本日は晴天なり。デートには絶好の日和です。③
辺りに漂うツンとした臭気に、ステラシアは思わず片手で鼻を覆った。
ここから遠くで、何かを切る音や倒れる音が聞こえ、見える範囲にはいくつもの瘴気溜まりができている。それは、どれもが魔獣の死体だった。
アルトラシオンの振るう黒い剣の刀身は、鮮やかな赤色に染められていた。それが、星の力で作り出した炎を纏わせているものだと、固唾を飲んで見ていたステラシアにはわかっていた。
あまりにも綺麗なその色に見惚れたが、そんな場合ではない。
(これが……『騎士団の死神』……)
星の力を纏わせた炎の剣で浄化しながら魔獣を倒しているとはいえ、死体になった魔獣まで浄化されたわけじゃない。触れれば穢れるし、体液が付いただけでも瘴気に侵される。
(どうしよう……わたしの力じゃここまでの瘴気は浄化しきれない)
ふるっと魔奏函を握りしめた両手が震えた。
その手を、後ろから伸びてきた手が柔らかく包み込む。
「大丈夫ですよ、ステラ様」
「ぁ……」
驚いて肩を跳ねさせたステラシアは、次いで聞こえた声に小さく声を漏らした。
「マリン、さん……」
いつの間にか斜め後ろに控えていたらしい彼女は、大きなヘーゼルの瞳をゆっくりと細めて笑う。
ステラシアの両手を、温かな手がきゅっと握りしめる。
「ステラ様はわたしがお守りします。後方支援の回復役ですが、これでも星の乙女と呼ばれる身です。それに、魔法騎士団は結構、厳しいところなんですよ」
唇に指を当てて、いたずらっ子のように微笑んだマリンが、その指先から光を放ち倒れた魔獣へと向ける。瞬間、バシャアッと水が溢れ出て、澱んだ瘴気を洗い流した。
瘴気溜まりが形を崩し、黒い獣の姿をあらわにする。その獣もすぐに跡形もなく消えていく。
(マリンさんの星の力が強いことはわかってたけど、すごい……)
少しだけ楽になった呼吸で、ステラシアはマリンに「ありがとうございます」と呟いた。
「滅相もございません。わたしは一頭をこのようにゆっくり浄化することしかできません。殿下や王妃陛下のようにまとめて洗い流すことに比べたら大したこと……」
「そんなことないですよ! マリンさんがいてくれて良かったって、わたしは思ってます!……だって、わたしにはこんなこと、とてもできないから」
最後の言葉を口の中で転がして、こんどはステラシアからマリンの手を握りしめた。
ヘーゼルの瞳が見開かれ、嬉しそうに弓なりになる。ほんのりと上気した頬が可愛らしい。小さく呟かれたお礼の言葉をしっかりと受け取って、ステラシアはアルトラシオンの去ったほうを見遣る。
遠くの方で雷の迸る様が見えた。黒い獣たちが植え込みから飛び出して、ジリジリと後退している。
「殿下の雷撃ですね。魔力も桁違いですから」と、マリンが呟いた。
思わず駆け出そうとしたが、ステラシアの前には、まだ息絶えた魔獣が一頭転がっている。グルリと見回して、眉を顰めた。臭気が胃をかき混ぜるように鼻をつく。
そこらに転がっている獣を見ていると、あの時のことを思い出してしまう。
陽の光の下で、ユラユラ立ち昇った穢れた瘴気のことを――
(待って……陽の光の下ってやっぱりおかしい……!)
魔獣は星の堕ちた夜に湧き出るモノ。それは、この国――いや、北の大陸の誰もが認識していることだ。
それなのに、こんな真っ昼間に。あの日はもうすぐ夕方になる頃だった。今日は、まだ昼を少し過ぎただけ。
(そういえば、この前、殿下が怪我をして帰ってきたときも、魔獣が現れたのは昼前だった……)
バッとステラシアは空に目を向けた、雲一つない青い空は変わらない。星など、どこにも見当たらない。それとも、この青空の向こうに星があって、それが堕ちたとでも言うのか。
空を見上げながら、ステラシアはその夜空のような双眸を細めた。青い空が薄膜のように黒く淀んで見えるのは。死体から立ち昇った瘴気が漂っているせいだろう。
アルトラシオンの護衛たちが公園にいた人たちを避難させてくれて良かったと、ステラシアは胸を撫で下ろした。
「とりあえず、このままだと瘴気が濃すぎるので、ちょっとずつ浄化していったほうが良いですよね……」
今はまだ大丈夫だが、公園の外まで拡がったらコトだ。それに、また臭気が強まり、呼吸が辛くなってきている。
「そうですね。正直、焼け石に水かもしれないのですが、やらないよりはマシかもしれません」
あとどのくらいの魔獣がいるのかはわからないけれど、離れたところで迸る浄化の焔や雷撃で、アルトラシオンがまだ戦っていることはわかる。
バタバタと音がして視線を向けると、平民の避難誘導に回っていた騎士たちが戻ってきて、アルトラシオンが散らした魔獣を切り倒しているのが見えた。
「良かった。クリフォード様たちが戻られましたね!」
「そうですね! あの、マリンさん……頼っちゃってすみませんが、そこの魔獣の浄化をおねがいできますか?」
ステラシアが指差した魔獣の死体に目を向けたマリンが、「おまかせください!」と笑って清流を出す。
そうしていくつかの魔獣を浄化してもらいながら、ベンチの周りを徐々に清浄に戻していく。
次はコレ、とステラシアが指差した死体にマリンが駆けていく。
(あ、ちょっと遠かったな……)
