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夢見の花と氷の回生

作者: 花影ゆい

【あらすじ】社会人一年目の朝霧桜は、大のアニメキャラファン。ある日、愛する推し――異能使い・宮代氷惺の存在が社会から消失し、また自身も推していた時の記憶が無くなっていることに気付く。推しを思い出そうと躍起になっている桜だったが、駅のホームから落下しそうになっているところを、宮代氷惺を名乗る男に助けられる。氷惺が言うには、この世界は一つの現世と複数の仮世によって構成されており、原作コミックスで亡くなった氷惺を生かしたいという桜の願いが、氷惺を仮世に存在させてしまい、交わるはずの無かった現世との結界に亀裂を入れてしまったとのことだった。しかし、このままでは仮世に存在する『異能』が、現世にも適応され、現世が崩壊する可能性がある。現世の人間が仮世に引き摺り込まれる事件をきっかけに、氷惺は退廃した仮世に帰ることを決意する。

 数年後、死の旅人に出会った桜だったが、氷惺を推していたことが偶然ではなく、数百年前の自分の科によるものだと判明し――何度でもめぐる命を持つ少女と、望まぬ生に縛られた男の愛の物語。


【 一)最愛の喪失】


 部屋に差し込む日差しが眩しいから、私は重い瞼を開けた。真白なレースカーテンが、五月の風に揺れている。静かな――いつものように、静かな朝。僅かに生じた違和感は、休日の怠惰に掻き消された。

 枕元に手を遣り、愛しいひとの頭を探る。この二年ですっかり習慣となった、私の朝のルーティーン。

「ひさと、くん…?」

 いない。伸ばした手は空を掴んだ。ベッドの下に落ちてしまったのだろうか。それとも、寝ている間に私が踏みつぶしてしまったとか?呆けた頭が覚醒し始める。布団を撥ね退けて、隅々まで氷惺くんを探す。シーツの隙間、枕カバーの中。どこを探してもいなくて、私は泣きそうになった。まんまるデフォルメされた、推しのSサイズのぬい。手作りのお洋服まで着せているのだ。見つからないはずがない。私にとっては唯一で最推しの彼を引くために、ランダムぬいをボックス買いして手に入れたのに。

 ふと部屋を見上げて、私は驚愕した。壁一面に飾っていた氷惺ひさとくんがいなくなっていたのだ。正確に言えば、ポスターのフレームだけが飾られている状態。心臓がばくばくと嫌な音を立てる。泥棒?部屋は荒らされていない。だとしたら、転売ヤーの泥棒が、氷惺くん目当てで侵入したとしか思えない。だって、氷惺くんは高額取引対象の大人気アニメキャラで、――…。ぐらり、視界が歪む。脳内に白い霞がかかっていくように、記憶が浸食されていく。息苦しくて心臓の辺を抑えた。私、今何を考えていたんだっけ。誰のことを思っていたっけ。大切な人だった。忘れちゃいけない人だった。さっき零した名前が、思い出せなくなっている。

 コルクボードに刺さった画鋲。何かを飾っていた形跡。窓から風が吹き込めば、カチャカチャとアクリルの擦れる音が、かつての私を心穏やかにさせた。今の私には、その消えたアクリルが何だったかも分からない。

「わたし、誰を思っていたの」

 窓辺の白い光が、すこし目に痛かった。


***



 喪失はなにを失ったか分かっているからこそ悲しめるもので、失った対象を思い出せないのなら、私は悲しみに暮れることすらできなかった。

「私ってさ、何が好きだったか、覚えてる?」

 休み時間を見計らって、職場の同期の杉野ちゃんに訊いてみた。杉野ちゃんは胡乱な目つきで私を見ている。無理もない。

「えー…誕プレ欲しいの?あたし合コン代に追われてるんだよね」

「あっ、違うの。私ね、推しが好きすぎて、誰を推してたのか忘れちゃったのよ」

 えへへと引き攣った笑いで胡麻化してみると、杉野ちゃんは案外納得した顔で頷いた。

「桜ならありそう。深刻すぎて現実と推しが混ざりそうな勢いだったもん。誰だっけ?何かのアニメキャラだったと思うけど、あたし二次元興味ないから忘れたわ」

 彼女はクリエイターなのにアニメ嫌いという珍しい種類の人間だった。

「私アニメキャラ推してたの?」

「いや、漫画キャラだったかな?最近キャラが何かしたとかで、会社休んでたじゃん。それのショックで忘れたんじゃない?」

 そういえば、最近有給を取った。ベッドの上で一日中丸まって泣いていたあの日だ。漫画の週刊雑誌を持ったまま。それはどうして?

「そのキャラ何したの?」

「そんなんあたしに聞かないでよ。彼女できたか結婚したか死んだかのどれかじゃないのー。もう時間だから行くね。マッチングアプリの人とランチの待ち合わせしてるから」

 彼女は中指で眼鏡をくいっと押し上げて、待ち合わせ場所へ走って行ってしまった。今日の杉野ちゃんは、いつもに増して付けまつげがフサフサだったな、などとどうでもいいことを考えた。

 怪奇現象扱いされそうだから言えないが、私が推しを忘れてしまったのはショック云々の問題でなく、推しの存在が世界から消えてしまったからだ。だって、あの空のフレーム、空の本棚、缶バッヂだけが消えた痛バの残骸の説明がつかない。

 でも、杉野ちゃんが言うように、推しの身に起きた何かがきっかけなのかもしれない。

「彼女できたか、結婚したか、死んだか、…か」

 通勤途中に買ってきたコンビニのお弁当を机に広げる。マイお箸は薄紫。水筒も、ペンポーチも、その中の文房具だって全部紫色。私は元々紫色が好きだったわけではない。それなのに身の回りに紫色が多いのは、私の推し色だったんだろう。

 私には、たしかに推しがいたのだと思う。そして杉野ちゃんに言われる前から、漫画かアニメキャラな気がしていた。私は生身の人を一度も好きにはなれなかったから。

 自分の生活に、特定の人が入り込んでくるのは私の性に合わない。その人に依存してしまう自分を、きっと許せない。それが例え芸能人であっても、好きになりたくはなかったから、歌手が歌う音楽は聴かなかった。ドラマも一切見なかった。私は矯正された偽の無性愛をしていた。

 でも自分の部屋に残されていたのは、誰かを推していた痕跡ばかりで。知りたかった。私が心許せた人のことを。私の無彩色を色づけてくれた誰かのことを。

 ご飯を食べながら、お行儀悪くもスマホを開く。売れ筋漫画ランキング、キャラクター人気投票、どのページを見ても、ピンとくるタイトルはない。グッズはもちろんのこと、ファンだった人間の記憶からも消えていくのだから、ネットの海にその片鱗が漂っているなんてことも、おそらくない。でも、推しを失くした私は私じゃなくなったみたいで…ふと頭の片隅に何かが引っかかった。私は推しを亡くしたんだ。確証はない。ただ、心のどこかでちくりと傷むそれは、最愛の喪失だったように思う。

 少し前、私の推しは死んだ。あなたが居なくなった世界は嫌いだと、『あのとき』の私は現世を呪った。

 ――それが誰かも分からないのに。涙が頬を伝って、私は手の甲で強く拭った。まだ泣くべき時じゃない。紙面上の死と、社会的な死を迎えてしまった推しを見つけ出さなきゃいけない。それが私にできる、精一杯のお弔いだから。


【 二)推しを名乗る男】


 七月。

 炭酸の抜けきったソーダのよう。なんて、生温い表現では足りない。推しのいない生活は、泥に浸かっているかのような息苦しさを覚えてしまう。推しはきっと神さまみたいなものだったんだろう。私はただ『あなた』に縋っていれば幸せだった。

 推しの消失から二カ月が過ぎた。手掛かりは何も掴めない。ただ、漫画やアニメ業界の不自然は見つかった。例えば、ここ数年のアニメの受賞歴。上位の受賞作品が空白になっている。当初から受賞作がなかったかのように扱われているが、その空欄には『例の作品』が入っていたのではないか、と私は疑っている。そして、その作品は、社会現象レベルの大手作品。業界ぐるみで私たちファンを騙しているとは考えられなかった。

「だって、現に私は『覚えていない』もの」

 誰しも、人の記憶に干渉することはできない。それも、大勢の人間の記憶を変えるなんて、有り得ない。

 夜闇の駅のホームのゴミ箱に、飲みさしのバタフライピーソーダを放った。紫の飲み物に拘る癖まで忘れてしまったら、自分の中のあなたを消してしまいそうで、怖かった。

 反対側の電車が着き、大量の窶れた人を吐き出す。そして、電車に乗り込む疲れた人間の群れ。人のことなど言っていられない。私もまた、OLなんて言葉は似合わないほどの疲れた労働者だった。酷く体が重かった。社会人一年目には通勤だけでも体力を削がれるのに、消えた推しの検索に睡眠時間を削っていたからだ。

 存在しなくなった推しを探すなんて、土台無理な話なんだ。全部私の思い違いで、推しなんていなかったことにしよう。そしたら、私は誰にも囚われない。私は、私らしくあるべきなんじゃないの。誰かを心の拠り所にするのは、馬鹿みたい。

 推し活に何の意味があるの?他人を応援して、それだけ?

 見返りなんて求めてない。同じ想いを返してくれとも願ってない。

 魔が差すように、推しを放棄したくなる。ぜんぶぜんぶ失くしてしまえばいい。何もなかったみたいにやり過ごせば、それは日常になるから。

 周囲のざわつきにはっとした。誰かが危ないと叫んでいる。知らず知らずにホームの端に向かっている自分の足。地面に着地できなかった左の足が、宙に沈んで、私は落ちた。




 薄く目を開けると、安っぽい蛍光灯が目に入った。煤けた天井。

「あー、起きた?」

 知らない男の声に私は身構えた。が、身体に力が入らない。蛍光灯のせいで目の前が赤くなったり緑になったりしている。網膜に強い光を浴びすぎた。

「私、さっき線路に落ちて…」

「知ってる。俺が受け止めたから」

「…そうだったんですか。すみません」

 ここは、駅の待合室。硝子越しのホームの人はまばらで、あれから随分時間が経ったんだと思った。そして私はやっと自分の体勢に気付く。もしかして知らない男に抱えられている…?

