表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

勇者休職中番外編~勇者の素養~

作者: 黒川杞閖

 リノス・ウェッジはかつて世界を魔王の手から救った勇者である。

 五年前、魔王討伐の功績をたたえられて多額の報奨金その他を受け取ったリノスは、それらの資産を無駄遣いすることなく老後に向けた資金に回し、さらに就職をした。戦士派遣業――職業勇者とか何でも屋とか言われる仕事――を生業としている現在の彼は、王都に拠点を構える一般企業に所属する会社員であった。

「ジェス、何読んでるの?」

 とある就業日の昼休み。勇者リノスと旅の仲間兼同僚である魔法剣士ジェス・メナスは、会社の休憩所で昼食をとりながらのんびりと過ごしていた。職業柄、仕事で出払っている社員も多いため、日当たりのいい窓際席にも関わらず人の数はまばら。一方で今日のふたりは社外に出る予定がなく、平穏そのものといった様子だ。弁当を早めに食べ終わってしまったジェスは、リノスを待ちつつ何か雑誌のようなものに目を通している。

「ん……」

 リノスに話しかけられたジェスは、誌面から目を離さないままつぶやく。

「転職情報誌」

「え?」

 ジェスの声のボリュームは、気持ち控えめだ。

「転職情報誌。世の中、どんな仕事があるのかなって」

「……」

 デザートのりんごのコンポートを手に、リノスはしばし動きを止める。ちなみにコンポートは手作りだ。

「……ふーん?」

 リノスは満面の笑顔でそう言ったきり、いつもの調子で食事に戻った。奇しくも来週から少しの間、ジェスが休みに入ることが決まっていたのだった。

「失礼します」

 ジェスとのやり取りから数日後の金曜日、リノスは上司の執務室を訪れていた。

「突然ですが、休職させていただきます」

 乱暴にドアを開け放ったリノスは、上司にひとことも喋らせないまま一方的に休職を宣言し、そのまま立ち去っていった。この間おおよそ六秒。新記録更新かつ結構な早口である。

「んー、このやり取り、以前にもどこかで見たねえ……」

 ひとり取り残されたリノスの上司は、開けっ放しのドアに向かってつぶやいたのだった。

 かくして一か月ほどの休職期間を手に入れた勇者リノス・ウェッジは、転職活動のための旅に出た。とはいえ彼は現在の会社に不満があるわけでも、キャリアアップとか高収入とかいうものを目指しているわけでもない。理由は純度ほぼ百パーセントの『なんとなく』である。強いて言うなら昔なじみのジェスが転職活動に興味を示していたから自分もやってみたくなったに過ぎない。この勇者は小学生なのだろうか。

「さてと……」

 必要な手続きを済ませて家に荷物を置いたリノスは、アパートのドアの前で大きく伸びをした。自由の身となった彼は、これからお気に入りのカフェにアップルパイを食べに行こうとしているのである。

「一回休職経験があると、こういうとき気が楽だなあ……」

 歩きながら、彼は総務人事部門との先ほどのやり取りを思い返していた。


『勇者第三課のリノス・ウェッジですが、休職の手続きに……』

『あ、休職の勇者さん。今度は誰の漫画本を破壊したんですか?』

『……』


 担当の男性社員との会話が脳裏によみがえり、リノスは身震いした。というのも、以前彼が休職した際の理由――上司の漫画本を汚して心を痛めたこと――が担当部門に広く知れ渡っていることに気づいてしまったからだ。申請時は『休養のため』とか、そんなことしか伝えていなかったにもかかわらず、だ。おまけに、総務人事はうわさ好きが多い。きっと、社内の少なくない人までもがこの話を知っていることだろう。そういえば、最近社内ですれ違った女性たちがこちらを見て何かひそひそ話をしていたような気がする。ああ、なんてことだ。人の心の闇は恐ろしいものだと、リノスはその場で頭を抱えた。

