで急ぐ。
見覚えのない周囲の店は、普段目にしているものとは違い、格式が高そうだ。通りを歩く人々の顔も見たことのないものばかりで、居心地が悪い。
すれ違った同い年くらいの子どもが来ている服は、ステラシアのものとは違いとても高級そうだった。
もしかしたら、貴族か商家の者たちが買い物に来るような通りだったのかもしれない。
ステラシアが急ぎ足で道を行くごとに、通り過ぎる人々の眉がしかめられているような気がする。
胸元をぎゅっと握りしめながら、下を向いて歩く速度を上げた瞬間、目の前の扉が空いて尻もちをついた。
チリーンという音が開いた扉の上から聞こえてくる。
ふわりと、銀に近い金の髪がステラシアの目の前で翻った。
濃い金の瞳が、地面に座り込んだステラシアを一瞥し、驚いたように見開かれる。ほんの数瞬呆気にとられたような顔をした少女は、すぐにステラシアを睨みつけた。
吊り気味の目に鋭く射抜かれ、ステラシアは困ったように眉を下げる。どうしてそんな瞳で見られるのかがわからなかった。
パンパンとスカートに付いた砂を払うようにして立ち上がる。
「なんでここに……」
ステラシアの動きを見つめながら、少女が口の中で呟いた。その小さな声を聞き取っても、ステラシアは首を傾げるばかりだ。
なにせ、この少女をステラシアは知らない。身なりも、瞳の色も違う。おそらく、身分も違うのだろう。
それなのに、なぜか彼女を知っているような気もして、戸惑ってしまう。
どうしてか、その顔立ちが自分とよく似ているような気がしてならない。
「あ、あの……あなたは、だれ?」
だから、ステラシアがこう尋ねるのは当然のことで。純粋に、わからないから彼女のことを知りたいと思っただけで。そこに彼女を貶そうとか、馬鹿にしようなどという意図は、欠片も存在していなかった。
はず、だった。
少女の顔が泣きそうに歪んで、それから顔を真っ赤にして怒りを顕わにしなければ。
周囲の人の波が、ステラシアたちを遠巻きにするようにして、開かれていく。ざわざわとした喧騒が大きくなっていく。
どこからか、カラカラという音がした。
ステラシアの問いかけに答えないまま、少女が両手を強く突き出す。
「あ、」と思った。脳裏に、大きな階段と、目の前の小さな少女、それから"お兄ちゃん"の姿が見える。手を突き出され、体が浮いて、落ちて落ちて落ちて、そして――。
ドサッ。
肩を押されたステラシアはまた尻もちをついた。たたらを踏んだせいでよろめいて、手を突いたのは大通りの中ほどだった。そのすぐ後ろを、馬車が勢いよく通り過ぎていく。
呆然とする。どうして押されたのかわからない。
あと少しで轢かれていたかもしれないステラシアを、少女は冷めた目で見下ろしている。一瞬だけ、悔やんだような色が過ぎって、すぐに消えてしまった。
ただ少女を見上げるだけのステラシアの耳に、「ステラ!」という聞き慣れた声が飛び込んでくる。
路地からヘリオが駆けてくるのが見えた。その手には、ステラシアが孤児院に忘れてきたらしい、マフラーが握られている。わざわざ届けに出てきてくれたようだ。
もしかしたら、いつもの道にいないから、騒がしかったほうに来てみたのかもしれない。
そばに来て、ステラシアを助け起こすヘリオの身なりを、上から下までざっと見た少女が、口元を歪めて嗤った。
「ふ……ふふっ。ああ、惨めねステラシア。そんな小汚い男なんかと一緒にいて。ほんと、あなたなんかが身内だなんて、吐き気がしちゃう」
そこで一旦、少女は言葉を切る。憐れみの籠もったような視線が、ステラシアへ突き刺さった。唇だけを笑みの形にして、少女がクスクスと笑みを零す。
その、笑い方は、なんだか嫌だ。
唇を引き結び、ステラシアは少女の顔を凝視した。
「やっぱりあなたはそうやって、地面に這いつくばってるのがお似合いよ! ねぇ、お姉さま?」
ステラシアの視線に眉を寄せ、少女が吐き捨てる。
「おねえ、さま……?」
いろいろと、言いたいことはあった。
どうしてそんなに、わたしのことを嫌っているの? だとか。
どうしてわたしのことを知っているの? だとか。
どうして、同じ顔をしているの?……とか。
それらがぜんぶ霧散して「おねえさまってなに?」に侵食されていく。
昔のことは、あまり覚えていない。ステラシアの記憶は、あの日強烈な登場をして自分を攫っていった師匠との出会いから始まるのだ。
だから、自分のことを「姉」と呼ぶ少女のことを、ステラシアは知らない。