「あの…降ろしてください。時間も遅いので、帰ります」

「無理だよ」

「それって、怪我したってことですか」

「別に怪我とかじゃないけどさ。軽度の眩暈、ふらつき。明日の朝には治ってるんじゃない」

「明日の朝?」

 不思議に思って男を見上げると、淡い紫と目線が絡んだ。柔く揺れるしろがねの髪。同じ色の睫毛は煙るように長く、アメジストの瞳を縁取っている。高い鼻梁、艶やかな唇、どれをとっても日本人離れ――というより、人間離れしている。

「…綺麗」

 思わず口をついて出た言葉に、男はにっこりした。

「そりゃそうでしょう。桜ちゃんが好きで好きでたまんなかった実物だもんねえ。今なら触り放題。どう」

「え?」

 ぞわぞわっと寒気がした。なんなんだこの男。ただのナルシストというよりも。

「やっぱ帰る、帰りますっ!一人で歩けますから!」

 じたばたし始めた私を男は抱え直した。見た目以上に力が強い。

「また落ちるつもり?危ないんだけど。…推しを置いて帰ってもいいの?朝霧桜ちゃん」

 私はぴたりと動きを止めた。

「今、何て…」

「まー覚えてないか。電車来たね。その話はまた後で」

 男は私を抱えたまま待合室を出ようとした。所謂お姫様抱っこというやつだ。

「ちょ…っ、こんな格好目立ちます!そもそも、あなたが目立つじゃないですか。派手だし」

「人って、案外他人のこと見てないもんだよ。知ってる?」

「知りません」

 どこ吹く風という素振りで、男は到着したばかりの電車に乗り込んだ。終電間際の電車には、殆ど乗客がいなかった。

 暗い窓は私たちの姿を反射して、鏡のような車内を映し出した。綺麗な人だ。この世のものとは思えないくらい。

「…誰ですか、あなた。私の名前も、どうしてご存じで」

「俺は宮代氷惺。つれないね、推しを忘れるなんて」


***


 結局、家に入れてしまった。この男の言うことが全部嘘だったらどうしよう。

「あなたが私の推しって確証は、ないんですからね。嘘と判明次第、家から追い出します」

「分かってからじゃ遅いと思うけど」

「何かしたら即通報です。貯金箱の在り処も教えません。それに…私は男性嫌いなんです。あんまり近寄らないでくださいね」

「はいはい。何もしない」

 自称推しと名乗る男は、降参というように手を挙げてひらひらさせた。私は訝しんだ。顔だけは良いけどこんなチャラそうな男、全然私の好みじゃない。

「…あなた私の推しじゃないです。やっぱり、出てって」

「えー…推しだよ?」

 すっとぼけたような男の表情に、ついに堪忍袋の緒が切れた。つかつかと歩み寄って男を見上げる。

「私は生身の人間が嫌いなの!それに好みじゃないから、どう考えても推しじゃない!以下略。出てってよ!」

 男は首を傾げてからにこっと笑った。

「君思ってたより元気だね。俺は元々漫画キャラだったから」

「最ッ低!人を舐めるにも程があるでしょ…って、ちょっと!」

 勝手に冷蔵庫に顔を突っ込んでいる男の服の裾を引っ張った。漆黒に近い黒の装束はどこか異国の風情がする。この男…私はふと閃いた。

「ねえ、あなた私の推しのコスプレイヤーさんだったりする?」

「本人だってば。桜ちゃんお腹空いてるから怒りっぽいんだよね?晩御飯食べよう」

「…そうね」

 言い返す気力も失くして、色々と疲れた私は頷いた。




「自炊しないんだねえ。しそうな顔してるのに」

「自炊しそうな顔ってどんな顔よ。仕事して帰ってきてご飯作って、って大変なの」

 レンジでチンした冷凍食品を取り分ける。最近の冷凍食品は有能なのだ。

「俺ご飯作ってあげようか?その代わり、居候させて?」

「絶対嫌。ヒモを飼う気はありません」

「推し様からヒモに降格かぁ…」

 隣でわざとらしい溜息を吐く男を横目で睨んだ。

「さっきから推し推しって、何なの。私、あなたのこと推した過去ないんだけど」

「いや、桜ちゃん。君は俺を推してたよ。部屋の壁一面に俺が笑ってた」

 この男が壁一面に…?とんでもない光景だと思って私は身震いした。

「あなたを飾るわけないわよ」

「まあ聞いてよ。俺は漫画キャラだったの。で、桜ちゃんは漫画キャラの俺が好きで、部屋中に飾っていた。だけどある日突然俺が消えた。俺だけじゃない、推していた漫画自体の存在がなくなった。違う?」

「違うけど、違わない…」

 心臓の音がどくどくと音を立てる。誰にも話したことがなかったあの違和感を、どうしてこの男が知っているんだろう。

「じゃあ、漫画キャラのあなたはどうして実在してるの?二次元から飛び出てきましたなんてふざけた回答、言わないで頂戴ね」

「んー…飛び出てきたようなもんだけどね」

 彼はミニカップグラタンをぽいぽい口に放った。私の分だったのに、と抗議しようとしたのに、続きが気になって声が出ない。男の横顔を凝視する。きめ細やかな肌は白雪に似て、私は羨ましく思った。

「俺は仮世かりよに生きている。仮世は、簡単に言えばこの現世うつしよの裏側、かな」

「…じゃあ、あなたは死後の世界の人ってこと?」

「常世のように、死んでいるわけでもないんだ。元々存在していないものは死なないだろう?俺の世界は、桜ちゃんの世界で存在できなかったものの集まりだよ」

「なにそれ…」

 嫌な音を立てる心音が煩い。目の前が霞むみたいな、居心地の悪さ。あの駅のホームを思い出す。

「今日は無理しないほうがいいね。また眩暈してるでしょ」

「…教えてよ。中途半端に聞かせないで」

 私はテーブルの上にぺちゃんと伏せて、男を見上げた。彼はすこし困ったような顔だった。

「桜ちゃんはさ、もしこの選択をしなければ…って、考えたことある?」

「あるよ。そんなのいつだって思ってる。不味い外食しちゃった後とか。このお店じゃなくて、いつもの慣れたお店で食べればよかったのに、とか」

「その後悔が強ければ強いほど、もうひとつの世界は生まれやすくなる。願った人が描いた、思い通りの世界がね。もちろん、その人には一生知られることがない場所だ」

 男は私の髪をするりと撫でた。こめかみのあたりに指が触れると、ぴりりと甘い痺れが走った。

「何するの。あなたが触ってたグラタンが髪に付くじゃない」

「だからね、桜ちゃんが不味い外食をしたのがこの世界なら、美味しい外食をした仮世が存在するかもしれない、ということだよ。つまりそこでは桜ちゃんもいるし、君の周りの人も、君が会ったこともない人たちも、みんな同じようにこの世の中と何ら変わりなく暮らしているんだ。違うのは、桜ちゃんが美味しい外食を食べたということだけってことだね」

「私、外食くらいじゃそんなに強く後悔してないよ」

「その通り。強い後悔ではないと仮世は生まれない。例えば、この人と結婚しなければよかった、と思っていた女性がいるとするね。仮にこの女性の夫をAとしよう。そしてこの女性の元彼氏をBとする。女性の強い後悔から、夫Aではなく、元彼氏Bと結婚した仮世が生まれたとすると、どうなるだろう?」

 試すような薄紫と目が合う。人間の思いは恐ろしい。もし私も、強い後悔で異質な世界を作ってしまっていたら。自然と頬がこわばるのを自覚した。

「仮世では違う子供が生まれるかもしれないし、それなら他の人の未来も変えてしまう…」

「そうだね。でもこれはあくまで仮世の出来事。君たちの生きる世界には何の影響もない。当然浮気でもないし、この女性が責められる話でもない。ただ、現世と仮世が混ざったら、――」

 心がぎりぎりと締め付けられたように痛い。私は目を逸らして、ぽつりと呟いた。

「その、混ざった状況が、あなたでしょう?」


***



「ごめんね」

「何が」

「あなたを実在させてしまって、ごめん」

 男――というか、私の推し宮代氷惺はベッドの上でぼんやり天井を見ていた。

「別にいいよー。嬉しかったし。可愛い子に好かれて嫌な気はしないじゃん。それよりさ、あなたって言い方変えて欲しいな。落ち着かない」

「氷惺って呼べ、ってこと?可愛いとか言わなくていいし、名前で呼んでみたいなのも要らない。そういう…異性慣れしてそうな氷惺は、嫌いよ」

 ベッドフレームに腰掛けていた私は、氷惺に背を向けたまま言った。結局名前で呼んでるじゃん、と呟く声が背後に聞こえる。

「異性慣れしてそうな俺は嫌い?」

「誤解しないでね。嫉妬じゃないの。単に、――」

「単に?」

 単に気持ち悪いのよ、と言おうとしたのを咳払いで胡麻化した。そこまで酷いことは言っちゃいけない。

「推しへの解釈違いが起きそうだから、嫌なの」

「ふーん。俺のある程度の人格は桜ちゃんの解釈内で出来ているはずだから、君の意に反する動きはしないと思うけど」

 意に反する動きはまあまあ多い気はする。でも解釈違いというほどでもないな、と私は思い直した。

 夕食の時、氷惺に聞いた話はこうだ。

 氷惺のいる世界は焼け野原の現代日本。たった一人の生き残りだ。これは私が生み出した仮世。現世の原作コミックスで氷惺が死に、あまりのショックを受けた私が『氷惺だけが生き残る』というifを夢見てしまったのだ。仮世は通常、人の強い後悔によって生まれるものだから、現世に存在しない人間――例えば氷惺のような二次元キャラ――は仮世に現れることはないらしい。ただ私がひどく強く願ってしまったものだから、氷惺が実在する人間になったそうだ。

 それだけなら私たちの運命は、いわゆる並行世界のように混ざり合うことはなかった。だが厄介なことに、私の思いが強すぎて、氷惺のいる仮世をこちらの現世に引きずり込んでしまった。その現世と仮世の結界の亀裂が、駅のホームでの出来事である。仮世の創造主である私を、仮世が招こうとし、結果私はふらふらとホームに飛び込む人のようになったのだ。今や現世の結界が緩み、氷惺の仮世との境界線が曖昧だというが、氷惺のいる世界には人間がいないので大きな問題ではないらしい。もし私の生み出した仮世が氷惺以外にも人間がいたら、こちらの世界にも人が流入して、同じ人間が二人いるとか、いないはずの人間が存在するとか、世界中で大パニックが起こっていたかもしれない。

