秘密だよ
秘密だよ
先日の思惑通り、ステラシアは第一王子宮を抜け出してきていた。
マリンがお茶の用意のために部屋を辞し、タイミングよくイアンがクリフォードに呼ばれて持ち場を離れた隙を見逃さず、コッソリと部屋を出てきたのだった。
「でも……置き手紙もしてきたし、大丈夫な、はず」
なんとなく、一抹の不安を抱えながらも、ステラシアは商業区の店を見て回る。残念ながらお金を持っていないため、本当に見るだけになってしまったが、それでもずっと第一王子宮の部屋にこもっているよりも解放感がある。
(緊急用にお金とか持ち出せるように準備しておけばよかったなぁ……)
だが、まさかあの森の屋敷が魔獣に襲われるなど思ってもなかったのだ。それも昼間に。
基本的に、魔獣は星の堕ちた夜に生じた瘴気のなかからしか現れないはずなのだ。その、はず――だったのに。
(あそこは、師匠の浄化魔法で常に浄められてるから、本来なら瘴気が入り込むことなんてないはずなのに)
それに、いくら浄化魔法があるからとはいえ、ステラシアも彼女の師匠も魔の森の中腹で暮らしていたのだ。それなりの危険性は承知の上である。そのために、師匠はステラシアにあらゆる生きるすべを叩き込んだのだから。行儀作法もその一つだ。役に立つときが来るとは微塵も思っていなかったけれど。
しかし、「魔の森」などと物騒な名が付いてはいるが、彼の森は昼間はとても美しい場所だ。泉は光を反射してキラキラと輝いていて、木々は陽光を透かして降り注ぎ、地面近くの草花を照らしている。風が吹いて葉がざわめき、鳥のさえずりや動物たちの走り回る音が聞こえる。音と光に溢れているが、とても静謐なところ。
――ステラシアが帰りたいと願っていた場所。
そこまで考えてステラシアはハッと頭を振った。
(な、な、なに願っていたって! 願ってる願ってる! いまもものすっごく願ってる! 現在進行形で願ってるから!)
花屋の前で立ち止まっていたせいか、奥から出てきた女性がステラシアを胡乱な目で見つめているのがわかった。
慌ててその場を立ち去りながら、こんどは露店を出している雑貨屋の前で立ち止まる。キラッと反射した紫色に思わず目が吸い寄せられる。
(……殿下)
そっと、指先でその硝子玉のような紫に触れた。ステラシアを見る、アメシストのような瞳。表情があまり変わらないせいでなにを考えているのかイマイチよくわからないけれど、星を散りばめたようなあの瞳は、とても綺麗だとステラシアは思う。
「お、なんだ嬢ちゃん。それが気になるのかい?」
ぼーっとしながらその色味に魅入られていたステラシアに、露店の主が明るく声をかけてきた。紫に触れていた指がビクッと震えて、慌てたように離れる。
「あっ、ごめんなさい! 勝手にさわっちゃって」
「いいよ、いいよ。気になんなら手に取って見てくれ」
ざっ、と店主の目が動いた。一瞬でステラシアの身なりを見極めたようだ。目立たないようにしているが、身に着けている衣服の布地や縫製の確かさなどは、とてもじゃないが平民に手の出せるものではないと、気づいたのだろう。ギラッと店主の目に鋭い欲が見えた気がして、ステラシアは一歩後ろへと下がった。
「ごめんなさい。ちょっと見ていただけなの。今日は手持ちが少ないから、遠慮しますね」
「……そうかい? なんだか、誰かを思い出してるような顔をしていたんだがね。ま、気が向いたらまた見に来てくれよ」
「ええ、はい。……機会があれば、また」
手持ちが少ないどころかまったく持っていないのだけど、そんなことをここで言いふらすつもりはない。なんとか笑顔で手を振って、ステラシアはまた大通りを当て所もなく歩きはじめた。
蝶のように店々を飛び回りながら、ふと、露店商の言葉を思い出す。
『誰かを思い出してるような……』
ステラシアは歩きながら、ぶんぶんと首を振った。
ちがう。思い出してなんかない。ぜったいちがう。だってあんな硝子玉じゃあ、到底あの星のような輝きにはなり得ないのだから。
(って、ちがぁぁう! わたし、殿下のことなんて思い出してないんだから!)
