よし、抜け出そう
よし、抜け出そう
お昼の時間ですよ、というマリンの声が耳に届いて、ステラシアはかじりついていた書物机から顔を上げた。
「もうそんな時間かー」
んんー! と伸びをして、手元で必死に読んでいた紙の束を机の上に放り出す。ずっと同じ姿勢をしていたからか、体が凝り固まってしまったようだ。首を回すとコキコキと音がする。
「昼食はこちらの部屋まで運びますか? それとも、食堂まで参られますか?」
「そうですねー。ちょっと座りっぱなしで疲れちゃったので、外に行きたいかも……」
「そうおっしゃるかと思って、実は食堂に支度をすませてあるんです」
わーい。今日もわたしの身分に不相応な侍女が有能すぎる。
少しだけ、遠い目をしてから、ステラシアは「ありがとうございます」とマリンへ頭を下げた。
途端に、「私に頭を下げちゃダメです!」と叱責が飛んでくる。
あはは……と乾いた笑いをこぼしながら、ステラシアはマリンが開けてくれた部屋の扉をくぐり抜けた。
すると、部屋の前で佇んでいた男が、軽く礼を取る。うなじでゆるりと結っている紺色の髪がサラリと流れて落ちてくる。腰まであるそれは指通りが良さそうで羨ましい。
こちらも、ステラシアの身分には到底不相応な家柄の護衛騎士である。
「ステラ様、ご昼食ですか?」
「ええと、はい。そうです」
にっこり笑う優しげな雰囲気に癒やされてしまいそうになるが、どう考えても侯爵家のご子息は手に余る気がして、ステラシアは慣れない。
では、食堂まで一緒に参りますね、と後ろから付いてこられるのもやはり慣れない。
第一王子宮の、三階に間借りしているステラシアの居室から、一階にある食堂まで、なにかあるわけも無いだろうにどうして護衛が必要なのか。
わたしただの平民で側仕えだよね? と疑問がいつまでも胸に燻り続けている。世話を焼かれることは諦めたけれど、そこだけはちょっとやっぱり諦めきれない。
階段の手前で立ち止まり、ステラシアはチラリと反対側の廊下の奥に目をやった。そちらにはアルトラシオンの居室と寝室、それから執務室がある。
この第一王子宮を散策していた頃は、恐れ多くて踏み入ることのできなかった場所だが、いまはもう朝晩と何度も訪れている。側仕えとして働くようになってから。
(そもそも、殿下の側仕えってなんなんだろうね? だって殿下、クリフォードさんがいるじゃない……朝の身支度も、夜の身繕いも、クリフォードさんがいれば問題ないんじゃない……?)
そもそも、朝はともかく、夜に未婚の女を居室に呼びつけるのってどうなんだろうか。身分の高い人にはあり得ることなんだろうか。余計な噂とか立たないのだろうか。まあ、この第一王子宮でそんな噂話を広めるような人物はいない気もするが。
(あ、そっか。女として見られてない。ってことか)
ストンと落ちた答えに、ふんふんなるほどねー。などと胸中でうなずいて、次いでチリッとした痛みが胸の奥で疼いた気がして首を傾げる。
「ステラ様?」
不思議そうな侍女の声に、ステラシアはハッと前を向いた。後ろに控えていたマリンがいつの間にか隣から顔を覗き込んでいる。大きくて可愛らしいヘーゼルの瞳が、心配そうにステラシアを見ていた。
「あっ、ごめんなさい! なんでもないんです!」
慌ててぶんぶんと手を振って、ステラシアは歩き出す。そうですか? と若干心配そうな声色を残しながらも、マリンが後ろから続く。
そのステラシアの手を横からすくい上げ、転ばないようにと握りしめるのは、マリンよりも後ろにいたはずのイアンだった。いつの間にか、ステラシアよりも数段下の階段に足をかけている。
「……アルトラシオン様は、本日のご公務が立て込んでいらっしゃるようで、一緒のご昼食は摂れないようですよ」
たかが階段でエスコートのように手をひかれることにも慣れず、ステラシアは「うぅう」と喉の奥で唸る。そんなステラシアを優しく見つめるイアンの瞳は、窓から差し込んだ光に照らされて薄茶を通り越して金色に見えた。
「べ、別に殿下と食べたいとか、そんなこと考えてたわけじゃないです……」
「ふふっ、そうですか。それは殿下が拗ねてしまいそうですね」
「す、拗ね……? いや、そんなまさか」
「どうでしょうねぇ」
くっくっと肩を揺らして笑うイアンは、まるで本当のお兄ちゃんのようで、うっかり侯爵家の人間だということを忘れてしまいそうになる。
階段下までエスコートされ、手を離されずにそのまま食堂に入り、椅子まで引いてもらってから昼食をいただく。
(待って。これじゃあ本当にどこかのお嬢様かお姫様じゃない!?)
