表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

今夜、生まれる。

作者: 黒森牧夫

 暖かさと冷たさが微妙に入り混じった微風に乗って、狼の遠吠えが微かに聞こえて来た。恐らくは山並みの向こう側からだろうが、始め一頭一頭が切れぎれに吠えていたのが、やがて不規則で賑やかな合唱と成り、夜の静寂(しじま)に不愉快な音の城壁を張り巡らせて行った。私はその声に意識を集中させようとして、凝っと耳を澄ましたが、呼吸を落ち着けて全身で大気の震えを触知しようとすると、自分の脈動が妙にはっきりと感じ取れて、夜の全体がひとつの生命へと収斂して行く様な錯覚を覚えた。バラバラだった音の連なりはやがて、真っ直ぐに天を目指して駆け昇って行く予測の付かないリズムへと変容し、私の息衝きと、そして夜そのものと一体化しようとし始めたが、時々不意に襲って来てはまた急に退いて行き、私の意識の片隅に蹲って蜷局を巻く、激しく突き刺す様な、それでいて何処か鈍い痛みは、その成就し掛けた調和を掻き乱し、引っ掻き回して混乱させ、鷹の爪の如き鋭さで以てズタズタに引き裂いた。自分より外のこと、私の内部へと向かおうとする傾向から外れたものに注意を集中させておけば、この苦痛から気を逸らせておくことが出来るのではないかと云う目論見は大して功を奏せず、私は呻きを上げる惨めな肉塊として、独り夜の中に取り残されていた。痛みが襲って来る直前は、こうも絶えず責め苛まれる我が身の悲惨さがぐぐっと胸中から盛り上がって来て、痛み苦しんでいる最中はそのこと以外何も考えられず、唯誰に向かってともなく虚空を相手に苦痛を訴えることしか出来ないのだったが、やがて不規則な間隔で痛みが退いて行くと、惨めさと共に鮮烈な罪の意識が何度も繰り返し現れて来た。私は余りの痛みに身を折り、捩り、ひん曲げ、それまで自分がこれ程までに脆く弱く軽々しい肉体であると云うことを余り知らなかったかの様に、我が身の内より発する、この世界の広大さに比すればちっぽけな、しかしその瞬間の私にとっては正に全宇宙に等しい苦痛に驚愕し、打ちのめされ、煩悶したのだが、あらゆるものが一点に集中し他の如何なる極も焦点もその地位を失ってその激痛に収束する瞬間が訪れる度に、これは私が今まで葬って来たものどもの重さ、私がこれから葬ることになるであろうものどもの重さ、そしてまた、この苦痛の源たる胎児を通して間接的に、私が何れ葬ることになるであろうものどもの重さが、極めて雄弁な形でその表現を得たものに他ならないのではないかと云う想いが、執拗に私を責め立てて来た。強烈な痛みの他は全てが悪夢の重苦しさで以って私を取り囲み、出口を塞ぎ、私を拷問部屋に閉じ込めようとしていた。私は間歇的に呻き。その苦しみを吐露し、訴えるのだが、見捨てた無数のものどもに追い立てられる儘に口を衝いて押し出されてくる言葉は、精々が「痛い、痛い」位のもので、それ以外の言葉を全く忘れてしまったかの様に、後は唯傷付いた獣の様な唸り声をまた繰り返すばかりだった。回復を仄めかす希望や楽観の言葉は勿論、呪詛や絶望、自己憐憫の告白までもがすっかり私を見捨て、何処だか遠い所へ去って行ってしまったらしく、私はその狭隘で排他的で閉鎖的だがその強度に関してはずば抜けている感覚に圧倒され、押し潰され、完全に降伏のポーズを取って、唯々情け無く同じ環状の自縄自縛の囲いの中をぐるぐると回り続けるのだった。

