乙女ゲームのモブ令嬢~非日常は突然に!?攻略対象者に目をつけられてしまいました!
短い話が書きたくて…。
細かい設定はしていません。気楽に読み流していただけますと幸いです。
◇◇◇ありえない展開は突然に!?
その時は唐突に訪れた。
曖昧だった景色が、突然焦点があったかのようにクリアになって私の目に飛び込んできた。
現実離れした目の前の光景に、私は目をパチパチと瞬いていた。
豪華なシャンデリアが輝く大広間では、軽快な音楽が鳴り響き、色とりどりのドレスを纏った貴婦人がパートナーとダンスに興じている。
そんな煌びやかな集団の一角に私は居たのだ。
目の前に立ち塞がる巨影に顔を上げれば、そこには計算されつくした作り物のような眉目秀麗の顔立ちがあった。
その中心を彩る切れ長の薄いはちみつ色の瞳が私をじっと射抜くように見つめていた。
はうあっ!!
状況が呑み込めていない私は、驚愕に目を見開き体が一瞬硬直した。
おかしな叫び声は寸でのところで口に出さず呑み込んだ。
時間にして二秒にも満たない短い時間だったが、私にはものすごく長く感じられた一瞬だった。
その一瞬で現状を把握した私は、慌てて身を引くべくぐっと後ろに一歩踏み出した。
途端に腰に回されていた目の前の男性の腕に力が入り、余計に間を詰められぴたりと体が密着する。
必死に仰け反って鳩尾から上は密着しないよう隙間を確保したけれど、腰というかお腹は相手の体に触れてしまっている。
次いで音楽に合わせてステップを踏んだ彼の足が私の両足の間に入り込んで、その膝が布越しに私の太ももに触れた。
いやぁあああああ!!
顔を引き攣らせ内心悲鳴を上げるも、彼の右腕が私の腰に回りがっちりホールドしていて逃げられない。
彼の腕に添えていた自身の左手に力を込め、離れるよう押し返してみるがびくともしないし、肩先で持ち上げられるようにして握られていた右手を引き抜こうと力を入れれば、余計に握り込まれてしまった。
機会を窺っては足を後ろへ引くのだが、その度に彼は私の腰をぐっと引き寄せ、互いの間にあったはずの隙間はもうほとんどなくなっていた。
膝から胸までがぴたりと密着し、ダンスを踊るにはいささかおかしな態勢にぎょっとして相手を見ると、興味なさげだったはずのはちみつ色の瞳には、いつのまにか怪しげな光が灯っていて、視線が交差した瞬間にほんの少しその瞳が細められた。
まずいっ!
なぜそう思ったのか良く分からないが、このまま彼といてはいけないとそう感じて、曲が終わると礼もそこそこにその場をばびゅんと飛び出した。
彼の手が私へと伸ばされ腕を掴まれそうになったが、するりと躱して背を向け駆け出す。
彼の呼び止める声が逃げ出す私を追いかけてきた気がしたけれど聞こえない振りで無視した。
自分の身に起きた状況を正確に把握し、気持ちを落ち着けるためにはこの場を一旦離れるしかないのである。
驚き振り返る人の間をすり抜けるようにして広間を出ると、更に加速して夜の庭へと向かう。
貴族令嬢としては大目玉をくらう所業であるのは間違いない。
もしかしたら社交界へ出入り禁止にもなりかねない。
焦りがじわりと脳内を駆け巡ったが、それでも構わないと叫ぶ声がどこか頭の片隅で聞こえた。
どうせもうあの方とは言葉を交わすことも視線が交わることもないのだから。
と、悲しそうに呟く声が胸の奥で燻っていた痛みを大きく弾けさせた。
私の心の中は、現状を把握しきれず慌てふためいている自身の感情と、胸を締め付ける悲しみに耐えるもう一人の感情とが入り混じっている。
この息苦しさは全速力で走っているからなのか、それとも入り混じる感情故なのか判断がつかない。
私は胸元の衣をぎゅっと握りしめ、滲みそうになる涙をぐっと堪えて人気のない場所を求め足を動かし続けた。
・◇・◆・◇・
「ここまで来れば、大丈夫かしら…」
ぜーはーと激しく肩呼吸をしながら、私は月の光を浴びてキラキラと輝く飛沫を上げる噴水の傍らに手をついてうなだれていた。
全速力で走ったがために荒くなった呼吸を整えつつ、だんだんクリアになっていく頭で先程までのことを整理していった。
はっきり言って今の私の頭の中は大混乱である。
波紋を描く噴水の水面に映る姿は波打っていて分かり辛いが、明らかに記憶にある自分とは似ても似つかない上に、有り得ないほど着飾った姿がそこには映し出されていた。
水面に近づいたり遠ざかったりを繰り返しながら、そこに映し出される自分自身の姿を確認する。
髪はピンクがかったプラチナゴールド、纏っているドレスは鮮やかな黄色から橙色へのグラデーションが美しいプリンセスラインで肩まわりががっつりあいている。
上から覗き込めば胸の谷間が見えてしまいそうである。
胸はぺったんこではないが、それほど大きくもない。
まぁ許容範囲というべきサイズ。
そこまで考えて、はたと気づく。
あれだけ密着していたのだもの、私を見下ろしていた彼はこの胸元をがっつり見ていたはず。
そのことに思い当たると段々と羞恥に体が熱くなっていった。
私は両手で赤くなっているであろう頬を隠すように覆って、心の中でまたも「いやぁあああ!」と悲鳴を上げていた。
羞恥に悶えること数分。
はぁはぁと荒い息を吐きながら、心を落ち着かせる。
水面に映る自身の姿に再び視線を戻し、改めて状況を整理した。
手を伸ばしてみても、くるりと回ってみても水面に映るのは自分と同じ動きをしている女の子。
ということはそこに映っている姿が自分のものであることは間違いない。
先程煌びやかな場で自分と踊っていた目の前の男性のことも相まって導き出される現在の状況は……。
「なんっで!?私、星キラの悪役令嬢の取り巻きモブ令嬢になってるのぉっ!?」
星キラ。
それは私がド嵌りした乙女ゲーム【星々の煌めきを永遠に】の通称だ。
太陽系の星々を守護星とする個性的でカッコいいキャラクターたちが、ヒロインと共に荒廃していく世界を救うため奮闘する物語。
イケメン揃いの攻略対象キャラたちはもちろんのこと、舞台設定、世界環境、衣装に、美麗なイラスト、音楽に声優さんまで全てが私のストライクゾーンど真ん中をぶち抜いたこの作品。
シリーズ二作品目の前半をプレイしているさ中、不幸にも私は建物火災に巻き込まれ死亡したはずなのだ。
仕事に忙殺された数か月を乗り越え、ようやくまとまった休みが取れて封印していた乙女ゲームを解禁し、連休を利用し睡眠時間を削ってプレイし続けた。
連日連夜の激務を終えたばかりだったが、やっと待ちに待った星キラⅡをプレイできることに、眠気も体の怠さも気合で吹き飛ばし意気揚々とプレイしていた。
数時間プレイし続け、画面に映し出された選択肢を選べば念願のご褒美イベント突入スチルをゲットできるはずだった!のに!!