知らない、はずだ。
少女の言葉に反応したのは、呆けているステラシアではなく、ヘリオだった。
助け起こしたステラシアの両腕を掴んで離さない。抱きしめるようにしてピタリと寄り添っている。
「なにを……あんたなんかより、ステラのほうがよっぽどキレイだ!」
ヘリオの返しに、少女はカチンときたようだった。顔を真っ赤にして、周囲を見回している。そして、艶々した唇をニッと引き上げる。
いつの間にか、ステラシアたちの周りには人だかりができていた。
騒ぎが気になったのか、普段はこの通りを使わないだろう平民の姿も見える。
人の輪の外に、顔見知りのパン屋の女性がいた。肉屋の男性も。図書館の受付嬢は仕事終わりかもしれない。門番の騎士は騒ぎの確認に来たのだろうか。
「そんなこと言っていられるのかしら!?」
その人々に見えるように、少女がステラシアへと指を突きつける。
「この女はねぇ! この国に災いをもたらすと言われてる、凶星なんだから! あっという間に星を堕として、魔獣を溢れさせる厄災そのものなんだから!」
高く響いた少女の声に、周囲の大人たちがザッと身を引いたのがわかった。
ステラシアの腕を掴んでいたヘリオの手がビクリと震え、徐々に力が抜けていく。
少女の言葉に呆然としながら周囲を見回して、ステラシアは身を竦めた。自分を見る大人たちの瞳に、隠しきれない怯えが映っていた。
「ぁ……」
出ていけ、と誰かが言った。
いままでステラシアを優しく見てくれたパン屋のおばさんも、肉屋のおじさんも、花屋の夫婦も、ステラシアを遠巻きにして動こうとはしない。
縋るように見つめた受付嬢と門番は、気まずそうにしながら視線を逸らした。
「ステラ、嘘だよな?」
ヘリオだけは、ステラシアから手を離そうとしなかった。力は抜けていても、触れることをやめようとはしない。
その彼の成長しきらない体を、大人の誰かがステラシアから引き剥がした。まだ小さな手のひらが、ステラシアへと伸ばされる。
「バカ野郎! そんなのと一緒にいて、お前も魔獣に食われたいのか小僧!」
「やっ、やめ……っ、はなせよ! ステラはそんなんじゃねぇって! なぁ、そうだろステラ!?」
「嘘じゃないわよ! わたくしは慶星だけど、お姉さまは凶星! そう、託宣で決まったんだもの!」
少女の叫びが、ヘリオの声をかき消した。
暴れようとするヘリオを、パン屋の女性が引き寄せて、抱きしめる。確か、あのふたりは顔見知りだった。
出ていけ、という声が大きくなる。早く目の前から消えてくれと、願う声がする。
早く出ていけ!
この街からいなくなれ!
魔獣を連れて国の外へ行け!
二度とこの国に立ち入るな!
その言葉が口々に人々から漏れ出てステラシアへと降り注ぐ。
ジワリと、視界が歪んだ。零れ落ちそうなそれを、ぐいっと袖で拭いて踵を返す。
泣いてもきっと、誰も助けてくれない。
(そんなこと、ずっと知っていたはずじゃない、ステラシア……)
走って走って、でも小さなステラシアの足では、街の門までが遠い。
息を切らしながら走るステラシアに「死ね!」という言葉が突き刺さった。
どこからか石が飛んできて、走るステラシアの二の腕やふくらはぎに当たる。誰が投げたのかはわからない。
いままで優しくしてくれた人たちじゃなければいいなぁと、腕を押さえながら思う。
ビュッと先程よりも大きな石が、耳元を掠めた。肩を竦めて足を止めた瞬間、頭の中にゴッという音が響いた。
視界が回る。足が縺れる。頭が、痛い。けれど、ステラシアがこの場に留まることを誰も望んでいない。こめかみを、ぬるりと温かいなにかが流れ落ちた。赤い色は、ポタポタと滴って石畳を汚していく。
「やめろよ!」という声変わり前の少年の声が聞こえる。あははは! と高く笑う少女の声が聞こえる。ステラシアを追い立てる声が迫ってくる。石が、言葉が、礫のように降ってくる。
息を切らしながら、走って走って走って走って、街の大門を抜けて森へと飛び込んだ。
◆ ◆ ◆
エミール・ロジェ=アクルークスはその日、定期観察と報告のために叔母の屋敷を訪れていた。父の故郷である街から少々離れた魔の森に、その屋敷はあった。
南北に広がった屋敷は、叔母がひとりで住むにはだいぶ大きい。そう考えて、ふ、とエミールは口元に笑みを浮かべる。
「もう、一人ではないですよね」
屋敷を見上げながらポツリと呟いたその声に、出迎えた叔母はチラリと視線を向けると、「まぁね」と言って笑う。