「魔族との共存より、おのれの心の闇との和解こそが我々の本当の課題なのかもしれない……勇者であるにもかかわらず、僕はそんなことにも気づけなかったなんて」

 道行く一般人をびびらせつつ、リノスは歩行に大げさな身振り手振り独り言をまじえる。彼はこうして勝手に世を儚みながらカフェに向かったのだった。

「転職活動といいつつ、どんな仕事に応募したらよいものか……」

 いつものテラス席に座ったリノスは、オーダーしたアップルパイを待ちつつりんごジュースを飲んでいた。カバンから王都住民向けの転職情報誌を取り出した彼は、ペンを片手にページをぺらぺらとめくっていく。誌面には様々な業種の求人情報がおどっていて、中には今まで知らなかったような仕事も掲載されていた。

「清掃員、魔法工場のライン工、転移魔法陣のメンテナンス技師……あ、精霊のほこらの監視員? あそこ、放置されて無法地帯みたいになってたもんな……。あ、元四天王の人の会社も求人出してる」

 ほかにも一般的なオフィスワークや農園のスタッフなど、決して分厚くないその本には多種多様な仕事が紹介されていた。これだけ求人があるということは、世の中はやはり平和になっているのだ――感激しつつ、リノスは一度情報誌を閉じ、適当なところに指を挟んでぱっと開いた。そして、そのページの中で何となく気になるものにペンで丸をつけていく。よく解らないのなら適当に見て回ればいいのだ。リノスはそう思った。

 そんなことを何回か繰り返しているうちに、どこからか焼き菓子のいい香りが漂ってきた。リノスが顔を上げると、ちょうど店員がパイを運んできたところだった。王都カフェ名物、絶品りんごパイ。りんご狂い……否、無類のりんご好きである彼は丸い目をぱっと輝かせる。

「お待たせいたしました、カスタードパイでございまーす!」

「なんでだよ!」

 顔なじみの明るい女性店員の声に、リノスのツッコミが鮮やかに乗った。

 穏やかな平日の昼下がり。今日の王都は快晴である。

「最近、この店でアップルパイが食べられた試しがないな……」

 カスタードパイをほおばりながら、リノスはつぶやいた。大好物にありつけなかった彼の顔は非常に険しくなって……いるということはなく、顔中から力が抜けてちょっとだらしないことになっていた。なぜなら、この店のカスタードパイはアップルパイに負けず劣らず絶品だからである。甘いものを食べて不機嫌になる甘いもの好きはいないと、どこかの聖女が言っていたことを勇者は思い出していた。

「まあ、品切れなものは仕方ないよね……アップルパイは人気メニューだし。ああ、それにしてもうまい……」

 文句を言いつつもカスタードパイをぺろりと完食したリノスは、にこにこ顔で情報誌を適当にめくって丸をつける作業、もとい求人情報の調査に戻った。途中でりんごジュースのおかわりを挟みつつ、二時間ほど調査を続けたころには、すっかり『気になる会社リスト』が完成していたのだった。

「まあ、こんなもんでいいでしょう。よし、このリストをもとに会社訪問や資料請求をすればいけそうだ」

 かくして転職活動のスタートラインに立った勇者リノスは、つつがなくお会計を済ませて家路についたのであった。ちなみに、カスタードパイはお店側が半額にしてくれていた。


「荷物よし、火の元よし、戸締りよし。行ってきます!」

 カフェでの調査からさらに数日後、リノスはついに一社目の面接を受けることになった。誰もいない家に向かって挨拶を済ませると、彼は大股で意気揚々と街へ出た。行き先は王都の南にある荒野――旧魔王城こと、ジーン商会である。

「いやー、最初が知り合いのところだと安心だよね!」

 ジーン商会は、元魔王の側近、魔族商人ジーンが社長を務める商社である。戦いの後に堂々と人間の世界に定着したジーンが、生活に困っている同族を集めて商売を始めたのがはじまりだった。設立から五年近くが経った今では、本業以外でも魔界と人間界の仲介の場面で活躍するなど、その筋では有名な会社に成長している。