けたたましく鳴り響く火災報知機の音。私には関係ないと、ゲームを進めようとしたところで画面がぷつりと途切れて暗転した。
わぁあああ!電池切れだ!と慌ててコンセントを繋ぐ。省エネモードに入ってすぐに充電をはじめればセーブしていなくても途切れた部分から復活できるが、ゲーム機が完全に沈黙してしまえばセーブしたところまで逆戻りとなる。
やめてぇえええ!確か二時間くらいセーブしてなかったのよぉおお!
朦朧とする頭を必死に動かしてプレイしていたため、肝心のセーブを怠っていた。
目の前にご褒美イベントが待ち構えているのに!ここで諦めて堪るかっ!とようやく探し出した充電ケーブルをゲーム機に繋ぎ画面が復活してほっと息をついたとき、私の耳はやっと周囲のざわめきを拾った。そして私を取り囲む周囲がなぜか熱を持っていることに気づいた。
何事?とぼーっとした頭で周囲を見回したところで意識が途絶えている。
寝不足であまりにもぼーっとしていたからあの時は認識できていなかったけれど、パチパチと物が爆ぜる音に、夜の闇を赤々と照らし出す真っ赤な光。そして異様な熱に空気の振動。意識が途絶える直前に聞いた爆発音。
それらを統合して導き出される答えは、建物火災による爆発炎上の巻き添えをくって死亡したということ。
幸いなのは肉体的にも精神的にも限界を超えていた状態だったために、痛みも恐怖も感じることなく一瞬で生涯を終えられたことだろうか。
大きな叫び声を上げてしまったことにハッとして、慌てて両手で口を覆う。
辺りをきょろきょろと見回して、人気がなくしんと静まり返っていることにほっとした。
大きく息を吐き出し落ち着いたところで、胸の奥がちくりと痛んだ。
この痛みには覚えがある。そう、失恋したときの痛みだ。
いつから感じていた痛みなのかと考えれば、この体の持ち主はそれこそずっと、この気持ちを抱えていたことが分かる。
自分自身に意識を向けると、あらゆることが頭の中に浮かんでは消えていった。だからすぐに分かった。
ああ、このモブ令嬢はずっと、彼と出会ってから今までずっと、彼に恋心を抱いていたのだ。
過去の出来事だけでなく、先程ダンスが催されていたホールで起こった事も鮮明に脳裏に浮かび上がる。
胸を焦がす痛みが、恋い焦がれているものから、失恋へと明確に変わったのはつい先ほど。
恋い慕っていた相手とダンスを踊るその直前だった。
この体の持ち主である彼女の気持ちを知り、私は悔しさと憤りとで、ぐっと歯を噛みしめ、力いっぱい手を握りしめていた。
突然意識が覚醒したその時、私とダンスを踊っていた相手こそがこのモブ令嬢の想い人、侯爵家令息イーディス・クレシェンテ・ファゴット。
セカンドネームに【月】を表す名を持つ彼は、もちろん私がプレイしていた星キラのメイン攻略対象のうちの一人。
夜空を思わせる紺碧のさらりとした髪に、月の光を宿した薄いはちみつ色の瞳は切れ長でどこか冷たい印象を与える。
宰相の息子なだけあって、彼自身も頭脳明晰で先を見通す先見の目を持ち、他者につけいる隙を与えない。
貴公子然としたその姿に思いを寄せる女性は多かった。
彼のことを考えると、つきりと胸の奥が痛んだ。
呼吸すら苦しくなるほどの痛みに、私は胸元のドレスをぎゅっと握り込んでいた。
イーディスが悪役令嬢とその取り巻き令嬢たちを快く思っていないことは、ゲームをしている時から知っていた。
プレイしている時はヒロインサイド目線だったので、彼が悪役令嬢たちを嫌っていることを特にどうとも思わなかったけれど、こうして立場が変わると途端に抱く感情も変わる。
この私、モブ令嬢は想い人であるイーディスとダンスを踊ったのは、今回が最初で、そして最後だった。
これからも踊る機会などいくらでもありそうだけれど、それはもう今後叶うことはない。
なぜならば今回、彼がダンスのパートナーを引き受ける際に出した条件が「今後一切、関わらないこと」だったからだ。
彼の提案に一瞬呼吸が止まり、想い人を前に高鳴っていた胸の鼓動は、別の意味で早鐘を打ち、グサグサと痛みと言う名の針を容赦なく突き立てた。
それでも敢えてその条件を呑みきゅっと唇を引き結ぶと、彼女はイーディスの手を取った。
だんだんと強くなる胸の痛みから目を逸らし、彼女は最初で最後となるダンスを踊った。
いつも星キラのヒロインとばかり踊っていて、こちらには見向きもしなかったイーディス。
かねてより切望していた彼とのダンスに、最初は喜びの方が勝っていた。
けれど顔を上げ、見上げたイーディスの目に自分が映っていないこと、視線が絡んだ時のあまりにも冷ややかで侮蔑の籠った薄いはちみつ色の瞳に、次第に胸の痛みの方が勝っていった。
そして極めつけが、その時彼がぼそりと呟いた言葉だった。
ダンスをしている近距離だからこそ聞こえたその声音とその内容に、必死に胸の痛みを耐えていた彼女は限界を迎えたのだ。
―――『醜いな』
イーディスが呟いた言葉は、彼に恋情を抱きながらも「今後一切関わらない」ことを心に決めダンスに臨んだ令嬢を、奈落の底に突き落とすには十分なものだった。
必死に保っていた蜘蛛の糸のように細く頼りない自尊心が、ぷつりと切れてしまった。
そして入れ替わるようにして表に意識を出したのが私だった。
突然の意識覚醒に戸惑っていたけれど、これまでのことを思い起こしてみると、すんなりとこの状況も受け入れられた。
私の意識はこの令嬢の心の奥底でずっと眠っていたのだ。
生まれた時からずっと彼女の中にいて、そして酷な現実に耐えきれなかった彼女は、その意識を私へと手放して代わりに心の奥底に閉じこもってしまった。
胸の奥に感じる痛みが、どこか他人事のようにも感じてしまう。
ぎゅっと無意識に胸元のドレスを握り込んでしまうほど、心の奥底で彼女は泣き叫んでいるのに、水面に映るその顔は涙に濡れることはなかった。
「泣いたら良いのに…。不器用ね」
ぽつり呟いて水面に映る自分の姿にそっと手を伸ばした。指先が波打つ水面に触れようとした瞬間、耳通りの良い小鳥のように愛らしい声が、しんと静まり返った夜の庭園に響いた。
「あら!――様、こんなところでお一人でどうしたんですか?」
◇◇◇ありえない展開はまだまだ続く…。
聞こえた声にびくりと体を震わせて視線を向けると、そこには一組の男女が立っていた。
二人を見て、私は驚愕に目を見開いた。
星キラのヒロイン陽月星乃愛―ひづきせのあ―と、メインヒーローの皇太子リヴォルド・ソル・アンカスター殿下!!
