第十六章 04 嫌われたと思っていたが
パリスの焼き菓子を補充するため、ラティエルはレグルス家の自室へ転移した。部屋に着いてすぐ「変幻」と唱えて動物の姿に変身しておく。
灰色マントの男ピエールは、マルティナを取り戻そうと我が家を見張っているだろう。騎士団の牢にいるはずの、ラティエルが姿を見せるわけにはいかない。
調理場に向かいパリスの姿を探すと、使用人の休憩室で遅い昼食を取っていた。
『パリス! お願いがあるの。……ねぇ、パリスってば!』
「おかしい。お嬢様の声が聞こえる。働きすぎ……はないな。年か」
『いるわよ、ここに! 足もとを見て』
「ん? 足もと……おわっ⁉」
ネコのようなウサギのような、不思議な黒い動物を見て、パリスは椅子からひっくり返った。しかし金色の瞳を認めて「お嬢様⁉」とすっとんきょうな声をあげた。
『シーッ! ここにいるのは秘密なの。ねぇ、焼き菓子ある?』
「ええ……ストックはありますが」
『メロンクッキーもある?』
「あ~……それは焼かないと。材料はあるのでお待ちいただけるなら」
『待つわ! 大量にお願いね』
待っているあいだ、ラティエルは父の執務室を訪ねることにした。騎士をあきらめる気はないことや、学園に潜入することも伝えておきたい。
前足でドアをノックしても応答がない。しかし、ドアの向こうに人の気配はある。迷ったすえに、ラティエルはドアノブに飛びついた。何度かジャンプして、ドアをあけることに成功する。
『お父様……?』
遠慮がちに声をかけたがやはり返事がない。そろりと中に入ると、ソファで横になり、うたた寝している父レオネルを見つけた。その手からは書類が落ちそうになっている。
『もう、お父様ったら……』
ラティエルは書類を口にくわえてテーブルに置こうとした。けれど、ふと目についたハーヴィーという名前に、紙を床に落としてしまう。
(これ……手紙? 勝手に読んじゃだめよね……、でも気になるっ)
ちょっとだけ、と言い訳しつつ目を落とす。その手紙はハーヴィーを我が家で預かることになったとき、カストル辺境伯が両親に宛てたものだった。
――ハーヴィーは瞳を奪われただけでなく、命も危うい。どうか預かってほしい。
その一文を読んですぐ、手紙が目の前から引き抜かれた。
「その長い耳……、ラティエルかな?」
『お、お父様! 勝手に読んでごめんなさいっ! でも、ハーヴィーのことが気になって』
この手紙を読んだ母は『ただの家庭内不和』だと言い捨てた。あれは子どもたちを不安にさせないためだったのか。
レオネルは疲れ目をほぐすように揉み、「おいで」とラティエルを膝に乗せた。
「ハーヴィーはね、カストル家で唯一、“星の瞳”を受け継いだ子どもだったんだ」
『え? でも、ハーヴィーの瞳は緑色よ? それにディーン様は星の瞳だったわ』
ふたりとも至近距離で確認したから間違いない。
レオネルはひとつ頷いて、唐突に授業の話を振った。
「ラティエル、学園で呪術についてはどれくらい習った?」
『ええと、魔法と違って対価が魔力ではなく別のもので……寿命とか、体の一部とか』
「そうだね。つまり、自分の瞳を差し出して、相手の瞳と交換することもできる。その場合、呪いの代償は相手が死なない限りは受けない。そういう呪術もあるんだよ」
『っ……、まさか……そんな』
ハーヴィーはディーンと瞳の交換をした? いや、手紙には“奪われた”と書いてあった。ディーンがハーヴィーの瞳を奪ったということか。なぜ? という疑問にはすぐに答えが出た。
(ディーン様は、本気で王位を狙っているの?)