 フッと小休止が来て、少しは楽に息が吐ける様になった。すると、私は何故か真っ先にこの世に存在する無数の母親達のことを考えた。人間の母親、動物の母親、狼の母親、胎生の母親に卵生の母親、痛んだ母親や痛んだ子を孕んだ母親、苦痛に悶える母親や殆ど困難を覚えずに子供を産み落としてしまう母親………これ程の経験が、生命全体にとってはまるでそこらに転がっている石ころと同じ様に有り触れた、珍しくもない極く平凡な事象に過ぎないと云う事実が、酷く不可解に思えて、私を当惑させた。身体が中からバラバラにされそうになる程の苦痛は、それ自体で魂をも破壊し兼ねない力を秘めているのではなかろうかと云う想いが、それを正当な疑問に変え、やがて私をして、果たして新たな生命をこの世に送り出した後の母親と云うものは、一体、それ以前の雌と果たして同じ個体と言えるものなのだろうかと疑わしめるに至った。新しい生命を宿し、育むことによって、生き物はそれまでとは何か全く別の存在に、別種の畸形に変化するのではあるまいか? それとも実際には大した苦痛などは起こらず、他の母親達はそうした危機と変容から免れているのだろうか? それとも未知の力がその時になると動き出して、何か不可解な作用を及ぼすのだろうか? それとも事実母親達は別種の存在に成っているのだが、その断絶に気付かせず、変化を極く自然なものとして受け止めさせる何等かの機構が働いて、彼女達を上手いこと適応させるのだろうか? 私は未知の諸力の存在を感じ取って戦き、少なからぬ忌まわしさと共に畏怖の念を覚えた。謎、謎、謎………不可解な力、不条理な力―――それに踊らされての今の耐え難い苦痛なのかと思うと、堪らない気持ちに成ったが、混乱し千々に乱れた頭ではそうしたことどもをじっくり考えてみることも叶わず、私は凝っと蹲った儘、何時の間にか始まっていた静かな嗚咽を何うすることも出来ずにいた。

 また少しずつ苦痛の波がうねり始め、刃の毀れた切れ味の悪い鋸で身体を真っ二つにされる様な苦しみが、段々と小出しに高まって行くのを、私は呆然たる想いで意識していた。あらゆる知覚が次々と内破し、歪曲し、没落して行くのが、まるで大地震で大都会の立派な建物が次々と崩れ落ちて行くのを目の当たりにする様に、はっきりと分かった。頭が少しぼんやりする瞬間、苦痛と次の苦痛との合い間合い間を狙って、私は外の事柄に意識を向けようと努力したが、先刻よりそれが難しくなって来ていると云う感じはどんどん強くなって行った。それでも何とか外界の危険を察知しようと云う本能が働いて識域下で何等かの変化を認めたのだろうか、私は不図もう一度情況を整理してみようと云う気に駆られた。私が逃げ出してからどの位の時間が経ったのだろう―――辺りはもうすっかり暗くなり、月も黒雲に遮られて時折しか顔を見せず、しかも苦痛と疲労とでヘトヘトになった私の目は半ば霞んでしまってよく見えず、耳もまるで綿を詰められた様な具合だったので、周りの事物に手掛かりを求めるのは難しかった。先程少し気が遠くなった時、私は眠ってしまったのだろうか、それともあれは一瞬の内の混乱に過ぎなかったのだろうか―――それすらも判らなかった。朝食を掻き込む間位の気もしたし、午睡を取る間位の気もしたし、もっと長く、既に真夜中を過ぎてしまっている様な気もしたが、確かめる術は無かった。