「あ、あの……私……」
突然のことに頭が働かない。
この世界がゲームと同じであるならば、彼らがいるのも当然だ。
それにしたってこんな所で会うなど予想もしていなかった。
そもそも私は名もなきモブ令嬢。
物語で語られるのはヒロインに関わるものばかり。こうしてモブ令嬢が一人でヒロインと対面する場面などない。
イベントも多く各所にミニゲームが散りばめられたボリューム満載な星キラの舞台において、名もなき登場人物にスポットが当てられる場面など、そもそもありはしないのだ。
悪役令嬢が単独でヒロインと敵対するなど難しいがために用意された取り巻き令嬢というポジション。
そんな私が今、ヒロインと皇太子殿下の最強タッグと対面していた。
二人に出会うなど予想もしていなかった焦りから、言葉が上手く出てこない。
首を僅かに傾ける仕草がなんとも庇護欲をそそり、思わず抱きしめたくなる可愛さ満点のヒロインの横で、先程ダンス中に向けられたイーディスの冷ややかな視線が比べものにならないほど、敵意丸出しで射殺さんばかりに睨み付けてくる皇太子殿下。
発する威圧感で、大人でさえもひれ伏してしまうその眼力に直視され、私は恐怖で頭と太ももがくっつくほど綺麗に体を半分に折りたたんだ。
「ごめんなさいごめんなさい!ホントは仲良くなりたかったの!貴方の口から零れる言葉が気になっていたし。でも!私は表立って立場を超えることもできなくて!ごめんなさい!謝ってすむことじゃないけどごめんなさい!!」
考える前にすらすらと謝罪の言葉が口を突いて出てくる。よくよく内容を考えれば、私と令嬢の考えが混ざりまくっているのだが、声に出してしまってからではどうしようもない。
しかも今の私はプチパニック状態。当然自分が何を口走ったのかも分かってはいなかった。
「一緒に星キラのこと話したかった…」
頭を下げたままぼそりと呟いたその言葉は、噴水の音に掻き消されるほど小さなものだった。
けれどそれを聞き逃さなかったのは可憐なヒロイン。
「貴方今、星キラって言ったわよね!」
ずずいっと私の目の前までやってきた彼女は、私の両手を取り顔を上げさせる。
大きな目をこれでもかと見開きキラッキラに輝かせている彼女は、そのまま私の手をひき「あっちで少しお話しましょう」と言って、混乱の境地にいる私を強引に連れ去っていった。
ついてこようとする皇太子殿下に釘を刺し、彼女が連れてきたのは池に面した位置に建てられたガゼボ。池に面した一面の隣、四辺の内一辺だけ低い柵があり、柵に面した内側にベンチが一つ置かれていた。
そこにヒロインと共に腰を降ろし、乙女二人だけの秘密の会話がはじまった。
突然の急転回に、私の脳内はもちろんパニック状態が続いている。
それでもこの星キラのヒロインである目の前の可憐なセノア様が次々と投げかける質問に、半分放心状態になりながらも無意識に答えていた。
そんな心ここに在らず状態は、背後でガサリと草木を踏みしめる足音がしたことによって解除され、唐突に意識が明確になった。
視界の端をすぎった姿を警戒して、私はすぐさま立ち上がり一歩前に出てヒロインを背後に庇う。
向き合ったことで視界を掠めた姿の持ち主と、正面から対峙した。
そこには今日のパーティの参加者だろう男が三人、下品でいやらしい笑みを浮かべ立っていた。
その視線に含まれるものが、おおよそ好意的でないものであることは一目瞭然だった。
三日月のように歪めた双眸も、にやりと持ち上げられた口元にも嫌悪感しか抱けない。
「こんなところでー、女の子二人でお楽しみ中?」
「俺らも混ぜてほしーなー」
「そうそう、一緒に楽しもうぜー」
下卑たニヤニヤとした笑みは気持ち悪く、見ているのも辟易するほど。
咄嗟に前に出たのはいいけれど、どうするべきかと逡巡すると、頭の中に声が響く。
それは私の胸の奥に閉じこもってしまった令嬢の声。
『私の身はもう護る意味もないもの。彼女だけは、セノア様だけは逃がして差し上げて……』
その声は戸惑っている私を動かすには十分なものだった。
彼女の心根はこんなにも優しいのに、どこで何を間違ってしまったのだろうか。
間違ってもあんなに冷たい視線を向けられるほどのことなど彼女はしていないはずなのに。
誰にも理解されない彼女を思うと、悔しさにじわりと目の奥が熱くなった。
相手に気づかれないよう視線だけをさっと左右に走らせ周囲を確認する。
背後は池、正面右側には男たち三人が立っている。
自分たちのすぐ左側はベンチと柵があり、左前方は空いている。
彼らの隙をついて右側に固定させることができれば、背後の彼女だけは逃がすことができそうだと判断し、私はそっと口を開いた。
「彼らは私の知り合いです。一番左に立つ彼を右へ誘導します。私が振り向いたら空いた左側を走り抜けて頂けますか?」
「でも…」
「丁度、彼らに話したいこともあったのです。皇太子殿下もお待たせしていますし、セノア様はお戻りください」
彼らと知り合いなど嘘だ。話したいこともあるはずもない。けれど、そう言わなければ彼女はこの場を離れてはくれないだろう。
渋る彼女に微笑んでみせると、セノア様は迷いながらも頷いてくれた。