 ところで。

「募集要項には、健康な魔族の方……って書いてあったけど。まあ書類選考は通過しているし、いいか」

 そう、リノスはジーンの出している募集要項を思いきり無視しているのであった。そのことについて、彼は一瞬だけ迷いを覚えたものの、まあ自分は社長の知人だし勇者だし……と、すべてを自分に都合よく捉えることにしたのだった。

 王都の転移魔法ステーションから荒野にある最寄り駅まで移動したリノスは、彼方に見える旧魔王城ことジーン商会本社社屋を見やった。

「あの人たち、相変わらず玉座の間を会議室として使っているのかな……」

 少し前にあの建物で起こった魔王騒動を思い出しながら、勇者は口もとをゆるめた。

 約束の時間の少し前に社屋にたどり着いたリノスは、受付の社員に名乗り、入館の手続きを済ませて面接会場へ向かった。場所は第二会議室で、玉座の間こと第一会議室ではない。心の片隅でちょっとだけ期待していたリノスは、受付担当者が引き笑いをする程度には肩を落としていた。

 とはいえいつまでもそんなことをしているわけにもいかない。何とかやる気を取り戻した勇者は、案内板に従って面接会場を目指すことにした。

「えーと、この角を曲がって……うわ、似たようなドアがいっぱいあるな」

 受付担当者からは『会場は右から三つ目の部屋』だと説明を受けている。

「えーと、三つ目、三つ目……」

 リノスは左からドアを数えた。

「ここだな。失礼しまーす!」

 自信満々にドアを開けると、頭に二本のツノを生やした魔族の子供と目が合った。ふたりはしばらく無言で見つめ合う。何を隠そう、この子供こそがリノスの打ち倒した先代魔王の生まれ変わりにして、当代の魔王その人である。

「あっ、魔王」

「なんだ勇者。我は『せいざ』の研究で忙しいのだ」

 魔王は何やら、サインペンを手に絵を描いていたようだった。机に広げられたスケッチブックには、星のようなマークがいくつも描き込まれている。

「……すみません、部屋間違えました」

 リノスは小さな魔王に向かって深々と頭を下げると、そっと部屋のドアを閉めたのだった。

「……おかしいなあ」

 リノスは首を傾げつつ、別のドアを開いていく。彼は自分が左からドアを数えていたことに、最後まで気づかなかった。その後も会議中の部屋だったり、誰もいない部屋だったり、備品倉庫だったり、謎の魔法陣が描かれている部屋だったりを引き当てつつ、リノスは面接会場目指して横向きに移動を続けたのだった。途中でなぜか旅人のハンナとすれ違ったりもしたのだが、彼はそれに気づくことなく終わった。すべては横向きのせいである。

「失礼します!」

「はーい、どうぞ」

「!」

 懸命な宝探しを続けるリノスは、とあるドアの前で目を見開いた。やみくもに叩いたドアの中から、面接相手であろう魔族商人ジーンの声が返ってきたのである。この瞬間、彼は勝利を確信した。こうして何度目かのトライにして、勇者リノスはようやく面接会場を引き当てたのだ。彼は碧眼をきらきらさせながら、堂々とした足取りで部屋の中に入っていった。

「こんにちはー、社長のジーン・ウォレスで……って、リノスさん?」

 会議室の中にいたふたりの魔族のうち銀髪の男――リノスの顔なじみであるジーンは、エメラルドの色に輝く瞳を大きく見開いている。見るからに、動揺しているといった様子だった。ジーンは隣の社員と顔を見合わせると、ひとまずリノスを応募者用の椅子に座らせた。彼は軽く咳払いをすると、いつもより低めの声色で喋り始める。心なしか、ちょっと機嫌が悪そうだった。

「……あの、募集要項読みましたか?」

「はい!」

「ウチ、基本的に魔族以外の募集はしてなくてですね……。さっきハンナちゃんも来たんですけど、魔族じゃないので帰ってもらってて。だから、申し訳ないですけどリノスさんも」