「私は、あなたの馬鹿みたいに一生懸命なところが好きだったのよ。人を助けて死んだのに、誰も恨んでいないところ。モテそうな顔してモテないところ」

「思い出した?っていうか、わりと貶してない?」

「氷惺に言われて、ちょっと思い出した。でも、死んだと思ってた氷惺が生きていたのは、まあ…嬉しいかも」

「桜ちゃんの世界だけ、ね。俺が生きているのは」

 現実だったらいいのにね、と言おうとしてやめた。そんな思いが、仮世の掟を破ってしまったのだから。この世界は平行であるべきなのに、歪めて混ざり合わせた私にはどんな罰があるのだろう。

「元の世界に帰りたいでしょう?」

「桜ちゃんがいいならこのままがいいけどな。帰っても誰もいないし。機能しなくなった社会で、死ぬのを待つだけだよ」

 天井を見つめる氷惺を覗き込む。薄紫と目が合って、微笑みを返される。花が開くみたいに。

「氷惺ひとりが生き残ってくれたらって、思っていたの。それ以外考えられなくて…浅はかだったわ。この国が復興して、あなたの仲間も生き残ってて、あなたが将来幸せになって、…そこまで考えていれば良かったのに」

「桜ちゃんは、俺の幸せなんか、望んでいなかったんじゃない?」

「何言うの。推しには幸せになって欲しいものよ」

「…綺麗事を」

 目の前に薄紫が広がって、上から肩を押さえられたことに気付いた。私が氷惺の上に折り重なっているみたいな体勢。

「俺が他所の女と結婚して良い家庭を築きましたってエンドで、桜ちゃんは納得できる?」

「え、ちょっと待って、なに」

 ふふっと笑う吐息が顔にかかる。思わずぎゅっと目を瞑る。

「『今』の桜ちゃんを、教えて」




 ぱちーんと高い音が鳴った。いつもは白い氷惺の片頬は、私の手型に赤くなっているが、私の右手も大概に腫れている。

「なにすんの!!最悪!好き勝手私をおちょくってんのはあんたのほうでしょうが!推しなら何しても許されるなんて、思ってないでしょうね」

「え~~難題って大体キスで解決するじゃん?御伽噺とか」

「仮世を白雪姫の毒リンゴと一緒にしないでちょうだい。どこが解釈違い起こさないのよ。私は!氷の覇王・宮代氷惺が好きだったのよ!軽薄そうに見えて女性関係きれいさっぱり、恋愛脳がごっそり抜け落ちたあのキャラが!大体幸せって言っても結婚以外の幸せルートいくらでもあるじゃない。そういうとこお花畑なのよ」

 氷惺は頬を擦りながらちょっと恨めしそうな顔をした。そんな姿も私を無性に苛立たせた。

「なんか家から放り出したくなってきた。とりあえずベッドからは降りて。ここは私の領地ですので」

「未遂だから許してよ。可愛かったから、つい」

「さっき難題はどうのこうのって言ってたから、あなたの魂胆は知ってるわよ。媚びても無駄。キッチンで寝てください。ほら、早く退いて」

 シッシッと手で払えば、氷惺はうざったいくらいに緩慢な動きでベッドから降りた。わざとらしくも大きな溜息まで吐いている。部屋の扉を引き、振り向きざまにぽつりと零した。

「桜ちゃんは男嫌いなの?」

「たぶん。私にもよく分からない。誰も好きにはなれなかったの」

 男の、女を値踏みするような視線が嫌いだ。好意を伝えてくる男を断れば、その男は近いうちに他の女に告白するのを知っている。大して好きでもなかったということだ。気持ち悪い。ゲーム感覚に近いその感情は、決して純愛なんかじゃない。

「誰にも依存しないでいたいのよ。それだけ」

「それじゃ俺と同じだね」

 おやすみ、と言って氷惺は出て行った。なぜか寂しそうな顔だった。スリッパの音がキッチンへ向かうのを聞きながら、私は薄めの毛布に丸まった。そうだ後で布団を掛けに行ってあげよう。

「好きになったのは、氷惺だけだよ」

 つけあがりそうだから、本人には言わないけど。本当は、初めての口づけでも、氷惺の望むものなら何でも差し出してあげたかった。馬鹿みたいだ。氷惺は人を好きになることはないのに。それは最初から原作で決まっている。

 正直言って、彼を推していたときの思い出はあまり覚えていない。きっと行ったはずのコラボカフェも、新商品発売の抽選結果に一喜一憂した日のことも、目の前でグッズが完売した瞬間も。だけど氷惺を見ていると、推していたときの感情が少しずつ取り戻されていくみたいで。あなたが愛おしくて、心がきりりと締め付けられるように痛い。

 原作の氷惺は遠い未来の日本にいた。その頃の日本では、少数の『異能持ち』が現れ始める。異能とは、自分の寿命を贄として捧げることで使える、不思議の力だった。当初は手のひらから小さな水球を作り出したり、植物の成長を急速にできたりするような、良い異能だった。だがその異能も、人の欲望によって捻じ曲げられ、無法地帯と化した世界で大きな暴動が起こる。最も強い異能持ちである宮代氷惺は、自身の異能「氷晶の剣」で悪の異能を制圧していた。しかし、氷惺の異能を封じるため他国に買収された、発火の異能持ちが国中に火を放つ。いよいよ国が滅ぼされようとした時、氷惺は自分自身を贄として、日本中を凍土にしたのだ。享年二十七歳。燃えたぎる火は一瞬にして氷に消された。それだけではない。人間も、動いていた車も、一時的には氷に閉ざされた。しかし春の融雪のように、氷はゆるやかに解け、人々の生活は元通りになった。そう、争いごとの絶えない、異能に支配された生活になったのだ。氷惺の死は人間の私利私欲の暴走を止められなかったし、日本を中心にやがて世界が破滅した。救いのない、バッドエンドの漫画だった。それなのにアニメ化までして大ヒットを記録したのは、氷惺の生きざまがあまりに美しかったからだ。人助けなんて嫌いだと言いながら、結局は大勢の他人のために戦って、死んだこと。さいごは自ら生涯を投げ出した潔さ。助けてくれる仲間はいたのに、誰にも心を動かさず、孤高の人だったところ。綺麗なビジュアルと相まって、彼の生き方は多くの女性ファンの心を掴んだ。私もそのひとりだった。

 こちらの世界に仮世にいる氷惺が入ってきてしまったから、現世での氷惺は――つまり原作の存在は『異物』として消え失せてしまった。作者さんに申し訳ないと言うと、氷惺は「あの人はそんな程度じゃ凹まないよ」と笑っていた。作者さんだけでなく、ファンだった人たちも今頃は得体のしれない喪失感に囚われているのかもしれない。

「あー…もう、自分最悪だよ…」

 あの駅のときのように、ぐらりと嫌な眩暈がする。

 現実のあなたを、嫌いになれたらよかったのに。


***


「…先に起きてるみたいね」

 朝のキッチンから音がする。ドアに隔たれはっきりとは聞こえないが、付けっぱなしのテレビの音と、誰かが部屋を歩く音。私の家には冷凍食品以外の食べ物を置いていないから、料理はできていないだろうけど。

 氷惺がこちらに来る前は、朝起きれば窓から吹く風に部屋のアクリルキーホルダーが共鳴して、カチャカチャと涼やかな音を立てていた。コルクボードに所狭しと飾られた、私の愛しい戦利品。今は影も形もなくなってしまったが。

「氷惺が元の世界に帰ったら、こっちの世界はどうなるんだろ」

 みんなの記憶も戻って、また二次元キャラとして存在できるのだろうか。それは良いことではあるけれど、氷惺を元の世界に戻せば死んでしまう。だって向こうの世界は退廃しているのだから、氷惺が長く生きられるわけがない。

 過去のない氷惺を、この社会で生活させるのは難しい。隠すには限度がある。いつか風邪だって引くかもしれないし、私ひとりで氷惺を養うなんて、できるはずがない。

 考えてもきりがないから、私は思考を止めた。わりとポジティブな人間なのだ。布団から身を起こして、アラームが鳴る前のスマホを開く。午前七時前。

「さ、朝ごはんにしましょ」




「おはよう、桜ちゃん」

 氷惺はコーヒーを啜りながらこちらを見ていた。絵になるなあ、と思わずぼんやりする。くじ限定の描き下ろしでアクスタ化できそうだ。それとも、コラボカフェのメニューのほうがいいかしら。何の変哲もないコーヒーに、氷惺のブロマイドをセットにするのだ。そういえば、氷惺はコーヒーキャラだっけ?

「あなたコーヒー飲めるの?」

「コーヒー通だからね。飲むときは一日何杯でも」

 そうだっけ。私は首を捻った。やっぱりそんな設定はなかった気がする。コアファンの私が思うのだから、合っているはずだ。設定資料集から公式ファンブック、作者さんのインタビュー記事まで、氷惺に関わるところは特に熱心に読んできたのだ。

「桜ちゃんの分も作っておいたよ。冷める前にどうぞ」

「あ!!」

 氷惺が差し出したのは泥のように濃いブラックコーヒー。私はそんなもの飲めない。

「お砂糖入れた?コーヒーフレッシュは最低三個は入れるのよ」

「うわ~~まずそう」

 コーヒーカップを手のひらで包んで温度を確認する。あまり温度は高くない。私は戸棚の角砂糖を取って、いくつかカップに放り込んだ。ぬるい泥の中に、飽和しきった角砂糖がぶくぶくと沈んでいく。

「桜ちゃん、コーヒー牛乳のほうが合ってるだろ」

「練習中なの。会社の人はみんなコーヒー飲んでるもん。コーヒー牛乳なんかじゃダメ」

「べつに合わさなくていいじゃん」

 仕上げにコーヒーフレッシュを混ぜ合わせる。砂糖の粒が舌に残るコーヒーは、甘ったるくて僅かに苦かった。

「今日は氷惺のお洋服買ってくるね。外着一枚じゃ可哀想だし」

「ありがと。それにしても、よくこの服で君のベッドに上げてくれたよね。意外と潔癖じゃないんだ」

 氷惺に言われてふと気づいた。私はかなり綺麗好きなほうだ。外出用の服で自分の部屋に長居するのは極力避けてきたはずなのに。それは氷惺という存在が、どこか現実のもの特有の穢れからは切り離されていて、やはり人工的な清潔を保っているからだろう。ずきり、と心が痛む。私とこのひとの間には、見えない壁で阻まれているようだ。