誰に対する言い訳かわからないまま胸中で叫んで、けれどそうやって否定すればするほどなにか気づいてはいけないものに気づいてしまいそうで、ステラシアは胸の中のソレにそっと蓋をした。
だってやっぱり、身分不相応な、そんなものだったから。
しばらく歩き回ったステラシアは、大通りから少し外れた路上で足を止めた。どこかからかすかに、小さな鳴き声が聞こえた気がしたのだ。キョロ、とあたりを見回して、少しだけ脇道に逸れる。
大通りから路地に入ってしまうと、途端に道が入り組んで迷路のようになるのは、王都でも地方の都市でも変わらないらしい。なるべく複雑に入り込まないように気をつけながら、ステラシアは慎重に路地の奥へと進んでいく。
「あ……」
建物と建物の間をゆっくり進むと、あるところで急にひらけたところがあった。空き地のようになったそこは、普段は子どもたちの遊び場になっているのだろう。おそらく夜はあまり良くはない人間のたまり場にもなっているのだろうが。
隅に転がる酒瓶を横目に空き地の奥へ歩いていくと、木箱を積み上げたようなものの傍らに小さな人影を見つけた。なにかを大事そうに抱えて、背を丸めて座っている。なんだかはよくわからない。見えるのは、この小さな子どもの灰色がかった髪の毛だけ。けれど、腕のなかのものは時折ピクリと動いているようだ。
「どうしたの?」
地面に膝をつき、なるべくやわらかな声になるようにして、問いかける。
ビクッと、うつむいていた灰色が頭を揺らした。おそるおそるといった体で見上げる瞳は、オランジュールのような、鮮やかな橙色。少し薄汚れた、けれどしっかりとした布地の服を着ていて、貧民街の子ではないようだ。平民の子にしては整った顔立ちの少年だった。口の端に大きな青アザさえなければ。
ステラシアが目線を合わせると、大きなオランジュールの瞳にゆるゆると膜が張る。警戒するように腕のなかのものを抱きこむ姿に、昔の友人の姿が重なって、ステラシアはクスリと笑みを零した。年齢もきっと変わらない。この子もきっと十歳くらいだろう。
「なんにもしないよ。どうしたのか、教えてほしいだけ。なんでキミはこんなところで泣いてるの?」
しばらく無言の時間が過ぎた。けれど、少年の腕のなかのものは我慢できなかったらしい。にゃぁ……といまにも消えそうな声を上げ、腕のなかから這い出ようとしていた。
「ねこ?」
「……っ、そう、だよっ。あっ、コラ、ダメだって!」
モゾモゾと少年の腕のなかで動き回ったソレは、ついにピョコンとかわいらしい耳をのぞかせた。ついで、ピンクの鼻先に、深い緑色のつぶらな瞳。少年の腕に爪を立てながら、とうとう外まで這い出てきて、そして地面にべシャリと落ちた。
真っ白な毛並みの猫だった。けれど、その毛皮はところどころ赤黒いもので汚れている。後脚のひとつが、変な方向へと曲がっているのが見て取れる。か細く喘鳴を繰り返し、時折ゲホゲホと粘ついた赤い液体を吐き出していた。
「……ひどい。なんでこんな怪我……」
「さ、さわんなよ!」
「つ……っ」
スッと指を伸ばして白猫に触れようとした指先を、少年が振り払う。瞬間、少年の爪が触れて、ステラシアの指先を傷つけた。血が一筋、流れて落ちる。
それを見て、しまった、というような顔をする少年はきっと、とても優しい性格の子なのだろう。
「ねえ。その子、はやくお医者さんに見せないと危ないよ?」
「わっ、わかってるよ……! でも、オレにはそんな金、ない……っ」
「……うん。じゃあ、さ。わたしになにがあったか、教えてくれる?」
「お、教えたら、どうにかなるのかよ」
「そうだなぁ……なるかも、しれないよ。わたしね、これでも魔の森で動物たちのお世話とかしてたんだよ」
魔の森で……? あんぐりと口を開ける少年に、ふふふっとステラシアは笑ってみせる。あの森に人間は入ってきたことはないけれど、森の動物たちはよく屋敷まで遊びに来ていた。ステラシアや、ステラシアの師匠が、自分たちを癒やしてくれると知っていたからだ。
誰かにそのことを言うつもりはないけれど、でも、こんなにボロボロになってしまった猫を見捨てるなんて、ステラシアにはできそうにない。
「……コイツ、いつもオレとここで遊んでるんだ。たまに、家から食べられそうなもん持ってきてあげてた」
「そっか。友だちなんだね」
その言葉に少年はバッ! と顔を上げると、立ち上がった。
「そう……そうだよ! ともだちなんだ! だから、ほんとうは、家につれて帰っていっしょに遊んだりしたいんだけど、父さんがどうしてもだめだって……」