「はい!」

 こうして、リノス・ウェッジの転職活動第一弾はあっさりと幕を閉じた。

「いやー、まさかだよね。まさか、面接よりも部屋探してる時間の方が長いなんてね。こうなることもあるから、やっぱり募集要項はちゃんと読まないとだめだよね」

 ジーン商会を後にしたリノスは、その足で荒野のステーションから宗教都市ゼノンに移動していた。彼はそのまま新聖教会に向かうと、教会の重要人物である聖女アリシアを連れ出して駅前の純喫茶に駆け込んだのだ。目的はもちろん、世の中の難しさ、もとい愚痴をアリシアに聞いてもらうことである。

 リノスから事の顛末を聞いたアリシアは、ブラックコーヒーを飲みながらにこにこと笑っている。

「私、最近なぜかこの手の相談を受けることが多いんですけど……。あー、なんていうか、ジーンさんに怒られなくてよかったですよね。私いま、婚活の際は募集要項をきちんと読む人を探そうと思いました」

「……」

 アリシアはコーヒーをすすりながら楽しげに言う。一方、りんごジュースで唇を濡らすリノスの表情はひどく苦々しい。

「そ、それにしてもアリシア。君がコーヒーなんて珍しいね」

 話題をそらすかのようなリノスの言葉に、アリシアはカップを手に持ったまま、目をぱちくりとさせた。高い魔力を持ち、数々の奇跡を起こしてきた聖女は、常日頃から紅茶を好んでいるのだ。今のようにコーヒーを飲んでいるところなど、リノスはほとんど見たことがなかった。

「んー、そうですね。実は私……」

 アリシアは長いまつ毛に縁どられた目を伏せ、カップをコースターの上に置く。そして。

「ちょっとイライラしていまして!」

 ――と、太陽のようにまぶしい笑顔を見せるのだった。

「…………」

 あ、これは相当怒ってるな。

 付き合いの長いリノスは、そう直感したのだった。

「……また、婚活で何か?」

「ふふふ」

 アリシアを気遣うように、リノスは尋ねた。彼女はにこにこと笑うばかりで何も言ってくれないが、何かがあったことは明白だった。五年前の時点では、奇跡を呼ぶ聖女の悩みは教会と世界の行く末についてだったが、現在の悩みは恋愛と結婚なのだ。リノスは、これ以上この話題に深入りするのはやめておこうと思った。彼の経験上、踏み込んでよかった試しなどないからだ。

「あ、あのさアリシア。僕、これにめげずに別の会社も探してみようと思うんだ」

 背中に冷たいものを感じつつ、リノスはちょっとした決意をアリシアに伝えた。別に、話を別の方向に持っていこうという意図があったわけではない、と思う。たぶん。

「王都にこだわらずに、いろいろ見てみるのも悪くないかなと思ってさ。せっかく時間を作ったんだし!」

「リノスさん……」

 リノスの作戦? が功を奏してか、アリシアは感心したかのように彼の顔を覗き込んでいる。

「そうですよね、ちょっとの失敗や不愉快な出来事くらいでめげていてはいけませんよね」

「そうだよ。大変だけど、お互いがんばろう」

 リノスはアリシアに手を差し出した。彼女はそれをしっかりと掴むと、表情をぱっと明るくして言った。

「はい! あ、紅茶頼んでもいいですか?」

 その後、ふたりはポットの紅茶が冷めるまで歓談を続けたのだった。

 アリシアのもとを去ったリノスは、次なる都市、本の都へ向かった。

 ここでも転職情報誌を入手し、いくつかの会社について調査を行ったリノスだったが、残念ながら彼の納得する仕事は見つからなかった。本の都という土地柄から書籍にまつわる仕事が多かったのだが、いまいち惹かれなかったのである。リノスは気を取り直して、次の都市に向かうことにした。

 次にリノスが訪れたのは北の港町であった。

 ここでは漁業のほか、鍛冶や鉱山など、どちらかといえば身体を動かすような仕事が多く見つかった。リノスはいくつかの会社を回ってみたが、いまいち馴染むことができずに転職を断念した。

