彼女は生まれた瞬間から②
五歳の誕生日が過ぎて、アクルークス伯爵家は春を迎えていた。
だんだんと、いまいる場所が少しだけ暖かくなってきたのをステラシアも感じている。
五歳の次はなんだっけ……と考えて、ああ、六歳だと思いつく。
五歳になったときなにをしていたのか、思い出せない。
五歳より前はなにがあったのか、思い出せない。
自分がなんでここにいるのかも、わからない。
いつも、すぐそばに誰かがいたような気がしたけれど、気のせいだったかもしれない。
ステラシアは、今日もひとりだった。
ひとりで起きて、ひとりで着替えて、ひとりで……ひとり、だったっけ?
でも、いつもいたような誰かはもう、どこにもいない。
たまに、年上のお兄ちゃんが、ステラシアのいるところまで来てくれていた。
自分が"ステラシア"と言うのだと、それで知った。
それがなければ、ステラシアはステラシアであることを知らずにいただろう。
ここは、離れのお屋敷らしい。たまにくるお兄ちゃんが寂しそうな顔をして、そう言っていた。今にも泣きそうなその顔に、なぜかステラシアは「ごめんなさい」と言いそうになった。
「ごめんな、ステラシア。パメラは、お前が階段から落ちたあと、母上に辞めさせられたんだ……スターリアがわがままを言ってな……。しばらくは僕がこっそり様子を見に来るけど、もう少ししたら僕も学院に行かなくてはいけない。僕が留守の間は、使用人にきみの面倒を見るように言っておくから……」
「スター、リア……? ぅ、ぐ……っ」
その名前を口に出した瞬間、こめかみがズキリと痛んでステラシアは蹲る。
スターリアはきみの妹だよ、と説明していたお兄ちゃんも、両手で頭を抱えたステラシアに驚いて、腰をかがめた。
「ごめんな……ステラシア」
簡素なベッドに横たわるステラシアの髪を、お兄ちゃんがゆっくりと撫でる。その手の心地よさに少しだけ心臓が暖かくなった気がして、ステラシアはウトウトと夢と現実を彷徨いはじめた。
もうずっと、どこかを彷徨っている気がする。揺蕩っているとでも言うのか。夢か、現か、感覚は曖昧で、記憶は朧げで、なにが正しいのかもわからない。
そんな中、先の言葉通りお兄ちゃんはピタリとステラシアの元に来なくなった。
来訪の止まる前日に来ていて、なにかを言っていたような気がするけれども、ステラシアはぼんやりとしていて聞こえていなかった。
そうやって、日々をぼんやりと過ごし、いつか飽きてぐるりと周囲を見回してみる。
日の当たらないジメリとした部屋。壁はカビが生えて黒く変色し、床板は腐って所々歩くとぶよぶよする。
お兄ちゃんが、使用人にステラシアの面倒を見させると言っていたが、実際はどうだろう。
この離れにいるメイドや侍女は、ステラシアを使用人と同じように扱う。いや、それ以下かもしれなかった。
食事は届かないことが多く、いつもお腹が空いていた。前はもっと食べられていたのだろうか。
たまに届くパンはカビていたし、スープは変な味がした。臭いが辛くて食べられなかったときもあった。それでも空腹に耐えかねて無理やり食べたら、案の定腹を下した。
部屋は掃除がされないから、ホコリが溜まって蜘蛛の巣が張っている。仕方がないから、廊下の奥で見つけた掃除道具で、いつしかステラシアは自分で掃除をすることを覚えた。
そうして、春を過ぎ、夏を過ぎ、短い秋も矢のように飛んでいった。
冬の始まりを告げる神殿の鐘が、ゴーンゴーンと朝から鳴っていた。
その音を聞きながら、ステラシアは起きる気力もなく骨がむき出しのベッドの上で天井を見上げていた。
(シミ、だらけ、だな……)
ひとつ、ふたつと目に付いたシミを数え、そしてどんどん霞んでいく視界に、緩慢に瞬きを繰り返す。
もうずっと、なにも食べていなかった。三日ほど前まではふらふらと歩いて見つけた水を飲んでなんとか凌いでいたけれど、もう、水も飲めていない。
このまま死ぬのかな……と、もうすぐ六歳になるステラシアは思った。
――それでも、いいかもしれないな。
なんだか疲れたなぁ。そう思って目を閉じたステラシアの耳に、ガタン! という音が響いて聞こえた。
バタバタギシギシと廊下が軋む音を立てて、すぐに静まり返る。