私は一歩、また一歩と彼らに近づき口を開いた。
「今宵はお話しできる時間など持てないかと残念に思っておりました。皆様に折り入ってお話ししたいことがございますの」
右手に持った扇で口元を隠しながら男たちとの間を詰める。
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを一層深くする一番左にいた男の腕をそっと取って右へと寄せる。
「大きな声では言えませんの。もっと耳を寄せて下さる?」
内心で湧き起る嫌気を表情に出さないように気を付けながら、更に右へと立ち位置をずらすと男たちも同じように右へと移動し、私の口元へ耳を寄せた。
前屈みになった彼らの視線は、背後のセノア様から外れ、私の大きく開いた胸元に注がれている。
――気持ち悪い。
上から彼らの顔を見おろし嫌悪感を露わに睨み付け、彼らの視界から隠れるように手に持つ扇で自身の顔を隠して後ろを振り返った。
セノア様は振り返った私としっかり視線を交わしたのに、その場を離れようとはしなかった。
私は募る危機感に彼女の名前をはっきりと口にした。
「セノア様!!」
「っ!」
弾かれたように彼女の体がビクッと震え、足を一歩踏み出したが、目の前の男たちが私を拘束する方が早かった。
「早く行って!」
男たちに捕まり叫ぶ私を見て、セノア様は躊躇して立ち止まってしまった。
「っ!」
私は小さく舌打ちすると、背後から私の肩に腕を回し拘束している男の腕に思いっきり噛みついてやった。
びっくりして力が緩んだ隙に、足元にあった男の足を思いっきり踏みつける。
「いってぇーーー!!」
拘束からするりと抜け出し、セノア様の元へ駆け戻り再び背後に庇う。
「どうして逃げなかったんですか!」
「貴方をおいていけないわ」
叱責にも似た剣幕で言葉を発した私に、彼女はすかさず反論した。
「人の心配してる場合ですか!私は悪役令嬢の取り巻き。無くして困るものなどないのです!」
「そんなことないわっ!」
あの人たちはお酒も入っている。きっと欲望のままにここで私たちを襲うつもりなのだろう。
人気のないここでいくら騒いでも人は来ないだろう。
そもそも相手は三人がかり。口を塞がれてしまえば物音すらわずかで、誰にも気づいてもらえないのは明白。
じりじりと間合いを詰めてくる男たちに気持ちが焦る。
こんなヒロインの貞操が奪われそうな大問題イベントなんてなかったわよぉおお!!
「とんだ跳ねっ返りだなぁおい」
「人が下でに出てやりゃ、いー気になりやがって!」
思いっきり足を踏みつけてやった男がこちらを睨み付けてくる。
琴線に触れてしまったようだが、こちらだってそう易々とヒロインを渡すつもりはない。
ぬっと伸びてきた男の腕を右手に持っていた扇で思いっきり薙ぎ払う。
バシッと良い音がしてその手は勢いよく払われた。
「いってぇえええ!!」
扇の一撃を受けた男は腕を抑えて後方へよろけている。
この扇は護身用も兼ねているので骨の部分が金属でできている。少々重たいけれど、武器として考えれば十分な強度と重さだ。
そんな打撃用武器と化した扇を、手加減なしに打ち込まれればたまったものではないだろう。
最悪骨にひびでも入っているかもしれない。
ざまぁみろですわ。
「てんめぇ!!」
腕の痛みに動けなくなっている男の隣に立っていた別の男が激高し掴みかかってきた。
振り上げられた腕を先程と同じように扇で振り払おうとしたが、その男の後ろにいたもう一人が私の背後にいるセノア様へ手を伸ばしたのが見えて、咄嗟にそちらの腕に向かって扇を振りぬいた。
「いでぇーー!」
「きゃあっ!!」
セノア様へ伸ばされていた男の腕を振り払うことはできたが、自分へと掴みかかってきた男の腕までは振り払うことはできず、激昂した男は私の髪の毛を鷲掴みにし、ぐいっと上へと引っ張り上げた。
痛みに思わず悲鳴を上げてしまう。
その私の後ろでセノア様も男たちの所業に悲鳴を上げていた。
容赦なく髪を鷲掴みにされ、その痛みに目を細める。男のもう片方の手が振り上げられ、握り込まれている拳が視界に映り込んで、私は襲いくる痛みと衝撃に備えてぐっと歯を食いしばった。
「いやぁーーー!!」
セノア様の悲鳴が辺りに響き渡る。
男が振り上げた拳が、私へ振り下ろされる際の風を切る音に体が硬直する。
恐怖にギュッと目を瞑ったが、男が振り上げた拳は私へと届くことはなかった。
殴られる衝撃の代わりに私の耳に届いたのは、別の男性の声だった。
「女性への乱暴は看過できないな」
「セノアへの暴挙、許し難い!無事に帰れると思うな!」
静かな怒りを含んだ低く冷ややかな声と、分かりやすい激しい怒りを露わにした張りのある凛とした声が同時に発せられ、間をおかずして人を殴る打撃音と、重たいものが地面に投げつけられる地響きが辺りに木霊した。
状況が分からず閉じていた目を開けようとして、掴まれたままの髪がぐっと引っ張られる痛みに、再び目をぎゅっと瞑って小さく悲鳴を上げた。
「いででででで!!!」
私の髪を鷲掴みにしている目の前の男が奇声を上げると、掴まれていた髪はするりと解かれ宙をふわりと舞った。