「そうね。泥まみれの飼い犬をベッドに上げているような感覚だわね」

「は、酷いな。泥まみれの犬って」

 ムキになっているのが面白くて、私は思わず笑ってしまった。ますますふくれっ面をする氷惺は、私が今まで見てきた推し様の姿ではなかったけれど、愛しくてたまらなかった。ずっと居られたら、どれほど――

 テレビのニュースで行方不明者の報道が流れている。いつもなら鬱屈した気分になるそれすら、心地の良いノイズのように思えてしまう。私の心を詰め込んだみたいな、失敗作のどろどろに甘いコーヒーと、取るに足らない会話。たぶん、私の人生でいちばん幸せな朝なんだろう。


***


「桜、男できた?」

「ヒッ」

 お昼休み、同期の杉野ちゃんは私に耳打ちした。食べかけのコンビニのそぼろ弁当を落としそうになった。

「なに、いないけど…」

「そーう?桜が昼休憩にお料理動画見てるの初めてなんだけど。それに、今日はメイクが濃い」

 ずばっと言い当てた杉野ちゃんはさすが婚活アプリの達人である。メイクが濃いのは無自覚だった。

「気分よ、そんな日もあるの。あ、そうだ。今日は婚活アプリの人とランチしないの?」

 胡麻化しつつも話題転換で気を逸らせる。ありがたいことに、杉野ちゃんはまんまと私の策略に引っ掛かった。

「何回も言ってるけど、婚活アプリじゃなくてマッチング・アプリ!それがさあ、うちの会社の最寄り駅で行方不明者二人出たじゃん?相手がビビってこっち来ないんだよ。優良物件だったのにさ。タイミング悪っ」

「最寄り駅で行方不明者?」

「桜知らないの?飛び降り自殺した人間が線路の上で消えたってやつ。報道では胡麻化してるけど、その瞬間撮った奴がネットに拡散して、オカルト現象で大盛り上がり。しかも二人揃って飛び降りたのに、そいつら何の関わりもないらしいよ。キモくない?…ってか、聞いてる?」

 人間が線路の上で消えた。それも、私が『呼ばれた』あの駅と、同じ駅。

「結界の、境目…」

「ちょっと~~オカルト言ってる奴らより桜が一番やばいじゃん。中二病だよやめなって~」

 私が作った仮世だから、私だけが引きずり込まれるのだと思っていた。氷惺の読みとも違うんだ。これから人がどんどん向こうに流れてしまう。自分の意思とは反対に。それに、仮世には滅びた荒野が待っているだけだ。現世から離れた人間は、すぐに死んでしまうだろう。

「…氷惺に言わなきゃ」

「ひさと?誰?うわ、やっぱ男いるじゃん!!」

 そばにあったバッグを掴んで、私は駅へ駆けた。背後で杉野ちゃんの抗議の声が聞こえる。私が事故現場を見たって仕方ない。目的地は家。スマホを持っていない氷惺に伝えるには、自分で動くしかなかった。それに、氷惺が心配だった。もし家からいなくなっていたら?結界の綻びは一つだとは限らない。もうひとつの亀裂が、私の家に現れて、氷惺が飲み込まれてしまったら。嫌な想像がぐるぐる巡る。会社なんかに行かなきゃよかった。氷惺が元の世界に戻ってしまうのが条理だとしたら、さいごのさいごまで氷惺と一緒に居たかった。

「仮世に引きずり込まれるのは私だけって言ったのは誰よ。馬鹿」

 きっと酷い顔をしている。でも、あなたは綺麗にお化粧した私を見ても好きになることはないんだから、別にいいんだ。




 家のドアを勢いよく開けて、転びそうになりながら短い廊下を走った。

「氷惺!いる?」

「おかえり。早かったね」

 氷惺はソファーに深く腰掛けているようだった。こちらからはソファーの背に隠れて、氷惺の銀髪の先しか見えない。

「氷惺が消えちゃったかと思ったじゃない。なんだ、よかった」

 氷惺のほうに回り込むと、彼は私を認めてにこっと笑った。なんだかすこし眠たそうにも見えた。

「氷惺、寝てたの?」

「ちょっとね」

 氷惺はずっと人のために頑張ってきた。きっと、今までならうたた寝すらできないくらい、過酷な状況だったはずだ。行方不明者2人の話をしようと思って、やめた。もしこの話をすれば、氷惺はまたあの世界に行ってしまう。暗く、廃退した日本に。心に縺れる罪悪を堪えて、私は知らないふりをした。

「そうだ、お買い物に行きましょう。氷惺の服、サイズも分かんないし私ひとりじゃ選べないもの」

「会社サボって、いいの?」

 いたずらっぽい薄紫が目を細める。

「いいのよ。たまには、許して」

 あとすこしだけだから。




 服も含めて、必要最低限のものは一応揃えたつもりだった。

 目を離している隙に、氷惺はショッピングモール内の雑貨店に入って行ってしまった。背が高いので見つけやすい。

「何か欲しいものでもあるの?」

 氷惺はコーヒーカップを見ていた。

「これ、桜ちゃんの家にあるやつと同じじゃない?」

 氷惺が手に取っているのは薄紫のコーヒーカップ。彼の手が大きいから、見慣れた食器が大変小さく見えた。

「そうよ。朝飲んでたのと、同じ。ここのお店は可愛いでしょう」

 この店は、どちらかと言えば自宅用ではなく、プレゼントに最適な商品が多い。だが、可愛い小物に目がない私は、自分の部屋を飾るために、この店でちょっとした買い物をするのが好きだった。様々なドライフラワーと、蝋燭を模したLEDライトに囲まれたこの店は、ある種の異空間のようだ。それに、いい香りもする。

「君の持ち物、紫の色ばっかりだよね。なんで?」

「知ってるでしょ。…あなたの瞳の色だもの」

 途端に気を良くした氷惺は嬉しそうにコーヒーカップを眺めた。表情が豊かで、かわいい。原作の氷惺は、冷たいわけでもなかったけれど、こんなに笑顔を見せたことがあっただろうか。

 この人は、愛されたかったのかもしれない。

 そう思うのは、私の傲慢かもしれないけれど。あんなに頑張ってきたのに、他人のために命を捨てたのに、誰もあなたを評価しなかった。それどころか、異能を使うあなたを薄気味悪がって。

「氷惺もコーヒーカップ欲しい?あなた用の」

「いや、いらない。家にいくつかあったから、それでいいよ」

 あなた用のものなんて買ってしまったら、いつかいなくなってしまった時に寂しいだけなのに。だけど、その寂しさも含めて、ずっと覚えていたかった。

「あのね私、新しい香水買いたいんだけど、氷惺が選んでくれる?」

「自分で好きな香り買ったほうがいいんじゃないの」

「ここのお店のは大体いい香りだから、何でもいいのよ。あと、自分で選んだら、いつもと同じ香りになっちゃう」

 全十種ほどの小瓶から一本選び、試供の紙にひと吹きする。ふわりと漂う香りは、あまり私の好みではなかった。

「ね、こんな風にするのよ。あなたの好きな香りでいいから、選んで」

 いつまでもあなたを覚えていたいのは、たぶん私だけなんだ。


***


 ふわふわの卵に、つやつや光る鶏ミンチ。真っ白な湯気が食欲をそそる。

「わーっ!美味しそう」

 思わず拍手した私に、氷惺は満足げに頷いた。

「桜ちゃんもやれば出来るんだよ」

「氷惺が教えてくれたからよ。ありがとう」

「まーね」

 服の買い出しのついでに、晩御飯の具材を買った。私がお昼にそぼろ弁当を食べ損ねたという話をしたら、氷惺が家で同じものを作ろうと言い出したのだった。そういえばあのそぼろ弁当、誰か捨ててくれているだろうか。帰宅理由も告げず勝手に帰った挙句、そぼろ弁当だけが転がっている私のデスクを想像した。結構恥ずかしい。

「氷惺がお料理すること、知らなかった」

「食べるの好きだからなあ。お菓子もできるよ」

「すごい…何でもできるのね」

「俺には不可能がないんだ」

 口元にそぼろを盛ったスプーンを寄せられたので、思わずぱくっと食べてしまった。条件反射というやつだ。

「あ…美味しい」

 氷惺を見上げるとにやにやしている。頬に熱が集まる。氷惺のせいで、口の中のそぼろの味が分からなくなってしまった。

「…不可能がないなんて、随分自信家ね」

 いつか、氷惺が帰ってしまったら、コンビニのそぼろ弁当を食べられなくなってしまうんだろうな。あなたとの思い出なんて作らないほうがいいはずで、でも隣に居させてほしくて、どっちも本当で思考が纏まらない。

「本当のことだよ。桜ちゃんがそうしたんじゃないの?俺は存在したときから、仮世の理論も、世界が君に作られたことも知っていた。もちろん、君が今どこにいるかも分かるよ。いつでもね」

 あなたに不可能がないのなら、どうして死んでしまったの。訊きたかったが私は黙っていた。おそらく私が仮世の氷惺を万能にしてしまったからだ。

 氷惺が何でも知っているのなら、行方不明者二人のことも、その行き先も、全部分かっているのだろう。指先が冷えていくような気がした。


【 三)薄氷を踏む】


 私は夢を見ていた。夢だと分かっている夢だった。

 薄暗がりに、小さく三角座りでじっとしていた。私はいつもこうだった。

 人と関わるのは苦手だった。私は他人の悪意に気付きやすかったから。もうすこし鈍ければ、楽だったかもしれない。

 人と歩くときは数歩後ろに下がっていた。そうすれば、みんなは楽しそうでいられるから。私が混ざると、みんなは途端に口を塞いでしまう。何か用があって、誰かの背をつついてみても、誰も振り返らなかった。私の声は小さすぎて、届かなかったから。

 人と関わるのを、避けた。誰も信じられなかった。ひとりの時間は楽だったし、それに慣れてしまえば、複数人でいることが辛くなった。

 綺麗で美しいものが好きだった。それは人間とは違って、私を裏切らないから。

 ぱちり、と目を瞬かせると、暗闇にほの白く曲線が現れた。光の軌跡はゆるくひとがたを作って、結ばれた線は氷惺を形作った。

 氷晶の剣の構え。

 氷の粒が、きらきらと反射する。光源などないのに、氷惺の周囲だけは明るく見えた。あの剣はあなたの命で出来ている。綺麗だけど、そんなもの、なくていいの。だって、あなたは自分のために振るおうとしていないじゃない。あなたを薄気味悪がった、大勢の人間なんて守らなくてもいいのに。