そんなわけないのに、誰かがいたのではないかと、そう思ってしまう。希望などとっくに無くなったはずなのに、まだ縋りつこうとしている。
そのことが無性におかしくて、意識をそのまま手放そうとする。
それなのに、やっぱりステラシアはまだ死なせてもらえないらしい。
目を閉じて、そのまま旅立とうとしたステラシアの唇に、温かなものが触れる。微かに開いた乾いた唇を割って、流れ込んでくる。
静かに、そっと。味は、わからない。ただ、温かい。
「お願いだステラシア。これを飲んで。死なないで。きみはこんなところで死んでいい子じゃない。だってきみは俺の妹なんだから。このアクルークス家の、れっきとした令嬢なんだから」
耳に、切羽詰まったような少年の声が飛び込んでくる。どこかで聞いたことがあるはずのその声は、朧気な記憶の底にあるものとも少し違う。ほんの僅かだけ、低く聞こえる。
「――俺に力がなくてごめんね。ごめん。ごめんな、ステラシア。きっと、きみをここから出してあげるから」
コク……と喉が上下して、流されたものを嚥下する。やっぱり味は、わからない。けれど、いちど受け入れてしまえば、生を求める体がもっとそれが欲しいと、渇き出す。
ほっと安堵する吐息を感じて、ステラシアは差し出される液体を何度も飲み込んでいった。
霞んでいた目は少しだけ光を取り戻して、目の前でいまにも泣きそうな紫紺を見つけて、微笑んだ。
微笑んだ、つもりだった。
実際には口元が微かに歪んだだけだったけれど。
「な、かな、いで……」
久しぶりに出した声は、酷くガラガラだった。
発声を忘れていた喉が、それだけでジンジンと痛む。
泣かないで欲しいと言ったのに、目の前で揺れていた紫紺が決壊した。
ポタポタと、乾いたステラシアの頬にいくつもの雫を滴らせて、水跡を作る。
「……っ、ちゃんと、食べられて、えらい、な。すぐに、叔母上を探して連絡を取るよ。それまで、もう少し……もう少し辛抱してくれ。――今日はもう、おやすみ、ステラシア」
ゆっくりと、力を込めずに抱きしめられ、耳元で囁かれる。ステラシアよりもだいぶ大きな手のひらが、ゆっくりと頭を撫でて目の上を覆う。
初めて褒められたのが、ご飯を食べることだったなんて、いまではおかしいけれど。でも、その時のステラシアには、衝撃だった。
額にそっと触れた熱は、冷え切ったステラシアの芯をゆるゆると温めてくれていた。
◆ ◆ ◆
このあと、見知ったお兄ちゃんと、見知らぬお兄ちゃんが、代わる代わるステラシアの元へやってきてはこの離れの住環境を改善し整えていった。
けれど、相変わらず使用人の姿はどこにもない。
見知ったお兄ちゃんは、家族にステラシアの元へ通っていることを知られないようにするためか、あまり頻繁には顔を見られなかった。
その代わり、見知らぬお兄ちゃんがずっとステラシアの面倒を見てくれた。
淡々としていて口数はなく、けれど翠緑色の瞳の向こうに、ステラシアへの憐憫だけがチラついていた。
そうして面倒を見られている間に、ステラシアは飢餓を脱した。それでもまだ、同じ年頃の子どもに比べれば、とても小さく貧相ではあったけれど。
これは、師匠から聞いた話と、先日の夜会で思い出した、ステラシアの記憶の断片である。
そして、冬の深まったある朝。
ステラシアの記憶は、いつもだいたいここから始まる。
だってもう、あまりにも強烈だったから。
朝、起きて着替えていたら、有るか無しかな扉が大きな音を立てて蹴破られた。
そう、文字通り、蹴破られた。
ストンと体の線を撫でるようにして落ちたワンピースを呆然とつまみながら、ステラシアは扉の前で片足を上げている美女を見上げていた。
赤みの強い金色の髪。背中の中ほどまであるふわふわとしたそれを、無造作に結って肩に流している。
少々吊り気味の瞳は、宵闇のような濃紺色。見る人が見れば、ステラシアの瞳と似ていると思っただろう。濃紺の中に、星の煌めきがある。
けれど、ステラシアは自分の容姿を見たことがなかった。
ドレスの前面ではち切れそうな胸。細くくびれた腰。どこからどう見ても美女の類なのに、所作がそれを裏切っている。