突然消えた痛みに思わず目を開けると、そこには私の髪を掴んでいた男の両手首を背後からきつく握り締めているイーディスの姿があった。
「女性に無体を働くなんて、良い度胸をしている」
男の手首を握り潰さんばかりの力で掴んでいるイーディスの表情は、はっきり言って恐ろしい。
口元には笑みが浮かんでいるのだが、月の光を思わせる薄いはちみつ色の目は全く笑っていなかった。
「ちょっと手首を捻ると、ぼきっといってくれるんだけど、どうする?」
「や、やめてくれぇー!!」
あまりに物騒な言葉をすらりと口にする彼の姿に、私は吃驚して目を見開いていた。
「次はない」
地を這うような低い声でそれだけを告げると、イーディスは掴んでいた手を片手だけ離し、掴んだままのもう片方の手首を後方へ向かって勢いよく振り抜いた。
綺麗に放物線を描いて飛んでいく男の先には、起き上がろうとしていた残り二人の男の姿があり、タイミングよくぶつかった彼らは再び地面へ突っ伏すことになった。
よろよろと立ち上がった男たちが慌てて逃げ去っていく姿を唖然として眺めていたが、彼らの姿が見えなくなると途端に体から力が抜けて地面にぺたんと座り込んでしまった。
「セノア無事か!」
視界の隅にセノア様に駆け寄る皇太子殿下の姿が映り込みほっと安堵の息を零した。
「良かった…」
ぼそりと呟くと、強張っていた顔からも力が抜け、視線は自然と下がり地面へと注がれた。
さくっと地面を踏む音に僅かに視線を上げれば、自分に向かって差し出された手のひらが見えた。
「え?」
恐怖心が去って半ばぼうっとしている状態で顔を上げると、そこには僅かに眉根を寄せて綺麗な顔を歪ませ私を心配するイーディスの姿があった。
「遅くなってすまなかった。怖かっただろう」
先程までの心をえぐるような低く怒りを含んだ声とは真逆の、相手を安心させる穏やかで柔らかい声音が彼の口から発せられた。
そのどこまでも優しい声に胸を締め付ける感情が溢れてくる。
張りつめていた緊張が緩んで、目の奥に熱を孕みじわりと涙が滲んだ。
差し出された彼の手を見つめたまま、地面についていた自身の手をそっと持ち上げた。
胸のあたりまで手を持ち上げた時、その手を掴んだのは彼の手ではなかった。
「っ!」
突然視界いっぱいに飛び込んできたのはセノア様。
吃驚して硬直している私を余所に、セノア様は私をぎゅっと強く抱きしめた。
声にならない言葉を交えながら泣きじゃくるセノア様の様子に、そっと彼女の背に手を添えて優しく抱きしめ返す。
浅く息をつきながら、周囲に視線を走らせると、左前方には困ったように眉根を寄せ口元を歪ませているイーディスの姿、そして右の方には手を差し伸べたままの状態でいまだ固まっている皇太子殿下の姿があった。
きっと皇太子殿下が手を差し伸べた先にはセノア様が居たのだろうが、彼女はその手を取ることなく私に抱き着いてきたのだと思われた。
その何とも残念な皇太子殿下の様子に、私は「あぁ……」と表現しづらい感想を抱き、複雑な表情をして視線を戻すと今度はイーディスの視線とぶつかって、仕方ないとばかりに溜息を零されてしまった。
「セノア様、お怪我はありませんか?」
泣きじゃくる彼女の背中を優しくさすりながら声を掛けると、セノア様はがばっと身体を起こして私の顔を正面からしっかりと見つめた。
「それはこちらのセリフよ!怪我はしてない?」
「はい、大丈夫です」
にっこりと微笑んで答えると、セノア様は涙に濡れた顔をくしゃりと歪め再び私に抱き着いてきた。
「無事でよかったぁー!護ってくれてありがとう!」
涙交じりに告げるセノア様の様子に私は苦笑を零し、彼女の背をふわりと優しく抱きしめた。
抱き合う私たちの傍らには、やられたと腰に手を当てて空を仰ぎ見るイーディスと、自分の手を取ることなく一目散に私へと抱き着いたセノア様の行動に納得できず、「なぜだっ!」と悔しそうに唸る皇太子殿下の姿があった。
◇◇◇突然のお茶会と苛立ちと。
「私たち!きっと仲良くなれるわ!貴方の家に遊びに行っていいかしら!」
ひと騒動の後、乙女ゲーム星キラのヒロインである陽月星乃愛ことセノア様の言葉によって急遽催されることになった我が家でのお茶会。
セノア様の後方で「あ、ずるいな。それ僕が先に言おうとしたんだけれど」と侯爵令息イーディス・クレシェンテ・ファゴットが口にしていたことなど、私は当然知る由もない。
ゲームのイベントにない荒事に巻き込まれ、その後の展開にもついていけず、半ば放心状態の私を置いてけぼりにしたまま、セノア様たちの間ではその日取りやら何やらが話し合われており、いつの間にか我が家でのお茶会開催は決定されていたらしい。
そして翌日の午後となった現在、宣言通り我が家を訪れたセノア様たちの来訪を告げる家令の言葉に、私は自室で混乱に陥り、顔面蒼白になって悲鳴を上げたのだった。
バラ園に立つガゼボに設置された白いテーブルを間に挟み、向かい側の椅子に座るのは到底考えられない面子。
私は引き攣ってなかなかもとに戻らない口元を開いた扇で隠し、必死で平静を装ってみせていた。
な、な、なななな何で!?
