第五章 06 呪印の鎖
剣で切られたというのに兄からは一滴の血も出なかった。膝をつき、肩で息をする兄と、その後ろにトカゲのような尻尾が見える。淡い金色の尻尾だ。しかしジルが見当たらない。
「お兄様、大丈夫ですか⁉」
「……ああ」
「あの、ジル兄様はどちらに?」
「……そこの、トカゲだ」
トカゲは兄の後ろにサッと隠れ、ラティエルに姿を見せてくれない。まだ本調子ではないラティエルは、近寄ろうとしてフラついた。
(わっ、転んじゃうっ!)
ギュッと目をつぶったが、体が倒れる感覚がない。おそるおそる目をあけてみると、コウモリのような羽をパタつかせた何かに支えられていた。
「え……、ドラゴン⁉」
残念ながら、こちらの世界にもドラゴンは実在しない。だが伝説ならある。ドラゴンと聞いて、空飛ぶトカゲは満足そうに頷いた。
シャンパンゴールドの肢体に金色のたてがみ。大きな瞳には青地に金の筋が走る。よく見ればドラゴンの首に、飾り気のないプレートがついた銀のチョーカーが下がっていた。
「これ……もしかして、魔道具ですか?」
ラティエルの問いかけに、ドラゴンはうんうんと頷いた。魔力切れを起こすと姿を変える魔道具は、あらかじめ魔力を溜めておかないと人間の姿には戻れない。戻る気配のないジルは、魔力の補充を怠っていたのだろう。
それにしてもかわいい。トカゲ型魔獣とは違う愛らしい姿にラティエルは興奮した。
「ジル兄様、抱っこさせて――」
腕を広げたラティエルは、目の端に燃えさかる炎を捉えた。それはドロリスの手から放たれ、ラティエルたちに向かってくる。
(しまった! 大人しいと思ったら!)
通常、魔法を使うには長々と呪文を詠唱する。
その時間をドロリスに与えてしまった。
(――女神アストローダ!)
ラティエルの願いが届くより先に、炎が到達する。恐怖に思考が飛び、ドラゴンを抱きしめて目を固く閉じた。
ボンッと何かが爆ぜる音がする。ところが痛みはやってこない。代わりに、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
「いやだわ、いつの間にドブネズミが入り込んでいたのかしら?」
見上げた背中に艶やかな黒髪がなびく。黒い生地に金の刺繍が施されたローブは、母セレーネの戦闘服だ。
皆があっけに取られて言葉を失うなか、いち早く我に返ったのはドロリスだ。
「なぜ月の聖女が⁉ お前は死んだはず――」
「あれしきのことで死ぬわたくしではないわ! おーっほほほっ!!」
この高笑いはまさしく悪役令嬢だと、ラティエルは打ち震えた。今まで何度も聞いていたはずが、元悪役令嬢のものだと言われただけで、違って聞こえるから不思議だ。
高笑いをピタリと止めてセレーネは嫣然と微笑む。
「それで、あなたはたしか……ドロネズミさんでしたっけ? ああ、待って! もう少し違う動物だった気がするわ」
「なっ⁉ 失礼な――」
「――お母様、ドロリスです。ド・ロ・リ・ス」
お節介だと言わんばかりに、セレーネはラティエルのおでこをツンと押した。
「もう少し、からかいたかったのに……」
「ダメですよ。名前は、名づけ親からもらった大切なものです」
「それもそうね。……でも、彼女の所業は泥棒リスに違いないわ」
ドロリスをギロリと睨みつけ、セレーネは手にした扇子を下段に構えた。
「かじった木の実の代償は、大きいわよ!!」
扇子が振り上げられると同時に、無数の黒いロープが物陰からあらわれ、ドロリスとミニスを襲った。
「ひっ、キャアアア――!!」
「やだああぁ――!! 何これ、気持ち悪い! おかあさま、たすけて~!!」