「ああ、おまえがステラシアだね。聞いて驚くんじゃないよ。今日からお前の面倒は私が見る。拒否権はないよ。ほら、さっさとおいで」
「え……、えっ?」
ポカンとするステラシアの手首を掴み、美女がさっさと部屋を出る。出る際にまた扉を蹴り飛ばしたので、もともと建付けの悪かった扉は完全に沈黙した。
これでも、見知らぬお兄ちゃんが悪戦苦闘しながら、扉として機能するように直してくれたものだったのだが。
目を白黒させたステラシアはされるがまま、ズルズルと廊下を引きずられていくしかない。
堂々とした足取りで離れの玄関口を連れ出されたステラシアは、美女が止まることなく敷地の出入り口に向かっていることに気がついてぎょっとした。
面倒を見ると言った美女の言葉も忘れ、このまま殺されるのではと本気で焦った。もしくは売り飛ばされるのか。抵抗して足を踏ん張ってみても、止まることなく歩かれる。
止まる気がないのだと悟り、ステラシアは唖然としながらも足を動かすことにした。
敷地の門のそばには、お兄ちゃんが立っていた。名を知らぬままのお兄ちゃんも、後ろに控えて立っている。
美女に腕を捕まれ、ズルズル引きずられてくるステラシアを、お兄ちゃんが若干ハラハラした目で見ているのがわかった。
もうずっと、気がついたときから苦痛だった離れの玄関を、ステラシアはあっという間に越えてしまった。
そしてさらに、ステラシアを閉じめていた敷地の門も、心構えする間もなく超えてしまう。
瞬きを繰り返すステラシアの肩を、ふわりと温かな温もりが覆う。見知ったお兄ちゃんが近づいてきて、柔らかな素材のコートをステラシアに羽織らせていた。袖に手を通してと言われ、素直に従うと、開いたままの前釦をしっかり留められる。
そしてお兄ちゃんは、地面に膝を付くとステラシアを腕の中に閉じ込めた。
「ごめんね、ステラシア。俺にとってはきみもスターリアも、大事な妹なんだ」
ここでぐっと言葉に詰まるお兄ちゃんは、本当に優しい人なのだと、ステラシアは思う。
「本当なら家族であるきみにも俺のそばにいてほしい。でも、きみはここにいたら幸せにはなれない。だから……元気で、ステラ。叔母上の言うこと、ちゃんとよく聞くんだよ?」
腕の中から、視線を合わせるようにしてお兄ちゃんが言う。
紫紺の瞳が、寂しそうにステラシアを見ていた。ゆっくりと、頭を撫でる手が優しい。
冬の冷たい風が、お兄ちゃんの銀に近い金の髪をサアサアと揺らして駆け抜けていく。
叔母上というのが何かよくわからなかったけれど、その紫紺の瞳を見上げながら、ステラシアはコクリと頷いた。
言葉もなく頷くだけのそれに寂しそうに笑って、お兄ちゃんはもう一度きつくステラシアを抱きしめた。
「愛しているよ、ステラシア。きみだって、俺の妹だから。俺が、守ると誓った妹だから。――幸せになるんだよ、ステラ」
近づく見慣れた顔に目を瞑ると、額に温かな口づけが降ってくる。
それは、おまじないのように。ステラシアの幸福だけをただ願う、静かな祈りのように。
「叔母上、ステラシアを頼みます」
顔を上げたお兄ちゃんが、美女に向かって頭を下げた。
「いいわよ。託されてあげる。――でも、エミールあなた。お兄様たちのこと大丈夫なの?」
腰に手を当てた美女が、お兄ちゃん――エミールという名だった――を伺うように片眉を上げる。
「力がないと嘆くのはもういい加減うんざりなんです。どうにかしますよ。情報だけは、俺も持ってるので」
「そうねぇ……私に辿り着くくらいだもの、その情報収集能力は認めてあげる。それは、あなたの武器よね。まぁ、頑張りなさいな。なにかあったら、多少は助けてあげるわよ」
美女――たぶん叔母上――が、チラリと意味深に、エミールの後ろに静かに佇む焦げ茶色の髪の少年を見遣る。
その視線に「何もかもお見通しか」と呟いて、エミールは苦笑しつつ肩をすくめてみせた。
まだ十歳の少年がやるには、それはあまりにも大人びた所作だ。
頭上で交わされるふたりの会話を理解できないまま、ステラシアは美女に促されて初めての道を征く。
立ち止まって振り返れば、兄だという少年はいつまでも屋敷の前に佇んでいた。
ステラシアの姿がアクルークスの屋敷から遠ざかり、馬車に乗って見えなくなるまで。ずっと。