間の空いてしまったマリンとの距離を縮めるためにステラシアが歩き出したとき、傍らの植え込みが大きく揺れた。
「え? きゃ……っ」
「ステラ様!」
先の方で、慌てたようなマリンの声が聞こえた。すでに浄化に入っていた彼女は、いま動けない。焦ったようなその表情に大丈夫だと頷き返し、ステラシアはその場に膝を突く。
「ねぇ、大丈夫? 避難、しなかったの?」
植え込みから飛び出して来たのは、なにかを抱えた少女だった。その腕から薄っすらと立ち昇る瘴気にステラシアは眉を寄せる。
「……怪我、してる?」
問いかけにフルフルと頭を振って、少女はステラシアを見上げた。黄色いワンピースは所々が汚れ、焦げ茶の髪に結われたオランジュ色のリボンは解けかかってヨレている。
大きな瞳は濃い緑色で、その表面を厚い水の膜が張っていた。それが、ボロボロと大粒の涙となって流れ落ちる。
「ちが……っ、ひっ、ぅく……リリじゃな……ルルっ、が……!」
蹲ったまま泣きじゃくる少女に、どうしたらいいか分からなくなる。忘れようとしたはずの昔のことを思い出す。郷愁にチクリと胸が痛み、そうじゃない、と軽く頭を振る。
(こういうときは……えっと、リトのときみたいに、優しく抱きしめてあげて……それで……)
「ステラ様!」
「ステラちゃん!」
少女の肩に手を乗せて、ゆっくりと抱きしめようとしたとき、自身を呼ぶ声を聞いた。緊迫した声だ。マリンだけではない。イアンの声も混ざっている。クリフォードの声も聞こえた気がする。
顔を上げて、ステラシアは固まった。
数歩先に獣の巨躯がある。走って、濁った眼がこちらを見て、嗤うように細められ、長い顎が開かれる。ダラリと、涎のように真っ黒い瘴気が垂れ落ちる。獲物と認定されたらしい。
――逃げなきゃ、と思った。
――逃げるべきだ、と思った。
(――でも!)
手のひらの下の小さな肩を、腕の中に抱きこむ。そのまま、地面に伏せて、ぎゅっと目を閉じた。
(この子を放って逃げることなんて、できないよ……っ)
ステラシアだけだったら逃げたかもしれない。まだ、師匠を見つけていないのだから、こんなところで死ぬわけにいかないのだ。
逃げればいいとステラシアに言ったのは、確かに師匠だけれど、逃げるなと言ったのも、紛うことなく師匠だ。
逃げることは自分を守るために必要だったけれど。でも、逃げたことを後悔することもあるんだと、ステラシアは知っているから。
それでも、たぶん、魔獣に喰い千切られたら痛い……どころではない気がする。
臭気が強くなって、胃が痙攣する。思わず吸い込んだ空気に震えて、ゲホリと咳をした。
殿下はどこだろう? せめて、最期にあの星のような瞳を見ていたい。
(わたしに、誰かを守れるくらいの力があれば……――っ)
小さな頭をぎゅっと抱きしめて、唇を噛む。
間近に獣の息遣いを感じて、ふるりと体が震えた。
「――ステラ!!」
ガアッと魔獣の口が開いたのが先か、ザシュッという切り裂くような音が聞こえたのが先か。ドオッと何かが倒れる気配に恐る恐る目を開けると、広く大きな黒い背中が飛び込んでくる。
軽く振るった剣から、黒い液体が飛び散って、地面を汚す。そこから立ち昇る瘴気は、目の前の男から溢れ出した清流が流して消えていく。
ゆらりと、金の髪が淡く光って見える。まるで、星のようだ、と思った。
(真昼の、星…………アルト、さま……)
グルルルル……と苦しげな呻き声とともに、ステラシアたちを襲おうとした魔獣が立ち上がる。よく見たら、それは他よりもひときわ大きな個体だった。
飛びかかる寸前に、アルトラシオンが動く。炎を纏う剣を一閃。それだけで、獣の首が落ちた。
横倒しに倒れる音に混じり「早い……」「怖えぇ」という声がどこからともなく聞こえてきて、地面に伏せたまま首を傾げる。
「ステラ様!」
慌てて走り寄ってきたマリンが、傍らに膝を突いた。大丈夫ですか? と名も知らぬ騎士が差し出した手を取って、ステラシアは伏せていた体を起こした。腕の中には少女を抱えたままだ。
地面にペタリと座ったまま、震える少女の肩を撫でる。
その腕に抱かれているものに触れ、ステラシアはきゅっと唇を噛んだ。
「ステラ、地面に座っていたら冷える」
マリンと入れ替わるように、ステラシアの傍らにアルトラシオンが歩み寄る。辺りは静かで、もう動いている魔獣の姿は見当たらない。アルトラシオンの倒した個体が最後の一頭だったようだ。
風が、思い出したかのように吹いて、皆の髪を巻き上げる。そのまま瘴気も空に連れて行ってくれればいいのに、そうはいかないらしい。
死体が放つ臭気をかき混ぜるだけかき混ぜて、無情なまま通り過ぎていく。
「……総員、事後処理だ。星の力を持った者は、浄化を。他はいつもの通り。マリン嬢……悪いが手伝ってもらえるか」
承知いたしましたと優雅にスカートをつまみ、マリンが駆けていく。スカートを翻した先にはクリフォードがいた。別の場所にイアンの姿があり、彼はウィルフレッドと処理に当たるようだ。
「ステラ、手を」
スッと差し出される手に手を重ねて、けれど立ち上がるのではなく両手でぎゅっと握りしめる。
そばでは少女がまだ泣いていた。それを放っておくことなど、やっぱりステラシアにはできなかった。
デートは楽しく終わりたいものですよね。