黒いロープに見えたものは黒ヘビだった。闇魔法で作り上げたものだが、リアルすぎて、見ているこちらが腕をさすりたくなる。
いったい何匹いるのだろうか。大蛇とまではいかないが、長~い肢体を持った黒ヘビたちは、ヌルヌルとふたりの体を這い上がり、拘束するかのようにまとわりつく。
苦しそうに身をよじらせながらも、ドロリスはアデルに向かって叫んだ。
「アデル! 今すぐ、わたくしたちを助けなさい!!」
「……嫌だね」
「なんですって⁉ そんな態度を取っていいのかしら?」
「お好きにどうぞ?」
ぐっと眉根を寄せ、ドロリスが呪文を詠唱する。
「我は、逢魔が刻に焦がれる者なり。嘆きの鎖よ、我が魔魂を糧に、冥界の呪印を示せ!!」
アデルは涼しい顔で立っている。「呪印を示せ」と何度も叫んだドロリスだったが、何も起こらない。それどころかセレーネの殺気に気づいて押し黙った。ミニスはすでに気絶している。
セレーネの瞳孔がひらかれ、瞳は闇色に染まる。笑みをなくしたその顔は、父を『浮気者』と言ったときの比ではなかった。ラティエルですら膝の震えが止まらない。
「そう……、わたくしの息子に呪印をつけたのね。よくも――」
ふくれあがる魔力にセレーネの体が浮き上がる。艶やかな黒髪が扇のように宙を舞う。これはマズいと誰しもが息を飲んだ――そのとき、慌てふためく男性の声が割って入った。
「待て待て、待て!! セレーネ、落ち着いて。子どもたちにまで害が及ぶよ!」
声のほうへ振り向くと、父レオネルが領兵団を従え、まわりを取り囲んでいた。修練場でよく見る顔ぶれたちは、そろって顔を引きつらせている。セレーネを怒らせたらどうなるのか、身をもって知っているようだ。
「レオネル⁉ 生きていたの⁉ どうやって……」
うろたえるドロリスには目もくれず、レオネルは地に足をつけたセレーネの手を取った。愛おしそうに手の甲へ口づけを落とし、後ろへ振り返る。
「ドロリス、こんなことになって残念だよ」
「っ……。そうね、残念だわ。せっかくあなたと夫婦になれたのに」
「君とは婚姻を結んでいない。最初に説明しただろう?」
「はっ、おめでたい頭をしているわね。婚姻なんて、紙切れ一枚提出すればすむ話なの。婚姻届けはわたくしが出しておいたわ」
ドロリスはしたり顔で言い放つ。しかし、レオネルは困ったように眉尻を下げた。
「ということは……、第二夫人の欄にでも記載されたかな? まぁ文書偽造だし、それなら簡単に取り消せるから問題ないよ。手間だけどね」
「何を言っているの⁉ わたくしが正妻に決まっているじゃない! その女は死んだことになっているのだから!」
やれやれとレオネルが首を振る。
「セレーネの死亡届けは出してない。『行方不明だ』と、これも最初に説明したはずなんだけどな」
「なっ……、そんなっ⁉ くっ、悪役令嬢なんて! ろくな死に方をしないと決まっているのよ!」
黒ヘビに抗いながらもドロリスは悪態をつく。セレーネは思案顔で近づいた。
「あなた……、ドゥーベ伯爵家の出かしら? マリス様に似ているわね」
「そうよ! 姉はお前のせいで修道院へ送られたの!」
「……それについては言い訳しないわ。でもね、仕返しにしてはあまりに手が込んでいる。あなたの後ろには誰がいるのかしら?」
セレーネが黒ヘビたちをけしかける。キリキリと締め上げながら、黒ヘビはチロリとドロリスの顔を舐めた。――途端に黒ヘビが、ペッと吐くような素振りを見せる。おいしくなかったようだ。にもかかわらず、別の黒ヘビが果敢にも口を大きくあけた。ラティエルは思わず目をつむる。