主語がないのに、よくもまぁ通じるものだと、エミールは感心してしまう。
屋敷の中は、意外と綺麗だった。側近として召し上げた男からの報告では、散らかり放題だと聞いていたから。
通されたのは、おそらく応接室だろうか。大きなソファと可愛らしい色合いのクッション。足の低い広い机が置かれている。
勧められるがままにソファに腰を下ろした。
ちょっと待ってな、と言って出ていった叔母が、両手に茶器を持って戻ってくる。腰を上げようとしたエミールを視線だけで押し留めて、叔母はたどたどしい手つきで茶を淹れはじめる。
ハラハラしながらクッションを弄っていたエミールの前に、なんとか淹れられたらしいカップが置かれた。
断りを入れてから、口を付ける。あまりの渋さに眉を顰めそうになるのをなんとか堪えながら、エミールはカップをソーサーに戻した。
「それ……ステラが作ったんだよ」
憮然としながらエミールの様子を見ていた叔母が、不意にそう言って目元を和らげる。
完璧に隠したと思っていたが、叔母には通用しなかったらしい。もう少し鍛錬が必要だな、と考えながら、エミールは手元で弄っていたクッションを思わず抱きしめた。
「これを……ステラシアが?」
端切れをいくつも組み合わせた、斬新で可愛らしいクッションだった。落ち着いた雰囲気の応接間には少しだけ賑やかだが、悪くはないと思わせる。まぁ、元より彼女が作ったものだと思えば、エミールはなんでも愛おしいと思えるのだろうが。
そっと、クッションの表面を撫でた。異なる布をいくつも使っているからか、手触りは箇所によってバラバラだ。だが、それがいい。
ステラシア……と、エミールはかわいい妹の名を呟いた。
あんなにも、細くて小さくて、いまにも壊れてしまいそうだった妹が、こんなに優しいクッションを作れるようになった。
そのことが、単純に嬉しかった。
助け出すのが遅かったけれど、手遅れではなかった。
父と母に、双子の片割れは死んだと聞かされたとき、エミールは絶望を味わった。それなら、残ったもうひとりの妹を最大限守ろうと思い、スターリアのことを大事にしてきた。
けれどまさか、父母に欺かれているとは思わなかった。実際にステラシアは生きていて、けれど生きているのが不思議なほどに虐げられていて。
エミールはあの日、自身の父母に対して許しがたいほどの憎悪を感じた。
双子が生まれたあの日。あのゆりかごの中で。エミールの指先をしっかり握りしめた双子の手の力強さに、彼は妹たちをどんな脅威からも守ろうと、幼心に誓いを立てたのだから。
それを踏みにじられた怒りが、エミールをずっと突き動かしている。
「それで? いつもは手紙だけのくせに、今日はなんでまた直接会いに来たんだい?」
叔母の声に、エミールは夢から醒めるようにして顔を上げた。
「アクルークス家の掌握が済みました。いま、あの家の実権を握っているのは、父ではなく俺です。数年のうちに……そうですね、俺が成人する十六になったら、父と母には領地にて静養してもらうことにします」
エミールの瞳が冷たく光ったのを、叔母――アステールは静かに見つめていた。
それは要するに、脅してでも家督を譲らせる、ということだろうか。
この未だ成人もしていない、十四歳の子どもが言うことではないけれど。
だが、コイツならやるだろうなぁという確信が、アステールにはあった。
なにせ、秘匿された存在であり、家からも隔絶された自分を、執念で見つけ出した甥っ子だ。
「そういえば、おまえの側近になったあの少年、今日はいないんだねぇ?」
焦げ茶の髪に翠緑色の瞳の無愛想な少年を思い出し、アステールがゆるりと首を傾けた。
刺激的な服装の胸元に、まとめ髪から溢れた長い金の髪がはらりと落ちる。
その様を無感情に眺めて、エミールは窓の外に視線を向ける。
「リヴェルには、ステラシアの様子を見させています」
「ああ、そう。じゃあ、街までくっついて行ったわけだ」
赤い唇を妖艶に微笑ませ、アステールが自分で注いだカップに口を付ける。盛大に眉を顰めてすぐにカップを机の上に置いた。そのまま遠くに押しやるところを見るに、自分でも渋すぎると思ったらしい。
その様子に、エミールはステラシアが早々に帰ってくることを切に願った。
彼女に会いたいのもそうだけれど、早くリヴェルに茶を淹れ直してもらいたかった。
そんなふうに悠長に構えていた自分を、数刻後には殴り倒したいほど罵倒することになるとは、思いもしなかったのだ。