目の前ではこの乙女ゲーム星キラの世界において、ヒロインという大役を担うセノア様がにっこりと微笑んでいる。可愛らしいその笑顔に魅せられ心がほっこりして思わず目元が緩む。
それはまだいい。
視線を彼女の右へ移すと、緩んだ目元は途端にぴくりと痙攣を起こし、首筋をタラりと冷や汗が落ちていった。咄嗟に顔を伏せて扇で隠し、相手に見られずにすんだのが救いだ。
他者の屋敷の庭だというのに、つんと澄ました佇まいは成りを潜めることもなく、堂々とふんぞり返っている彼、皇太子リヴォルド・ソル・アンカスター殿下は出された紅茶を口にした後、隣のセノア様と嬉々として話し続けている。
それについてもまあまだ予想の範疇ではある。
星キラのヒロインであるセノア様に全身くまなくどっぷり魅了され溺愛している彼が、敵視している私の元へ彼女を一人送り込むはずがない。
心臓に悪いのではっきり言って一緒に来るのは止めて欲しいものだが。
そして問題は次だ。
セノア様の左へ視線を移し、彼の姿を認めると背中を大量の冷や汗が流れ落ちていった。
そこには落ち着き払った優雅な仕草で紅茶の入ったカップに手を伸ばすイーディス・クレシェンテ・ファゴットの姿がある。
先日の夜会で私とダンスを踊っていたまさにその人。
なぜ貴方がいるのだ。
そもそもダンスを踊る条件は「今後一切関わらないこと」だったはずだ。
自分でこちらを拒絶しておいて、早々に自らその言葉を覆すとは如何なものか。
胸の奥に引き籠ってしまった令嬢の心の痛みを分かっていての所業か!とある意味で怒り心頭でもあるだ。
今すぐ部屋に戻って引き籠ってしまいたい。
そんなことを頭の隅で叫びつつ、気を抜けば今すぐにでも目の前のテーブルに突っ伏してしまいそうなほど疲弊している私は必死で平静を装ってみせていた。
そんな私の胸中など知る由もなく、セノア様たちの楽しそうに弾んだ会話は続けられている。
「ここのバラ園は噂に違わない素晴らしさだわ」
「セノアせっかくだ、一緒に見て回ろう!」
きょろきょろと周りを見渡しながらセノア様が告げた言葉に、彼女の隣に座る皇太子殿下がさっと立ち上がる。
まるで我が家の自慢の庭園を案内すると云わんばかりの殿下の様子に、僅かばかり困惑の表情を隠すことができない。
当家の庭師の腕は超一流だと思っているがしかし大丈夫だろうか。身内の贔屓目と言われてしまえば、違うと言いたくとも相手が相手なだけに黙るしかなくなる。
他家の庭園を見たこともないので比べようもないけれど、私は我が家の庭園が何よりも大好きだった。
落ち込むことがあっても、美しい花たちに囲まれていれば傷ついた心も癒された。嬉しいことがあった時は、その華やかさになお一層喜びが膨れ上がった。
あれ?これって私というより、この体の持ち主である令嬢の感情のはずなんだけど。
二人の感情がごちゃまぜになっていて、どれがどちらの感情か曖昧になっていた。
「近くで見せて貰っても良いかしら?」
セノア様の可愛らしい声にハッとして意識を引き戻される。
「ええ、ごゆっくりどうぞ。バラの棘には、くれぐれもお気を付けくださいませ」
「わかったわ」
咄嗟に了承の言葉を口にしてしまったけれど大丈夫だったかしらと、後になって不安が首をもたげてきた。
そんな私をよそに、セノア様は殿下の手を取り立ち上がって咲き誇る薔薇園の奥へと進んで行った。
にっこりと微笑んで二人を見送ったものの心の中は複雑だ。
戻ってきた二人ががっかりした顔をしていたらと思うと、どんどん考えが悪い方へと向かっていきそうだ。
けれどその思考も僅かばかりで中断される。セノア様たちを見送る私の側頭部に、ぐさぐさと突き刺さるように向けられている視線が思考を寸断させた。
はっきり言ってこのまま無視して立ち去りたいくらいだが、痛いくらいにぐさぐさと突き刺さるそれを大っぴらに無視するわけにもいかず、どうにか作り笑顔を浮かべて振り返った。
そこにいるのは言わずもがな例のあの人。
「侯爵令息様も、どうぞご自由にご覧くださいませ」
「ああ、そうだね」
彼の言葉に気づかれないよう心の中でほっと息をつく。
視線を外して彼の背後を彩るように美しく咲き乱れている薔薇へと意識を向けていて、彼が続けて口にした言葉を聞き逃していた。
昨夜決定したこのお茶会開催について、私にもしっかり告げられたそうなのだが、放心状態だった頭では記憶に残るはずもない。
私の返答が生返事だったことに気づいていながらも彼、イーディスは指摘しなかったそうだ。
後になって彼からそんな話を聞かされた私は大いに憤慨した(心の中で)。
立ち上がるイーディスの姿に緊張が緩みほっとしたのも束の間。
彼はつかつかと近づいてきて腰を屈め、手を差し伸べてきた。
「参りましょう――」
目の前には極上の笑顔で腰を折り、こちらへ手を差し伸べるイーディスの姿がある。
予想外の彼の行動に、私は驚き目を見開いた状態で硬直した。
戸惑い、なぜ?という疑問が脳内を駆け巡る。ずくりと胸を打った痛みは誰のものなのか。
「い、いえ。私は、いつも見ていますし」
慌ててそうやんわりと断りを入れたが、彼は差し出した手を引くことはしない。
その整い過ぎる顔に浮かべた笑みをますます深いものにしながら、彼は私の逃げ道をつぶしていく。
「どうぞ、不慣れな私をご案内ください」
「あの、いえ。私などがご一緒したら、気分を害されてしまいます」
どこか芝居がかったイーディスの仕草に、げっと心の中で驚愕の叫び声をあげつつ、どうにか表情だけは平静を繕ってみせた。
更に一歩近づき私の手を取った彼に対し、必死で言葉を紡ぐ。
なんで私に構うの!関わるなと言っておきながらこの仕打ちは何!?
