第十三章 02 黒椿姫
夜着姿など、一度見られているというのに。なぜだかとても恥ずかしい。
「ああ、何か着るものを……」
「いえ、お家に帰してくださいっ」
「そんな……、ラティ。少しだけでいいから話がしたい」
「うっ……」
ジャイルズに悲しい顔をされると強く言い返せない。こんな暴挙、許せるはずがないのに許してしまいそうになる。
どうしようかと考えて、ジャイルズがいつもドラゴン姿であらわれることを思い出し、「変幻」と唱えて、ラティエルは真っ黒な動物の姿に変身した。
ジャイルズの瞳がキラキラと輝く。
「これは、なんの動物だ?」
『キメラ……ええと、体はネコで翼はカラス、耳はウサギで尻尾は……わかりません』
「ふっ、どんな姿になってもラティエルはかわいいな」
『はうっ⁉』
さも愛おしそうな顔つきで頭をなでられ、体温が急上昇していく。変幻して本当によかった。今のラティエルは真っ赤に熟れたイチゴ――否、それを潰して煮詰めたジャムのようだろう。頭部に血が集まりすぎてグラグラと煮え立っている。ふらりと倒れそうになった黒い動物をジャイルズが抱き上げた。
『きゅうぅぅぅ⁉』
「どうした⁉ ラティ、大丈夫か?」
どうしたもこうしたもない。ドラゴンでも女神のようなジルでもなく、大人の男性になったジャイルズに抱き上げられて、悲鳴をあげない令嬢などいない。ラティエルの場合は、腹の虫が鳴いたような悲鳴だったが。
「ラティ、熱があるのか?」
ジャイルズの体温をじかに感じ、大きな手に頭をなでられる。顔が近すぎてラティエルは限界に達した。何を思ったか頭を大きく後ろへ振りかぶり、口をあけてジャイルズの肩に思いきり噛みついた。
「痛っ……いたた。ラティ、怒っているのか?」
痛いと言いながらもラティエルの頭を優しくなでる。ラティエルはまだ噛みついたままだ。こんな状況で、どうしてジャイルズは怒らないのだろう。投げ出してくれることを期待していたのに。
噛むのをやめて痕を見れば、四つの穴からうっすらと血が出て来た。気が動転して加減を間違えたようだ。
『ごっ、ごめんなさいっ!』
「かまわない、強引なことをした報いだ。すまなかった」
『……どうしてこんな』
「どうしても会いたかった。先ほど魔女師匠から謁見の申し込みがあってな。刺繍魔法陣を取り上げられそうなんだ。その前に、試してみたかった魔術をやってみたら、成功したというわけだ」
ジャイルズが無邪気に笑うものだから、ラティエルも毒気を抜かれた。辺りを見まわす余裕もできて、ここが王宮とは違うことに気づく。
木のぬくもりを感じられる簡素な部屋で、窓はない。棚には本だけでなくガラス瓶がぎっしり並べられ、工具のようなものが壁にかけられている。王子の居室とは思えない。
『ジル兄――ジャイルズ殿下、ここは?』
「ジルでいい。せめてふたりのときにはそう呼んでくれ」
『……はい』
「ここは昔、私が命を狙われていたときの避難所だ。テオがしゃべったのだろう?」
ラティエルは気まずげに視線を彷徨わせた。
小さく笑ってジャイルズが続ける。
「王宮内の地下にある隠し部屋で、ここを知っているのは王族とかぎられた者たちだけ。転移魔術でしか入れないから誰も来ない」
『ジル兄様はここに住んでいるのですか?』
「いや、もう住んでない。でも研究室として使っている」
『そんな重要な場所にわたしなんかを……』
「ラティエルに、知っておいてほしかった」
こそばゆくなって横を向くと、机の上に一冊の絵本があった。絵本はなぜかふたつに破れている。
『ジル兄様、あの絵本はどうしてまっぷたつに?』
「ああ……、絵本が一冊しかなくてね。昔、テオとどっちが読むかでケンカになったのだ。そのときにな」
ジャイルズはバツが悪そうに頬を掻く。絵本を取り合うかわいらしい双子を想像してラティエルは微笑んだ。この絵本はラティエルも読んだことがある。
思い出すのは、小さいころ母に読んでもらったときのこと。
『むかしむかし、あるところに――』
――黒髪に金の瞳を持つ、美しいお姫様がいました。その容姿から黒椿姫と呼ばれています。
ある日のこと。悪い魔法使いがやって来て、黒椿姫をさらい、塔に閉じ込めました。悪い魔法使いは、女の子を泣かせるのが大好き。あの手この手で黒椿姫を泣かせようとします。
ですが、黒椿姫は泣きません。強い心を持っていたからです。
『つよいこころ?』
『そうよ。何があっても、黒椿姫はあきらめないの。ラティエル、あなたも自分を信じるのよ』
『そうしたら、わたしも、つよいおひめさまになれる?』
母はとびきりの笑顔を見せた。
『ええ、きっとなれるわ。わたくしのかわいい黒椿姫』
ラティエルもこの絵本が大好きだった。主人公の黒椿姫が自分の容姿に似ているのもポイントだ。
『ケイシー・ケイデンスの絵本、わたしも好きです。ジル兄様はどうでしたか?』
「……まぁ、ありきたりだが、……いいんじゃないか?」
素っ気ないことを言うわりに、ほんのり頬が赤くなっている。