「なんとなく、僕にはハードすぎるというか……りんごジュースより酒っていう気風? 文化? が、いまいち肌に合わないような気がしちゃって……」

 誰もいない北の海のきらめきに向かって、孤独な勇者はつぶやいた。リノスは、今度はもう少し田舎の方に行こうと思った。

 次にリノスが足を運んだのは農村地帯だった。

元農家として、大好きだった農作業に関わることができれば楽しく働けるかもしれない。リノスはそう思ったのだ。ところが。

「か、身体が震える……?」

 事前に気分を高めようと農具店に立ち寄り、試しにクワを持ってみたところ、リノスの肉体がぷるぷると震え始めてしまったのだ。震えは徐々に強くなり、思わずリノスがクワを取り落とすとようやく収まった。

「これはいったい……僕はどうしてしまったんだ……?」

 何ということだろう。リノス自身はすっかり忘れてしまっているのだが、かつて魔王の軍勢に故郷を焼かれたときの記憶が彼の身体の奥底に染みついているのである! これはいろいろな意味で恐怖なのだ!

「僕には、もう農家はできないのか……?」

 リノス・ウェッジ二十五歳、元農家。彼は、初めて訪れる田舎の農具店で本気の涙を流した。気の毒に思ったのか、農具店の店主はリノスに大粒のぶどうをひと房持たせてくれた。

「うまくいかないなあ……。めぼしいところはもう回ってしまったし、どうしよう……」

 それから様々なところを巡ってみたものの、リノスの転職活動は良い結果を得られないまま停滞を続けていた。彼は仕方なく王都に戻ってくると、またいつものカフェに立ち寄ってりんごジュースを飲んでいた。店内はにぎわっていて、子供の楽しそうな声もちらほらと耳に飛び込んでくる。今日も平和だなと、リノスが声のする方に目を向けると、人間の親子と魔族の親子がにこやかにケーキを食べている様子が目に入ってきた。

「ああ……」

 少し前では考えづらかった光景。それが、だんだんと当たり前になってきている。

 一部の魔族は仕事のために魔界から人間界に出てきていて、逆もまた――。

「ん?」

 つまり、人間界から魔界に出稼ぎに行っている人間もいるということだ。

「これだ……」

 リノスはなぜか涙を流しながら、テーブルに置かれたりんごジュースをずるずると飲み始めた。そこにいつもの女性店員がやってきて、

「お待たせいたしました! ミートパイでございます!」

「だからなんでだよ!」

 と、頼んでもいないはずのパイを運んできたのだった。

 かくして王都のカフェを後にしたリノスは、興奮した面持ちで魔界ゲートの前で仁王立ちをしていた。今や魔界と人間界を行き来するゲートは大半が封印されているが、ごく一部、王都にほど近いこのゲートだけは王国の管理のもとでその機能を保っていた。これは主に物流や、労働者の行き来のために使われており、いくつかの手続きを踏めば一般人でも利用できるものだ。

「そうさ、何も仕事はこちらの世界にだけあるものじゃないんだ!」

 相変わらず誰もいない空に向かって声を張りつつ、リノスはゲートをくぐった。

「お客さん、仕事探しで人間界から? そりゃご苦労さんで……」

 魔界についたリノスは、まず観光案内所へと立ち寄った。カウンターに立つ初老の魔族から周辺の地図を受け取ると、彼は人間も多く働いているという商業地域へ向かうことにした。魔界は人間界ほど転移魔法が発達していないため、移動は馬車だった。

 ゲート近くの乗り場から小さな馬車に乗り込んだリノスは、窓の外をぼんやりと眺めながら振動に身を任せていた。街道の両側には牧場や農園が広がっており、空には昼間だというのにふたつの月が昇っている。木の幹は青みがかっていて、いわゆる幻想的な雰囲気を醸し出している、とでも表現するべきだろうか。魔界の植物や建築物は人間界のそれとはやや違うものの、それ以上の決定的な違いを見出すことは、彼にはできなかった。かつて戦いの途中でここを訪れたときとは感じ方が変わったなと、勇者は思う。