 私がそんなことに気に懸け始めたのは、山裾の森の辺りに、ちらちらと松明の明かりが幾つも動いているのが目に入ったからだ。恐らく村の連中が私が逃げ出したことに気が付いて後を追って来たのだろう。情況は愈々切羽詰まったものに成って来た様だった。連中は恐らく犬も連れて来ているだろう。雨は昨日降ったばかりだが、私の匂いを消してくれる程湿り気が残っている訳ではない、私の居場所を突き止められるのも時間の問題だろう。いやしかし松明の群れはまだずっと向こうで、単に移動するだけでも半刻は余裕を見ていられるだろう。だが、たった半刻が稼げたとしても、今の私にはほんの一瞬とそう変わりが無いのではないだろうか、この身重の私には? しかしだからと云ってこの追い詰められた現状を打開する何か有効な手が果たして有るだろうか? この孤立無援の見捨てられた無力な私に可能な、具体的な方策が?………考えは一向に纏まらなかった。そうだ、確かに私には大して、いや殆ど時間は残されていない。だからと云って何うすれば良いのかが分かっている訳でもない。更に逃げるか? いや、こんな重い体を引き摺って、しかも慣れない森の中たった一人で明かりも持たずに進むのは無謀過ぎるし、それで何とか逃げ切れるとはとても思えない。それに下手に動けばそれだけ見付かる危険性も大きくなることだって有り得る。何処へ逃げるべきか当てが有る訳でもないし、そもそも自分が今何処に居るのかさえ碌に分かってはいないのだ。ではこの儘この場所に凝っとして隠れ続けるか。だがそれで一体何うなる? 仮に一晩何とか見付からずに遣り過ごせたとして、その後は何うする? 朝まで待てばこの苦悶も終わっていると云うのだろうか? 陽が昇ってしまえば逃げるにも少しは楽になるかも知れないが、追跡もまた容易になるだけではないのか? だが子供が生み落とされさえしてしまえば………いや、いや、いや! では、その後は何うするのだ? どんな状態かも分からぬ子供を抱えて、弱り切った体で追っ手達から逃げると云うのか? 一体そんなことが可能なものだろうか? 子供と一緒にへばっているところを見付かるだけではないのか? それに先刻聞こえた狼の声! あの声はまだ随分と遠い様ではあったが、下手をすると村人達やその犬達ではなくああした狼の群れや、或いは何か他の夜の森の脅威に見付かって餌食になってしまう可能性だって考えられる。私はともかく、いや、私もそうだが、子供が………子供が食われる! 生まれたばかりの子供、生れ落ちたばかりでまだ全く無力な子供、ひょっとしたら産声を上げて自分達の居場所を自分から周囲に告げ知らせ、一転して危険極まり無い存在と化すかも知れない子供! 嗚呼、だがひょっとしたら腹の中に入った儘で………! 暗澹たる想像が、悍ましい予想図が、どちらを向いても行き詰まりな恐るべき現実を突き付けて来た。こんな残酷な、こんな理不尽なことが許されていて良いものだろうか! そんな余りにも無体な………だがそうなのだ。この世で私に味方してくれる要素は皆無に等しいのだ! 湿り気を孕んだじっとりと重い息苦しい大気さえ、私に敵対している様ではないか? この見通しの良くない、近くのものさえ碌に見えない恐ろしい下卑た闇が、私の姿を周囲から隠してくれるのがせめてもの幸いで、それとても後精々数時間の期限付きなのだ! 何うする? 何うする? 何うしたら良いのだ? 私は決断しなくてはならない。決断して行動しなくてはならない。思い切って逃げるか、それともこの儘隠れ続けるか? いや、反撃するなどと、復讐するなどと云う大それたことを考えてはいけない。今の私にはそんなことをする力はとても無いのだ。そんなことより先ずは何より自分の身を守ることを考えなくては………! 子供は………何うする? いや、子供が生長した未来のことなど考えてはいけない! 数年先、数十年先に何うなるかよりも、今は先ずこの先数時間を何う生き延びるかを考えなくては………! そうだ、生き延びる、生き延びることを………!

 痛みが更に激しさを増し、息遣いが荒くなって思考が分壊した。私は忌まわしい気に気が付いて腹へ手を遣った。邪悪な、呪われた恐るべき生命が、私の生命を吸い取ってどくどくと脈動しているのが感じ取れた。この激痛は闘争の証明でもあった、私と、胎児との、秩序と、無秩序との、硬直した旧世界と、革新的な新世界との、生命の営みに付きものの部分的な死と、部分的な誕生との、恐怖と、驚異との、破滅的な陶酔と、全能な法悦との。痛みと共に戦慄が増した。もう殆ど千切れ掛けの繊維一本でこの現実と繋がっているばかりの私の意識は途方に暮れ、溢れ返る地獄を持て余し、痛烈に悲鳴を上げたがったが、それでも尚決断を下さねばならなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