うん、とステラシアはうなずいた。少年の身なりは悪くないけれど、でもそれは普通の平民としては平均的か、それより少し下というだけだ。貧民街の子にまで落ちていないというだけで、服装の汚れからするとそこまで余裕はないのかもしれない。
だから、彼の父親が猫を――猫に限らず、動物を――飼うなどと、「是」ということはないのだろうな、と思う。
生き物を家に入れるということは命を預かるということ。生きていくのに余裕がそこまでない場合、優先されるのは人間のほうだ。そしてその時、見捨てられたこの猫が死んでいくのを、きっと彼の父親は見せたくなかったに違いない。
(まあ、そこまで考えていたかは知らないけど)
もしかしたら単純に食い扶持が増えることを嫌がっただけかもしれないけれど。
「だから、今日はひさしぶりにコイツに会いに行ったんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「大通りの店の前で、おとなたちがコイツを棒で打ってた」
「えっ……なんで?」
「っ、コイツが、店の食いもんを盗ってくからだって……!」
なるほど。それで折檻されたということか。
その話を聞いた少年は、おとなの間にむりやり入っていって、自分も叩かれながらも猫を抱いて走って逃げた、ということだ。
そこで三度、なるほど、とステラシアはうなずいた。どうりで少年の口端に青アザがあるわけだ。よく見れば、剥き出しになった二の腕の少し後ろ側にも青い内出血が見える。ふくらはぎのところにも。
「わかった。じゃあ、ちょっとこの子に触れるね」
「え、う、うん……」
不安そうに、けれど少しだけステラシアを信用してくれたのか、先ほどのように拒絶することなく少年はうなずいた。素直ないい子だ。
「いまから見ることは、誰にも言っちゃだめだよ。ぜったい。約束してね?」
「わ、わかった」
神妙にうなずく少年に笑いかけ、ステラシアは地面で苦しそうにうずくまる白猫にそっと指で触れた。
(だいじょうぶ。うまくいく。体の中のあったかいものを、指先に集めて……この猫ちゃんに注ぎ込むイメージで……。師匠、応援してて)
目を閉じて、息を吸う。体の奥底にあるなにかを絞り出すように、指先へと集めていく。ぽぅ……と光輝くのは星の息吹。白猫の全身に指を這わせて、光と熱を移していく。喘鳴を繰り返していた猫が、深緑色の目を見開いた。起き上がろうとするのを止めることなく、ステラシアは頭から撫でおろした指先を、最後に後脚へと触れさせる。おかしな方向に曲がっていた脚が、みるみる間に元のしなやかなものへと治っていく。最後に頭から尻尾までをひと撫でして、ステラシアはふう、と息を吐いた。
「ひさしぶりだったから、けっこう慎重にやっちゃった。どう? 猫ちゃん。動けるかな?」
話しかけたステラシアの言葉がわかったのかそうでないのか。にゃぁあとかわいらしい鳴き声を上げて、白猫がステラシアの膝へ額をこすりつける。そのまま膝の上に飛び乗ると、伸び上がるようにしてステラシアの頬へ鼻先を触れ合わせた。
「ふふっ、くすぐったい」
じゃれ合うステラシアと白猫を呆然と見下ろして、少年はその場にペタリと尻もちをついた。
「え、ねえちゃんソレ……いまの、星の……っ」
「しぃぃ。誰にも言わない、約束だよ?」
指を伸ばして、少年の小さな唇に触れる。コクコクと首を振る姿に安堵して、ステラシアは少年の口の端をすっと撫でた。ほかにも、さっき見えた二の腕とふくらはぎにも。そこ以外の見えない部分にもあるかもしれないから、白猫を癒やしたときよりも多くの力を少年に注ぎ込む。
動物を癒やすときより、人間を癒やすときのほうが、神経をあまり使わなくていいからラクなのだ。
(質量が大きいから、なのかはわからないけどね)
すっかり綺麗な顔になった少年に微笑みかけ、ステラシアは癒やしを施した指先を自身の口元へと持ってきた。指を立てて、唇に当てる。
「みんなには、秘密だよ」
「…………すっげぇ。うん。わかった。秘密にする。あと、ありがとな。えっと……」
「ん? あ、名前? 『ステラ』だよ」
「オレはリオ! ありがとな! ステラねぇちゃん!」
ステラシアが名乗れば、少年は嬉しそうに笑った。星がいっせいに瞬くような笑顔だ。そしてやっぱり、平民にしては綺麗な顔立ちだった。
ステラシアの膝の上では、痛みから解放された白猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら、丸まっていた。
ストックがない!