 氷惺はどこかを見ていた。どこか遠く、きっとその先には、あなたが守らなければいけない人間達がいるのでしょう。私とは一生交わることのない視線。

 どうして私が氷惺を好きになったのか、分からない。理由はいくつもある。でも、それらは全部後付けのような気がする。本当の理由は分からないまま、次元の違うあなたに恋をした。氷惺が生身の人間なら、私は好きになったのだろうか。

 氷惺は剣を振り下ろす。スローモーションのように見えた。ああ待って、叫びは声にならず、白い冬の呼気を紡いだ。剣を地に突き立てれば、あなたの身は異能の餌になって、消えてしまう。

『もうすぐ、春が来るね』

 誰のものか分からない声が脳内に響く。

 もうすぐ?春なんて来たら、あなたは解氷してどこかに消えてしまう。この国を凍土にしなくていいの。ただ、あなたさえ生きていれば。

 あの日は、寒い冬空だった。あなたが消えてしまった、あの忌まわしい日。あなたを連れ去った冬を、絶望を呼んだ春を、私は愛せない。

「氷惺!」

 二度目の叫びは、声になった。氷惺の瞳がこちらに向いた、気がした。

 剣は深く地に刺さっていた。私はそれを見て、小さな子どものように泣きじゃくった。


 かたん、と響く、家の扉の鍵が回る音を、遠くに聞いていた。


***


「何してんの?」

「ぎゃあっ」

 急に氷惺が背後から肩を持ったものだから驚いた。可愛げのない声を上げてしまったじゃないの。ノートパソコンを一旦閉じ、液晶タブレットにペンを差す。

「リモートワークしているときは急に来ないで。もしミーティング中だったら、氷惺が映っちゃうよ」

「んー」

 聞いているのかいないのか分からない顔をしている。氷惺は最近私によく寄ってくる。大型犬のようだと思った。

「氷惺、あまり人に寄っちゃだめよ」

「なんで?俺桜ちゃんにしかしてないよ」

「駄目なものは駄目なの」

 あれから一週間が経った。行方不明者は数日後、同じ駅のホームで見つかった。衰弱しているが、命に別状はないらしい。それ以上の情報は出ておらず、詳しいことは分かっていない。ただ、あの駅のホームの一部区間は立ち入り禁止になり、私の会社は短期の特別措置としてリモートワークに切り替わった。結界の境目に人が近づけなくなったためか、以来行方不明者は出ていない。

「人は一定の距離を保つべきなのよ。あなたはふと見たら至近距離にいてびっくりするの。特に成人の異性にはそんなことしません」

「むしろするんじゃないの」

 腑に落ちないという表情で、彼は私の髪を梳いた。氷惺には恋愛感情がない。そのため、他人との距離感がいまいち掴めていないらしかった。問題解決のために、初対面の私にキスしようとする人間だ。悪気がないだけ余計にたちが悪い。私は髪を梳く氷惺の手を払った。

「しない。そういうのは、好きな人にだけするものよ」

 背の高い氷惺は部屋の照明の逆光になって、椅子に座ったままの私には表情が見え辛かった。

「好き、ね…。俺は好きって感情がよく分からないんだ。もちろん、意味は知ってるよ?」

「…あなたは、人を好きになったことはないの?」

「ないね。桜ちゃんのことは可愛いと思うけど、それが君の言う好きとの違いが分からない」

 私は椅子から立ち上がった。氷惺はいつもの様子なのに、どうしてか儚い硝子のように見えた。思わず手を伸ばして頬に触れようとして、やめた。自分がさっき氷惺に注意したばかりなのにと自嘲した。陽が差せばいつか消えてしまいそうな、残夜の薄氷。強くて儚い人だった。

「…好きになると、その人のために何かしてあげたくなるの。そばにいると、心が温かくなる。それに…もっとその人のことを知りたくなる」

「君は、好きをよく知ってるんだ」

「そうね」

 本当は、好きという思いはそんな甘くて優しいものじゃない。氷惺は知らなくていい。私のどろりとした本心は、澄んだ瞳のあなたには伝わらないから。もうひとつの世界を作ってしまうほどに、私の愛は仄暗く歪んでいる。

「じゃあこれは?」

 氷惺は両手で私の頬を包んだ。私よりも大きくて、あたたかい掌だった。泣き出してしまいたくなるくらい。

「触れられたところが、熱くなるわ。自分で触れるのと、全然違う」

「そっか」

 彼はぱっと手を離した。私はそれを名残惜しく思った。本当は、――。

 あなたに好きと言って縋りたい。もうどこにも行かないでって、ばかみたいに駄々をこねて。あなたがいなくても回る、この世界が嫌いだった。誰もあなたを思い返すことがなくて、そして一度は私も忘れてしまって。氷惺がこの世界の異物となった以上、それは仕方がないことなのに、記憶をなくした自分が恨めしかった。やっと会えたのに。全部思い出したのに。

 ずっとひとりで戦ってきたあなたのことが好きだった。あなたがどんな思いで生きてきたのか私には分からないし、私の浅慮で推し量るべきではないのだと思う。ただ、氷惺と世間の間には、見えない隔たりがあるような気がしていて。

――私はあなたの孤独に触れたかった。

「氷惺、ほんとに行ってしまうの?」

 氷惺の瞳が大きく見開かれて、次いで目を伏せて笑った。それだけで、分かってしまう。十分すぎるほど。

「桜ちゃんには敵わないね」

「知ってたのよ。あなたが毎夜家を抜け出すのも…。行方不明者の救助も、あなたがしたんでしょう?困っている人を見たら、放っておけないのね。…変わらない」

 あの世界にいても、現世に来ても、氷惺のすることはいつも同じ。自分の命をすり減らして、人を助ける。誰にも感謝されないのに。

 異能使いは短命だ。大きな異能を使えば使うほど、自分の命を削ってしまう。命を代償にして自分の欲望を叶える人間は愚かだが、その意図は私にも分かる。でも、氷惺のような真っ直ぐすぎる生き方は、凡な私には理解しきれない。

「会社がリモートワークに切り替わる前日、駅を見に行ったの。そしたら、立ち入り禁止区間のロープに、小さな白い結晶が付いていた。こんな夏なのに…。二つの結界の境目を、一時的に補強したとか、そういう感じ?あなたどれだけ大きな異能を使ったのよ」

「あんなの異能のうちに入らないよ。大したことないって」

 この一週間で氷惺の嘘にも気付けるようになってしまった。私は頭をふるふると振った。原作の氷惺は、自分の命すべてを贄として、日本中を凍土にするという大規模な異能を使った。でも、それまでに小規模な異能を使い続けていた氷惺の命は、現時点でもかなり減っているだろう。

「俺が帰らないと、この世界には大きなひずみができるんだ。要は、君たちのいる世界と仮世が混ざり合うということだね。現世の人間が向こうに吸い込まれるだけじゃないんだよ。向こうの基準がこちらに持ち込まれることになる」

「つまり、私たちも異能を使えるようになるってこと…?」

「そういうこと。急に特別な力を手にした人間はどうなるだろう?ルールも決まっていないからモラルも曖昧。読者だった君なら分かるね?」

 私は頷いた。無秩序な社会では人間が争い合い、その結果滅びるのもまた人間である。

「あなたが帰ればすべて済む話なの?」

「結界にひび割れが起こったのは俺のせいだからね。桜ちゃん、自分を責めてるでしょ」

 氷惺は私の顔を覗き込んだ。視界がぼやけて彼の姿がぼんやりと滲む。

「俺はあの世界に存在したとき、全部『知って』いた。この世界がどうやって出来たか、桜ちゃんがどれだけ俺の生を願ってくれたか。だからね、会ってみたかったんだ」

 ぱた、と音を立てて、涙が頬から滑り落ちた。氷惺は私の目尻を優しく拭った。

「桜ちゃんの思いが強かったから、俺を現世に呼んでしまった。これは、半分正解ね。ただ、もう半分は、俺がこの世界に来たいと願ったからなんだ。君の暮らしを見てみたかった。本当は遠くから君を見たら帰ろうと思っていたんだけど、向こう側に引きずり込まれそうになっていたから話しかけてしまった。それで君を苦しめているなら、ごめんね」

「そんなことないよ。…会えて、よかったと思ってるから…」

 小さく嗚咽を漏らすと、氷惺は背中を擦ってくれた。その手の温かさに、私は脆くなる。それは、致死量の愛。狂おしいほど心があなたを好きだと言って、内側から燃える熱が冷めずにいる。できるものなら、私はあなたの指に触れる涙のひとしずくになりたかった。そうすれば、私はあなたの体温に溶けて、一緒に消えることができたから。

「桜ちゃん、ひとつ聞いて。俺が帰っても、この世界の異能化は起こるかもしれない。それは君や俺がどこかで間違えたわけじゃないんだ」

 静かな声と私のすすり泣きが部屋に落ちる。いつかこんな日が来るのは知っていた。

「でも異能はフィクションでしょう?」

「断言できる話ではないけど、この世の人間はいつでも可能性を秘めているからね。原作者は知っていたんだろう。最初は不思議の力とか、妖力とか、そういった類のもので一括りにされると思うよ。だけど、じきに科学で証明できるようになる。あらゆる事象は、そういうものなんだ」

「あなたが帰っても異能化が起きるなら、ずっとここに居ればいいじゃない」

「可能性の話だよ。絶対に起きるわけじゃない。それでね、桜ちゃん。君は異能の素質がある。もしそんな世界になったら、君の開花はかなり早くに起こると思うんだ」

 私ははっとして彼を見上げた。残りの滴が頬を伝って、首元に弾けた。

「私、異能を使えるとは思えない。すごいこと、出来そうにないんだもの」

「君の思っている異能は原作の世界、だから火を出すとか、水を作るとか、物理的な側面だけだろう?桜ちゃんの異能は違うんだよ。…ただね、どういう力か君に言ってしまったら、いつか使おうとするかもしれないから、言わない。俺から言えることは、絶対に使うな、ということだけだね。異能を使えることも、誰にも言わないでほしい」

 私の背を擦る手が下ろされる。温かな熱が離れれば、夏と言うのに冷えた心地がした。あなたは何でも分かるのね、と呟いた。それなら、あの世界に帰れば死んでしまうことも、あなたは分かっているはずだった。