かわいらしい反応に見入っていると、ジャイルズは何かを思いついたように眉尻を下げた。
「ラティ……お願いがあるんだ」
――嫌な予感がする。この表情をされるとラティエルが断れないことに気づいている節がある。このお願いは聞いてはならない。そう思うのに、瞳を潤ませて見つめるなんて狡猾にもほどがある。
『うぅっ、聞くだけ聞きます!』
「ありがとう!」
聞くだけと言ったのにお礼を言われ、ラティエルは観念した。ジャイルズのお願いを断ることなんて、所詮むりなのだ。うなだれたラティエルを抱いてジャイルズが向かったのは、万屋ギルドで見たのと同じ転移魔法陣の部屋。手をかざして魔力を登録するパネルまで備えつけられている。
『……ジル兄様、まさか』
「ラティエルも登録しておいてほしい」
『いけません!! ここは王宮内なんでしょう⁉ こんなことが知れたら首を刎ねられます!』
「そんなことはさせない! お願いだ、ラティエル」
『登録したとしても、絶対に来ませんから無意味ですっ!』
「かまわない。緊急避難所として使ってくれたらいいから」
ジャイルズは一歩も引かず、ラティエルは途方に暮れた。頭を抱えてうんうん唸っていると、ジャイルズが優しい声音で甘くささやいた。
「ここには誰も来ない。ふたりだけの秘密だ」
「――ふたりだけの? へぇ?」
突如、割り込んだ女性の声に、ラティエルもジャイルズも飛び上がった。声がした方を見れば、瞳をギラつかせた母セレーネと、額を押さえた王妃アイリスが、転移魔法陣の上に立っていた。
「まっ、魔女師匠……、どうしてここが⁉」
「ラティエルのペンダントに、ギルドのチップがついているでしょう? それで居場所は筒抜けなのよ」
そういえば、ギルドの登録証は『猫の首玉』だとルカが言っていた。思い出して意識が遠のいていく。泡を吹く寸前のラティエルを渡さないとばかりに、ジャイルズが抱きしめる。
「くっ、こうでもしないと会わせてくれないだろう⁉」
「婚約者でもない男性でしかも王子と! 会わせられるわけがないでしょう? 手順を踏めとあれほど言ったのに」
「そうは言うが、接触もなしにどうやって口説き落とせばいいのだ⁉ 惚れさせるのが条件だろう⁉」
先ほどからジャイルズの締めつけが強い。ギュウギュウに抱きしめられてラティエルはもう昇天しそうだ。石けんの香りとは違う、甘く官能的な匂いがする。
ジャイルズの腕の中で息を引き取ろうとしている娘を、セレーネがひょいと奪い返した。
「あっ⁉ ラティっ!!」
「娘は返していただくわ。――ラティエル、戻って来なさい!」
『……おかあさま? わたし……おほしさまになるの』
「まだ早いわ! しっかりしてちょうだい!!」
セレーネに揺さぶられて、ラティエルはなんとか生還する。今まで沈黙していたアイリスが、いいことでも思いついたように手を打った。
「では、こうしましょう! ふたりで会うのはこの場所で、どちらかまたはふたりとも変幻した姿で会うこと。人間同士の姿では会えないような結界を……お願いできるかしら? セレーネ様」
セレーネとレオネルが心配しているのは、勝手な噂が立って娘が傷つくことだ。噂は簡単に人を傷つける。この場所では噂も立ちようがない。変幻した姿なら間違いも起こらないだろう。
「ハァァァ……、それで手を打ちましょう。わたくしも鬼ではありませんから」
「魔女師匠! ありがとう!!」
「その前に、ラティエルの刺繍魔法陣を出しなさい」
「チッ、忘れてなかったか……」
隠し部屋にはラティエルとセレーネの魔力が追加登録され、ひとりでも人間の姿をした者がいる場合、他者は強制的に変幻する結界が施された。もし魔道具を身に着けていなければ弾かれるという徹底ぶりだ。
「さぁ、ラティエル。帰りますよ」
『はいっ、お母様』
これからは母公認でジャイルズに会える。それがどうしてこんなに胸を躍らせるのかわからないまま、ラティエルは帰りの馬車へと乗り込んだ。
見送りに来たジャイルズが「最後にひとつ」とドアをつかむ。
「ラティ、好きな動物はなんだ?」
『動物……う~ん、あっ、羊が好きです』
「ふむ。どんなところが?」
『あのフワフワな毛に包まれて眠ってみたいです』
「なるほど」
頷いたジャイルズがドアを閉め、にこやかに手を振る。馬車が動き出しても、ジャイルズのおかげで頭の中は羊でいっぱいだ。
これが説教地獄行きの馬車とも知らずに、暢気に変幻を解く。すかさずセレーネが両手で頬を包んだ。
「さぁラティエル。お母様の目を見てちょうだい」
「ひっ⁉」
現実に引き戻されたラティエルは恐怖のあまり思考を飛ばし、また剣を取り戻せなかったことに気づく。どうしようもないタイミングで、どうしようもないことを思い出す。それがラティエルだ。
「あああああああ――!!」
「っ――⁉」
ラティエルは頭を抱えて叫び、セレーネはおどろきに怒りを忘れた。
「まただわ!! なんでこうなの⁉」
「……ら、ラティ?」
王都の屋敷へ着くまでずっと、身もだえるラティエルをセレーネはおろおろと介抱するしかなかった。