煽てられ、王子気分に浸っているだけだと思っていた。
もし本気なのだとしたら……。
『お父様、ディーン様にも王位継承権はあるの?』
「いいや、ないよ。父であるアーサー殿は王族の籍から外されているからね」
『それならどうして瞳の交換なんか……』
「ハーヴィーの瞳が奪われたのは八歳のとき、レグルス領で預かるよりも前の話だ。そのときディーンはまだ十歳。呪術なんて知りもしないだろう。ディーンを唆した者がいる」
『――ベガ家のピエール?』
レオネルは答えず、ラティエルの頭を優しくなでた。
「ラティエル。あと少し、子どもでいてもいいんだよ?」
悪意など知らないまま、友達と笑いあって楽しく日々を過ごす。たしかに、そんな普通の幸せを望んでいた。でもそこにはハーヴィーがいない。モニカもいない。これはラティエルが望んでいた幸せとは違う。
『このままでは、心から笑えません。一緒に笑いあう友達が欠けています』
「……」
しばし沈黙が流れたあと、レオネルは重い口をひらく。
「カストル家のルイーズ嬢と、王宮で会ったようだね?」
『はい。成人の儀で……』
「彼女には近寄らないでくれ」
『どうしてですか?』
「彼女は……、堕ちた女神をその身に宿している」
ふと、アストローダが口にした名前を思い出す。
『エロイーズ?』
「女神から聞いたのかな? ルイーズ嬢は子どものころから、大人のような会話ができたと聞く。エロイーズが人格を乗っ取っているんだろう。彼女は愛し子ではなく、女神そのものだ。かなり弱まっているとはいえ、あの力はおそろしい」
レオネルの口から「おそろしい」なんて言葉を聞くのは、はじめてかもしれない。
ラティエルはぶるりと震えた。
『その女神が元凶なんですか?』
「少なくとも私はそう見ている。エロイーズの力は“陶酔”だ。その…………、キスで人を操ることができる」
『き……キス?』
レオネルは苦い表情を浮かべて目をそらし、ラティエルは恥ずかしくなって下を向いた。子どもでいてもいいと言ったのは、大人の会話を避けたかったためか。
気まずい空気にレオネルが咳払いを落とす。
「とにかく、ベガ一家はエロイーズの駒でしかない――そんな気がするんだ」
『……エロイーズの目的はなんでしょうか?』
「う~ん……、こればっかりはわからないな」
『そ、そうですよね』
「『…………』」
――とっても気まずい。“陶酔”という能力についてもう少し情報がほしいけれど、掘り返す勇気はない。何より、父親から聞きたい言葉でもない。
ラティエルは伝えようと思っていた別件を、脈絡もなく切り出した。
『お、お父様! わたし……やっぱり騎士を目指します!』
「……そうか。それならお父様も応援するよ」
『ありがとうございます』
レオネルは思い出したように笑い、ソファの背もたれに肩肘をつく。
「私はジャイルズ殿下を見なおしたよ。ラティエルの美しさに惚れているだけではなかったようだね」
『――はい?』
ジャイルズの美しさにはラティエルなど太刀打ちできないというのに、親バカにも程がある。それにジャイルズの気持ちは、女神の剣によって創られたものだ。今はもうその気持ちすら、切れてなくなっただろう。
いじけた心の内を見透かしたかのように、レオネルは眉を下げて微笑む。
「好いた相手の痛いところを指摘するなんて、愛がなければできないことだよ」
『あっ、愛⁉』
「人は誰しも“嫌われたくない”という気持ちが働くもの。だけど殿下は嫌われるのを覚悟してラティエルに欠点を伝えた。どれだけ勇気のいることか、わかるかい?」
『それは……わたしのことなんて、なんとも思っていないからで』
「なんとも思わない相手なら放っておくよ。わざわざ嫌われるのも面倒だろう?」
そうだろうか? ジャイルズの瞳はとても冷たかった。
あれは軽蔑の眼差しだ。声も怒りに満ちていた。
ラティエルの耳が垂れ下がっていくのとは逆に、レオネルは心底おもしろそうに笑った。
「あのときの殿下、子鹿のようにプルプル震えてたからなぁ。震えが伝わったテティス夫人は目を白黒させていたよ。いやぁ、何度でも笑える!」
『……はい? あれは怒りに震えていたのでは?』
「あれが怒っているように見えたのかい? ラティエルもまだまだだね」
『そんな……わたしは、嫌われたとばかり』
「ははは! 向こうもそう思ってるだろうよ。今ごろ泣いてるんじゃないかな?」
さすがにそれはないだろうが、ラティエルは嫌われたわけではなかった――そう思ってもいいのだろうか。浮き立つ気持ちが耳や尻尾に染みわたる。モジモジそわそわと動く耳をレオネルがやんわりと押さえた。頭上から一段低くなった声が響く。
「まぁ、甘やかすだけの男に大事な娘は預けられないからね。お父様も本気を出すことに決めたよ」
『――ん? ほんき?』
「師匠としても負けられない」
『お父様⁉』
「縦切りと横切り、どっちがいいと思う? 斜めは美しくないと思うんだ」
『やめてくださいっ! 相手は王子なんですよ⁉』
「うん。王子であるかぎりラティエルとは結婚できないけど、騎士爵にでも落ちればまっぷたつにしてもいいよね」
『よくありません! でも……どうして王子だと結婚できないの?』
「知らなかったのかい? セレーネが『王家に娘は嫁がせない』という誓約書を交わしてるんだ。王家とはいろいろとあったからね」
『せ、誓約書を……』
「まぁ、爵位を得たところで、王子であることに変わりはないんだけど、王家と一線を引くことが最低条件だね」
それでジャイルズは爵位を得ることにこだわっていたのか。すべてはラティエルのために。けれど……その気持ちは果たしてジャイルズのものだったのだろうか。
また堂々めぐりの思考に陥りそうになったとき、頭の中に女神の声が響いた。
『ラティエル、メロンクッキーが焼けた!!』
言われてみれば香ばしい匂いが、一階から漂ってくる。
(そうだった。まずはアストローダの心を癒やさないとね)
学園へ潜入する話などすっかり頭から抜け落ちていた。父の前を辞したラティエルは、厨房へと駆けていった。