「その力は、私が使ってしまいそうなものなの?」

「どうだろう?それは分からないけど、危険だよ。君は知らないままでいい。…でも、その力にもし気付いて、どうしても使いたくなったら、自分のためだけに使うんだよ」

 こんな最後の台詞なんか聞きたくない。それに、あなたが言っていることは、私が氷惺に言いたかったことと同じ。

「あなたも、…自分だけにその力を使ってほしかったわ。だって」

――だって、私はあなたに生きててほしいもの。

 かすれた声で呟いたそれが氷惺に届いたか分からない。氷惺はにっこりと笑って部屋から出て行った。

「桜ちゃん、ここ閉めといて。じゃあ、行ってきます」

 玄関の扉が、かたん、と音を立てた。私は部屋でぼんやりと立っていた。

 死にに行くあなたに、いってらっしゃいと、言えるはずもないのに。全部知っていて送り出す私は、命を手折ったのと、同じ。

 私の部屋には、氷惺が選んだマグノリアが、ほのかに香っていた。


【 四)夢見の花と死の旅人】


 二台並べたモニターに雪が降る。直線に降り落ちて、床に落下した時にバウンドしながら消える。それもコミカルで可愛いけれど、ふわふわと舞うようなのがいい。これじゃリアリティに欠けすぎている。

「あら、朝霧さん。また残業?」

 後ろから声を掛けられ振り返った。金髪と黒髪の混ざったプリン頭の女性が、私のモニターを覗き込んでいた。彼女の特徴的なヘアは、推しとお揃いらしかった。

「木戸さん~~残業は嫌なんですよ。これ、早く終わらせて帰ります」

 正直言って映像ソフトは苦手だ。私は三年前イラストレーターとして入社したのに、いつの間にか業務の範囲は動画編集にまで広がっていた。新しいソフトに喜んでいたのは束の間で、すぐに嫌気が差した。とにかく、作業が細かい。雪の重力、粒の量、一つひとつが入力した数値に左右される。

「私も残業は嫌よ。貸してみなさい」

 木戸さんは私のマウスを掴んで、ソフト内のY軸を引っ張り始めた。彼女は寿退社した杉野ちゃんの代わりに入ってきた、いわゆるベテランだ。上手い人は数値を入力しなくても、目分量で世界を作ってしまえる。私の目の前に、異国のような冬景色が浮かんだ。不甲斐ない。自分は未熟だった。

 手持無沙汰になった私の手に、一瞬彼女の指が触れた。洗い物に手荒れしたような母親の手に、綺麗なネイルが光っている。

「木戸さん、ネイルいつもお綺麗ですね。ジェルですか?」

「そう。これね、サロンでやってもらったの。推しのニューアルバムのジャケモチーフなんだ~。ライブのためにって思ってさ。でもうちの旦那、遠征はダメだっていうんだよ。子供が小さいうちは近郊まで、って。どう思う?」

「ヤキモチなんじゃないですか、旦那さん。仲睦まじい様子で何よりです」

「ないない。ただのケチ。私は推しのために働いてんのに」

 ぶつぶつと文句を零しながら、彼女は雪のモーションを作り終えた。木戸さんは去年転職してきた社員だった。こんな人が、クリエイターに向いているんだろう。私は、多分、何も。

「…木戸さんは、推し活楽しいですか」

「楽しいに決まってるじゃん!朝霧さんもやんなさいよ。まずQOLが爆上がりする!QOLって分かる?クオリティ・オブ・ライフ、つまり生活の質よ。推しのことを考えてたら、悩みがどうでもよくなるっていうか。次のライブチケとか最前取らなきゃとか、SNSのリプ返は一番に出たいっていうか~。とにかく日々がキラキラするって感じかな」

 確かに彼女はいつも楽しそうだった。手を抜けるところは抜いて、やるべきことはしっかりしていて。

「私も、昔は推し活してましたよ」

 五年間までは。それ以来、新しい推しができることもなかった。

「へぇっ意外!誰?どこのグループ?」

「アニメキャラだし、みなさんもうお忘れだと思うんですが。そのキャラが好きで、アニメーターになりたくて、全然美大でも専門卒でもないのにこの会社に来ました。ほんとは美術系の学歴がないとだめだって知っていたんです。だけどどうしてもアニメを作りたくて…」

 趣味でイラストを描いていたから、それを纏めて送った。熱意だけは伝わったようで、なんとかアニメ制作会社の端くれに入社した。推しのアニメの制作会社ではなかったけれど、他のスタッフに負けないように努力した。推しへの愛情は誰よりも勝っていたと自負している。それでも、私のイラストでは立派なアニメーターにはなれなかった。実力がなかったから。

 遠い先でいい、私のイラストを見て、誰かが心を動かしてくれたら。このカットが好きだと、このシーンには涙が出ると、そう思ってもらえたら。命を削るようにして、私は絵を描いた。かつて私が愛した、あの作品のようになりたかった。

「いいじゃん素敵。そんなに熱くなれんのいいな。私も推しのミュージックビデオの制作をしたくて、映像制作の仕事をしてるんだよ。推しに仕事で会いたい!って。朝霧さんも、推しの版権イラスト、いつか任されたらいいね。じゃ、お先失礼」

 木戸さんの慌ただしい足音が遠ざかれば、部屋はいっそう冷たくなった気がした。ぽつり、と部屋に取り残された私は、大型パソコンのモーターのうなる音を聞いていた。季節は十一月の終わりだった。

「推しの版権イラストなんてお仕事は、私には来ないよ。…私が、消しちゃった」

 あなたのことを消してしまった。現世にも、仮世にも、あらゆる場所を探したとしても、もうどこにもいなくて。思わず震える声で呟いた。

「氷惺、ごめんね」

 彼を忘れた日など、一度もなかった。家に帰ればマグノリアの充満した部屋でひとり涙した。あの数日間に縋るように生きていた。

 氷惺が仮世に帰った後、こちらの世界で彼の存在が蘇ることはなかった。作品ごと、全員の記憶から消えてしまったのだ。氷惺が危惧していた、現世の異能化は起こらなかった。彼が元の世界に戻ったからなのか、初めからそれは杞憂だったのか、そんなことすら分からなくて。ただ分かるのは、私が氷惺という存在を奪ってしまったことだけ。

 氷惺のことが好きだった。誰よりも、と言い切るのは躊躇われるが、私は世界で一番あなたのことを愛していると、そんな思いでいた。

 氷惺を消してしまった私が、誰かに素晴らしい作品を届けられるわけがないし、そんな資格もない。

 私の仕事は、贖罪にも似ていた。




 私は駅の待合室に座っていた。氷惺に初めて会った場所。どうしてか、余所行きの小さなバッグと、薄い桜色のワンピースを着ていた。

 晩秋のはずなのに、窓の外から見えるホームはあたたかな陽気に包まれて、春先の午後のようだった。私はなぜか、ここが夢の中だと知っていた。起きるすこし前に見る、浅くて淡い夢の中。

 待合室にいたところで、氷惺は来ない。私はそれも、分かっていた。

 だって、あなたはここには居ないもの。

 私は椅子から立ち上がって、外へ向かった。昼下がりといえ、繁華街の駅のホームに人っ子一人いないことにも、私は格段違和感を抱かなかった。夢の中はそんなものだと、頭の中で思っていた。重い引き戸に手を掛けると、隙間からぶわり、と風が吹き込んだ。春一番。その風は、懐かしい香りがした。

 ホームの端、結界の亀裂がある場所へ。

 そこに行けば、何かが変わるような気がして。

 端に佇む人影を見つけて、私は走り出した。風が強く吹いて、私の髪が目の前を暗転させても、私はその人のもとへ駆けた。

「そんなに急がなくても、私は逃げませんよ。彼のように」

 彼はゆっくりと私を振り返った。手を伸ばせば触れられそうな距離だった。

「氷惺は逃げたんじゃないの。私が…消してしまったの」

「同じことでしょう」

 見たことがない男性だった。歳は、おそらく氷惺と同じくらい。

「同じじゃないわ。氷惺はいいひとだもの」

「あの子のことを好いているのですね」

 私は深く頷いた。男性は頬を緩ませる。若いはずなのに、どこか古木を想起させるような、歳に似つかわしくない風情を感じた。どこか既視感を覚えて、ふと気づく。氷惺と同じ薄紫の瞳。アメジストを縁取る睫毛は、白ではなく漆黒ではあるけれど。

「私のこと、覚えていますか。あの子の親のようなものです。――いえ、親ではありませんね。作者です」

 どくり、と心臓が音を立てる。この人から奪ってしまった。作品も、今までの何もかも。

「すみませんでした…本当に…。全部、私のせいです。先生の作品を、無かったものにしてしまいました。申し訳ございません」

 謝って済むものではないと分かっている。でも、会って謝罪したかったのは本心だ。私のくだらない想いのせいで。たくさんの人を巻き込んで。

「顔を上げて。…そうですねぇ、あの子を、あの世界をゼロから作ったわけではないのですよ。言わば伝記のようなものを、私は書きたかったのです」

「伝記、ですか?」

「そう。話は長くなりますが、聞いていただけますか」

 物腰は柔らかいが、有無を言わせぬ意志の強さを秘めている瞳だと思った。

 派手な音を立てて、ホームに電車が入ってくる。車掌もいないのに。無人の電車も、私は何も思わなかった。どうしてか、その不自然に納得していた。彼が電車に乗り込むから、私もそれに続いた。いつか、氷惺と乗った日を思い出す。

「私は現世の人間じゃないんですよ。遠い昔は、あなたと同じ人間でしたけど。この身体は、かつて私を好いた女がくれました。私が一生死なないようにと。死ぬに死に切れません」

 ひとつぶんの座席を空けて、私たちは隣に座った。窓の外は見慣れた街が映る。柔らかな、昼下がり。

「先生はその女の人のこと、好きだったんですか」

「さあねぇ。忘れてしまいました」

 その声には非情な響きはなくて。私はふと思った。たぶん、その女の人のことが好きだったんだろう。なぜかは知らないけれど。

「この世は輪廻を繰り返している。あなたは信じないかもしれませんが。女は、自分の存在を忘却させる代わりに、私に永遠の命を与えました。馬鹿ですよ。放っておけば、いつかめぐり会えるのに。私はあいつがいない世界をひとりで生きなきゃいけないんです。それに、私はあいつを忘れてしまった。会っていても、気付いていないのかもしれない」