心の奥底に閉じこもってしまった令嬢を思うと、イーディスのこの態度には怒りが湧いてくる。
その感情を表に出すこともできず、私はただ困惑の表情で視線を彷徨わせた。
彼に掴まれた手を差し抜こうとぐっと力を込めてみても、その度にイーディスは私の手を強く握りしめていた。
彼が何をしたいのか分からず、その行動のあまりの自分勝手さに、私はとうとう不快感を露わにして眉根を寄せてしまった。
幸いなのは、掴まれた手に視線を向け俯いた状態だったので、その表情のまま真正面から彼と視線を合わせずにすんだことだろう。
今私の顔には分かり易いほどの嫌悪感が現れていると思う。
突然態度を変えたイーディスに対して抱いているのは、はっきり言って好意とは程遠い感情だ。
嫌いだ言うと言い過ぎになるかもしれないけれど、それに近いくらいの嫌悪感を抱いてはいる。
私のその態度がひどくイーディスの興味を惹いてしまっただなんて露にも思わない私は、どうにかしてこの場を逃げ出すことだけを考えていた。
強引に手を取られ庭園の案内を請われたものの、立ち上がろうともしない私を見つめ、彼は笑顔を湛えたままじっと待っている。
俯いたまま顔を上げず、立ち上がることもしない私に痺れを切らしたのか、イーディスはその場に膝をつくと、下から私を見上げて再度言葉を紡いだ。
「――嬢、私に暫しお時間を頂けますね?」
疑問の形を取りながらも否と言わせない物言いに、私は気づかれないようそっと溜息を零してから小さく頷いた。
立ち上がったイーディスが私の手を軽く引くのに合わせて立ち上がる。
彼は私の手を取ったまま、美しい薔薇の咲き誇る庭園へと足を向けた。
我が家の中でも特にお気に入りの場所にいるのに、心の中は不満でいっぱいだ。
苛立ちとげとげした感情も、落ち込み消えてしまいたくなる感情も、いつだってその美しい花たちが癒してくれていた。
今だって隣にいるのが彼でなければ、きっとこの荒れまくった心も宥め落ち着かせてくれただろうに。
彼が!隣にいるだけで!全くその効果が得られない!それどころか益々苛立ちが募っていくのはなぜ!?
「本当に美しい庭園ですね」
隣で感嘆の言葉を紡ぐイーディスの声をどこか遠く聞きながら、私の視線は明後日の方向へと向けられている。
ああきっと、もう一人の私をぞんざいに扱っておきながら、手のひらを返したように真逆の態度を見せる彼に腹が立って仕方がないのだわ。
だから大好きな花たちを見ても、この人が傍にいる限り心が休まることは……ないのよっ!
ねぇ、心の奥に閉じこもってしまった私。
貴方は彼のどこをそんなに慕っていたの?
私には……分からないわ。
確かに顔は良いのだけれど、性格が最低最悪ですよね、彼。
◇◇◇失望は興味にすり替わり ※イーディス視点
今まではあまり意識したことはなかったが…。
リヴォルド皇太子殿下が好意を寄せているセノア嬢に対して、数々の嫌がらせや暴言を浴びせていた侯爵令嬢を嫌悪していたから、その令嬢と一緒に居る彼女のことも自然と視界に入れないようになっていた。
媚びるような視線と態度が煩わしいと感じたことも一度や二度ではなかった。
だからあの夜会の日も…。
「今後一切、私たちに関わらないと約束してくれたら、ダンスのパートナーを務めてやってもいい」
嫌悪感も露わにして告げる言葉に、一瞬息をつめて泣きそうな顔をした彼女の姿を目にして、僅かに戸惑ったのを覚えている。
口にしてしまった手前どうすることもできないのは分かっていたが、周囲が注目している中で、自分が彼女に対してどれほど冷たい態度を取ってしまったかに気づき後悔した。
それに泣きそうな顔を見せた彼女は、これまで見てきた彼女のどんな姿よりも彼女らしいと思ってしまった。
もしかして彼女は周囲の目があるから、今まであんな姿を見せていたのか?
そんな考えがふと頭を過ぎり口を開きかけたが、一度俯いてから顔を上げた彼女がキッと睨み返してきて先に言葉を紡いだ。
「それで、構いませんわ」
俯いた際に零れ落ち、頬に触れていた髪をかき上げ後ろへ流しながら凛とした態度で告げる彼女の姿に瞠目した。
その堂々とした佇まいと強い意思が宿った瞳に、僅かばかり関心したがその時はそれ以上特に思うこともなく、最後のエスコートをするつもりで彼女へ手を差し伸べた。
自身の手に乗せられた彼女の華奢な手が、微かに震えていることに気づいていたけれど知らない振りをした。
そして他の参加者に混じりダンスに興じた。
中盤くらいまでは彼女はしっかりとこちらを見つめていた。
けれどふと気づいた時には、彼女の視線は一向に己のそれとぶつかることはなくなっていた。
向かい合って踊っているのに、視線が絡むことがないなど本来はあり得ない。
彼女のそんな様子に、些か苛立ちを覚えつつあった時、少し離れた場所で起こった喧騒に余計に気分を害され、思わずぼそり「醜いな」と呟いていた。声に出したつもりはなく、鬱蒼とした気持ちを吐き出すように溜息を一つ落とした。
気を取り直して再び彼女へと視線を戻しちらりとその様子を窺えば、そこにはきゅっと唇を引き結んで何かに耐える表情をしている彼女がいた。
そのままじっと見つめていると、小さく息を吐き出した彼女が何かを諦めたようにそっと目を閉じる姿を見て息を呑んだ。
嫌悪感を露わにする己の態度が、彼女を傷つけたのだとはっきりと自覚し、ずくんと胸の奥に痛みが走った。
思わず声を掛けようとして口を開きかけた次の瞬間、彼女がばっと顔を上げた為、出かかった言葉を呑み込んでしまった。
目があった彼女は、幽霊でも見たかのようにぎょっと驚いた表情をして逃げるように体をのけぞらせた。
咄嗟に腰に回していた手に力を込めてぐっと引き戻すと、目を大きく見開いて更に驚いた表情になり、次いで血の気が引いたように顔面蒼白になっていった。
ダンスに興じるまでの彼女はつんとして鋭い雰囲気を持っていたがそれが突然がらりと変わって、どこか掴みどころのない頼りなさを醸し出したことに気づき、ひどく興味を魅かれた。
「貴方の……泣き出しそうな表情が、忘れられなくて」
「え?(いつの話?)」
渋る彼女の手を強引に取って庭園を歩いていると、「どうして突然、態度を変えられたのですか?」と彼女が問いかけてきて、頭に浮かんだのはあの日ダンスを踊った時の彼女の姿。
これまで彼女が人前で見せていた態度には嫌悪感を頂いていた。
セノア嬢に対する見下したような眼差しに、冷たくあたる態度。
