第七章 06 心に咲いた花
マルティナが熱を出して寝込み、三日が過ぎた。あのゴブリンのような魔人を見たせいか、いまだにひどくうなされている。マルティナのベッド脇では、レジーナが心配そうに手を握る。
「レジーナ先生、ごめんなさい」
「お嬢様のせいではありません。これは不幸な事故ですわ」
まだ本調子ではなかったのに、マルティナを連れ出したことを後悔した。よもや、昔のトラウマをふたり一緒に体験するはめになるとは。体が動かなかったことも、ラティエルをへこませた。
(もっと、強くならなきゃ……。剣の腕だけじゃない、精神的に)
ジルが来てくれなかったら、ラティエルはこうして立っていられたかもわからない。あのとき動けていたら。それ以前にリオンの言葉をもっと真摯に受け止めていたら。
とめどなく湧き出てくる後悔を胸に、ラティエルはそっと自室へ戻った。
こんな顔をレジーナや母に見せれば心配させてしまうだろう。
「ハァ……」
夜は窓ガラスを鏡に変えてしまうから困る。せっかく鏡を見ないようにしていたのに。
深いため息をついた情けない顔に、金色の小さなかぎ爪がニュッと伸びた。窓ガラスに映ったラティエルの鼻を引っ掻くかのように、コツンコツンと音がする。
近づいてよく見れば、シャンパンゴールドのドラゴンが――
「――って、ジル兄様⁉」
窓をあけると、大きさにして成猫くらいのドラゴンが飛び込んできた。以前見たときより、ひとまわり大きい。
『しーっ!! 声を落とせ。魔女師匠に見つかったら串焼きにされてしまう』
ドラゴンの串焼きか。実に興味深い。
『今、とんでもないことを考えただろう。悪い顔してたぞ』
「まさか! おいしそうだなって思っただけです」
『その思考を普通だと思うなよ? 食いしん坊め』
「――コホンッ。それで、どうしたんですか? こんな遅くに」
日付が変わるまでまだ時間はあるが、育ち盛りのラティエルは寝る準備万端だ。夜着のまま、寝室の窓辺に置かれた長椅子に腰かけ、ドラゴンを膝にのせる。ドラゴンは一瞬下りようとして、けれど大人しく膝の上に収まった。
『その……、元気がないと聞いて』
「えっ? 誰からですか?」
『レジーナだ』
「ああ……」
やはりレジーナには心配をかけていた。いい加減にラティエルも、貴族の鉄製微笑み仮面を作ったほうがいいだろう。こうも顔に出てしまっては、騎士としても差し障る。
『ラティ、無理をしていないか?』
「わたしは平気です。レジーナ先生のほうがつらいはず。それにティナも……」
ドラゴンの額にシワが寄っている。労るような瞳をラティエルに向けた。
『魔獣狩りは問題ないと聞いたんだが、こないだはどうして動けなかった?』
「こないだのあれは、魔獣とは違いますよね? まだ、意識のある人間でした」
『……そういうことか』
それだけではない。過去の映像がフラッシュバックしたのが、動けなかった一番の原因だ。でもそんな弱音を吐くほど、ラティエルは子どもじゃない。
――そう。もう子どもじゃないから、ちょっとだけ意識してしまう。ドラゴンから発せられる、落ち着いた男性の声を。それにつられて騎士服を着た美丈夫を思い出し、またも顔に血が集まりはじめた。
大人になったジルは、ジルの記憶を持っただけの知らない生き物になっていた。
(ジル兄様がドラゴンの姿でよかった)
ついさっきまで、胃痛持ちのサラリーマンみたいな顔をしていたくせに、ジルの前では見たことのない自分が顔をのぞかせる。ふわふわして居たたまれない。自分が今、どんな顔をしているのか、知るのがこわい。
『ラティ……』
名前を呼ばれただけなのに、心の中にじんわりと暖かい光が灯る。それは淡いピンク色の花に姿を変えた。
『ラティ、無理をするな。行ってこい』
「……へ? ど、どこへ?」
『どこって。ほら……女の子は、あれだ。お花を摘みに行くと言うのだろう?』
――お花を摘んで参ります。それは淑女のための隠語だ。ラティエルは今、もよおしたのを我慢しているように見えるのか。途端にいろんなものが引っ込んだ。
「大丈夫です。摘む前に花は散りました」
『そうなのか?』
さよなら、名もなきピンク色の花。いつかまた会えるといいね。頭の芯がスッと冷えたラティエルは、話題を変えることにした。
「それよりジル兄様、騎士団に入ったのですか?」
『ああ。今はまだ従騎士だが、実績を積んで爵位を得るつもりだ』
ポラリス魔宝伯は一代限りの爵位。ジルが継ぐことはできない。貴族でも次男以下は騎士や魔術師、または文官として身を立てるのが一般的だ。
「ジル兄様は魔法のほうが得意でしょう? 魔術師とか――」
『なんだと⁉ 剣の腕も上がっている。もうラティには負けないぞ』
「ふふ。わたしも、騎士を目指します」
『……今までは応援するつもりでいたが、少し心配だな。これからもあのような魔人があらわれないとも限らない』
そんなことを兄弟子に言われるようではだめだ。もっと強くならなければ。
ラティエルは夜着の裾をギュッと握った。
「あの魔人は、どうなったのですか? 元に戻れそうですか?」
『あれは……もう人間ではなかった。理性はとうに失い、無差別に人を襲ったんだ』
「でも、母は魔人となったティナを救いました! 何か方法があるのでは⁉」
ジルは押し黙り、部屋に重苦しい空気が漂う。だがそれも、ジルが『解除』と唱えたことで一変した。ドラゴンの姿が解除される。それはつまり――目の前に異性のジルがあらわれるということだ。
ラティエルと向かい合った状態で、すぐ横に膝を突く。長椅子とジルに挟まれたラティエルには、まったく逃げ場がない。
「なっ、なんで解除を――」
「ラティ、ラティエル……」
“大人の色気”というのは女性の専売特許だと思っていた。ジルからあふれ出る艶めかしい気にあてられて意識が遠のく。そんなことおかまいなしに、ジルはラティエルの頬を優しい手つきで包んだ。大きくてゴツゴツしたその手は、ラティエルの剣ダコに比べるべくもない。
「大人になるまで、あとたったの二年だ。まだ、こちら側には来るな」
我が国での成人は十六歳。ラティエルの体は十四歳だけど、心の中には十六歳の星乃もいる。
「わたしはもう子どもではありません! いろんなことが、ちゃんとわかります!」
「ほう……、いいのか? 子どもだからと容赦していたが、そうでないなら扱い方を変えるが」
ジルがニッと口の端を持ち上げ、ラティエルの本能が危険を察知した。敵の前では本能を信じろと父から叩き込まれている。今のジルはグランリザード並に危険だ。
「あ、あと二年、子どもでいたいと思います!」
「フッ……、いい子だ」
大きな手がラティエルの頭を優しくなでる。ジルはドラゴンの姿に戻り、窓から飛び去って行った。
「あっ……、また剣のこと、聞くの忘れた」
ドサリとベッドに倒れ込む。それでも胸の鼓動は収まらない。
先ほど散ったはずの花が復活している。心に咲いた薄紅色の花びらを、何度も数えながら眠りにつく。
花びらを数えているつもりが、途中で串焼きの本数になっていることなど気づきもせずに。