 車窓から見える景色は見慣れた街なのに、ゆるゆると夕闇が浸食し始める。ここはやっぱり異界だ。時が進むのが、あまりに早い。

「私はあいつを探しました。この世にはどこにもいなかった。探して、探して…あるとき、この世は唯一ではないと知ったんです。世界に境界線があること。あなたも知っていますよね。駅のホームにできた亀裂も、そのうちの一つです。私は喜びました。あいつがどこかにいると思って」

「どうして、彼女を探しているんですか」

「そりゃあ、死にたいからです。永遠の命など、私には要りませんから」

 でも、会えなかった。彼はぽつりと呟いた。

「仮世はいくつか存在する。でもね、仮世は増え続けることはないんです。淘汰され、消えてゆき、結局は現世以外の空間は生き残らない。だから仮と言うんです。そして、仮世が消える原因は、いつも人間同士の争いです」

 窓の外はもうすっかり暗くなっていて、見慣れた街かどうかも判別がつかなくなっていた。街の明かりがきらきらと眩しい。ただ、それは人間の営みの灯ではないような気がした。

「人間は普通にしていれば、何の争い事も起こりませんよ。世界にはルールがある。もちろんそれを破ろうとする人間もいますが少数です。ですが、急に不思議の力を得た人間は暴走します。私が描いた物語のように」

 男性は――先生は、座席から立って、扉のほうへ歩いた。長身を屈め、ガラス窓を覗き込むようにする。

「ここは仮世です。じきに消えるのを待つだけの仮世ですがね。もう誰もいません。氷惺は、現世にいない人間だということを、あなた自身に話しましたか?あの子は異分子です。仮世に投げ込まれ、あの子が来たことをきっかけに、仮世自身が変化する。だから異能を持つ人間が増え始める。私は、漫画の中であの子を主人公に据えましたが、実際はヒーローではない。世界を唯一のものにするための、人身御供です」

「そんなの、――氷惺が可哀想じゃないですか!氷惺も人間です。普通の、いえ、誰よりも立派です。みんなを救って…」

 先生は私を振り返った。諦めに似た、笑い顔で。

「氷惺が人助けをするのは、本心からじゃありません。なぜかそうしなければいけないと、そんな衝動に駆られているだけ。それが、あの子に与えられた役割なんです。…私も、彼の不幸を願っているわけではないのです。彼の人生を、この世に描き残そうとしたくらいには」

「そう…ですよね。すみません」

 電車がひときわ大きく揺れる。どこかの駅に着くのだろうか。そして、そこには何があるのだろう。

 先生の言葉から、私は氷惺の話した矛盾に気が付いた。私が氷惺を強く想ったからではなく、氷惺は元々異分子として仮世に存在していたことを。現世の結界に穴を開けたのは、私のせいだろうけど。

「先生は現世の人ではないのですよね。なのに…どうしてこの世界で漫画家になられたのですか。どうして、氷惺を描かれたのですか」

「知って欲しかったんですよ。もし、世界が崩壊して、境界線が曖昧になってしまったら、仮世どころか現世もすべてがなくなってしまう。私はそれを避けたかった。異能化が現世で起きてしまったら、何をどうすればいいのか、みなさんに伝えるべきだと思っていました。…ただ、皮肉ですね。私が描いた物語は最終章まで続けられなかった」

「私が、氷惺を想って世界に亀裂を入れてしまったから、ですか?先生の物語を無かったことにして」

 電車が減速し、扉が開いた。その先には何の光もない、ただの漆黒。ぞわり、と鳥肌が立つ。外からは死の香りがした。

「いいえ、あなたがたは引き合ってしまっただけですよ。言ったでしょう、この世は輪廻で出来ていると」

「引き合う…?」

「降りるのは私だけです。あの女を探すまで、私の旅は終えられませんから」

 先生は降りようとしていた。慌てて私は彼の手を掴んだ。先生の片足は、漆黒の外に浸かっていた。

「待ってください!氷惺は、どうしていますか。今、元気にしてるんですか」

 先生は緩慢な仕草で私を見遣った。きっと、必死で縋りつく読者は醜いだろう。

「それは、あなたのほうが分かるんじゃないですか。さようなら、夢見の子」

 え、と問い返そうとした刹那、先生は消えてしまっていた。元々誰も居なかったかのように。静まり返る車内に、扉を閉める警告の音が鳴った。

「夢見の、子…」

 夢見は桜。いつか聞いたことがある。

 夢という字が好きだった。小学校低学年のころだったか、書道の時間で好きな漢字を一文字書くという授業があった。まだ習っていない漢字を読んでは悦に浸るという可愛げのない子供だった私は、夢という字を選んだ。

『桜ちゃんは桜だから夢と書いたのかしら』

 私の祖母は言っていた。

『ばあちゃん、桜だから夢ってなあに』

『あら、たまたまだったの?桜の花は夢見草とも呼ばれるのよ。桜の異名とも言うわ』

『いみょう?』

『別の呼ばれ方ということよ。…桜ちゃんにはこの先どんな夢があるんでしょうねえ』

 大人になった今、大した夢なんてない。愛されるアニメを作りたいという希望も潰えている。ただ、あの人にもう一度会いたいだけ。

 もしも、氷惺のことを、先生よりも私が分かるのなら。

『もうすぐ、春が来るね』

 誰かの声。もう何度も聞いてきた。頭に響く、不思議な声。

 私に異能があるとすれば。

――夢見の力。


【 五)幻想、魂の邂逅】


 先生を降ろした電車は再び動き出す。この世界が私の夢の中だとすれば、ある程度の自由は私にあるはずだ。氷惺に会いたいと願えば、連れて行ってくれるかもしれない。

 席に腰掛け、目を瞑り集中する。氷惺のことだけを考えて、脳裏に描く。描くことは得意になっているはずだった。一応はアニメーターをしているのだ。

 ペン先を走らせるように、氷惺を描く。髪の先、睫毛の一本まで丁寧に。私を見るとゆるく弧を描く口角も、全部再現できる。それくらい、あなたを想い続けてきたんだ。

 忘れたいなどと思ったことがない。

 脳内の氷惺を完成させると、閉じていた瞼を押し上げた。刹那、ぞわりと全身が粟立った。

「なに、これ…」

 夜だった車窓に、明るい景色が映る。幸せそうな、二人の男女。見紛うはずがない。大好きな人の姿なんて。

「どうして、…私、と」

 古い着物を着た氷惺の隣に、姿かたちの全く同じ私がいる。いや、完全に同じではない。今の私よりも、すこし年上。でも分かる。これは私だということ。

 背後の窓を振り返れば、また違う洋装の私たちが大写しにされている。心臓の音が煩い。これは、さっきの時代よりも新しい。表現するなら、明治や大正。瞬きすると、氷惺は先生の顔に変わった。

「どうなってるの…」

 また背後の車窓を振り返れば、別の時代の二人が映っている。夫婦か恋人のように仲睦まじく。どうして。私はこんな夢を作り出そうとしていない。だって私の記憶にも、脳内にもないもの。

『あなたがたは引き合ってしまっただけですよ』

 先生の言葉が蘇る。先生は輪廻と言っていた。何度でも命は巡ると。

「氷惺は、私の推し…なのよ。生きている世界だって違う。氷惺は…仮世を乱すために出来た異分子だって。今までに会ったこと、あるはず、ないのに…それに、どうして先生が」

 息苦しくなって、ごほ、と咳き込んだ。口元に当てた手は朱色に染まっていた。

 ああ、やっぱり合っていたんだ。夢見が私の力だった。氷惺は使っちゃだめだと言っていたけれど。

 命が削れてもいい。私の生が残っているうちに、また氷惺に会いたい。会えるなら、何も惜しくない。

 目の前が白く滲む。嫌だ、こんなところで終わるなんて。まだ何も言えていない。氷惺に何も伝えられていない。

「だから止めたのにな。また君は命を削りすぎる」

 不意に降ってきた声に顔を上げた。涙が視界を覆い隠す。

「ひ、さと、…今まで、どこに…」

「ずっと世界の部品のままでいいって思ってたんだ。君にまた会うまでは」

 優しい手が頭を撫でる。会いたかった、も、何もかもが声にはならなくて。代わりにひゅうひゅうと、嫌な音が喉から漏れた。血の味がする。

「あの世界は崩壊していたから、ほかの仮世を転々としていた。まだ壊されていない仮世をね。やがて異分子が放たれては、そこは異能で崩壊しちゃったけど」

「氷惺と私、昔に会ったこと、あった…?」

「会ったも何も…本当に覚えてないんだね。まあ、桜ちゃんは何回もゼロから生まれ変わるから、当然といえば当然かもねえ」

 ゼロから生まれ変わる?よく分からない。もうどこにも行かないで。声は出ないから、代わりに氷惺の服の裾を引っ張った。

「いつだったかな。昔ね、桜ちゃんは俺に命をくれたんだ。俺が桜ちゃんを忘れる代わりに、不死の身体を作ってくれたの。でも俺は桜ちゃんを忘れたくなかった。だから異能に交換条件を出したんだよ。俺を魂と身体に二分するのと引き換えに、仮世の異分子になることを決めた。だから、もう俺は随分前から人じゃないんだよ」

「…どうして、二分するの」

「桜ちゃんのくれた身体じゃ、桜ちゃんを思い出せないから」

 どこかで聞いたことのある話。眩暈がする。それじゃあの作者さんは、氷惺ということになる。だけど、あの人は氷惺じゃなかった。声も顔も別人だし、何より氷惺を他人として認識していた。

「今のあなたは、魂と身体、どっちなの」

「魂だよ。身体のほうは俺を見ても自分と認識してないらしい。だけど興味はあるみたいだよ。俺の漫画を描いたくらいには。…どこかで桜ちゃんに見つけて欲しかったんじゃない?その意識がはっきり形作られているわけではないだろうけど」

「だけど、あのひと、顔も話し方も全然違ってたわ。でも、氷惺と同じ目をしていた」

「もう会ったんだね」

 死を求めて彷徨する、寂しい人。でも違ったんだ。あの人が探していたのは死ではなく、あたたかな愛だったんじゃないかと思う。

「顔や話し方が違うのは、俺が二次元作品として、君や身体のほうの俺にデフォルメされたからだと思う」

 生きることに縛られた身体とは別に、自由な魂を手に入れた氷惺は、仮世の異分子として何度も戦い、そのたびに死んだ。そして、また目覚めた時には別の仮世の異分子になった。人身御供の人生は、楽しくはなかったはずだった。