一番嫌悪したのは、セノア嬢に対し数々の嫌がらせを繰り返す侯爵令嬢に、苦言を呈することもなく付き従っていたことだ。
だから彼女を傷つけてやりたいと、その自尊心をへし折ってやりたいとどこかで思っていた。
そうすれば、彼女の姿を目にする度に苛立つこの感情が、少しでもすっとして晴れるのではないかと思っていたからだ。
けれど実際はそんなことはなかった。
彼女の泣きそうな表情を目にして感じたのは何とも不快な感情で。
それはとても気分が良いと言えるものではなかった。
ダンスが終わると、逃げるようにホールから走り去った彼女。
周囲が彼女に対して向ける感情はおおよそ好意的なものではなく、嘲りや中傷といった非難するものばかりで、余計に苛立ちが増した。
何も知らないくせに彼女を悪く言うなと、怒りが湧いた。
彼女を傷つけたのは己だというのに、とても自分勝手な感情を周囲の者に対して抱いていた。
「今後一切関わらないという条件で、ダンスを受けてくださったはずですが」
固い声音で告げられるその言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。
「ああそれ、撤回させてもらいます」
愚かな選択をしてしまったと後悔している。
彼女に向ける笑顔にも、申し訳なさが混じった。
「なんでっ!?」
僕の言葉に驚愕して眉根を寄せる彼女は、今までと違ってその感情がとても素直に表情に現れていた。
そう、これまで彼女から向けられたことのなかったある感情までもが鮮明に。
それがとても新鮮で、そしてつきりと胸の奥に小さな痛みをもたらすそれを、嫌だと感じてもいた。
きっと間違っていない。彼女の態度、視線、仕草。それらの端々に僅かに現れるそれ。
彼女が今、自分に向ける感情。
それは、―――【嫌悪】だった。
「君に興味を持ってしまったから、ね。それに……」
「それに?」
首を傾げる仕草を可愛いと思ってしまった。
以前はあざとく不快だと感じていた筈の仕草。その己の感情の変化は何故なのか。
この感情の行きつく先は何となく予想できてしまうのだが、今はまだはっきりさせる必要はなさそうだ。
彼女との関係をはっきりとあの場で終わらせなくて良かったと、今は心から思う。
こんな感情の変化が起こるなど予想もしていなかったけれど。
自分は自分で思っていたよりもずっと、彼女のことを気にかけていたのかもしれない。
「私たちは婚約者同士です」
「え…?」
そう、彼女は己の婚約者。
知らないはずがないのに、目の前の彼女は初耳だと言わんばかりの驚いた表情を見せている。
そんなに見開いたら、大きな瞳が零れ落ちてしまうのではないかと心配になるほど目を見開いている。
可愛らしい顔に僅かに刻まれた眉間の皺が、彼女の感情を明確に示していた。
―――嫌だ、と。
彼女が己に対して嫌悪を露わにするたびに、つきりと胸の奥に痛みが生じる。
ああ、もしかしたら……。
鏡があるわけではないので今の自分がどんな顔をしているか見えるはずもないが、今まで自分が彼女にさせてきた表情がこれなんだろうと気づく。
つんと澄ました表情をしていた彼女だが、時折目元が緩むことがあった。
そんな時は決まって彼女に冷たくあたっていた。
自身のそんな態度に彼女は胸を痛めていたのではないだろうか。
今更、過去の己の態度を改めることなどできはしないが、まだこれから先のことについては自身を戒めることができる。
自分自身の未熟さに気づかされて、どれだけ凹んでいるかなんて君は知らないだろう。
「貴方は私の婚約者だから、関わらないなど、無理なんだよ」
「ええっ!!!??」
にっこり極上の笑みを浮かべて彼女へ微笑みかけた。
笑顔の裏に後悔と、彼女から向けられる感情に軋む胸の痛みを隠して。
彼女が自分へと向ける感情に【嫌悪】が混じっていても、まだ完全な拒否までは至っていないことに安堵する。
勝手に決めつけて、彼女自身を知ろうとしていなかった自分に溜息が零れた。
彼女の本質はきっと自分が見てきたものとは真逆の性質を帯びているのだと、なぜかそう感じた。
「お前が嫌なら、破棄しても構わない」
伯爵家令嬢である彼女との婚約が決まったことが告げられた日、父は重ねて己に告げた。
この時にはすでに、セノア嬢に対する嫌がらせを繰り返していた侯爵令嬢に付き従う彼女のことはある程度知られていたのだ。父もそんな彼女のことを耳にしていたのだと思う。
だから父は敢えて言ったのだ。
―――破棄しても構わない、と。
自分でもそうしようと思っていた、つい最近までは。
けれど、あの夜会で彼女の泣きそうな表情を見てから変わった。
自分があまりにも彼女のことを知らな過ぎるのだということにようやく気づいた。
そして、彼女に向けられた【嫌悪】の混じる感情に胸が痛むということにも。
手放したくないと、そう思ってしまった。
だから、少し遅くなったけれど。
これから始めてみようと思う。
彼女のことを、何の先入観もなく、ただの一人の女性として知っていくことを。
現在彼女が己に対して抱いている感情を思えば、悠長にしている時間はきっとないけれど。
このまま黙って手を離してしまえば、もっと後悔することになるだろうと、それだけははっきりと自覚しているから。
「レイラ・ポラリス・アヴェルリーノ伯爵令嬢。次からはぜひ、私と二人だけで、お茶の時間を持ちましょう」
「え……。ぃ…」
―――嫌だ。
小さく呟かれた言葉は耳に届かなかったけれど、彼女の唇の動きでそれが分かってしまった。
つきりと感じた胸の痛みに、顔に浮かべた笑みを深くして告げた。
「明日、また今日と同じ時間に伺いますね」
彼女の表情が驚愕から絶望へと変わるのを目の当たりにして、更に笑みを深くしたのだった。
◇◇◇Fin.
登場人物について追記を。。。
皇太子【太陽】:
リヴォルド・ソル・アンカスター
侯爵令息【月】:
イーディス・クレシェンテ・ファゴット
ヒロイン【星】:
陽月星乃愛:エトワール男爵家養女
「すごっ。太陽も月も星もその名前に持つなんて、正真正銘のヒロインだわ!」とは本人談。
主人公【星】:
レイラ・ポラリス・アヴェルリーノ:伯爵家モブ令嬢
ここまでお読み頂きありがとうございました。
続きを書くかはまだ考えていませんが、とりあえずは一旦ここまでで終了としています。
先の展開は皆様のご想像にお任せいたします。
連載中の長編がなかなか進展せず、気分転換と現実逃避にいろいろ短編らしき残骸が増えてます。そのうち形になれば、ぼちぼちアップしていきます。