「いい、天気だな」

 リノスは窓から吹き込む香ばしい風のにおいを吸い込みながら、ぼそりと言った。彼はそのまま、明るい窓の外に視線を移す。

「あれは……?」

 すると、ふいに奇妙な光景がリノスの視界に飛び込んできた。

 窓を上にスライドさせ、身を乗り出してみると、道端の草むらの中で羊のような家畜が大きな獣に襲われそうになっていた。群れからはぐれてしまったのだろうか、羊はたった一匹で首輪を鳴らして右往左往している。

「すみません! 止めてください!」

 考えるよりも早く、リノスは御者に向かって叫んでいた。御者は驚いたように馬を止める。馬の鋭いいななきが、辺り一帯に響き渡った。馬の声に驚いたのか、大きな獣がひるんで動きを止めたことを、リノスは目の端で捉えていた。

 今だと叫ばんばかりの勢いで、リノスは馬車から転がるように飛び出した。舗装されていない道は土煙で覆われて埃っぽい。さらにリノスのブーツが土を蹴り上げ、煙たさは増している。

「ちょっと、お客さん!」

 御者の戸惑うような声も何のその、リノスは前のめりの姿勢のまま、腰に差した剣の柄に手をかけて突進する。獣たちとは少し距離があったが、外套の下に装備した風の魔法補助器具がそれを縮めた。彼は力いっぱい叫びながら剣を抜き、勢いを殺さないように大型の獣の前に躍り出た。

 立派な牙を持つ獣は人の背丈より大きく毛むくじゃらで、どこか人間界の熊にも似ていた。このあたりでは、こんな生き物が出るのか――街道近くでの思わぬ邂逅に、リノスの身体には一筋の汗が伝った。彼は剣を構え、獣に相対する。殺す必要はなく、追い払えればいい! 羊から遠ざけるように立ち回りながら、彼は獣の注意を引き付けるように駆け回った。ときに威嚇し、ときに攻撃をかわし。リノスは、相手が体勢を大きく崩すチャンスを見計らっていた。

 そして、獣が立てた爪をリノスに食い込ませようと腕を振るったそのとき。

 リノスはぎりぎりのタイミングで、それを避けた。

 獣の腕は宙を掻き、前方に向かってその巨体を大きくよろけさせる。わずかに当たった金糸のようなリノスの髪が風に舞うが、獣がつかむことができたのは、たったそれだけだった。

「風よ!」

 リノスは隙を見逃すことなく、一歩後ずさって魔法陣を展開する。前方に突き出した左手から巻き起こった風が、獣の周囲の砂を一斉に巻き上げた。決して魔法は得意ではないが、この程度のことなら補助器具を付けた自分にだってできるのだ。リノスは自分に言い聞かせながら、腕に少しだけ力を込めた。

「当てなくたっていい――」

 前のめりになったところに砂をぶつけられた獣は、両目を抑える。そして、気の抜けたような声で鳴きながら、街道外れの木々が生い茂る方向に向かって走り去っていった。できるだけ傷つけずに、この場から離れさせる。おおよそ、リノスの狙ったとおりになった。

「あー、よかった……」

 剣を収めつつ、リノスはほっと胸をなでおろした。そこまでして初めて、彼は自分の頬が濡れていることに気が付いたのだ。どうやら表皮が傷つき、いくらか流血しているらしい。

「もっちゃん!」

 どこかから聞こえてきた高い声に振り返ると、例の羊のところに駆け寄ってくる魔族の少年の姿があった。身なりからして、どうやら牧場で働いている人物らしい。もっちゃんと呼ばれた羊は、軽い足取りで少年のところに跳ねていった。

「よかった……無事だったんだね」

 少年は羊に抱き着いて頭をなでている。表情は緩み、エメラルド色の目にはわずかに涙がにじんでいる。どうやら、この羊のことを本当に心配していたらしい。少年は立ち尽くしているリノスに気が付くと、慌てて立ち上がって姿勢を正した。

