パフューム・マイコニド7
「カヲルイーラ……」
再び耳にしたその名前を聞くと、ヨヨの鼓動は乱れるのだった。
マゼルは紅茶のカップをテーブルに置き、また静かに喋り出した。
「カヲルイーラの名前は有名で、あたしはコーラ薬学院に入学する前から、その噂を知っていた。彼女はエルフの中でも、ずば抜けた能力の持ち主で、その癒し手の力は神の領域にも達すると噂されていた。全ての生き物と意志を通じる事が出来たと言われていて、ドラゴンさえも、彼女に従うと噂されていた。そして、あたしが薬師になろうと決心した、ある出来事にも、カヲルイーラは深くかかわっていたんだ」
「師匠が、カヲルイーラという人に影響を受けて、薬師になろうと決めたずらか!」
「ああ……」
マゼルのリビングを照らしている、柔らかい白熱灯が、小さな音を立ててゆらめいた。
外は風が少し出てきたのか、屋敷の周りの針葉樹が、小さくざわめいている。
「あたしは西方ギルド連盟のレーベンという地方都市の出身で、農業を営む小作人の貧しい家に生まれたのさ。両親と祖父と祖母、兄弟は七人もいて、本当にいつも家族全員、腹をすかせているような暮らしぶりの家だった。領主から任された土地はやせていて、ろくな作物もとれなかった。あたし達は山や川に行っては山菜や魚を採って来て、少しでも家族の食べ物の足しにと懸命に働いたものさ。あたしの薬草に対しての感覚は、そのときに身に付けたものさ。食べられる草木を見分けるために、何度も死に掛けながら覚えて行った末に身に付いたのさ。生きてゆくために毎日が必死だったんだよ。でも貧しくても一家はとても暖かで、いつも毎日食べる事ができた事に家族全員が感謝していた。兄弟では末っ子のあたしは、家族に喜んでもらおうと懸命に山菜を集めたものさ」
初めて聞く師匠の身の上話を、ヨヨは真剣な眼差しで聞き入っていた。
「でも、そんなあたし達に、神様ってやつはとんでもない仕打ちをしたのさ。山菜を集めていたあたしが、よりにもよってこのあたしが、…………、ウラム出血熱に……、感染したんだよ」
それを聞いてヨヨは、目を見開き眉をひそめた。マゼルがウラム出血熱をエレナポートと共同で克服するのは、二十年近く後のはずだ。この時点ではこの病は死の宣告に等しかったはずだ。
「ずっと後になってわかったことだが、ウラム出血熱は人間に感染する時、コウモリを媒介する。中間宿主となるアルディオス・スズメガを捕食したマックレイ・チスイコウモリが、人間やエルフ、他の哺乳類の血を吸うと、ウイルスを染してしまうんだ。あたしは夕暮れの山からの帰り道、むき出しのかかとをこいつに狙われたのさ。一度人間に感染したなら、この病気の感染速度はディルト熱に匹敵する。患者の体から出る汗、唾液、吐しゃ物、血液、排泄物、涙にいたるまで、あらゆる体液にウイルスがうようよいて、あっという間に周りの者を巻き込んで、爆発感染へと進んでいく」
ヨヨはマゼルからこの病気のことはよく聞いていた。恐怖の伝染病ディルト熱とともに、もっとも危険な病のひとつであると、念を入れてこの病気を勉強させられたのを思い出していた。
「ウラム出血熱は、一度発病すると、死亡率は85%を超えるはずだっしゃ。体の大きな者や、免疫機能のよほど強いものでない限り、生き残る事はほとんど不可能なはずだっしゃ、なのに、まだ子供だった師匠はなぜ……」
ヨヨのその言葉を聞いて、マゼルは大きく息を吸い込んでから、あらためて深々とクッションの置かれた籐の椅子に身体を埋めた。
「運がよかったとしか言いようがないね。あたしが発病した時には、おそらくレーベンの街中に病は既に広がっていただろう。あたしは山菜やキノコを街に売りに行っていたからね。街の人達がパニックになるのに、ほんの数日しかかからなかったんだ。西方ギルド連盟はすぐにレーベンを封鎖隔離したよ。ラッシャのコーラ薬学院から、数十人の医療団が到着したそうだが、この病気に対しては、隔離して遠ざける事と、いつも清潔にするよう指導する事以外、ほとんどできることはなかったようだ。あたし達家族は全員が感染し、街中の人々から感染源になった一家として忌み嫌われ、阻害されたんだ。でも、あたし達家族の周りで、人がばたばた死んでいくにもかかわらず、不思議に家族の病状は徐々によくなっていき、やがて全員回復してしまったのさ」
ヨヨは再び驚き、マゼルに聞く。
「師匠の家族だけ、回復したのよしか!」