「どうしてあなたはそんな生き方をしているの」

 氷惺の人生に、楽しいことなんてあったのだろうか。全部、私のせいだ。氷惺に死ねない身体を与えてしまった、私の科。

「大事な人を忘れるって、怖いんだよ。君は俺にとって、命よりも大事な人だった」

 私たちはどういう関係だったの、と聞きたくて、やめた。どこか恐ろしかったから。

「だけど、あなたは好きという感情がないんでしょ」

「ないよ。君のことは大事だけど」

 あの人も言っていた。好きだったかも忘れてしまったと。

 私はこんなに好きなのに。

 いつか思ってた。推し活なんて、別に、想いを返してほしくてやってるわけじゃない。

 でも、これは違うじゃない。大事な人だと言われても、どうして好きだと言ってくれないの。

 桜色のワンピースに血が移った。酷い、あなたは残酷だ。私のこの身体に流れる血を見て欲しい。こんなにもあなたを好きという私の色に染まって欲しい。

 氷惺の指が私の輪郭をなぞって、唇に温かいものを感じた。

 本当に、酷い人。何も思っていないくせに、口づけだけは私に残すんだ。

「…氷惺。あなたは、元に戻りなさい」

「元って?」

「身体のほうのあなたのところよ。今のあなたは模造品じゃない」

 好きな人にこんなことは言いたくなかった。だけど、冷たく突き放さなければ氷惺は不幸な輪廻を繰り返すだけ。

「魂は模造品なの?桜ちゃんは、俺の殻がいいって言うわけ?」

「あの人は殻じゃなかったわ。ちゃんと意思があった。忘れている部分もあったみたいだけど――それでも、あの人は人間よ」

 氷惺が顔を歪める。綺麗な顔に涙が一筋流れた。ぱたり、と涙が床に落ちる音が聞こえる。

「異能に取り憑かれないで。あなたは部品じゃないわ。あなたが私を忘れても、私は氷惺のこと覚えてる。それで十分でしょう?魂と身体のどちらが大事か、私には分からない。たぶん、どっちも大事なんだと思うから。だけど、あなたたちを不死にしてしまって、ごめんなさい」

 ぱたり、ぱたりと涙が落ちる。氷惺の姿は薄くなっていった。氷が融けるみたいだ、と思った。

「謝らないでいいよ。君に会えて楽しかったし、…俺は確かに模造品なんだ。俺は魂と身体全部を分離できたと思ってた。でも、俺は身体のほうに人を愛する心を置いてきてしまっていたみたいだ。君のことはこんなに大事だと思うのに、何をしても好きの心が分からなかった。だから戻るよ」

「氷惺、誰かを大事だと思う心は、愛だよ。あなたは愛を知らないわけじゃないの。きっと、優しすぎるのよ」

 半透明よりもなお薄い、氷惺の姿に呼びかけた。綻ぶ口元は、辛うじて見えるだけ。

「桜ちゃん、もうすぐ春が来るね」

 さいごの煙のような姿がゆらりと掻き消える。氷惺がいた場所には大きな水溜りが残っていた。覗けば泣きそうな自分の顔が見えた。

「ねえ、春が来たらどうなるの?教えてよ…」

 列車の音が頭に響く。いつのまにか鉄の味も、染まった赤も消えていた。


【 六)還る春】


 紫のクリームソーダを掻き混ぜながら、数か月前のことを思い出していた。あの夢は、私の肩を揺する警備員さんによって中断された。夜遅くまで施錠されないのを不審に思った警備会社の人が来てくれたのだった。残業中、机に突っ伏して見た夢は、ただの夢だったとは思っていない。たぶん、私の魂はあのとき仮世と現世の狭間にいたのだ。

 この街を一望できるビルの最上階。周囲はカップルや家族連れ、ぬい撮りに勤しむ推し活女子に溢れている。私が推し活を始めた頃はあまり世間に理解されていなかったけれど、今や一種のファッションのようにもなっている。そこに愛がないかどうか、などを問うのは野暮な話だ。好きだからこそ推そうとするのだ。その愛情は、誰にも否定できるものではないと、私は思っている。

 休日のこの街は騒がしい。おしゃれな街だなんて評されるが、人の量の多さでよくぶつかるし、治安もそこまでいいわけではない。でも、と思う。でも、私はこの街を結構気に入っている。好きな人に会えたから。

「身体と魂、どちらが大切なのか、選べない。だって、そのふたつが合わさってこそ、その人本人だと認められるもの」

 だから私は間違っていたのね。生きてさえいればいいと思って、愛する人を不死の身体にした。彼の、私に関する記憶を忘却することと引き換えにして。だけど、その身体と同じだけ魂が生きられるかまでは考えていなかった。魂は異能に寿命を売ることで、ヒトガタを得て記憶を留め、何度も生きては死んだ。本当に、自分は浅慮だった。

 クリームソーダの最後の滴を飲み終えて、私は席を立った。傍らに置いていた、紫のミニブーケも拾い上げて。今日は、あのふたりのお弔いのつもりで来た。身体のもとに戻った氷惺――というか、彼の魂は、どうなったんだろう。第一、『もとの身体に戻る』ということが可能なのかも分からなかった。ただひとつ言えるなら、私はどちらかの彼を消してしまったのだということ。氷惺がもとの身体に戻れば、漫画家先生としての彼は消える。元に戻れなかったのなら、融けて水溜りになったままだったということ。

「氷惺、春が来たよ。あなたが言ってた、この季節が」

 春になっても何も起こらない。どこかで期待していた私を自嘲する。

 ここに来たのは、彼が生きた街を見たかったからだ。あなたはどんな思いで、過ごしたんだろう。

 展望デッキから離れ、下階へ向かう。すれ違う人はみんな幸せそうだ。推し活も、恋も、自分にはもう要らない。氷惺のいない世界は虚に満ちている。

 ふわり、花弁が舞う。桜の花。誰かについてきたのだろうか。あれから私は意味のある夢など何も見ていない。

 白昼夢だったかのように。

 デッキの出入口で誰かとすれ違いざまに酷く肩がぶつかった。肩から頭に嫌な衝撃が伝わり、当たった場所に焼けるような感覚がする。止めた息を吐き出せば、当の本人はどこかへ歩き去っていた。都会の人間はみんな冷ややかだ。私はさっきの勢いで落としたブーケを屈んで拾った。花が散っていなくてよかった。

「君…大丈夫?」

 ふいに落ちてきた声に顔を上げ、私は目を見開いた。

「どこか痛い?」

 狼狽える彼に、自分が涙を流しているのだと知った。見間違えるはずがない。私が恋した夕暮れの淡い紫。見慣れない黒髪は、なぜか白銀に重なって見えて、次の瞬間にはありきたりの黒に変わった。そこで私はぼんやり思う。先生と氷惺の顔が違って見えたのは、髪の色のせいだったこと。先生のほうがすこし年上に見えたけれど、彼らはやはり同じ『本体』だったのだと気付く。

「これ、あなたに、持ってきました」

 驚いた表情の彼は以前と同じで。少し困った顔で、彼は私を見ていた。

「えーっと、誰だっけ。ごめんね。俺最近のことしか覚えてないの」

 私はぐしゃぐしゃに泣いていた。私のことを忘れていてもいい。あなたに真の生がなくてもいい。あなたがこの世界に在ってほしかった。

「忘れててもいいから、…」

 氷惺に抱き着くと、ちゃんと温かくて心臓の音がした。




「休みの日になると、ここのビルの展望台を見に行きたくなるんだよね。君もそう?」

「見に行きたいというか…見ておきたくて。この街のこと」

 隣を歩く氷惺を見た。私が彼を見間違えるはずはない。どうして生きているのとか、何の記憶があるのとか、聞きたいことばかりだったけれど、私は黙ったままにした。

「そういえば君なんで花束持ってたの?」

「氷惺と先生にあげるためです」

「へぇ…それ俺がもらっても良かったの?」

 私は彼をじっと見た。私からすればあなたはどう見てもあの氷惺だ。

「氷惺は、私の大切なひとです」

「その人のこと好きなんだ」

「はい。…誰よりも」

 ここからは人間の営みを一望できる。仮世の暴走から、彼が守った無数の命。

 かつての氷惺と先生の雰囲気とは、ずいぶん変わったと思う。張りつめた糸が解けるような、そんな柔らかさ。

「この世界が複数あるって言ったら、信じますか?」

「複数ね…あると言えばあるんじゃないかな。分からないことは多いからね。それより君って昔の俺のこと知ってるんだよね」

 彼が私を見て微笑む。こんな表情は見たことがなかった。何も背負わない人間の、本当の笑顔。

「知ってますよ。あなたのことが、大好きだった。ねえ、氷惺」

 その瞬間、彼の瞳が大きく動揺した。何かを思い出すような、遠いところを探るような、そんな表情だった。

「今はなにも思い出さなくていいの。全部忘れたままのほうがいいかもしれない。だけど、私があなたのこと好きだったことだけは、覚えていてほしいの。今の私をもう一度好きになってほしいなんて、言わないから」

 高層ビルに反射する光は眩しくて、あの夢の中の駅のような、あたたかい春の日のことだった。


***


 彼の記憶が戻ることはなかったけれど、時折記憶の断片を思い返しているような節はあった。炎を見ると、少し怯えたような表情をした。真っ暗な部屋を見ると、なにかを探すように入っていくときもあった。私は何も伝えなかった。仮世は彼の帰る場所ではないと思ったし、今の彼のほうが幸せそうに見えたからだ。

 異能に命を捧げてしまった彼が、どうしてその契約を解除できたのかはよく分からない。自分でリセットできたものなのか、本体である先生の手助けがあったのかも読めなかった。どちらかと言えば、氷惺の性格に寄っている今の“彼”に、今までの一切の記憶がないことから、本体と魂が融合し合えたことは推し量れたが、過程がどんなものであったとしても、私は彼が生きているという事実だけで、もう何でも良かった。

 隣で眠る彼の髪をくしゃくしゃ混ぜる。もう若いという歳でもないのに、白くてきめ細やかな肌は全く変わらない。だけど私は、笑えば彼の目尻に小さな皺ができ始めたことを知っている。

 もうあなたは不死ではないの。私と同じように、どうか人として生きて。できるだけ長く。出会った時と同じような、あのしろがねの色に染まるまで。さいごは地になって、あなたとともに在りたいの。

 髪を撫でる手を止める。左の薬指に光るそれは彼とお揃いで、私は枷みたいで気に入っていた。

 幸せな夢を見ていればいいなと、私は思った。


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