第七章 05 女神が知らない男になっていた
頭は冴えているのに、ラティエルの体は動いてくれない。
「しょうがないっ、俺が行く!!」
リオンの声が遠くに聞こえる。
鞘から剣を引き抜く音に反応し、ゴブリンが右腕を振り上げた。歪な手の先には獣のような鋭い爪があり、ラティエルを射程に捉えた。焦ったリオンが声を張り上げる。
「おい!! お前の相手はこっちだ!」
ゴブリンはラティエルしか見えていないようだ。殺意がまっすぐラティエルに向かう。ああ、ここまでか、とぼんやり思った。
空気すら引き裂くような力強い腕が振り下ろされる、刹那――大きな黒い壁がラティエルの前に落ちてきた。
(――壁? ……違う、人の背中?)
ケルシュの森でラティエルの前に立ったのは母だった。今はもっと大きな背中が、容赦なく剣を振り下ろす。ゴッという鈍い音がして、斬ったのではなく剣の腹で殴ったのだとわかった。
それだけで、ラティエルの詰めていた息がほどける。体は金縛りのように動けないのに、頭は冷静にまわりの音を拾っていた。
(よかった。殺したんじゃない)
壁に見えた男が着ている服は、リオンと同じ黒い騎士服。輝く金髪の束が背中に落ちる。それを呆然と見ていたラティエルは、くるりとこちらを向いた男の顔を見上げる前に、ふたたび黒い壁に視界を覆われた。
「ラティ、無事でよかった」
(――だれ?)
知らない男の声。なのに知り合いのような口ぶりで抱きしめられ、混乱したラティエルは一拍遅れて叫んだ。
「なぁっ⁉ はっ、離して!!」
みぞおちに一発入れてやろうと思ったのに、軽々と避けられた。やっと拝んだ顔は不服そうに眉根を寄せているが、とんでもない麗人だった。その美しさに思わずジルの顔が頭をよぎったが、彼はもっと線が細くて女神のような人だ。記憶とは合わない。
この不埒な男をどう締め上げてやろうか。男をキッと睨みつける。
「どちら様ですか⁉ どうしてわたしの名前を……しかも愛称で呼ぶなんて」
「――は? 私だ……、ジルだ!!」
何を言ってるんだこいつは。ジルの一人称は『おれ』だ。『私』なんて言わない。ラティエルの敬愛するジルを騙るとは、いい度胸ではないか。
「ジル兄様は! 女神のように美しくて、わたしのお姉様的存在です! それをっ」
男の目が大きくひらいた――直後、空から雹が降り注ぐ。
「いたっ! あいたっ、なんで⁉」
これはまるでジルの魔法と同じではないか。しかも以前食らったものよりも粒がでかい。
大の男たちからも悲鳴があがる。リオンがたまらず叫んだ。
「うげっ⁉ ジル、やめろ! 痛ってぇ~!!」
「ジル、抑えてください!!」
後ろからやって来た男に肩をつかまれ、やっと雹が止んだ。肩をつかんだ男は紅茶色の赤毛に青灰の瞳。ずいぶん男前になっているけれど、しっかりと面影がある。
「……クリフ兄様⁉」
「お久しぶりです、ラティエル嬢」
「なぜだ⁉ クリフのことは覚えているのに――」
「まぁまぁ、それだけジルが見違えたってことじゃないですか?」
クリフがこの男をジルと呼ぶのだから、そうなのだろう。先ほどリオンもジルと呼んでいた。何より地雷を踏んだら雹が降ってきたのだ。間違いない。
「本当に、ジル兄様なんですね」
「ああ。そんなに変わっただろうか?」
「変わったも何も、性転換――もがっ」
「ラティエル嬢、これ以上の雹は……、民家に被害が出ます」
「クリフ、ラティから離れろ」
「はいはい」
身長もすっかり伸びて顔が遠い。線の細さはどこへやら。変わらないのは無頓着な前髪のおかげで、瞳がよく見えないことだけだ。
「ジル兄様、屈んでもらえますか?」
「ん? こうか……?」
よく見える高さに降りてきた顔を見てやっと、海のような青に金の光が走る瞳を見つけた。
「うん、ジル兄様ですね」
納得して頷いたはいいが、麗人の顔を独り占めしていることに気づき、後ろに飛び退く。
「あああ、ありがとうございますっ」
「いや……」
ラティエルの顔に血が集まる。そっと見上げれば、ジルは何かをこらえるように片手で口もとを覆っていた。その瞳は溶けそうなほど熱っぽく、眉尻が少し下がっている。
男性を前にして恥ずかしい気持ちになる、というはじめての体験をしたラティエルは、落ち着くためにも深呼吸をする。吸って吸って、けれど、いつ吐いたらいいのかわからない。
もういっぱいいっぱいだと思ったとき、リオンから助け船がやって来た。
「お~い、帰るぞぉ」
我に返ったジルが早口に聞く。
「ラティ、どこへ行くつもりだったんだ?」
「ぷはっ、……あ、鍛冶屋に」
「鍛冶屋?」
「はい、ダガーが欲しくて」
「…………。そうか、贈り物がすべて返って来た理由がわかった」
「おくりもの?」
あの物騒なリボン以降、ジルからはプレゼントをもらっていない。『返って来た』とはどういうことだろう。
「次は外さないようにする」
「んん? ジル兄様、なんの話――」
「――すまない。まだ仕事中で送ってやれないんだ。迎えを呼ぼう」
「いえ! 土馬で帰るので大丈夫です」
「土馬?」
気絶しているマルティナの体を支えつつ、足もとの地面から魔法で土を盛り上げる。いちいち跨がる必要もなく、騎乗した状態で土馬ができあがった。やはり魔法の馬は目立つようで、騎士も警ら隊も二度見して立ち止まる。
「ほう! すごいな、本物の馬とはまた違う美しさだ」
「ティナもこの状態ですし、今日は帰ろうと思います」
「それがいいだろう」
回収された魔人のことは気になったが、マルティナを早く連れて帰りたい。ジルたちと別れ、ラティエルは帰路についた。