「そう、これも後でわかったことだが、あたしの祖母は蘭の花の蜂蜜漬けを、家族のためにお菓子代わりによく作っていたのさ。偶然その中に、例のスズメガと関連して抗体を作る蘭が、少量ながら混じっていたんだ。あたしがそのことに気付くまでには、ずいぶんと年月が必要だったがね」
ヨヨは、そのあまりの因縁めいた話に、驚きを隠せなかった。師匠の命を救った祖母の優しさが、やがてその師匠自身がこの死の病を克服するための、道しるべになるとは。
「因果は巡るというがね、話はそれだけではなかったんだよ。なぜ命が助かったのか、わけも解らないあたし達一家の前に、西方ギルド連盟の保安調査隊の兵士が立ちはだかったんだ。彼らはあたし達だけが、病から回復した事を聞きつけて、ある使命を帯びてやってきていた。それはあたし達の血液を採取しろとの命令だった。一度病気にかかって回復した者の血液には病に対する抗体が含まれているので、それを提出しろと言うお達しだったのさ。その、治療法は当時の薬学と医学ではまだ確立していなかった。しかし、ギルド連盟の代表議長の一族が病に倒れ、手段を選ばなかった議長は、膨大な金を使ってエルフと契約したんだ。エルフは契約に応じ、そうして派遣されたのがカヲルイーラだったのさ。もちろん彼女にも薬をもってしてこの病を治す事は不可能だった。しかし、発病直後ならば、この、抗体移植の方法で、血液型さえ一致していれば治療が可能だということを、カヲルイーラは気付いていたのさ。ただし、まだその技術は未熟で、抗体を持っている者から、大量の血液を採らなければ、治療はならなかったんだ」
ヨヨは、ごくりと唾を飲み込んだ。おそらく、確立前のこの治療法では、一人が回復するのに一リットル近くの血液が必要だっただろう。
「その議員さんの一族の人たちと、血液型が一致したのは、だれだっしゃ」
「あたしと母、そして祖母さ」
夜の窓の外で、強くなった風が建物全体をきしませている。二人のいるリビングは静まりかえっている。やがてマゼルが重い口を開いた。
「保安兵はあたしたち三人を連れて行こうとしたんだが、母と祖母が身体を張ってそれを阻止した。自分達の血液は全て搾り取り、使ってもかまわないと、泣き喚いてあたしを……あ……たしを……守ってくれた……、やつらは……、そのとおりにしたのさ…………だから今、……あたしは生きている……」
マゼルの頬を涙が銀色に光る筋を引くのを、ヨヨは黙って見ていた。
厳格で依怙地で強欲なこの薬師が、こんな風に泣く事に、ヨヨはただただ言葉をなくして、見つめるだけであった。
「あたしが、エルフを嫌いなのは、この治療法を考えたのがカヲルイーラだったからだし、『癒し手』どもが、エルフであるが故の才能に寄りかかった癒しの技術を、人間には考えも付かないレベルでいとも簡単に達成してゆく事が、我慢ならないくらい理不尽に思えていたからさ。生き物の声を聞くことが出来るなら、あたしのように命を懸けて、自分を人体実験してまで薬草を見つけていくことなど、お笑い以外の何ものでもないじゃないか! あたしが薬学を使って金儲けに走ったのも、金持ちどもに、肉親を殺された幼い時のこの出来事があったからさ。あたしは薬学で金持ちどもから金をふんだくるために、必死で勉強した。いつかその金で貧しい人たちにも、誰でも薬が買えるように流通も含めて、大きな薬の組織を作りたかったのさ。そして、コーラ薬学院のように、金持ちや地位のある者の子供達しか受け入れない学校ではなく、能力があるなら誰でも勉強して人々に役に立つ人材を育てる、そんな薬学の学校を作りたかったのさ。いつか必ずエルフをも凌駕する、薬学院を作りたかったのさ」
マゼルはこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、一気にそうヨヨにまくしたてた。
「ヨヨ、お前の言うとおり、あの時ヒデヨの村に駆けつけたのは、金のためではなく、その状況が昔のあたしの事件と瓜二つだったからだよ。なんとしてもあの村を、素晴らしい文化と歴史を継承し、幸せに満ちているあの谷を守りたかったのさ。病に苦しみ、薬を買う金もなく、翻弄される人々を見るのは、あたしにとってなによりも耐え難い事なんだ」
夜の帳があたりを包み込んでしまい、さらに深く闇夜が世界を包んでも、それからはもう二人は何も言葉を交わすことはなかった。
次の日、マゼルはヨヨにエルフと同行する事を命じたが、ヨヨはその時すでにもう旅の支度を整えていた。