「あ、あの。ありがとうございます! 僕、見ていましたー―あなたが助けてくれたんですよね、人間の剣士さん」

 人間に不慣れなのか、少年は緊張でやや固くなっているようだった。

「あの、あっちの大きな獣――ビリーを殺さないでくださって、ありがとうございます。あの子はもともと、うちの牧場から逃げ出した子なんです」

「……」

 少年は深々と頭を下げた。リノスは彼に顔を上げるように言うと、

「いいんだ、僕が勝手にやったことだから」

 彼の肩をぽんと叩き、そのまま馬車に戻っていった。

「あの、剣士さん! 怪我!」

「大丈夫、これくらい魔法ですぐ治るよ――」

 馬車に乗り込んだリノスを、今度は御者が感心しきった顔で迎えてくれた。

「お客さん、あんたすごいんだな! こっちへは、仕事を探しに来たのかい? あんたほどの腕前なら、傭兵や魔獣退治の仕事やら、なんでもできるぜ」

「いやあ、それほどでも……あるかな」

 誰かを助けることができた心地の良い達成感と共に、勇者は再び動き出した馬車で目的地を目指した。

 その後、商業地域で仕事を探し始めたリノスは、傭兵組合やハンター組合を回っていた。御者に言われた言葉の影響もあるのだが、先の出来事を通して生まれていたとある確信が彼の行動を決定づけていた。

 勇者の確信。それは。

「僕、仕事にはスリルと暴力が必要だって気が付いちゃったんですよ……」

 ある日、商業地区のレストランにて。とあるハンター組合の採用担当者に向かって、リノスは語っていた。


「先日、街道沿いで獣に襲われている家畜を助けたとき、そりゃもう、ものすごーくハラハラしたんですよね。相手は大きいし、まともに攻撃を食らったら僕だってただじゃ済まないと思って。かといって、無駄な殺生はしたくないじゃないですか。いや、正直半分くらい駆除すべきかなって思ったんですけど、毛の間から首輪っぽいものが見えたから止めといたんですよね。何とか獣を追い払ったところに牧場の人が来たんですけど、やっぱり相手の獣も元家畜だったって言うんですよ。いやー、やっぱり早まって殺さなくてよかったって、心底ほっとしました。家畜に怪我はなく、牧場の人にも感謝されてものすごく気分が良かったです。心もうきうきです。でも一方で僕の心の底に、何て言うかなあ、もやもやした心残りみたいなものがあってですね。あ、僕さっきから心って言いすぎですね。それはさておき、何か穴が開いてしまったような感覚があって――あっ、これ何なんだろうってしばらく悩んだんです。五分くらい。で、そこで気が付いたんですけど、僕は相手を威嚇するに留めたことに違和感というか物足りなさを感じていたんですよね。獣には悪いんですけど。ほら、僕って先の戦いでいろいろ危険な目にあってきたこともあって、戦いに慣れてしまっているんですよね。だから、寸止めって言われるとちょっと戸惑っちゃって……。だから、定められたターゲットを駆除するハンターの仕事って、僕のこういう難儀な性格にもマッチしているんじゃないかなって、そう思うんですよ。僕としてはもう、適度なスリルと暴力、そしてりんごがあればもう言うことないです。今の人間界での仕事も悪くないんですけど、いかんせんやっぱりスリルに欠けてしまうところがあるんですよね。魔界はまだ、治安の安定していない場所や魔獣が人々を脅かしている地域があると聞いています。まさに僕にうってつけの環境なのではないかなと。え、何、りんごをご存知ない……? あの、赤くて丸い、大地の恵みたる果実ですよ……? え、つまり、魔界にはりんごがないということですか? え、マジで? ほんとに? え、あ、そう……。あ、解りました。大変申し訳ないですが、僕、人間界に帰らせていただきます……。はい、お時間ありがとうございました。ご縁があれば、また何かの機会にご一緒したく……。はい、失礼します。それでは」


 こうして、リノス・ウェッジの魔界での転職活動は幕を閉じた。

 急にいろいろなことが面倒になったリノスは、おとなしく会社に復帰することにしたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