いやおかしい。本当におかしい。なんでこんな高待遇なのか。わけがわからない。
いままでずっと師匠と森で暮らしていて、畑仕事で土にまみれ、家事全般引き受けていたせいで埃にまみれ、師匠の実験の失敗に巻き込まれ白煙やら黒煙やらにまみれた生活をしていたというのに。
けれど、いくら「おかしくない?」とステラシアがそれとなく訴えても、みんなどことなく話を逸らして煙に巻いてしまうのだ。解せない。
広い食堂はステラシアひとりだった。マリンやイアンや、給仕をしてくれる人はいるけれど、食卓についているのはステラシアひとりだけ。
ずっと師匠とふたりで食事をしてきたステラシアには、少しだけ寂しいものがある。
だが、いっしょに食べようと誘っても、きっとこのふたりは是とは言ってくれないのだろう。職務に忠実すぎるのだ。
黙々とナイフとフォークを扱いながら、ステラシアはそっと息を吐いた。焼き立てのパンも、バターの香る魚も、暖かなスープもおいしいはずなのに、少し味気ない。
(外に、行きたいな……)
ステラシアの詰め込み式夜会準備が始まって二週間が経とうとしていた。来週からはもう紅星の月になる。豊穣祭まで本当にあと一ヶ月ちょっとしかない。
アルトラシオンの命によって運び込まれた、夜会参加貴族の紙の束は、とりあえず三分の一ほどは頭に叩き込んだ。三分の一というのは、星の名を冠する主要な貴族家ばかりだったからだ。なんと王家の情報もあった。国王陛下の隠れた好物が甘ぁく甘ぁく煮た林檎だなんて情報は、正直ステラシアが知ってよかったのかさっぱりわからないけれど。どこで使うんだろうその情報は。
まあ、これで、あとの一ヶ月ちょっとで残った貴族家を頭に叩きこめば、アルトラシオンから課せられた課題はひとつ完了となる。
だから、少しだけ羽を伸ばしてもいいんじゃなかろうか、とステラシアは思う。
だって、本当に詰め込み式で、正直なところ頭がこの上もなく疲れているのだ。
(よし、出かけよう)
食事を終え、ステラシアは密かに拳を握った。
決行は明日。朝食を食べ終わったあと。絶対に、外に出る!
ポーラリア星王国の王都ガラクーシアは、とてもにぎやかな場所だった。王城を中心に、王城に近いところには貴族の邸宅や貴族向けの店が建ち並ぶ貴族街。その外側には商業区があり、貴族街の華やかで静かなにぎやかさとはまた違う、雑多なやかましさがある。さらに外側には少々暗い印象のある貧民街があり、少しだけこの国の闇を垣間見てしまう。
貧民街など慣れたものではあるのだけれど、さすがにステラシアがいま身に着けている服で歩き回ろうとは思えない。控えめな服装を選んでは来たけれど、どう見ても高級品だ。
落ち着かない気持ちになる貴族街を抜け、商業区へ。ここは、食料店や市場だけでなく、日用品や花屋、雑貨屋や武器屋等々が雑多にひしめき合っている。貴族街にも宝飾品店や服飾店はあったのだが、ここまでのにぎやかさはなかった。
森で育ったステラシアには、もっぱら商業区の雰囲気が性に合っていた。
(……勝手に抜け出してきちゃったけど、だ、大丈夫だよ、ね?)
店と店を賑やかしながら、ステラシアはチラリと王城のあるほうに視線を向けた。




